「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」城島紀夫著

DWVは今年63周年を迎える伝統ある部活であり、幸いにして先輩方により創設当初の状況が分かる資料を残していただいており、また直接お聞ききして補完しながらホームページにも残すことができました。

この度、城島紀夫著「ワンダーフォーゲルのあゆみ」(2015年古今書院発行)を図書館で見つけ、DWV創設に至る歴史的・時代的背景を知りたいと思い読んでみました。特にドイツとの関わりも深い獨協学園にあってDWVは創設時期も早く、ワンダーフォーゲルに対する思いも他校とは少し違っていたのかも知れませんが、戦前から日本の大学では部活動として広まっていったワンダーフォーゲル部は厳密に言えばドイツの「渡り鳥運動」を基にしたということではなく、山岳部と差別化するために名称だけ借りたものだと指摘しています。いまさらではありますが、ドイツにおこったワンダーフォーゲル運動とはどのようなものであったか、また日本でどのように広がっていったのかをこの本からまとめてみました。


そもそもドイツで起こった「wandervogel」(渡り鳥の意味)とはどのような運動だったのでしょうか。中世ドイツでは優れた先生を求めて学生たちが各地の大学を求めて渡り歩いており、その学生たちのことを「渡り鳥」と呼んでいたようです。1890年にベルリン郊外のギムナジウム(日本では高校に相当)で速記術を教えていた大学生のヘルマン・ホフマンが生徒ともに森への徒歩旅行を行ったことがワンダーフォーゲルの発端と言われています。

その後、1901年にホフマンの教え子のカール・フィッシャーがリーダーとなって「ワンダーフォーゲル・学生遠足委員会」いう結社を作りました。これはギムナジウムに学ぶ学生たちの既成文化に対するロマン主義に根ざした自由をかかげる抵抗運動だったということです。フィッシャーらはギムナジウムを飛び出して、史跡を訪ね歩いて歴史の勉強をしたり、野原に出てギターを弾いて地方の民謡を歌いフォークダンスを踊ったりもしていたようです。この活動が遍歴、野外活動での自炊、農家の納屋に泊まること、自然体験などの活動として広がっていき、その後、節制主義、菜食主義、自然治癒療法、裸体主義、教育革命、衣服改革、禁酒・禁煙、同性愛など色々なスタイルも登場してきたようです。

1909年にはリヒャルト・シルマンによってユースホステル活動が開始され、ヨーロッパから世界中に徒歩旅行が広がっていきました。しかし、しだいに戦時色が強くなり、政府や軍部によつて青少年育成団体は統合されていきます。そして、第一次世界大戦でドイツが敗戦したことによりワンダーフォーゲルは終わりを迎え、敗戦後ナチ党により1926年にイデオロギーを青少年に教育する目的でヒットラーユーゲント(ヒットラー青少年団)が創設され、「自由ドイツ青年」は解散。1933年にはあらゆる青年団の活動が禁止され、ドイツの青年運動は完全に壊滅します。

さて、日本では明治時代の1872年に学制が発布され、小学校や師範学校が創立されます。1880年から学校遠足が広まり、第一高等中学では1887年に遠足部ができ、その運動が全国に広がっていくことになります。1883年には鹿鳴館ができ、1885年には伊藤博文が内閣総理大臣に就任、1889年には大日本帝国憲法が公布されます。そして、1894年に日清戦争が起こることになります。1900年に入ると遠足部が発展し、旅行部などが出来始めます。先述したようにこの頃ドイツで既成社会から抵抗運動としてのワンデルンが起こります。1904年には日露戦争が勃発し、1905年に日露講和条約が締結されます。1908年には日本山岳会が発足し、1914年には慶應義塾大学で山岳部が創立されます。同年に第一次世界大戦が始まり、1917年にソビエトが誕生、1918年にはドイツ革命と時代が進んでいきます。

1920年代にはほとんどの高等教育機関で旅行部や山岳部ができ、1922年になるとボーイスカウト(少年義勇団)とYMCAによるキャンピング活動が開始されます。国防体制の強化策としてハイキングや登山などの歩行運動が全国的に広がりをみせます。1920年代の日本はいわゆる大正デモクラシーの頃であり、普通選挙法、関東大震災など自由と帝国主義的なものが交錯した時代ではなかったかと思われます。1923年には東京帝国大スキー山岳部が設立されます。そして、1925年、ドイツに2年間留学していた出口林次郎が帰国後入省した内務省で外郭団体である「奨健会」を設立し主事に就任。「国民歩行運動」を先導していきます。この「奨健会」こそが日本のワンダーフォーゲル部の源になったようです。

