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DWV 冬期戸隠連峰高妻山の初登記録

目的の冬山は豪雪地帯として有名な戸隠連峰の奥にそびえる高妻山、前年の冬合宿でもチャレンジしたが悪天候と深雪で失敗したので、その年は何としても登頂を果たすと皆リベンジに燃えていたと思います。期間は12月22日から1週間ぐらいの予定。参加者は総勢10名ぐらい、奥貫先生以外私は会うまで顔も知らない若者(高校生)達でした。確かCLは高島(?)、SLは斎藤君(?) 何しろ50年以上前の出来事なのですべてに朧気で参加者の名前や日時やコース等も思違いや錯誤があると思いますが、今でも鮮明に脳裏に残つている出来事は遭難寸前まで追い込まれた一連の状況です。

戸隠連峰は屏風のようにそびえる鋭鋒が前面に立ちはだかり、その間隙を縫って谷川沿いに高妻山の登山路に近づくコース、途中30-50Mぐらいの滝場があり積雪と氷着いた岩場が交互に連続して冬場は難コースでした。滝場の上に避難小屋があり、そこに大量の登山具、食料などデポして頂上アッタクに備える段取りになっていました。その年は未曽有の大雪で下山後知ったことですが上信越は1週間ぐらい連続して猛吹雪が荒れて、道路、鉄道すべてのインフラがマヒしていたとのこと。我々も全く動けず、毎日避難小屋でゴー ゴーという荒れた天候に堪え、ひたすら天気の回復を祈るのみ。12月22日に入山後全く動けず、年末まで沈滞を余儀なくされた。今年もダメかとあきらめムードが出始めたが、多分晦日の30日。その日は朝から快晴になり、高妻の大斜面は真っ白な新雪に覆われ正に天祐の瞬間と感じられた。このチャンスを逃してなるものかと全員張り切って出発。ところが体がすっぽり埋まるほどのフカフカの新雪は全くはかどらない。そこで先頭隊員を空身にして5メートル、10メートルとラッセルさせる。ばてると次々と先頭を交代させ、スタカットラッセル。高度差2-300メートルの急斜面を雪のトンネ ルを作るがごとく牛歩戦術で高度を稼いだ。予定より大幅に遅れ頂上に着いたのは午後1時頃、全員で万歳して冬季初登頂の喜びに浸る間もなく、私は帰りの危険を考えると気持ちが重かった。頂上直下の大斜面は新雪に覆われ、白一色のっぺら坊の雪崩の巣みたいな場所に見えた。 標高2,353Mのおむすび形の優美な山容だが積雪した冬季になると真に危険な山に豹変する。予定より大幅に遅れているのですぐにでも全員下山させたいが、新雪の大斜面は大勢で一気に下ると雪崩に巻き込まれる。そこで奥貫先生と相談して一年生から順番に一人一人安全な灌木地帯まで間をおいて下らせたので時間がかかる。先生にお先に降りてくださいとお願いしたが”いや私は最後で良い、君が先に降りろ”と全員安全を確かめてから自分は最後に行動する。まさに沈没しかかった駆逐艦の艦長のような責任感のある先生であった。最大の難所は切り抜けたが、まだまだ滝場岩場、急斜面の連続で全員くたくた汗まみれ雪まみれ。日は暮れてくる。早朝から10時間以上行動している。

やっと谷間の渓流地帯にたどり着いたが、高校生たちはふらふら夢遊病者のように足元が定まらない。そのうち何人かは凍りついた渓流に倒れ込んでしまう。このままでは凍死の危険がある。そこで叱咤激励しながら全員上半身を裸にさせ、乾布摩擦と乾いた下着に取り替えさせ、大型の凍てついた重たいキスリングはその場に放置させ、空身になって隊列を組ませ大声で校歌などを歌いながらひたすら前進した。真っ暗な中たぶん夜8時か9時ごろ、前方遥か遠くにポツンと裸電球の明かりがぼーっと見えたとき、正直言ってこれで助かったとほっとした。着くとそこは戸隠奥社の小さな社坊であった。ドアーをドンドン叩くと神官が顔を出しびっくりした様子で”あんた達一体どこから来たんだ!”と叫んだ。一部始終を説明し、このままでは子供たちが凍死しかねない、何とか今晩だけで泊めて欲しいと懇願した。そして親切な神社に命を助けてもらった次第です。あの時の光景と切迫した気持ちは生涯忘れられない。奥貫先生も同じお気持ちであったでしょう。

S31年卒 打矢之威


0Bとして参加した昭和31年度卒の打矢之威氏の記録文から抜粋しました。本文はこちらから

「伝統的登山を広めたワンダーフォーゲル部」  城島紀夫著

「部誌」と「周年誌」にみる学生登山の歴史

1,学生登山の近代と現代

近代に生成発展した山岳部

近代の学生登山の歴史は、その始期を帝国大学運動会が発足して学校の遠足や修学旅行が広まる契機となった1886 (明治19)年と捉えると、太平洋戦争が終結した1945(昭和20)年までの約60年間の活動であった。

1919年に施行された大学令によって私立大学の設立がはじまり、次々と山岳部の設立する学校が増えて学生登山が普及した。

1921年頃までは学生登山は、日本人が日本の山を歩くという古くからの伝統的登山が続いていた。

やがて登山方法に、もう一つ流れが生まれた。それは西洋から移入された雪と氷に挑む冒険的登山の流行であった。西洋の用具と登山技術が紹介され、学生山岳部の大勢は登山方法を先鋭化させてアルピニズムの時代とも呼ばれ、初登頂、新ルートなどの新記録に挑む先鋭的な活動が盛んにもてはやされた。

冒険心、登山技術、体力などの差異から個人山行が主体となっていた。次いで海外高山の雪と岩に憧れる風潮が強まり、活動がさらに先鋭化した。

一方で、1930年頃からわが国の伝統的な登山を愛好する学生が次第に増加し始め、山岳部の衰退が始まった。伝統的な登山を愛好する学生たちが山岳部から遠ざかっていったのである。しかし分化して山岳部と並ぶ新種目を組織することは困難なことであった。課外活動において「部」を認可する基準に「一種目につき一部」とい言う原則があったためである。

