金子隆司君 遭難報告 北村良三
今回の本高校3年生金子隆司君及び戸山校生の遭難に関する記事は「信濃毎日」に発表されたところでは、次の如き予定で行動されたものと推定される。
12月15日 新宿発
16日 松本着、電車島々、バス沢渡、徒歩、中の湯泊。
17日 中の湯発-上高地ホテル着、泊。
18日 西穂山荘着、泊。
19日 第一キャンプへ荷上げ。
20日 第一キャンプへ運搬完了。
21日及22日 不明
23日 上高地ホテル泊。
24日 帰京。
次に判明した事実の跡をたどって見る。
16日 午後3時上高地帝国ホテル管理人木村氏宅到着、泊。
17日 午前8時木村氏宅発、荷物多く半分おろす。西穂山荘着、泊。
18日 二人で荷物をキャンプ地点へ荷上げ。他の二名は残りの荷物を山荘へ荷上げ。全員山荘泊。
19日 西穂山荘で登山準備、山荘泊。
20日 立大山岳部、朝日ニュース映画班と合流。立大山岳部縦走登山と共に登ったが途中で別れ、山荘泊。
21日 強風をついてキャンプ地へ向い西穂高主峰直下にキャンプを張る。
22日、23日 21日夕刻に始まった風雪がなお続き、遭難したものと思われる。
風速およそ40m、温度零下28度。
24日 立大山岳部員が凍死体を発見。
作業状況
24日 死体発見後立教大学山岳部員15名の献身的援助により、一遺体を600m程移動する。
25日 上高地帝国ホテルより食糧等を西穂山荘へ荷上げ。遺体の作業中止。
26日 午前中遺体作業を続ける。午後悪天の為中止。
27日 風雪の為中止。食糧等の荷上げ。
28日 快晴、早朝より作業開始。上高地帝国ホテルより応援の者が西穂高岳へ登る。
29日 晴、作業継続。午前10時頃二遺体を西穂山荘へ運ぶ。午後6時頃二遺
体が上高地玄文沢に運ばれた。検屍及び遺族との面会終了後、荼毘に付す。
30日 午後遺族全員が遺骨を守り、作業員の半分位のものが上高地発、下山。中の湯泊。
31日 中の湯発、帰京。
本校より該作業に参加したのは、北村教諭、皆川講師、金子助手の3名。尚、完全なる報告は、機会を見て行う予定である。
北村良三(本校数学教員)
———————————————————————————–昭和29(1954)年発行の学園文芸誌「めじろ」71号から転載しました。原文は縦書きです。漢数字および句読点の変更・追加をおこなっています。なお、1955(昭和30)年1月30日発行の戸山高校新聞第43号には事故の経過、論説および対策作業等が記載されているので、参考資料として提示しました。この資料は、現在、都立戸山高校山岳班OB会、戸山山の会に所属する栗林昌輝様のご承諾を得て使用させていただきました。栗林様の私信によれば、伊豆野、島田両君の遺体収容は昭和30年6月になったそうです。 (常盤記)
西 穂 高 遭 難 の 教 え る も の 皆川完一
金子君の遭難という悲しい現実に直面し、いままでしぱしば問題になって来たことであるが、ここでもう一度ちかごろの高校生の登山について考えてみたいと思う。
私たちのいうスポーツとしての登山はあらゆる意味に於て高きをめざしている。しかし低い山よりは 高い山へ、登るに用意な山よりは困難な山へ、夏山よりは冬山へ、既知の山よりは未知の山へ、と発展していく過程も、決して1足とびに経過出来るものではな くその間に多くの研究と訓練とを必要とする。このことは登山の歴史を考えてもわかるであろう。今日のように氷雪の山を登るに至るまでの登山界の変遷は、個 人の中に於いても経過されなければならない筈である。生物学の原則が教える「個体発生は系統発生をくり返す」ということをここに持ち出すことも、あながち 不適当とは思われない。こうした原則は登山についても必要であるような気がする。
