設立集会での高梨先生のあいさつ 高梨冨士三郎
DWV(獨協ワンダーフォーゲル)部OB会の設立については、私もかなり以前からOB の諸君との集会を持ちたいと考えていましたが、なかなか実現をみませんでした。もっとも、過去に一度、鬼子母神近くの「鳥屋」の2階で、OBと現役の合同 集会をもったことがありましたが1回こっきりで終わっています。今回、打矢氏(1956年卒)、若井氏(’57年卒)、井上氏(’57年卒)、常盤氏 (’60年卒)、中川氏(’64年卒)、中尾氏(’64年卒)、長瀬氏(’68年卒)の方々が中心となり、名簿の整理やら打ち合わせ会、案内の通知から会場の準備など、それぞれの時間をさいて本日の会になったわけで、ここにあらためて、これらの方々に感謝の拍手を贈りたいと思います。
さて、私は1960(昭和35)年からDWVの顧問をやらせていただき、約30年近く 続けさせていただいたわけです。私の前は、ここにご出席の太田先生、富山におられる奥貫先生、私になってから飯島先生が加わり、’80年頃から小川先 生、’83年頃から本木先生が加わって、現在は本木・清棲両先生が実際面の指導をなさっておられる。私たちは現在括弧づきの顧問ということで、仕事の関係でなかなか山行に加わることはできません。
DWVとして私が歩き始めた頃は、今ほど登山人口も爆発的でなく、装備も立派なもので はありませんでした。大体は、上野のアメ横で買い整えたものばかりで、DWVメンバーが一堂に会すると、敗残兵かバタヤの集合みたいなスタイルでした。現 在私が使っている寝袋カバーは、朝鮮戦争でアメリカ兵が使用したお古です。当時のテントや麻のザイルはかなりの重量で、冬山山行ともなればピッケル、食 糧、個人や団体装備で部員諸君は42~43キロは背負っていたはずです。
私が参加した’60年という年は、安保反対運動のあった年で、この年の夏山からDWV として歩き始めました。8月には山谷で3千人の暴動事件があったり、流行歌では『誰よりも君を愛す』『アカシヤの雨が止むとき』が流行して、冬山のテント では、この歌をよく聴かされたものでした。’61年はソ連宇宙船の地球1周、その翌年はキューバ危機、’64年には、中国が原子爆弾の実験に成功、その汚 染された灰が、ソ連のそれと一緒に、日本の空をおおい、その灰をふくんだ雪を、私たちは冬山(南アルプス・千丈や八ヶ岳)でとかして飲んだりしました。
ある山行のとき、某部員が、こんなことを言ったのを忘れません。山に入っているとき と、下山したときの先生の顔が違うと・・・。おそらく山行中の私の顔は鬼みたいにこわかったことでしょう。冬山が終わって帰路につく列車の中では、もうつ かれ果てて、口もききたくないほどでした。肉体よりも、心理的に疲れたものでした。
他校の遭難をききつつ、何度冬山はいやだったと思ったこか・・・。20余年の間に、遭 難に近いこと2回、夏山で錯乱した部員を押さえ抱えて途方にくれたこと1回、私とたった2人の部員とでの厳冬下での山行1回。交通事故で部員が死亡したこ と1回。転落3回(実は3回のうち、今だからいうが、部員1人が転落した際、その知らせをきいて、駆けつけるときに私自身が転落、自力ではいあがったこと が1回ある)。
私が山を歩くのは、戦争に負け、戦後民主主義の徹底化に負け、安保反対運動で挫折し、 挫折し続けてきた”負け犬”の自分が、山を歩きながら、おのれの存在をおのれ自身で確認できたこと、山はおのれのからだでおのれの意志で、生きざまをきざ むことができるからである。くどいようだが、ひとりも殺さないで山を登り、山から帰ってくる。そういったことを無事に繰り返させてもらったのは、自然の中 で、蟻ん子のようにへっつくばり、生き物のひとつとして、大自然に素直に従いながらそれに徹することができたからだと思う。石橋をながめ、石橋をさわり、 石橋を叩きつつ登山したことであろう。
20余年間よくぞ協力してくださった。この席とこの時間をいただいて、あらためてお礼を申し上げたい。
「諸君ありがとうございました」。
私も肉体の限界を感じはじめる年になりつつあります。来年の2月で還暦を迎えます。これからは、自分のからだにあった山行を続けていきたいと思います。
本日は皆さんに会えて、本当にうれしく思います。この会が単にDWVという連帯にとど まることなく、これからも各自が生き続けていく上で、人間として、山の仲間としての連帯とともに、支えあい、助け合う上でのDWVであってほしいと考えま す。この会の発展を心から望みます。
本稿は1985年10月の『獨協学園ワンダーフォーゲル部OB会(DWV・OB会)創 設の集い』席上における、高梨富士三郎先生の挨拶を構成再録したもので、獨協中学校・高等学校図書館発行(1991年5月20日)、高梨富士三郎著『リン デンバウム叢書6−「生者の繰り言」』も参照。
なお、先生は1997(平成9)年8月14日に逝去(享年71歳)され、遺骨は2000年11月、相模灘沖 にてご家族並びにDWV・OB会員らの手により散骨された。22zzzzzzzzzzzzzzzzzzzz 構成/長瀬 治(’68年卒)
ワンゲル部創立とOB会の設立 常盤雪夫 35年卒
そもそもワンダーフォーゲル活動とは何か、あるいは 創部のいきさつについては、HPの山行記録「創部から 実践まで」として、森本・打矢氏の文章が掲載されているので参照されたい。また,その後の部活動などの様子は、山行記録中に渡辺氏の「部活動報告」があ る。文中後半の北アルプス・夏合宿に向けての中で「・・・高二、一年が主体となり厳しく慎重に行われた。」とある高一年とは、まさに私達の年代の部員のこ とである。
現役生だった私達には知るよしもないが、この時期には、卒業した先輩の間では自然発生的にOB会としての基礎が作られたと聞いている。そして実際に、1958年の初夏にはOB・現役の合同山行が奥多摩・入川谷で行われた(HPのアルバム・1958年の山行)。
こ れ以後、夏や冬の合宿にはOB有志の参加を得て、合同で登山することが恒例となった。この伝統は、その後約20年もの長きに渡って続くことになる。また、 OB会独自の山行も行われたり、機関誌「ACDO」の発行もされ、さらにはキルティング製のパーカーも自主製作された。このパーカーの胸にはACDOのロ ゴが縫い込んであり、誇らしく着込んで町中を歩いたことが懐かしく思い出される。また、卒業した部員等の進学した獨協大学山岳部によるヒマラヤ遠征におい ては、ささやかながら協力活動もあった。
1960年以来ワンゲル部の顧問として部活動を指導された故高梨先生のご挨拶(HP・備忘録)に始まる、OB会発足のための設立総会が開かれた。1985年10月のことである。
この席で選出された若井、井上、滝、仮屋園、中川、中尾氏の準備委員や長瀬氏によって会則、名簿、名称:獨協学園ワンダーフォーゲル部OB会が提示され翌1986年6月の第1回総会開催時に議決され正式に現OB会が発足した。