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「ザ・ノースフェース」の創業者

ダグラス・トンプキンスは1943年3月20日にオハイオ州で生まれました。12歳でロッククライミングを始めた彼は、スキーや登山にのめり込んでいきます。17歳になると、高校を卒業しないまま、コロラドへ渡ります。ヨーロッパや南米で働いて資金を貯めてはスキーに明け暮れていきました。

1964年にサンフランシスコで結婚し、1966年には妻スージー・トンプキンスとともに、スキーやバックパック用品を取り揃えた小さなお店を開きます。これが「ザ・ノースフェース」のスタートになります。当初から人気のお店で、顧客でもあったハップ・クロップが経営に参画し、当時としては画期的だったダウンジャケットやバックパック、新型のテントなどの商品を開発するなど爆発的なヒットとなりました。

しかし、トンプキンス夫妻は2年後にはお店をハップ・クロップに売却して、ダグラスは親友のイヴォン・シュイナード(後のブラックダイヤモンドやパタゴニアの創業者)とともに南米パタゴニア目指してサーフボードや登山道具と旅を記録するための16ミリのカメラをバンに乗せて旅に出ます。当時全くの未開地だったパタゴニアの自然は二人の男に衝撃を与え、その後のイヴォンとダグの人生に大きな影響を及ぼす旅となります。カリフォルニア州・ベンチュラを出発し、南米・ティエル・デル・フエゴまで車を走らせ、サーフィン、スキー、登山をしながら旅をする様子は16mmカメラで収め冒険映画として発表されます。これは現在でも伝説の冒険映画とも言われています。

その後、ダグラス夫妻はエスプリ・ホールディングス(esprit holdings)というファッションブランドを立ち上げることになります。このブランドは世界60か国に進出する人気ブランドへと発展し莫大な富を得ることになりました。しかし、「必要のないものを人々に売るのは止めた」「この業界に意味はない」と1989年にはこのエスプリも売却し、ビジネスから身を引き、環境保護活動に傾注していきます。

チリに移住し、1991年には3億4500万ドルもの金額を投じて220万エーカー(東京ドーム190426個分)という膨大な土地を購入し、その後も買い足し続けていきます。2015年、チリ政府に対して100万エーカー以上の土地を寄付したいと申し出ていましたが、その数ヶ月後、パタゴニアを創設した友人のイヴォン・シュイナードらとパタゴニアのネラル・カレラ湖でカヤックを楽しんでいた最中に強風と高波でカヤックが転覆し、ヘリコプターで搬送されたが低体温症で死亡してしまうのです。

トンプキンスの妻は夫の意思と計画を受け継いで環境活動を続け、寄付した土地をパタゴニア国立公園として成立させることになるのです。

トンプキンスとシュイナードの交友については「パタゴニア」のHPに詳しく述べられています。


複数のネットでの記事を参照して記事を構成しています。検証ができていませんので、不正確な部分もあるかと思います。メーカーの思いを伝えられたらということで記事を作成しましたので、ご理解いただければと思います。

シュイナードの作った2つのブランド

カリフォニア州のヨセミテの大絶壁「エルキャピタン」での”クリーンクライミング”など、ヨーロッパのクライミングからアメリカへ流れを変えたた立役者でもあるクライマーのイヴォン・シュイナードは同時に「現ブラックダイヤモンド」や「パタゴニア」の創業者でもあります。

イヴォンは少年の頃、狩猟のために鷹やハヤブサを調教する南カリフォルニア鷹狩団体に所属しており、岩壁の鷹の巣を取るための懸垂下降を教わったりしたことからクライミングに目覚めていきます。

1年中、週末にはどこかの岩を登るような日が続きますが、やがて舞台をカリフォルニアのヨセミテに移します。

ヨセミテ国立公園は「エルキャピタン」をはじめ渓谷にそそり立つ白い花崗岩の岩壁が特徴でクライマーのメッカにもなっている所でした。「エルキャピタン」は谷床から千メートルもある一枚岩でピトン(ハーケン)の量も半端ではなかったので、自作でビトンを作り始め、繰り返し使うことができるクロムモリブデン鋼を使ったピトンを開発します。イヴォンの作ったピトンは評判がよく、山仲間にどんどん広がり、1個1ドル50セントのピトンに注文が殺到するようになります。ピトンを作りながらクライミングする日々が続いていきます。やがて手作りでは製造が追い付かなくなり、道具や金型、機械を整えての量産の必要に迫られます。