1936年にわが国で初めて明治大学ワンダーフォーゲル部が学友会・運動部への加入を承認され、スポーツの新種目が誕生した。近代において既にワンダーフォーゲル部が萌芽していたのである。これに先立つ1935年に立教大学と慶應義塾にワンダーフォーゲル部が設立されていたが共にともに体育会への加入が成らずに文化会に所属していた。1938年に、3大学による全日本学生ワンダーフォーゲル連盟が結成され、ワンダーフォーゲル部の普及活動が始まっていた。

近代という時期は、西欧から多くのスポーツが学校に移入されて、学生たちがその先導役を務めた時代であった。

 

現代に生まれたワンダーフォーゲル部の設立の波

現代の学生登山は、太平洋戦争が終結した後の1946 (昭和21)年から現在までの約70年間の登山活動の歴史である。

現代は「山岳部に入らなくても登山が出来る時代がやってきた」といわれて、ワンダーフォーゲル部が興隆し学生登山の本流となった時代である。学生登山は戦後直ちに復活したが、冒険的志向の山岳部は衰退現象が続き、伝統的登山を志向するワンダーフォーゲル部は大量の部員を迎えて発展への道をたどった。

戦後(近代)にはわが国の教育制度が大幅に変更され、全ての都道府県に新制大学が設置されるなどの教育の大衆化が始まった。近代における旧制高等学校への進学率は同世代の男子のうち1%以下であり、登山を行うのは経済的に恵まれた少数の学生であったが、現在で高校生の大学への進学率は50%を超えており登山を行う学生は大幅に増加した。

戦後の最初に復活したもんだフォーゲル部は明治大学体育会ワンダーフォーゲルであり、後続して設立されたワンダーフォーゲル部は、体育会に所属することが通例となり山岳部と並んで登山系の種目として定着した。

新制大学において体育実技が必修科目とされたことに伴って、キャンプを行う登山が人気を呼びワンダーフォーゲル部は急速に部員が増加した。現代の初期にはサイクリングやキャンプなどの青少年育成運動が行われており、ワンダーフォーゲル部の普及はレクレーションの普及とほぼ同期したものであったと見ることができる。

ワンダーフォーゲル部は1950年から1960年代の間に全国の大学の約160校に普及した。この普及の波は、戦後に新制大学に起こった新しい学生登山の普及の大波であった(拙著「ワンダーフォーゲルのあゆみ」を参照)。

各大学のワンダーフォーゲル部は多数の部員を迎え、それぞれに集団活動のための組織化を図り、夏山全員合宿を中心とした年間計画と実習訓練計画を定例化し、部誌を定例発行するなどの活動スタイルを築き上げた。戦後の教育の大衆化と共に生成発展した新しい登山文化の生成発展であった。

 

伝統的登山を受け継いだワンダーフォーゲル部

戦後に学生ワンダーフォーゲル部がたどった道は、冒険的な山岳のスタイルではない伝統的な登山を静かに普及させるあゆみであった。山岳部は「より高く、より困難へ」というイズムを掲げていたが、ワンダーフォーゲル部にはイズムというものはなかった。ワンダーフォーゲル連盟を通じて登山を「逍遥の山旅」などとしてわが国の伝統的な登山を広めていた。

ワンダーフォーゲル部の各部の活動内容はさまざまであったが、全員が参加して行う夏山合宿が例外なく行われ、年間活動の主行事として今日まで継承されて、ワンダーフォーゲル部の伝統となっている。

山旅は日本の文化であると広く言われている。登山の態度について記されたものを次に紹介したい。

田辺重治は述べている。「山旅という言葉は、日本の登山を表すのに好適な表現だと、私は前から信じている。ヒマラヤやアルプスの登山を山旅と称することは、決して適切な表現とは思われない。しかし日本に於いては、登山の旅は、単に山頂だけでなく、峠、高原、山湖、渓谷、森林、時には山村などをも対象とする、山岳地方の旅を含み、且つこれ等のものは、山頂に劣らず、それぞれ独立の価値をもって、登山者を誘引する魅力を持っているので、山頂およびこれ等一切のものを含む登山の旅を、山旅という言葉をもって表現することは極めて適切であると思う」(「わが山旅五十年」より)。

田口二郎は「アルピニズムの新しい波は、それ以前の伝統的登山を蹴散らしたのではなく、その堅牢な潮流の上に乗って進展した。日本の登山の流れを見ると、伝統的登山は登山の基層として存在し、アルピニズムはその上層として発展している」(「東西登山史考」より)としている。

これらの見解は、今日まで冒険的な登山に憧れる山岳部の出身者たちから無視されてきた。したがって、これまでに山岳部出身者などによって書かれた日本の登山史やそれに類する書物には大学ワンダーフォーゲル部の登山活動の歴史とその登山史的な価値は書かれて来かったのである。

2, 「部誌」と「周年誌」が語るワンダーフォーゲル部の歴史

1960あたりまでに創部した大部分の大学ワンダーフォーゲル部は、創部した直後から年刊の「部誌」を継続的に発行していた。このほかに発行されていたものは合宿報告書、部誌、周年記念誌、連盟の機関誌などである。これらの図書には、ワンダーフォーゲル部の活動の歴史を描き出す数多くの記録が残されており、これらは後世への文化遺産として貴重な資料であると思われる。

また各資料がそれぞれの時代の社会的な背景を映し出している点においても真に興味深いものがある。

本調査は筆者が数年間にわたって多くの大学ワンダーフォーゲル部のOB・OG諸氏の協力を得て入手もしくは借用したものをもとに行ったものである。この資料が日本山岳史を俯瞰する上で何等かの役割を果たすことができれば幸いである。

 

部 誌

ワンダーフォーゲル部では「部誌」と呼んで集団合宿などの集団活動の全記録を掲載しており、OB OGたちの若き日の活動記録を部員全員で執筆する伝統が継承されていた。OB会の絆の原点はここにあると思わせるものである。山岳部では「部報」と呼んでおり個人記録に重点が置かれていた。

部誌の主な内容は基本方針、年度活動方針、年間活動計画、役員・分担責任者、活動報告(全員合宿とフリー合宿)、随想、紀行、部規約、OB会員・部員住所録、部歌、地域研究などである。

大部分のワンダーフォーゲル部は1960年代の前半頃まで、年度ごとに「部誌」の発行を続けていた。発行が途絶えた時期には、学生の体育離れが始まり、同好会やサークルが多数発生し、これまでの集団的な活動が受け継がれなくなっていた。