高校生の登山、いな今日一般の登山の風潮について多くの欠陥を指摘をする前に、全般的にみて先ず基礎的な研究と訓練の不足を問題にしなければならない。特に 高校生に於ては経験の不足ににも拘らず、氷雪の山に登るのは多くの無理がある。それよりも夏山に於て、充分な訓練と豊富な経験をつまなければならない。今 日の登山界の動向、或は高校生の若い意気からは、夏山の縦走などは、或は価値のないものと思われるかも知れない。しかしそこにも登山としての立派な意義が ある。このような登山を経験してどうして、登山を知らぬものの、登山は冒険を目的としてスリルをたのしむ馬鹿げた行為であるという考え方に反撥することが 出来ようか。夏山のピークハンテングから更に発展して岩登りに到達しても、やはり高校時代は基礎的な訓練に終始しその間に単に技術書から学んだ机上の知識 ではなく、身についた経験とどんな危険に遭遇しても、活路切り開く実力と意志とを養成しなければならない。これらの基礎的な訓練の上にたってはじめて氷雪 の山をめざすことが可能になる。しかしそれは年令的にみて高校生の経験では無理というものであり大学山岳部に入ってから上級部員と先輩の指導によって、冬山の醍醐味を味わっても決しておそくはあるまい。
皆川完一(本校社会科講師)
———————————————————————————–本稿は学園文芸誌[めじ ろ」に寄稿された皆川先生の「所感」を転載したものです。原文コピーは、歴代顧問・飯島義信先生のご尽力によるものです。
ワンダーフォーゲル 森本悌次 打矢之威
今年から独協にワンダーフォーゲル部が創立されましたがそれについて書いてみたいと思います。
戦後大学進学者が増加し、皆大学受験という大きな壁にさえぎられて、自由なのびのびとした高校生活を送ることが困難となりました。そのために、自然に親しむ機会が少なくなり、又学校での校友会運動部の活動も設備が整えられて居らず、満足に出来ません。このような中で山野をして自然に親しむを目的とした部が創立されたことは喜ばしいことだと思います。
わが国のワンダーフォーゲル運動は古くから行われていたようですが、特に著しい発展を 遂げたのは戦後のことであります。現在その活動範囲は大体大学間に於いてのみに限られていて、まだ高校に於いては盛んであるとは云えません。外国に於いて も、この種の運動は戦後特に著しい発展を遂げているようです。また、この1、2年文部省が中心となって、渡り鳥運動の発展に力を入れ、指導者の養成に努め ています。
それではワンダーフォーゲルとはどんなものでしょうか.これは知られるように日本語では渡り鳥と訳され,1897年にドイツで起された一種の国民的自然生活運動であってその価値として次のようなことが上げられています。
- 自己意識の覚醒、青年たるの意義の発見。
- 自然愛好、純真自由の全き人格養成。
- 健康増進、剛健思想と実行力の養成。
- 人間性と社会心の培養。
- 郷土愛、祖国愛の強化。
- 自然生活からの簡素な生活革新。
- 健全な民衆娯楽(郷土の民謡、俚謡、踊り等)の向上発展等に寄与する。
これらのことは校長先生が日頃私達に話されて居る「正直、勤勉、清潔、規則正しくすること。」という四つのことを実行することに他ならないと思います。だから私達ワンダーフォーゲル部員はその価値をよく認識して、これらのことが完全になされているように努力しなれればなりません。又、これらのことを完全になすことが私達が立派な社会人となることだと思います。