そこで1965年、クライマーであり、鋭いデザイン感覚と美的感覚を持ち合わせた航空技師のトム・フロストとパートナーシップを結び、「シュイナード・イクイップメント」(後のブラックダイヤモンド)を立ち上げることになります。

1968年、当時既に「ザ・ノースフェイス」を売却していたダグ・トンプキンスに南米パタゴニアへの旅に誘われます。2人は南米を目指して未舗装のパン-アメリカン・ハイウェイをひたすら南下しパタゴニアを目指す旅に出ることになります。当時、人の気配がなく全くの未開の地だったパタゴニアの自然は2人の男に衝撃を与えました。その後、イヴォンとダグの人生は大きく変わっていくことになります。

1970年までには、シュイナード・イクイップメントは米国最大のクライミング・ギアのサプライヤーとなっていました。クライミング人気は同時にピトンなどによる岩の破損など環境が問題化されていきます。

自分たちの作ったギアが愛している自然を壊していることを目の当たりにして、ピトンの製造から段階的に手を引くことを決断します。

同時に登山ウエアとしてラグビーシャツを導入するなどウエアにも商品をシフトしていきます。ウエアも評判が良く、1972年アパレル部門の新たなブランドの「パタゴニア」を立ち上げることになります。

パタゴニアは順調に成長し、グローバルなブランドに成長していきます。その頃、製品の販路拡大を狙っていた「モンベル」の辰野勇はドイツでのパーティーで日本での販売代理店契約が終了していたことから日本から来たアイガーの2登を果たしたクライマーでもあった「モンベル」の辰野勇に声をかけ、相互に信頼を得てパタゴニアの製品の販売を任せることを即決します。1984年には相互に製品の販売を開始することになります。(その後1987年独自ブランドに全力を傾注する路線変更に伴って契約は円満解消することになります。)

1989年、ガイドを伴ったクライミング初心者がトイレ後のハーネスを正しく装着していなかったため雪崩事故により死亡するという事故が起こります。遺族が支払い能力のないガイドには請求できない補償をメーカーに請求してきたことから、保険金を賄うためにシュイナード・イクイップメントをマネージャーを中心とした社員に売却し、パタゴニアの経営に傾注することになります。シュイナード・イクイップメントは「ブラックダイヤモンド」へと進化していきます。

2011年にはダグラス・トンブキンスとイヴォン・シュイナードとの伝説のパタゴニアの旅をリスペクトして作られたドキュメンタリー映画「18℃SOUTH」が公開されていますが、これに1968年の記録や映画作成当時の二人も出演しています。

ザ・ノース・フェイスを創業したダグラス・トンプキンス氏との交友は長く続いていましたが、2015年、一緒にパタゴニアのヘネラル・カレラ湖で6人でカヤックを楽しんでいた時に強風と高波のために一緒に乗っていたカヤックが転覆し、イヴォンは助かりましたがトンプキンスは亡くなってしまいました。

トンプキンスの冒険は終わってしまいましたが、シュイナードの冒険はまだ続いていきます。


複数のネットでの記事を参照して記事を構成しています。検証ができていませんので、不正確な部分もあるかと思います。メーカーの思いを伝えられたらということで記事を作成しましたので、ご理解いただければと思います。

「コロンビア」のゴッドマザー

ウエアからシューズ、バック、アクセサリーまで製作販売するアウトドア用品のメーカーであるコロンビアスポーツカンパニーの創業者はポール・ラムフロム。

彼はドイツでシャツの縫製工場を営んでいましたが、1938年にアメリカのオレゴン州ポートランドへ移住します。はじめは帽子問屋の権利を買い取り、近くを流れる川の名前からコロンビアハットカンパニーという名称の会社を立ち上げます。