その後に復刊して、現在も発行しているワンダーフォーゲル部には明治大学、早稲田大学などがある。以下に、ワンダーフォーゲル部が発行していた部誌名を紹介する(創部年順)。

なお山岳部が発行していた部報名については日本山岳文化文献分科会編「学校部会報」(2005年)に報告されている。

(部誌名一覧は省略)

 

周年記念誌

創部以来の歴史を集約してOB会が編集・発行した「周年記念誌」が2000年代を中心に多数発行された。部誌を基にして活動の歴史を巧みに要約した労作が多い。

創部以来の山行の全記録を一覧表としたものもがある。その代表的なものは、東京大学、明治大学、金沢大学、慶應義塾大学などのものであり、合宿回数、個人参考回数、日程、山域、コース、参加者名などの記録があって活動の時代的な推移も読み取ることができる。

また、部誌が休刊となって以降の登山記録を補って収録している点においても重要な価値がある。

ワンダーフォーゲル部と山岳部の周年記念誌の発行状況ならびに国立国会図書館と日本山岳会資料室に収蔵されている状況を【表・1】として報告する。

ワンダーフォーゲル部の「部誌」43編は、国立国会図書館収蔵が20編、日本山岳会資料室収蔵が5編となっている。山岳部の「部報」36編は、国立国会図書館収蔵が18編、日本山岳会資料室収蔵が24編である。

山岳部は、この他に海外遠征登山や山岳遭難を題材にした記念誌を別途に発行している。

(表・1は省略する)

 

連盟機関誌

全日本学生ワンダーフォーゲル連盟が機関誌(年刊)を1960年から1965年まで毎年発行した。

「ワンダーフォーゲル年鑑」と1964年から名称を変更した「ワンデルン」である。

各部の「内容一覧表」として、加盟している部の創立年月、部員数、部長・監督・主将名、加入局名(体育・文化)、部誌名、部室の有無、山小屋、部費、学校補助金、遭難対策金、合宿回数・日数、ワンダリング回数、個人山行の可否、などが記されており、大学のワンダーフォーゲル部が発展期から成熟期に向かっていた当時の模様が浮き彫りにされている。

この連盟は、大学ワンダーフォーゲル活動の情報交換の役割を終えて、1965年に解散した。

 

OB会が歴史資料を電子化

前記の「周年記念誌」などの歴史資料を収集して電子化(アーカイブなど)している東京大学ワンダーフォーゲル部OB会などの例が見られるようになった。

また横浜国立大学ワンダーフォーゲル部OB会は、ホームページに「歴史資料館」を開設して、公式ワンダリングの全記録、部誌の全集などを収録している。

右の様な電子媒体を利用した記録集はまだ少ないが、OB会が現役のホームページとリンクさせてホームページを開設する例は増加しており、現役とOBとの交流の機会が多くなりつつあるようだ。

「OB会報」を会員に印刷発送する方法から電子版で閲覧提供に切り替えるOB会が増加しているのも最近の状況である。

 

3, 両部の活動状況は

大学のワンダーフォーゲル部と山岳部の両部が活動している現況は【表・2】に示すとおりである。

調査対象とした大学は全国117校の総合大学であり、大学並びに各部の2016年度公式ウェブサイトを閲覧して行った。

戦前にはすべての大学に山岳部があったが、現在は様変わりとなり山岳部は大幅に減少している。

ワンダーフォーゲル部が活動している割合は国立大学の方が高く約90%である。公立・私立の方が約60%と低くなっているのは、レジャーブームといわれた1960年以降に新設された大学にはワンダーフォーゲル部が非常に少ないことが原因である。サークルや同好会などの多発による現象だと思われる。

部の公式ページに年間活動計画や活動内容の詳細を記載した部は半数以下であった。これらを見ると両部の活動内容が類似しており、この傾向は次第に進んでいるものと見られる。「山岳ワンダーフォーゲル部」が設立された大学も現れている。

調査対象とした大学名は拙著「課外活動に見る学生登山の現状と課題」日本山岳文化学会編集論第14号を参照されたい。

【表・2】は省略

活動が多様化

部誌の発行が途絶えた頃から、団体や組織を忌避する自己中心的な行動が広まり、個人主義が強まった。1960年代後半から部活動よりも自由な行動ができる同好会やサークルが多数発生し始めた。夏合宿の全員参加の伝統が崩れ始めたのもこの頃である。

70年代には大学進学率が25%を超えて、私立大学が増設され、続く80年代には大学のレジャーランド化が話題となりワンダーフォーゲル部の部員数も減少した。

1990年代から再び部員が増加し始めた。新入部員を獲得するために、登山以外の各種の野外活動を採用することが流行して、活動内容がますます多様化した。

近年では大学がキャリア教育の一環として、任意団体のサークルの結成を奨励し、届け出があれば大学が認可することが通常化している。学生にコミュニケーション能力を習得させることなどが目的とされている。

このような状況の中で、活動の目的が不明確化するワンダーフォーゲル部が増加しているのもものと見られる。

近年では、部活動の目的を「登山です」と明示するワンダーフォーゲル部が国立大学を中心にして次第に増加していることに注目したい。

 

おわりに

共同体意識にもとづく伝統的な記録文化としてのワンダーフォーゲル部の「部誌」の発行が、広く復活することを切に望みたい。


城島紀夫氏は1935年佐賀県生まれ。日本山岳会会員。日本山岳文化学会会員。

この稿は城島紀夫氏の承認のもとに日本山岳文化学会機関紙「山岳文化」第18号に掲載された表題を全文掲載させていただきました。

「大学ワンダーフォーゲル部の発足」 城島紀夫著

〜学生登山の戦後史と現況〜

日本山岳会「山岳」第百十二年 2017年8月 掲載資料


今から80年前の1936年(昭和11年)にわが国で初めて大学生のワンダーフォーゲル部が、課外活動において体育系の1種目として公認された。

ここに誕生したワンダーフォーゲル部(以下、WV部)は太平洋戦争終結後の1946(昭和21)年から新制大学において設立が全国に拡がり、大きく発展した。

 

I 学生登山の流れ

旅行部から山岳部へ

学生登山は、1910年代(大正時代初期)に旧制高校を中心に一高旅行部や三高旅行部などが設立されて、山旅が広まった。この年代に学校(中・高・大学)に設立された山岳系の部は、21校のうち10校が旅行部や遠足部やスキー部と名乗り、11校が山岳会や山岳部や登嶽部と名乗っていた。