大学では1928年に明治大学・駿台あるこう会が設立されます。1933年、「奨健会」がワンダーフォーゲル部を組織し、「奨健会ワンダーフォーゲル部」に改名することになります。「奨健会」を設立した出口がドイツに留学していた頃のドイツではすでにワンダーフォーゲル運動はほぼ終わっていた時期であり、ワンダーフォーゲル部という名称を使用したものの目的とするものは「国民歩行運動」であり、本来の青年運動としてのワンダーフォーゲル運動とは異なるものであったようです。

1933年、YMCAも「渡鳥会」と名付けてワンダーフォーゲルを開始します。また同年鉄道省が富国強兵・殖産振興策に沿って全国的に”ハイキング”と銘打って徒歩遠足や旅行を大々的に宣伝します。この年には本家ドイツではヒットラーが首相に就任し、ワンダーフォーゲルなどの青年運動は全て解散させられています。日本ではワンダーフォーゲルは国民歩行運動であり、”心と体”を鍛錬する的な意味が強かったと思われます。

「奨健会」に参加していた学生が出口の指導のもとに1935年には大学で初めて立教大学と慶應大学でワンダーフォーゲル部が設立されます。翌年には明治大学・駿台あるこう会がワンダーフォーゲル部に改名します。しかし、1939年第二次世界大戦が勃発し戦時色が強くなり、1941年には太平洋戦争が起こります。文部省が軍事教練担当の現役将校を全国の大学の各学部に配属し、軍事教練が必修科目になり、「歩行行軍」が科目として学生に履修させました。そして、立教大学ワンダーフォーゲル部が健歩部に、慶應義塾ワンダーフォーゲル部は歩行会に、明治大学ワンダーフォーゲル部は山岳部とボーイスカウト団と併合され行軍強歩部に、青山学院ハイキング部は基礎訓練・行軍班に改称させられおり、事実上ワンダーフォーゲル部は解体させられています。

そして、敗戦。太平洋戦争の終戦後、いち早く1945年には明治大学はワンダーフォーゲル部を復活させ、翌年の1946年には慶應大学。立教大学では1948年に復活させています。新制大学の発足とともにその後、中央大学が1948年、早稲田大学が1949年、東京大学と法政大学が1951年、日本大学が1953年、1954年にはお茶の水女子、東京都立、横浜市立、神奈川、國學院、千葉、1955年には青山学院、学習院、成城、津田塾、東京経済でそれぞれワンダーフォーゲル部が創部されています。高校については記述がないので定かではありませんが、1955年創部のDWVは当時先鋭的なものだったことが伺えます。

森本・打矢両氏による1955年に学園文芸誌「めじろ」に発表された「ワンダーフォーゲル」によれば、この1、2年文部省が中心となって、渡り鳥運動の発展に力を入れ、指導者の養成に努めていたこと、山野をして自然に親しむを目的としてDWVが創部されたことが記されています。また、当時ドイツでのワンダーフォーゲル運動については下記のように把握していたことが述べられいます。

  1. 自己意識の覚醒、青年たるの意義の発見。
  2. 自然愛好、純真自由の全き人格養成。
  3. 健康増進、剛健思想と実行力の養成。
  4. 人間性と社会心の培養。
  5. 郷土愛、祖国愛の強化。
  6. 自然生活からの簡素な生活革新。
  7. 健全な民衆娯楽(郷土の民謡、俚謡、踊り等)の向上発展等に寄与する。

また、DWVではその目的として特に当時の天野貞祐校長が言う「人間形成の場」と捉えていることが伺えます。先生方と生徒たちとが一緒になって旅行するなり、テント生活するなりして親しみ、先生の人格をくみ取り人間を磨いて始めて学校が学問を授けるだけでなく人格を作り上げるとしています。


DWVは当初、早稲田大学の活動にも参加させてもらったりしていますが、早稲田大学ワンダーフォーゲル部の部長で高三の英語を担当されている同大学教授の渡辺先生に側面から援助していただいたということで、早稲田大学のワンダーフォーゲル部との関係もあったようで指導も受けていたようです。


学園文芸誌「めじろ」72号森本悌次・打矢之威両氏による「ワンダーフォーゲル」

打矢之威「早大ワンダーフォーゲルに参加して」

「ワンダーフォーゲルのあゆみ」城島紀夫著 2015年 古今書院発行

「「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」城島紀夫著」への1件のフィードバック

  1. Geheimというドイツ語を思い出した。ケルトと言えば今風か?🇩🇪ドイツには(ロシア的)後進的な土着性がある。さて、プロシヤから国土が無くなりかってゲルマン民族の国土を回復しようと歩き回る運動があった様だ。

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