ラムフロムの次女ガー・ラムフロムは10代だった頃から家業を手伝うことになります。後に社長を引き継ぐことになるニール・ボイルは1950年からコロンビアの事業に参加し、ガートと結婚します。

ガートは夫ニールとその友人のためにポケットのたくさんついた釣り用ベストを考案しミシンを使って仕上げます。この釣り用ベストがとても好評だったので、1960年にはそれを社の製品とし生産してヒット商品になります。

しかし、マルチポケットフィッシングベストの生産から4年、軌道に乗ってきた矢先に創業者のラムフロムが逝去してしまいます。コロンビア社はガートの夫が社長を引き継いでいきますが、そのニールも1970年に47歳にして急逝してしまいます。

ガートは3人の子供と多額の借金を抱え、社を売却することも考えますが、会社はガートの思っていたよりも評価が低く、高額な借金の返済には至らなかったため、当時大学4年だった息子のティム・ボイルと一緒に思い切った拡大路線を据えて再建の道を選びます。

商品開発も積極的に行い、1982年アウタージャケットとインナージャケットをジッパーで着脱できるツーインワンジャケットという気候に合わせて3WAYで着ることができるシステムを開発します。これがアウトドアファンに人気の商品開発などにより、アウトドアブームもあってコロンビアはアウトドアメーカーとして成長していくことになります。

その後もタフなガート・ボイルはコロンビア社で剛腕を振るい、息子のティムを社長に据えて現在も会長としてコロンビア社の「マザー」として活躍しています。


複数のネットでの記事を参照して記事を構成しています。検証ができていませんので、不正確な部分もあるかと思います。メーカーの思いを伝えられたらということで記事を作成しましたので、ご理解いただければと思います。

辰野勇の「モンベル7つの決断」

28歳、資金ゼロからの起業を決断

高校卒業後スポーツ用品店に住み込みで働き始めますが、店主からロッククライミングは危険だからやめるように言われ、父親が亡くなったことを理由にして会社を辞めます。その後、山好きの恩師の紹介で登山用品専門店の白馬堂に就職します。営業成績も良く本店の店長を任せられたそうです。仕事の傍クライミングを続け、4ヶ月の休暇をもらって21歳にしてアイガー北壁の第2登を果たします。白馬堂主催での登山学校を開設し、日本で初めてのロッククライミングスクールを運営することになります。

23歳で結婚しますが、会社の先輩と喧嘩をして店を辞めることになります。その後、白馬堂の顧客で山岳部のOBでもあった方の紹介で総合商社に就職し繊維部門の仕事に就くことになります。商社で仕事をしていく中で、自分でものづくりをしたいという気持ちが強くなり28歳で退社、起業を決断します。母親から200万円を借りて会社を登記し、銀行から引き出して母親に返し実質資本金ゼロからのスタートを切ります。アウトドア関係の会社モンベルの設立です。その後山仲間二人が加わりますが、はじめはスーパーの買い物袋の企画製造納品という仕事だったようです。その後、デュポンの素材で寝袋の製作に仕事がシフトされていきます。

小さな世界戦略に打って出る決断

創業3年で海外市場へ飛び込みで打って出ます。「ランズエンド」や「シェラウエア」などとの契約を取るなど徐々に売り込みに成果が出てきます。寝袋を欧米会社の下請けで製作するものの別の工場へ仕事を持っていかれたり、「マウンテンハードウエア」には特許を侵害されたりといろいろな苦労もあったようです。そんなこともあって、独自ブランドでの製作の必要性を痛感します。

パタゴニアとの決別を決断

ブランドの販路を世界に求める中で、当時日本での販売契約が切れていた「パタゴニア」の創業者のイヴォン・シュイナードとパーティーで会い、意気投合してパタゴニア製品とモンベルの製品の相互販売契約を取ります。しかし、パタゴニア製品の販売割合が増えるにつれて独自ブランドの重要性を思い、パタゴニアとの販売契約を円満解消し、独自ブランドに傾注するようになります。当時珍しかったオリジナルカタログの製作、オリジナル素材の開発などにも力を入れることを決断します。