この当時の我が日本人の伝統的な登山は、夏山を中心とした山旅であった。いくつもの社会人山岳会も、同様に夏山登山の活動を行っていた。

1919 (大正8)年に大学令が公布されて、私立大学の設置が認可されるようになり、続く約6年の間に旧制大学や旧制高校に次々と山岳部が設立された。1920年代には、部の名称も山岳部が多くなった。

1921 (大正10)年に槇有恒がアイガー東山稜の初登攀に成功した頃から、わが国に西洋流の登山思潮(アルピニズム)が移入され、当時の西洋憧憬の気風も手伝って、雪と氷の冒険的な登山が学生登山のなかでハイライトを浴びるようになった。

学生山岳部の活動は、数年のうちに雪と氷に加えて岩壁にも挑むようになり、冒険の度合を強めて先鋭化した。

学生登山が分岐した

次第に伝統的登山の愛好者たちの入部が少なくなり、山岳部の部員が減少していった。課外活動における学生登山の分岐の始まりであった。伝統的登山を愛好する学生たちにとっては山岳部から分化した新しい登山系の部が発生することが望まれていたのだが、大学の課外活動においては、新たに部を認可する基準の中に(一種目、一部)という原則があったために、新しい登山系の部を創設することは困難であった。

このような背景から、多くの山岳部においてアルピニズムを愛好する部員たちが大半を占める結果となっていた。

また当時の課外活動においては、部以外の任意の同好会やサークルに対する援助が一切認められていなかったのである。一方で社会人の山岳会においては登山思潮や登山スタイルに応じて分化が進み、新しい集団が生まれていった。

このような流れを、田口二郎は次のように述べている。「大正後期にアルピニズムが渡来した時、学生登山は従来のスタイルのものと新しいものとに分岐した。新思潮のアルピニズムを奉じて新生した山岳部があり、また古くからある山岳部で新旧の二つの内容を持って発展したものなど、さまざまであった」と。(「東西登山史考」)

スポーツの新種目とっなたWV部

1936 (昭和11)年2月に、わが国で初めて明治大学WV部分が体育系の登山種目として認可され、学友会運動部会への加入を果たした。

この年に設立して活動を開始していた立教大学と慶應義塾大学のWV部は、両部とも体育会への加入を認可されていなかった。

このあと間もなく太平洋戦争が始まり、大学における全ての課外活動は休止の状態に追い込まれた。WV部の活動も、後続の設立を見ないうちに中断された。

II  WV部が本流となった現代

山岳部との違い

WV部と山岳部との相違について、従来から対比的に言われてきた数々の説明を要約して紹介しよう。

山岳部・・氷・雪・岩に挑む、海外遠征、自然と対決する、冒険主義、アルピニズム、ヒロイズム、登頂や登攀が第一(記録主義)、より高く・より困難を目指す、少数、個人、などである。

WV部・・夏山合宿、部員全員合宿、縦走登山、自然に親しむ、安全に、尾根や渓谷や深林や里山等を辿り景観を得る、厳冬期の登山は行わない、多数、共同行動、などである。

ただし山岳部の活動が前期のように先鋭的になったのは、西洋式の氷や雪に挑む登山方式がわが国に移入されて以降のことである。それ以前の山岳部は、夏山と山旅を中心としており、今日のWV部と似通った活動を行っていた。

深田久弥も「昔の山岳部は、多分にワンゲル的であった」と述べている。(「瀟洒なる自然」)

戦後に発足・発展したWV部

わか国において大学WV部が発足した状況は【表・1】として表し示す一覧表のとおりである。これらの事実は、これまでに書かれた登山史にはほとんど記されていなかったものである。この表は、戦後の学生登山の歴史のうちWV部にかかる資料として、多くの部誌や周年記念誌などを基に筆者が作成したものである。

WV部設立の大きな波は、関東から関西へと及んだ。関東地区では私立大学が先行し、その他の地区では国立大学が先導役割を果たした。

太平洋戦争が終結した翌年1946(昭和21)年に、明治大学WV部(体育連合会加入)、と慶応技術大学WV部(文化団体連盟加入)が活動を開始した。両校ともに戦時中に休止していた部活動の再建、復活であった。

続いて1948 (昭和23)年に中央大学において戦後初めてWV部が創設され学友会体育連盟に加入した。

後続してして設立したWV部は、体育会で加入することが通例となった。

同年に、前期の大学WV部が全日本学生ワンダーフォーゲル連盟を結成して、関東地区の大学に向けてWV部の設立奨励運動を開始した。併せて大学関係者に、山岳部との相違点を周知させることも同連盟の使命であった。

その後1949年に早稲田大学WV部創設(体育会加入)、1950年法政大学WV部創設(体育会加入)と続き、1951 (昭和26)年に東京大学において国立大学で初めてWV部が発足した。東京大学WV部は1955 (昭和30)年に全日本学生WV部連盟に加入し、1960(昭和35年)年にはOB会を結成、1961 (昭和36年に運動会(体育会)への加入を認可された。

国立大学におけるWV部の設立は、東京大学WV部が先例となってお茶の水大学、北海道大学と続き、全国に普及した。

女子大学における最初のWV部は、1954 (昭和29)年にお茶の水大学で誕生した。次いで東京女子大学、津田塾大学、女子美術大学、奈良女子大学にWV部が誕生し、女子大学においても登山系の部活動が盛んになった。

女子大学の山岳部は、この前年1953(昭和28年)年に東京女子大学において誕生していた。【表・1】に見られるように、大学WV部の普及は、終戦直後の1946(昭和21)年から1955 (昭和30)年までの10年間に関東を中心とする20の大学に拡大して、新しい登山文化が構築されていった。

続いて1965(昭和40)年までの10年間の間にはさらに数137の大学でWV部が設立された。この結果1965(昭和40)年当時には、わが国の国立大学73校のうちで56校においてWV部が活躍するという盛況となった。

戦後の教育制度の変革によって、教育の大衆化が進み大学への進学率が上昇するとともに大学が増設された。これに連れて1960年代にはWV部の活動が全国的な人気を呼び、各大学WV部において山岳部を超える多数の入部者を迎えた。1960年代後半から1970年代前半が、WV部の大量部員時代とも呼ばれた時期である。