渡り鳥運動は徒歩旅行等をなし、旅館、テント等に宿泊して、自分達で炊いた飯を食べて、自分達の秩序の内に、生活するのでありますが、その生活をよき方へ指導する人が必要であります。その指導者の優劣がこれらの目的を完全に達成するが否かを決定します。学校生捨では教師がその指導者の任にあたるのが普通でありましょう。
独協では特に講師の先生方が多くて普段私達は先生方と親しむ機会がほとんどありません。そのような状態であるから、担任の先生さえ受け持ちの生徒の顔を知らないことなぞ珍しくはありません。だから、先生方と生徒たちとが一緒になって旅行するなり、テント生活するなりして親しみ、先生の人格をくみ取り人間を磨いて始めて学校が学問を授けるだけでなく人格を作り上げるところだと云うことができるのです。その点で私達は先生方全員がワンダーフォーゲル部の顧問となられるのが当然だと思います。
さて私達ワンダーフォーゲル部の指導者を紹介しますと、数学科の主任で本校は旅行係のような役をされている北村先生が顧問となって居られ、更に独協の他部に見られずワンダーフォーゲル部特有の参与は普段生徒諸君が山やスキーの話を聞かされている太田先生と、昨年暮れの西穂高遭難の時、北村先生等と共に現場に行かれて協力された山のベテラン東大OBの皆川先生(日本史担当)であります。
又、これと別に早稲田大学ワンダーフォーゲル部部長で高三の英語を担当されている同大学教授の渡辺先生が側面から援助を下さっています。このような優秀な先生方の下に部員は40名を越え、皆クラスの優秀な諸君です。
次に4月以降のワンデリングに就いて簡単に報告してみたいと思います。
5月29日
ワンダーフォーゲルの活動の実態観察するために、渡辺先生の御好意により早稲田大学ワンダーフォーゲル部新人歓迎会にオブザーバーとして参加した。
場所は中央沿線の入笠山で東京より汽車で5時間のところである。参加者は北村、大田両先生と高3生の2名合わせて5名であった。当日は雨に降られて、山に上れず、そこより汽車で少し行った諏訪で会が開かれた。
この時の詳しい模様は先日打矢君が独協新聞に寄稿したので省略する。
6月10日 (小仏峠→陣馬山)
第一回のワンダルングは小仏峠より景信山を経て陣馬山への尾根歩きであった。参加者は中学高校合わせて23名で引率の先生として大田先生が一緒に行かれた。当日は前日からの雨が朝の内にまだ残っていて、連絡の不十分と、不用意のために33名の参加予定人員が前記のような数に減ってしまった。その結果団体券の払い戻し等で時間を取り。6時半出発が遅れて8時15分新宿発となった。心配された空も私達が浅川に到着する頃は、晴れ間が見え始めていた。
浅川着9時20分、9時30分より出発する。甲州街道に沿って歩き、中央線ガードを通り抜けて右に入り、線路に沿って行く。中央線小仏峠トンネルの入り口で小休止し、小仏峠頂上に11時に着く。ここで15分の休憩の後、景信山方面に向かう。景信山へは約30分の尾根道で上がり下りもなく頂上に12時着。始めの計画より相当遅れていた。ここで昼食を取り、食後ワンゲルの歌等を合唱し又皆が得意の歌を聞かせた後、約1時間の休憩で陣場山方面に向かう。陣場山への道も同様に尾根で、道幅も広く迷うようなことはない。明王峠の茶屋を過ぎ陣馬山へは凡そ2時間の急ピッチで、時間の都合で途中少し休んだだけで行く。この陣馬山へは八王子方面より麓までバスが通っている。私たちは相模湖側へ下りることにして、与瀬へ出るつもりであったが茶屋の話では与瀬まではかなりあり、時間が掛る様子なので藤野駅へ向かうことに決めた。陣場山頂上で約20分休んだ後下り始める。最初の件は少し膝が痛くなるような件であった。この山より相模湖後半が悪くだったところが落合部落でこの部落より駅までかなりな道ほどであった。陣馬山より藤野駅までの所要時間1時間半で、駅着は4時20分。ここで約20分待った後4時40分発の列車に乗り新宿着は5時50分頃。6時新宿駅解散。当日は雨は降らず快晴となり、第一回のワンダルングとしては申し分のない日であったが時間の都合で相当に早く歩いたので中学生の中には少し参ったものも居たようだった。