直営店の出店を決断

直営店の出店、同時に在庫の解消のためアウトレットショップの立ち上げることを決断します。

価格のリストラを決断

メーカーの小売希望価格(定価)の2、3割安く売っていた小売店の価格と定価で売る直営店との価格の差を解消するために卸値はそのままにして小売価格を2割から3割に全国一斉に値下げすることを決断します。

モンベルクラブ会員制度の発足を決断

通信販売と同時に有料会費によるモンベルクラブを立ち上げ、会報誌の作成配布、フレンドショップシステムの開設、各種イベントを主催したり、割引の代わりにポイント制度を取り入れることを決断します。

アウトドア義援隊の発足を決断

阪神淡路大震災や東日本大震災などを契機にアウトドア義援隊などのボランティアを組織して活動することを決断します。

山岳雑誌「岳人」の発刊を決断

山岳雑誌「岳人」の休刊という事態に際してモンベルが引き継ぐことを決断します。


ヤマケイ新書 辰野 勇著「モンベルの7つの決断」山と渓谷社 刊から要約して掲載しました。是非一度お読みください。

アウトドア用ポータブルストーブの歴史

「さかいや」の72㎝のキスリングのタッシュに入れた凹んだ灯油臭いラジウスの四角い缶とゴーと唸る青い光を懐かしく思う方も多いのではないでしょうか。

灯油やホワイトガソリンを用いたポータブルストーブはプリムス、スベア、オプティマス、ラジウス、ホエーブスと、いろいろなメーカから作られています。特に当時の日本ではラジウスがかなり普及していたようです。

さて、このアウトドア用のポータブルストーブですが、オーストリア製のホエーブスを除きどれもスエーデン製なのをご存知だったでしょうか。

スエーデンではプリムス社が初めて灯油(ケロシン)を用いたコンパクトストーブを生産しました。フラン・ヴィルヘルム・リンドクヴィストが1862年に圧縮空気を利用した無煤煙のケロシン(灯油)ストーブを発明しました。そして、1892年、プリムス株式会社を設立し、プリムスストーブの量産を開始しました。ナンセンやアムンゼンが北極や南極に携帯していったのがプリムスストーブであり、ヒラリーとテンジンがエベレストで使っていたのもプリムスストーブでした。1910年代には年間50万個以上のストーブが生産されていたそうです。

1913年、プリムス社内で労働争議が起こり、当時組合の委員長だったヨハンソンらが会社を飛び出してストーブやランタンを製造する会社を創業したのがラジウス社でした。後発で知名度のないラジウスは日本やアジア諸国に販路を求めたようです。

プリムスのリンドクヴィストがケロシンストーブを発明した頃(前後?)、カール・ニーベリはブロートーチを考案し、幾つかの安全機構を組み込んだ強力で直接加熱できるブロートーチを完成させます。そして1882年、ブロートーチなどの機械や器具を作るニーベリ読書灯工場を設立しますが、プリムスがブロートーチの製造を始めるとニーベリは同じようにケロシンポータブルストーブを造ることになります。「ヴィクトリア」と呼ばれる最初の型はそれほど売れなかったようですが、後の「スヴェア」は良く売れたということです。ニーベリは製品の多くをロシアに納品するようになり、間もなく週に3,000個を製造するようになったそうです。しかし、1922年に会社はマックス・ジーヴェルトに売却され、ジーヴェルト読書灯工場に移行していきます。

1930年代にジーヴェルト読書灯工場ではキャンプス3型ストーブを生産していました。風防と調理用鍋にもなるアルミニウム製の蓋が組み込まれた自己加圧式ストーブでした。キャンプス3型は「ハイカー、サイクリスト、旅行者全般にとっての恩恵」と宣伝されたようでが、1955年には爆発的なヒットになるスベア123が開発されることになります。最初の携帯型トレッキング用ホワイトガソリン・ストーブで、今でも人気のあるアウトドアストーブの一つになっています。