1965(昭和40)年当時の部員数は大阪大学・316名、関西学院大学・84名、神戸大学・112名、中央大学・142名、東京大学・107名、明治大学・97名、横浜市立大学・44名となっていた。

また部員数の推移について東京大学WV部に例をとって見ると、1970年に70名、1980年に66名、1990年に46名、2000年には27名と推移しており1965年頃が最多であった。他の大学WV部においても、ほぼ同じ傾向で推移した。

1960年代の後半あたりから、体育系の各部の部員数が減少し始めた。大学生たちの課外活動における体育離れと呼ばれた現象が始まった。規律を求められる部活動よりも任意性の高い同好会やサークルの方に人気が集まるようになった。多くのWV部において、夏合宿を部員全員参加制から任意参加制に変更するようになった。

以上に述べたように戦後に大発展した大学WV部の活動は、戦前に山岳部から分岐した伝統的登山の愛好者たちの大きな流れが、アルピニズム移入以前のわが国旧来の伝統的登山を、課外活動の中に回帰させた現象であったと捉えることができる。

田口二郎も「大正後期に登山界がアルピニズムを主流とするようになってからも、日本の登山の牢固とした底流として生き続け、日本の土壌に育まれたそれ(伝統的な登山・筆者注)は、戦後にはアルピニズムと並ぶ登山の二本の本流の分一つとしての地位を築いて来たのである」と指摘している。(「東西登山史考」)

急速に発展した背景は

1949 (昭和20)年の新制大学の発足と同時に、教育課程において大学生の体育実技が初めて必修となったため、WV部、山岳部、野球部等が行う実習行事が単位認定のための正式課目として取り扱われた。大都市にある学生数が多い大学は体育施設や指導者が不足しており、体育実技の単位を与えるための臨時の処置を必要としていた。

正式課目として認定されたWV部、山岳部、野球部等の部員には、部長や監督の証明によって体育実技の単位が授与された。またこれらの部が主催する実習に一定時間以上の参加をした学生には、実習の責任者の証明によって単位が授与をされた。この実習において、ワンダーフォーゲル部が主催したキャンプと登山が人気を集め、WV部の入部者が増大し始めたのであった。

このような状況に加えて、大学数と学生数の増加が続いたことや、経済成長による娯楽の普及などを背景として大学のWV部は大きく発展した。

高等教育を受ける学生の登山は、戦前は少数の富裕階層の若者に限られていたが、戦後は教育の大衆化によって多数の学生に登山活動が行き渡ったのである。

合宿先と参加者数

大学WV部が発足した初期の夏季合宿は部員が全員で参加することが原則とされており、その行き先と参加者数は次のようなものであった。

東京大学においては、1953年・南アルプス(26名)、54年・奥秩父(20名)、55年・志賀高原(50名)などと記録されている。明治大学の場合は、1953年・戸隠山(7日間、118名)、54年・奥日光(8日間)、55年・笹ヶ峰(8日間、117名)などと実施された。夏季合宿以外の山行もテント合宿を原則として、縦走登山を中心に活動していた。

山小屋の設立とOB会の結成

戦前には、大学が管理する山小屋は、山岳部の活動施設として大学が建設していた。

わが国で最初のWV部専用の山小屋が、1954 (昭和29)年に明治大学WV部のOB会によって建設された。これが前例となって、大学のWV部は山岳部とは個別の山小屋を建設することが通例となり、山岳部と並んで登山活動を行うWV部の伝統として定着した。

山小屋の建設は、明治大学に続いて1956年に中央大学、1958年に慶應義塾大学、1959年に工業学院大学と続き、一橋大学、京都大学、九州大学、東京大学、金沢大学、などの国立大学を含めて全国にWV部に及んだ。

多くの大学WV部のOBたちが、山小屋の建設事業を契機としてOB会を結成し小屋の建設資金の拠出や設備の寄付や現役部員の活動費を補助する事業が始まった。新しくWV部を創設して活動する現役役員にとってOB会からの補助金は、テントなどの装備調達費用や年間活動費の一助となる欠かせない資源であった。

WV部は部員数が多いため卒業年次ごとの同期会がそれぞれに会の名称を掲げて集う例が多く、この同期会が伝統的に継続されているWV部は全体のOB会も盛況となっているようだ。これらのWV部OB会は、OB会報を発行している例が多い。最近では、会員への郵送に代えて電子化して配信する例が東北大学などに見られる。現役部員とOB会が創部以来の「部誌」を会員から収集し電子化して、会のウェブサイトで公開する事業が始まっている。横浜国立大学、東京大学などである。

部誌と周年記念誌

発行されていた部誌の名称、ならびに近年に発行された周年記念誌は、【表・1】に示すとおりである。

1946 (昭和21)年に慶応義塾大学と明治大学のWV部が年刊の「部誌」の発行を再開した。続いて創部したWV部は、ほぼ例外なく設立直後から部誌を毎年発行していた。

当初には多くのWV部が、部誌によって各種の情報交換を行い、また地域ごとの連盟の結成や合同山行(合同ワンダリング)などを始める契機となっていた。

部誌には年間の活動記録が参加者氏名とともに詳細に記録され、合わせて部員が全員で紀行や随筆などを執筆していた。巻末には部員名簿(卒業年次、氏名、住所など)が必ず搭載されており、OB会の活動資料として活用されていた。

部誌は1960年代の後半あたりから、部員数の減少によって発行が途絶える状態となった。現在も年度ごとに部誌の発行を続けているWV部は、慶應義塾大学、明治大学など少数だと見られる。

部の創設以来50周年を迎えて「周年記念誌」を発行するWV部が2000年代に増加した。OB会が発行したこれらの周年記念誌は、過去に発行した年刊の部誌をベースとして創部以来の歴史が編纂されているため、部の伝統や年次ごとの特徴的な活動が伝えられており、時代背景を映し出しているものが多い。年度ごとの部誌の発行が途絶えると、将来には密度の濃い記録としての周年記念誌の発行が困難になるのではないだろうか。