新宿 浅川 小仏峠 景信山 陣馬山 藤野 新宿
7月18日→7月24日(上高地横尾)
他の部と異ってワンダーフォーゲル部は学期中に活動を十分にすることはできない。だから私達にとって最も活動する時期は夏で,ワンゲルとしていかにこの夏を有意義に活用するかはワンダーフォーゲル部の価値を一般に認識させるかぎである。
私達は先生方といろいろ相談の結果第一年目の夏期合宿を上高地横尾にて行うことに決めた。
横尾は上高地より梓川に沿って3時間位奥に入ったところにあり、槍ヶ岳から流れ出た梓川と穂高岳から流出している槍沢との合流点で、上高地のような都会的な気分は全くなく又近くに横尾山荘がありキャンプ地としては申し分ないところである。
ここから槍ヶ岳へは5時間で行かれ、梓川に沿って行くと、その水源である槍沢の雪渓に出、そこまで行くと槍の穂先が天空にそびえている。前の横尾谷をさか上がると穂高連峰の一端が見え、後ろには槍ヶ岳がひかえている。ここから徳沢に下がって、そこから上がると徳本峠より続いている大滝山に行くことが出来る。又梓川を槍ヶ岳方面へ上がっていくと右より一俣沢が流れこんでいる。この沢は常念岳大天井岳との鞍部に源を発していてこれを上がると常念小屋を経て常念岳へ行かれる.常念岳は徳本峠,大滝山、蝶が岳と連なり、これから尾根伝いに大天井岳を経て槍ヶ岳へ行くことが出来る。この頂上に立つと槍沢より流れ出る梓川が眼下に低く流れ、反対側を見ると松本平が広がっていてその中を大きな川が貫いている。
槍ヶ岳は梓川の水源でその雪渓は夏も融けることなく、白く横たわって居り、その下より流れ出る水の冷さと旨さは他に比べ得るものはない.槍ヶ岳頂上よりの眺望は又素晴しく、前には穂高岳の連峰があり、その後に乗鞍岳、木曾御岳がその雄姿を見せている。
目を左に転ずると八ヶ岳と富士山が見える。又後の日本海側には剣岳、白馬岳が遠くにある。全ての山がその望下に入り、まさに壮観である。
穂高岳への方へは私達は天候の都合で行くことができず、残念であったが、穂高連峰が全て見える。奥又池へ行き、その壮大さを真のあたりに見ることができた。
テントは横尾山荘の近くに張った。テントは全部で5張で、内2張は部で購入し、後の2張は早大ワンダーフォーゲル部より借用した。他の1張は部員の私有を携行した。各々のテントには6乃至7人宛分散し、食事は毎度交代で炊飯当番を受持った。当番は朝4時に起きねばならず、又木がぬれているとなかなか燃えつかず、大変な苦労をしたが帰る頃になると飯の炊き方も上手になって来た。この様子は写真に取ってあるので独協祭に出品されると思う。
ここで食料について書こう。
食料は全て東京から持っていった。但しジャガイモは途中茅野で調達した。種類を掲げてみると、主食の米が各自1升。
副食物用の野菜はジャガイモ8貫,キャベツ1貫,キュウリ,ナス、ニンジン、インゲン若干、他に福神漬、アサリツクダニ、梅干、フリカケ等である。このほか食後にミルクとレモンジュースがあった。
これらを煮るものは大きくなければならず、大きなナベ4箇とヤカン2箇を携行した。
以上のものは朝夕の2回に利用され、朝は味噌汁、夕方はカレーとシチューが交互という献立であった。昼食は出掛けるので米飯は使えず、カンパン、マーガリン、ジャム等を利用した。
次に日程を上げると、
18日 新宿(15時30分)発→(23時00分)松本着、(同夜松本にて仮泊)
