3代会長 植田一朗(1993年6月〜2000年6月) 昭和34年卒

植田氏が会長を務められていたのは、記録によりますと平成5年より12年となっています。そして次の佐藤八郎氏の会長時代(平成12年より17年)を含む10年余りの時代がDWV.OB会の全盛期であった、と私は思っています。

現在62才になる私が当時は30才後半、植田氏は50才前半。最年長の打矢氏でも還暦を迎えていない頃です。山を歩くのも、酒を飲むのも、思いのままの時期でしたから、佐藤氏の企画で毎月のように、どこかの山を歩いていました。

植田氏は自身の会社の経営に多忙でしたので、毎回参加という云う訳ではありませんでしたが、総会・親睦会へは多く参加頂きました。

小諸日新寮の親睦会で “ 仔豚の丸焼き ” を焼いていたのも、この頃です。一皮口にしただけで箸がとまる代物でしたが、写真写りが良いので狂牛病騒ぎで仕入れが出来なくなるまでかなり長く続きました。ただ一度だけ、脂が落ちてきれいに焼けた事があり、植田氏をはじめ皆さんから「今年は上手だ。」と褒められた思い出があります。今では信じられない話ですが、あの頃の親睦会では、ビールの消費量をウイスキーや日本酒を別にして、男一人辺り3リットルとして計算していました。小諸市内のスーパー・ジャスコで生樽20個注文して、「在庫がありません。」と言われた事がありました。全員が若く元気だったのです。

植田氏の話題にもどります。植田氏には妙な魅力があって、先輩後輩を問わず、「植田さんがいると嬉しい。」と、思わせる人でした。

奥鬼怒山の頂きで昼寝していた姿、徳本峠の帰り松本駅で栗おこわ弁当を仕入れてきて配ってくれた事、越後湯沢の “ うどんすき屋 ” の小部屋で熱弁されていた姿、そういった場面の数々が思い出されます。蛇足ですが、あの頃、世田谷区の尾山台駅前で偶然に神田先生と出会い、「親睦会に来てください。」と挨拶をしたところ、「植田一朗が焼いているのか。」と尋ねられたのを、今、思い出しました。

良い時代に良い人達と出会えた。その記憶が私に、あの10余年がOB会の全盛期だった、と思い出させるのです。

植田氏は平成23年に逝去されましたので、中野 茂がこの項を代筆させていただきました。

PAGE TOP