Ⅲ学生登山の現況

WV部と山岳部の活動状況

現在の大学のWV部と山岳部の活動状況は【表・2】に示すとおりである。

全国の総合大学117校を調査対象として、各大学並びに両部の2016年度公式ウェブサイトを閲覧して調査を行った。

山岳部は近代(戦前)まではほぼ全ての大学で活動していたが、戦後には休部や廃部が続いたために部数は年々と減少しており、今日ではWV部の方が多くなっている。

活動している両部の部数を国立大学について見ると、51校のうちでWV部が45校(約90%)で活動しており、山岳部が29校(約57%)で活動している。

国立と公・私立の合計で見ると、WV部が84校(組織率・約72%)であり、山岳部が55校(組織率約・47%)となっている。

最近のWV部の部員数(2016年度)を見ると、大阪大学・31名、金沢大学・53名、関西学院大学・37名、九州大学・69名、京都大学・35名、慶應義塾大学・42名、中央大学・43名、東京大学・27名、北海道大学・22名、明治大学・49名、早稲田大学・18名等となっており、全国的に幾分増加の傾向にあるものと見られる。

活動多様化の模様

昨今の年間活動内容は各部によってまちまちであるが、大きく次の三つに区分することができる。①登山を中心とするもの、②登山のほかにアウトドア種目を取り入れて、年度ごとに部員の意向に応じて企画するもの、③登山活動は行わず、他のアウトドア種目の中からその都度企画するもの、である。このうち②と③は年間計画が不明確であり、年度初めに年間計画を定めない分も多く見られる。

①の例として明治大学ワンダーフォーゲル部の年間(計画(2016年度)を見よう。次の三種類の活動が企画されている。

(1)全員参加生の公式合宿(7回)、(2)自由参加制の公式合宿(6回)、(3)部員同士で行うフリープランが月一回程度、である。

(1)の全員参加合宿の内容は、新人歓迎ハイク、新人養成・2泊、初夏・2泊、夏期・7〜10泊、小屋整備・2泊、秋期・2泊、春期・2〜4泊として構成され、(2)の自由参加の公式合宿は、OB会と共同の小屋合宿、リーダー養成、正部員養成、秋期、山小屋整備、ゲレンデスキー、春期の各合宿とされている。厳冬期登山は禁止している。

多くの大学において、近年ではWV部と山岳部がほぼ同様の活動を行っている例が増加しており、この傾向は年とともに進んでいるものと見られる。私立大学において登山を行わない前記③の区分に属するWV部の中には活動内容を「アウトドア全般」とするものもある。

また、山岳部の中には登山に代えてフリークライミングを中心に活動する部も出現している。

大学WV部が登山の他に採用している種目は、サイクリング、フリークライミング、ボルダリング、カヌー、無人島合宿など種々雑多となっている。

教育の一環として行われている課外活動としては、各部ごとに一定の目標を定めることが必要だと思われる。

最近では、活動内容を「登山ですと」と明示する例が国立大学において増加している。WV部と言う名称は活動の内容を表していない。活動種目を特定して、活動種目名を部の名称にすることもWV部の今後の課題だと思われる。

参考資料

各大学のワンダーフォーゲル部ならびに山岳部の「周年記念誌」

城島紀夫「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」(古今書院)


この研究論文は「ワンダーフォーゲル部のあゆみ」の著者である城島紀夫氏が日本山岳会の機関紙「山岳」に掲載したものです。本人の了承を得て本ホームページに掲載させていただきました。

西 穂 高 遭 難 の 教 え る も の  皆川完一

金子君の遭難という悲しい現実に直面し、いままでしばしば問題になって来たことであるが、ここでもう一度ちかごろの高校生の登山について考えてみたいと思う。

私たちのいうスポーツとしての登山はあらゆる意味に於て高きをめざしている。しかし低 い山よりは 高い山へ、登るに用意な山よりは困難な山へ、夏山よりは冬山へ、既知の山よりは未知の山へ、と発展していく過程も、決して1足とびに経過出来るものではな くその間に多くの研究と訓練とを必要とする。このことは登山の歴史を考えてもわかるであろう。今日のように氷雪の山を登るに至るまでの登山界の変遷は、個 人の中に於いても経過されなければならない筈である。生物学の原則が教える「個体発生は系統発生をくり返す」ということをここに持ち出すことも、あながち 不適当とは思われない。こうした原則は登山についても必要であるような気がする。

高校生の登山、いな今日一般の登山の風潮について多くの欠陥を指摘をする前に、全般的 にみて先ず基礎的な研究と訓練の不足を問題にしなければならない。特に 高校生に於ては経験の不足ににも拘らず、氷雪の山に登るのは多くの無理がある。それよりも夏山に於て、充分な訓練と豊富な経験をつまなければならない。今 日の登山界の動向、或は高校生の若い意気からは、夏山の縦走などは、或は価値のないものと思われるかも知れない。しかしそこにも登山としての立派な意義が ある。このような登山を経験してどうして、登山を知らぬものの、登山は冒険を目的としてスリルをたのしむ馬鹿げた行為であるという考え方に反撥することが 出来ようか。夏山のピークハンテングから更に発展して岩登りに到達しても、やはり高校時代は基礎的な訓練に終始しその間に単に技術書から学んだ机上の知識 ではなく、身についた経験とどんな危険に遭遇しても、活路切り開く実力と意志とを養成しなければならない。これらの基礎的な訓練の上にたってはじめて氷雪 の山をめざすことが可能になる。しかしそれは年令的にみて高校生の経験では無理というものであり大学山岳部に入ってから上級部員と先輩の指導によって、冬 山の醍醐味を味わっても決しておそくはあるまい。

高校生の冬山が無理だというのは、単に個人的な研究と訓練の不足から来るものではない。冬山に必要な経験をつませる組織も問題になる。当然のことであるが、冬山の実力というものは個人的には充分に養成されるものではなく、山岳部のような団体の中にあって先輩の指導の下に統制ある訓練を必要とする。また冬山に必要な厖大な装備にしても、個人的に全部揃えることは経済的に無理であり、山岳部等に於いて用意され、たえず使用の実験をしなければならない。ところが現在の高校山岳部は学制改革以来その歴史も新しく、その組織の上に於いても不十分な点が多い。私は現在の高校3年にあたる旧制高校1年の時に、長い歴史を持った山岳部の中で、先輩と上級部員に指導されてはじめて冬山の洗礼を受けた経験があるが、今日ではその年令で冬山をねらうというのである。同行の先輩もなければ充分な装備も用意されていない。ただ意気込みだけでは多くの危険が生じるわけである。