20日 松本発(4:50)電車→島々着(5:15)島々発(6:10)バス→上高地着(9:00)上高地発(9:10)徒歩→横尾着(2:00)(テント泊)
21日 A班 テント発(6:45)→一俣小屋(7:35)→常念小屋(13:15)→常念岳頂上(14:30)→槍ヶ岳(16:55)→テント着(18:25)
B斑テント発(6:45)→槍沢小屋(8:20)→坊主岩小屋(11:35)→昼食1時間→槍ヶ岳頂上着(14:00)槍ヶ岳頂上発(15:00)→槍沢小屋→一俣小屋→テント着(18:30)(テント泊)
22日 テント発(8:20)→奥又白池着(13:00)奥又白池発(15:00)→テント着(16:30)
23日 雨のために1日中テントに入りこむ。
24日 横尾発(7:00)徒歩→徳沢徒歩→明神池→上高地着(9:30)上高地発(10:00)バス→島々着(12:30)(昼食)島々発(13:50)電車→松本着(14:35)松本発(15:30)準急列車→新宿(8:30)新宿駅解散9時
8月22日(入笠山)
(昨日森本部長より話があり 第2回入笠山ワンでリングにリーダーで参加することになった。今度は横尾の時よりも全体に小規模でそれに部員は皆優秀な者達だから楽しい山生活が出来るだろう。)
朝6時30分の長野行に乗る。夜来の雨のためか、以前程混んでいないようだ。装備点検をする牧田がスコップを忘れたのは怠慢だ。千野がピッケルを持っているからそれで代用しよう。11時55分青柳着。田舎びた親しみの持てる小駅である。入笠山は駅前からもその前衛が望まれる可愛らしいなだらかな山である。初夏には全山スズランでおおわれて、その景観は目を奪うばかりだと案内書に謳っているのを思い出した。早めに着こうとすぐに出発する(12時15分青柳発)。
2年の若井に先頭に立ってもらう僕は殿りをする。皆少し眠そうだ。昨夜心が踊ってねむれなかったのだろう。静かな部落を抜けると少し傾斜がついて来た。暑い。皆あえぎ出したので歌を歌って元気をつける。列が乱れて来た。小憩しよう(1時)。目前の八ヶ岳が壮大ですばらしい眺めだ。疲れも吹飛ぶようだ。諏訪湖が霞んでいる。
(1時15分)出発。皆頑張って行こう。道は迷うすべもない明らかなものだ。あと2時間ぐらいだろう。中学生もよく歩いている。(3時20分)御所平に着く。スズラン小屋の管理人の所に行く。独協を知っているそうだ。小屋の近所が何かと便利だからねここらにテントを張れとすすめてくれる。その言葉に甘えるとしよう。今はシーズンオフだから山も静かですと云った。親切そうな人だ。(4時)テント設置終り、第一、第二と分けて、各人割当てる。食事当番は2人交代にする。燃料も集めたし、腹もぺこぺこだ。今夜はカレーライスだ。如何な珍味なものが出来るだろう。食後キャンプファイヤーをする。熱いミルクが旨い。千野が小屋の人を迎えに行った。皆でワンダーフォーゲルの歌を合唱。美しい夜空に響いて神秘的だ。明日はきっと晴れるだろう。
「23日」朝5時、人声がしている。食事当番だ。山の朝は寒い。ヤッケを着ても震えがとまらない。はたして上天気だ。さあ起きようか。食事が出来る間みんなで散歩に行く。茅戸が終わりお花畑の端に行くと、山が切れて初めて展望が得られる。素晴しい景色だ。槍がみえるぞ。あれがキレット、穂高だ。乗鞍も雲海より聳え立っている。朝日がアルプスをバラ色に染めている。山の朝はいいなあ、身も心も洗われるようだ。食事当番にも知らせてやろう。僕等だけで独占するのにはもったいない。