1899年設立の調理器具メーカーであったオプティマス社では1930年代には6型ストーブを発売しており、大きさ、重量、容量、操作性と構造の面でスヴェア123とほぼ同じものでした。

1930年代にはプリムス、スベア、オプティマス、ラジウスなどスエーデン製のポータブルストーブが海外市場を席巻していたようです。

1930年にはストックホルムの小島リラ・エッシンゲンのプリムスの工場では名500名以上の従業員が働いており、この中には後のスエーデン首相ななるペール・アルビン・ハンソンも働いていたということです。スエーデンは伝統的に製造業が盛んで、特に1930年代は国策により合理化と振興が推進された結果、サーブ、ボルボ、ボフォース、エレクトロラックス、ハッセルブラッドなど世界的な競争力を有するようになった企業も複数存在しています。

すでに1939年の日本の登山技術書にもプリムスとラジウスの記述が登場していることから、この頃には既に日本にも輸入されていたようです。

スベアを開発したジーヴェルトは1962年にエッソに買収されます。

オプティマス社は6型ストーブの生産を1940年代に廃止し、コンパクトストーブやランタンの生産からは手を引いていましたが、1963年ラジウスがストーブの生産をやめ、商標をオプティマス社に譲渡することになります。しかし、オプティマス社はラジウスの商標は使うことなくラジウスの歴史は終わってしまいました。その後1969年にオプティマス社はスベアブランドを買収し、以後スベアはオプティマスが生産販売することになります。

ホエーブスはヨーゼフ・ローゼンタール金物製作所というコンパクトストーブやランタンを製造するオーストリアのメーカーによるコンパクトストーブのブランドでガソリンも灯油も部品交換により使用できるものでした。1920年から1992年までまで製造されました。

現在、オプティマスからは”スベア123R”、オプティマス”NOVA”が日本の代理店であるスター商事から販売されています。イワタニ・プリムスからガスバーナーの“2243バーナー”、”153ウルトラバーナー”、”ウルトラ・スパイダーストーブII”、ガソリンや灯油を燃料とした”オムニライトTi”などが販売されています。


複数のネットでの記事を参照して記事を構成しています。検証ができていませんので、不正確な部分もあるかと思います。メーカーの思いを伝えられたらということで記事を作成しましたので、ご理解いただければと思います。

アウトドアブランドの創業

アウトドア生産販売のモンベルのオーナー社長である辰野勇氏の著作「モンベル7つの決断」(ヤマケイ新書)を読んで創業者として製作販売にかけた思いを感じました。

現在世界各国からいろいろなアウトドア用ブランドが生産されていますが、いつ頃どのような経緯で作られてきたのかアウトドアブランドの創業を年表にまとめてみました。

登山用品メーカーの起業

NHK「いだてん」5月12日をチェック

獨協中学・高等学校同窓会で仕事をしている同級生から5月12日のNHK大河ドラマ「いだてん」において獨協の話題が登場するとの連絡がありました。どういう内容でどの程度触れられるのか定かではありませんが、ちょっとチェックしてみたらいかがでしょうか。


12日のNHK大河ドラマ「いだてん」を見たところ、「今何している?」と問われた金栗四三が「獨協中学に勤めとうばい。」と答えた一瞬だけ獨協中学の名が登場しました。

金栗四三は獨協中学で大正7年から9年まで地理の教師として勤めていたようです。

「目で見る獨協百年」変転期輝ける目白台にも写真が載っていました。

第34回総会のご案内

日    時 6月30日(日)    12時半より
会    場 北千住 味問屋 明日香(北千住本店)

東京都足立区千住旭町27-1    03-3888-4520

MAP

JR・東武線・地下鉄日比谷線・千代田線 北千住東口下車 徒歩5分

会    費 男性  10,000円    女性  8,000円

 

総会のお知らせを事務局から往復葉書で発送しています。返信は5月中に投函のほどよろしくお願いします。

お知らせのハガキが届かない場合は事務局の中野茂(090-3573-4429)まで連絡ください。