今回の金子君たちの行動にしても、個人的にはかなり経験をつんでいるようであるが、個人的な行動に先走って山岳部を育てようとはしていない。同行の戸山高校生は自由な行動を欲して属していた山岳部を脱退までしている。計画にしてもはじめの無謀な計画は他からの注意によって変更してはいるが、その際先輩の同行を求めていないのは自己の力に対する過信と言われても仕方あるまい。遭難の直接原因とされている内張りのない古くなったテントにしても、他からの借用品であり、それを用意するだけの山岳部の充実の方が先ではなかったかと思われる。炭俵をテントの下に敷いたのはマットがないためで、経験者ではそれでも間に合うこともあるが、長い間には居住性が悪くなるものである。はじめての高所キャンプの実験としては不充分であったようである。又実験にしても最悪の事態を想定し、あらゆる変化に対処するだけの注意が足りなかったのではないだろうか。

今回の遭難は強風によりテントが破壊され凍死に至ってしまったのであるが、他の装備は大体良好であったから、シュラーフに入って破れたテントにくるまっていれば遭難発生と思われる21日の夜は明かせたかも知れなが。22・23両日も風雪が激しかったようであるが、充分装備をととのえ力を合わせて行動すれば強風の中でも危険地帯を突破して西穂山荘に避難することが出来たであろう。2名は何らなすところなく、テントの中に凍死し、他の2名は救援を求めに出たのかもしれないが、アイゼン・ピッケルをつけず、又そのうち1名は靴もはかずに共に行方不明になっている。要するに最悪の事態に遭遇しても危険と闘える技倆と精神的肉体的実力があれば、或いは死に至らなかったのかもしれないと思われるのははなはだ残念である。

登山には絶えず危険が伴っている。高さをめざす結果必然的に危険が付随して来ることは覚悟しなければならない。危険になるが故に登山は禁止されるべきものではなく、危険を排除し、又最悪の事態を克服出来る実力がまず要請されなければならない。登山は人生に於いて高きを求めず生活態度にも通ずるものがあり、人間完成の途上にある高校生のあり方にふさわしいものと思う。登山を禁止する事は却て高きをめざし、うつくしきものにあこがれる高校生の精神を無視するものであり、今後も適切な指導の下に高校生に可能な登山はますます奨励されなければならない。

この度の遭難の教える教訓は、単に登山にとどまらないであろう。ただ登山はその失敗が最も決定的な形であらわれるというちがいだけである。高校時代は、人間を完成させるための充分な見識を養わなければならないが、それは先輩の指導により、どのような事態にも中途で挫折しないだけの実力を充分に養うことにある。そして決して現在の自己の力を過信するなということである。人間完成の途上にある金子君が、中途にしてたおれたことは惜しみてもあまりやることである。

(「めじろ」第71号 獨協学園 1954年度)


皆川先生については常盤雪夫氏による追悼文がこちらにあります。

新たな見解に立つ [ワンゲル部]

新聞紙上が上高地水害の様子でうずまっていた頃我々も上高地から横谷に向かう計画を立てていたがその関係で常念岳、蝶ヶ岳を越え横尾谷に入り、ここを中心として、槍、穂高岳に展開した。横谷に入るのに1日遅れという失態を演じたが幸い天候に恵まれ又、リーダー常盤君の地道な指導と部員の自覚で無事終了した。

〈合宿での行動〉
常念、蝶ヶ岳越えが合宿に一番ふさわしい経験と思われ、とくに常念でのビバーク(野宿)では体力の消耗と水のなかった事又、数人がにぎり飯を他の人から貰い腹をこわし前進不能ギリギリまで行った事などが我々にとって貴重な体験であった。それだけに横尾で八ー九貫(*)もあるリュックを降ろした時は体に羽が生えたようであった。アヅサ川のほとりに七棟ほどテントを張った。そのながめは壮観であり、明日への情熱を燃やさせた。五日目、我々は二隊に別れ朝霧けむるアヅサ川を後に私の佐藤隊は槍、杉島隊は穂高に向かった。槍沢の雪渓を踏み始めた頃には槍ヶ岳の鋭く尖った姿はもう眼前にせまっていた。しかし槍の頂上は時がたつにつれ登山者が多く一目銀座を思わせるようであった。

食事は朝はみそ汁と少量のカンズメ類で、昼はフランスパンとチーズ、ジャム、夜はその日の自由な献立であり食事は当番制で朝は、はだ寒い三時半ごろ起床で炉に火をともし、明日が樹々をくぐる頃には食事の用意がされている。夜七時に就寝の合図。それは我々にとって非常に生きがいのあるものであった。なぜなら登山の疲労と空腹で明日の希望を断った我々をテントの中では情熱を再びかきたててくれたからだ。キャンプファイヤーは山を愛す若人にとっては、忘れられないものであるが今回はパッとしなかった。今回の合宿で我々は、部の運営と、次期合宿について新しい見解を広め後輩によりよい資料をのこしてゆくつもりである。(唐沢)


昭和33年10月9日付け「獨協新聞」に掲載された「各部の向上を期待ー夏期合宿の成果ー」という各部の合宿を特集した記事から唐沢(昭和35年卒 唐沢英樹氏)と署名のあるワンゲル部の部分を抜粋し掲載させていただきました。この新聞記事は元顧問の金先生から情報をいただきました。

( * 1貫は3.75Kg)

早大ワンダーフォーゲルに参加して

獨協ワンダーフォーゲル部        打矢之威

K君へ

K君その後お元気ですか。僕達は昨日無事に帰京しました。君が来られなくて本当に残念でした。我々は先生方のお世話で大変楽しく有意義な団体生活というものを味わいました。それで参加しなかった君にその報告をしようというのです。早大の方は皆親切ですね。特に幹部の方にはいろいろ部の運営方針について詳しく説明していただいてこれからの僕等の部活動に非常に参考になると思っているんですよ。あの人達は表面は山男顔した風貌していますが、心の内は清い心に自然を愛し、親しんでいる立派な人達なんですね。お話を聞いていても何か自分が知らず知らずの内に啓蒙されて行くような気が感じがしました。あのような人格は一昼一夜に出来るものではなく、何年も何年も、山野を汗渉をすることによって、お互いに楽しみ、お互いに悲しみ、そしてお互いに協力しあって次第次第に形成されて来たのだと僕は考えているんです。またワンダーフォーゲルの真の目的もそこにあるような気がしているのです。僕等も毎月のように山に入り込んでいますが、まだけだ修練が足りないんですね。これからの山行にはこの経験を生かしで独協ワンゲルの名に恥じない行動していきましょう。