(7時20分ベース出発)一列に並んで行く。頂上まで30分ですと小屋の人が教えてくれた。今日はのんびりとできるぞ。少し行くと牧場がある。それを横に見ながら一気に登ると頂上だ(8時10分)。昼までにもどればよいのだから10時まで休憩。360度の眺望だが、長野、飛騨方面はガス出て来て視界が得られない。「南アルプスですね。高いなあ」「するとあれは甲斐駒だね」「その隣のすごいのはなんだろう。残雪が見えているよ」。皆、自然の偉大さ、壮大さに息をのんで見守る。僕は少し昼寝をしよう。景色は満喫したのだから、帰りは牧場によることにする。山に囲まれた小さなそれは、何処か、高津牧場に似通っている。牛がのんびりと草を食べている。のどかな風景だ。11時牧場発。もうテントがみえて来た。食後、夕方まで自由行動。目前の小入笠に、お菓子と本を持って登る。頂上で尾根を登って来た若井と植村に会う。裏から千野や千正、後から井上も来た。皆草の上にねころんで話に花を咲かせる。真下に我々のテントが小さくみえる。植村と将棋を始めたが助太刀多く、無念にも敗退。お菓子も平げたし藪こぎをして下ることにする。
カレー粉が残っていたので今晩もカレーライス、皆炊飯もうまくなり「ガンチャ」にもお目にかかれない。飯が旨くないと山生活の醍醐味も半減する。夕霧があたりをおおい始めた。釜無山、小入笠囲りの山が影絵のようにかすんでいる。6時半食事後キャンプファイヤーのまき集め。今日は盛大にするので、太い枯木を集める。火勢で夜霧がぬぐわれたようだ。今夜も星が美しい宝石をちりばめたようだ。上気した赤い顔が火を取りまいている。若井の歌がしんみりとしていいな。今度は僕の番だ。「おお牧場はみどり」を歌う。ああもう9時だ。明日の下山の予定を説明する。朝の食事当番はつらいぞ。9時20分就寝。
入笠山ワンダリング内容 23日→24日
青柳→御所平→入笠山→富士見 参加人員8人
以上のように活動して来たワンダーフォーゲル部も、種々の条件によってその活動期間が春夏秋に限られて、冬の活動は特別の場合を除いては活動が制限されています。第一年目の私達の活動期間も過ぎたので、反省すべきことや気付いた点を書いてみたいと思います。
第一には連絡の不十分のための不参加者についてであります。前にも述べたように、私達のワンダルングは日曜日を利用するために早朝から出発しなければならず、雨が降ったときには連絡がとれず、不参加者が多く出ます。その結果、団体券の利用が不能となり、不参加者が行けないだけでなく、他の人にも多くの迷惑をかけるようになります。この問題は経験を積むことによって解消すると思いますが、よく考える必要があると思います。
第二は行く場所についてであります。
先日上高地に行く前に,ある機会に岩原先生からドイツで経験されたワンダーフォーゲルについてのお話などをうかがった時、先生は行く場所の選択にもっと考えるように云われたことは私達にとっても考える余地があります。
日本は山国であり、広い高原等を何日も歩いて旅する場所がないために、一般に日本のワンダーフォーゲル活動は山が対象になり勝ちであります。それ故に日本の大学高校のワンダーフォーゲル部はあたかも山岳部のように思われています。これは明らかに間違いで、山岳部とワンダーフォーゲル部とは本質的に異っています。このことをよく考えてみると私達にも、幾分この違いを誤って解釈したことを否定することは出来ません。ここによく反省することが必要だと思います。
日本は山国であり、広い高原など何日も歩いて旅する場所がないために、一般に日本のワンダーフォーゲル活動は山が対象となり勝ちであります。それ故に日本の大学高校のワンダーフォーゲル部はあたかも山岳部のように思われています。これは明らかに間違いで、山岳部とワンダーフォーゲル部とは本質的に異なっています。このことをよく考えてみると私達にも、幾分この違いを誤って解釈したことを否定することは出来ません。ここによく反省することが必要だと思います。
日本は確かに山国で平野とか高原とかが余りないが、四方を海に囲れていて、多くの景勝の地があり、これは決して山に劣ることはありません。しかし海岸は余りによく開けているので、テント生活をおくるのに適当な地がなく、又外国のように学生団体を安く泊める旅館がまだ普及されて居りません。しかし海にも又山とは違った魅力があるはずで、私達に簡単に出来る場所をよく研究して探す役目があると思います。
第三に部外よりの参加者です。私達は創立した時に、部外よりの参加者を募ることを予定したけれども、現在までにこれを実現することはできなかった理由はいろいろありますが、何といっても多くの人々を統率するのが困難なことです。今後は部外よりの参加を期待して、大いに歓迎する積りです。(高三)
森本悌次(昭和31年卒) 打矢之威(昭和31年卒)
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本稿は,学園文芸誌「めじろ」72号(1955年発行)に発表されたものを転載したものです。
ワンダーフォーゲル部活動報告 渡辺知也
ワンゲルが出来てから3年、内容もまとまってきたし、装備も大体揃ったと云える。だが3年やそこらでは、技術も、足りないし、資料なども少ないので、まだ大した事は出来ない。それに西穂高の遭難の為か、計画も、練習も、学校側から限定されている。それは今の部が純粋のワンゲル(本場ドイツ)とは異なっている為かも知れないが、自分達は、自分達の建てた計画は能う限り慎重にやっているつもりだ。創立されてから3年の間、まだ一度も事故を起していない。
昭和30年夏の合宿は、北アルプス横尾谷で行われた。北村先生を顧問として太田先生、皆川先生、金子助手などのベテランが参加、楽しい合宿であった。始めて見る北アルプスの山姿に誰もが、感激した。槍ヶ岳や、常念岳等、一週間休みなく、行われ、17人の部員が、それぞれ協力して、飯を炊き、薪を拾い集めた。雪どけの水は、氷りつくように冷たく、朝は初冬の様に、寒かった。
その後は入笠山、丹沢岳に行った。翌年の正月は部員以外も含めて、石打にスキー。ついで丹沢の主脈縦走。それから部長が変り、二度目の合宿を青森の八甲田山で行った。北村先生、金子助手等が参加され、15人の部員が、それぞれ十貫以上の荷を背負い、一週間も山の中を歩き続けた。十和田湖の水は青く、先年の合宿とは一寸異なった感じであった。その後、丹沢モミソ沢、セドの右俣、谷川岳の縦走等広範囲にわたる山行が行われた。
この頃から部はいくらか余裕を持ち山行の回数もぐっと増えてきた。だが、まだ装備の貧弱さ等もあり、行く所などは、かなり限られていた。乏しい予算からザイルを買い込んで、戸山カ原(元陸軍練兵所)で岩登りの基礎練習を始めた。かくて翌年の3月には待望の八ヶ岳(二千六百米)縦走の計画を立て、慎重な準備会を何回か開いた。食料も綿密に計算され、やがて個人、共同合わせて十一貫あての荷物が準備、荷造りされた。
雪は意外に深く非常な苦労をした。朝の気温は、零下十五度まで下がり、尾根の風は、目も開けられないほど強烈に冷たかった。自分達は、赤茶けた頂にリンゴの皮を残して下山した。小屋についたその夜から、山は吹雪となり温度は増々下った。翌日強引な下山が始まった。腰までうまる雪を交互にラッセルしながら失った道を感を頼りに下山して行った。非常に苦しい山行であつたが収穫は大きかった。後になってもこの山行のことが思い出されるのである。それから後は、新人部員を丹沢や鷹取の岩場に連れて行き、そろそろ夏山合宿の準備を始めた。そして期末考査前から準備会、トレーニングなど高二、一年が主体となり厳しく慎重に行われた。階段のカケ登り、ケン垂、下降等、これらは必要のないように思われながら大きな山行の前に、絶対やっておかなければならない。