さて前書きが長くなりましたが、これから僕の見聞きした範囲で早大ワンダーフォーゲル部と言うものをお知らせしましょう。しかし断っておきますが、原則的にいって、大学と高校では、規模その他の面で、大きな差があるのですから、あくまでも独協ワンダーフォーゲル部の運営上の参考として君にお知らせするのです。

まず幹部の方達の部員や部に対する愛情といったものは非常なるものでした。これは如何なる社会でも同じですが、特にこのワンダーフォーゲル部と云う一つの小さな社会においては目上の者は目下の者を愛しみ、目下のものは目上を慕う様な風潮は是非゙日必要ですね。しかしこの相互の親しみも幹部部員、上級生、下級生と言うがん厳然たる一本の境界線をはさんで行なわれているものなんです。確かにこの境を無視したら部の統制は取れません。これは車中で見た事ですが、幹部も新人部員も一緒になって、ワンゲルの歌を合唱して本当に友達同士のようにその雰囲気を楽しんでいましたのに一たびこれが終わって他の事を部員に注意する時の幹部の態度は前とは打って変わった毅然たるものがありました。それから部則は全員に徹底してるように思えました。何事もリーダーの命に絶対服従なんです。如何んなに雨が降っていようとも、如何に腹が空いてもリーダーの許可なくては絶対にヤッケを着たり、食事を取ったりする事はご法度なんです。それに驚いたことには、ひどい雨中を山に登る準備として、全員でトレーニングをしましたよ。もちろん幹部も、女子部員も一緒です。僕等も参加しましたが寒かったですね。しかしこれは必要なことですね。汽車から下りてすぐに登り始めたら、忽ち体に影響しますよ。ましてや夜行なんだったら絶対に欠かせません。

それから新人部員に対する技術指導の面ですが、これには大変貫禄のある先輩が二、三人いらっしゃって、最速日ピッケその講義を一席ぶっていましたよ。僕等も、北村、皆川、太田諸先生のような経験のある指導者が控えていらっしゃるのでその点は安心していいと思います。後の技術的な進歩は無音の心掛次第です。

それから部の構成ですが、最高の責任者は部長(これは代々先生)が受け持っているようです。次に主将そしてマネージャー、各グループのリーダーがいます。以上は四年部員が原則としてなっているようです。装備係、食料係、新聞係、記録係等の諸係員は、三年部員ががっちりと組んで、下級部員の世話をしてます。いづれにしてもあの様に百五十人もの大所帯になると各人が自分の持ち場を忠実に守ると共に積極的に活動しないと部活動と言うものは成り立っていきませんね。僕等のワンダーフォーゲル部も三十人以上もいるんですから余程しっかりしないと必ず破綻が来ますよ。だが三年部員には受験と言う難関が横たわっているので、この処分の調和が難しいんです。ですから二年生にも協力してもらい、ある場合には彼等が主体となってこの有意義な部活動を推進させてもらわないと困るんです。最後に部としての装備の点ですが、さすが大学だけあって全てが完備している様です。僕等としてはとうてい何から何まで備えることは出来ませんか二、三個のキスリング、それに大型テントは欠くべからざるものだと聞いています。後は個人装備です。以上とりとめもなく書きましたが先生方も森本部長も僕等も一致した感想は、早大゙ワンダーフォーゲル部は良くまとまっていると云うことです。集合した後のゴミ屑等などのしまつ、駅や街中での整然として歩いている姿、皆円くなって合唱している光景、何をしてもてきぱきと敏速に迷惑を掛けない部員達の張り切った姿、などがこれをなしている僕の目の前を走馬灯の様に次から次へと浮かんできます。僕等の独協生のこのワンダーフォーゲル部もかくありたいものだと心から期待している次第です。

では駄筆ですがあしからず。また学校で会いましょう。


昭和30年6月10日付け「独協新聞」より転載しました。

DWV山行の実績

DWVとして現在までの山行の実績を現在までに分かっている情報を元に調べてみました。

山         域 山  名 山  行  数
奥多摩                                30 川苔山 9
棒ノ折山 7
本仁田山 1
陣場山 2
三頭山 1
御岳山 2
御前山 1
鋸山 1
鷹ノ巣山 3
大岳山 3
丹沢                                             17 表尾根 12
鍋割山 4
その他 1
東北                                              22 飯豊連峰 9
朝日連峰 4
岩手山・八幡平 6
八甲田 1
船形山 1
早池峰山 1
八ヶ岳                                         17 南八ヶ岳 13
北八ヶ岳 4
北アルプス                                   7 槍・穂高 5
白馬 1
劔岳 1
南アルプス                              10 仙丈岳 3
北岳 1
鳳凰三山 1
甘利山 1
守屋山 2
入笠山 1
鋸山 1
秩父                                               4 雲取山 1
国師岳 1
武甲山 1
両神山 1
上越                                                 8 高妻山 5
谷川 1
妙高山 1
巻機山 1
中央アルプス                              1 宝剣岳 1
浅間山およびその周辺          6 浅間周辺 6
奥秩父                                              4 金峰山・瑞牆山 3
乾徳山 1
三浦半島                                       1 鷹取山 1
御坂山塊                                       2 三ツ峠 1
御坂山 1
大菩薩山嶺                                1 扇 山 1
箱根                                                1 金時山 1
那須                                               1 茶臼岳・三本槍岳 1

2017年8月までのDATAから

山域とするとやはり奥多摩が30回と多く、新人歓迎などでもよく登られています。また、丹沢はボッカ訓練など、夏山のための準備登山としてもよく登られていたようです。積雪期には初期の頃は高妻山が多く、後には北八ヶ岳が多かったようです。DWVの特徴とすると夏合宿には飯豊連峰、朝日連峰、岩手山・八幡平などの東北の山を選んでいることがあげられましょう。標高はそれほどなくても緯度が高い分おとくな縱走が楽しめる割には登山も少なく、時間をかけてじっくり味わえるからこそ東北の山は高校生の夏山としても思い出に残る山であるのかもしれません。