コースは30年の時と同じ北アルプスの横尾谷。一人十一貫の荷は、新人にとっては負担ではあったが、十二粁の道を休みなく、予定より早く着くことが出来た。この時新しく顧問になられた奥貫先生は非常な快調さを発揮され、部員を驚かせた。槍ヶ岳、蝶ケ岳、北穂高と以前の合宿と同じコースをとり、終始快晴にめぐまれた。六日目の日。希望者のみを残して、横尾谷で別れた。この時の合宿は、一年部員の自主性が非常に目立った。一寸した共同装備も進んで手伝ってくれる様な気持ちは、何時の時も必要である。それに練習の為か、体力もあり、何んの不足も無い合宿であったと云えよう。それから後は部としては、それ程の山行はなく、ただ11月の3日、三ッ峠に出掛けただけである。
これからは少しでも部を充実して(少数でも構わない)今までの経験をもとにして進んで行く積りである。山行の意義などもう考えない。その事は十分に判っているからである。ただ登ること。そして事故無しに日本中の山を登りつくすならば、それは最大の名誉だと云える。慎重な計画と、充実した体力はそう易々と、自然の暴為に破壊されはしない。
最後に、もし誰でも山に登ったなら、必ず登山者として恥ずかしくないようにしていただきたい。残屑や空罐の散乱は、山を侮辱するものだと云えるからだ。
渡辺知也(昭和34年卒)
———————————————————————————–本稿は,学園文芸誌「めじろ」74号(1957年発行)から転載したものです。
高妻山征破ならず ワンゲル部 阿由葉治男
高妻山山頂を目標に冬季合宿に入った常盤リーダー以下10名。この合宿には雪山に初めて入る部員が半数ほどいた。
12月25日出発。すでに11月に先発隊を送って装備は若干一不動小屋に荷上げしておいた。
2日目、3日目に東京からかついできた荷を半分一不動まで上げておいた。4日目残りを取りに8時出発10時20分に牧場着、荷造り昼食を素早く終わり12時牧場出る。今日も雪が降っている。このルートで一番難しい滝場に到着。
このころ天気が変わり、本格的吹雪になる。下りの時の足跡が消えてしまっている。ラッセルマンは胸までの雪をかき分け這うように一歩一歩進む。時々セカンドが「オーイ、ついてるか」と声をかける。ラストが答えるが風に消されそうになる。また声をかけながら進む。あたりは薄暗くなり寒さも一段と加わる。苦しい登攀が続く。ラッセルマン交代、奥貫先生がトップに立つ。懐中電灯をふりながら進む。後ろに声をかける。大丈夫ついている。最後の急斜面を一気に小屋にとびこむ。「おい着替えろ」どなられ、夢中で着替え、火をかこみ、やっと落ち着く。夏山の経験とトレーニングを行ってきたおかげだ。明日の天気を祈りつつシュラフにもぐる。
29日、風強く停滞。協議の結果、高妻断念。地蔵でテントをためす。
30日、入山以来の初の快晴。ハウスキーパー2名おき出発。雪庇に注意し赤旗を立てながら頂上に来る。すばらしい純白の雪と碧い空が目にしみる。富士、浅間、北ア、八ヶ岳、白馬等が手に取るように見える。佐藤以下4名が残り、私等は下る。翌日、テント隊が降りてきた。一晩中風に吹かれたが調子は良いとのこと。来年の成功祈りつつ全員一不動より下山開始。
阿由葉治男(昭和35年卒)
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1959(昭和34)年3月2日発行 獨協新聞記事より転載
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