共に長らくDWVのOB会活動に参加され、1999年から2006年までDWVの顧問としても指導されてきた金有一先生が2021年4月12日未明に急逝されました。
DWV.OB会の60周年記念に掲載された先生の寄稿文を載せ、偲びたいと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。
ワンゲル顧問の頃の思い 金 有一
長い教員生活の中で定年になるまでの最後の十数年間、新村三千夫先生とワンゲル部顧問として子供達に同行し20座に及ぶ百名山へのアタック、里山歩きの楽しさや苦しさを共有してきた。若い彼らは登るのが速い。日帰りの奥多摩などの引率は結構しんどい思いをしたが、宿泊を伴う山行の方が私にとっては楽であった。理由は一つ、背負う荷が彼らより軽いからである。日帰り山行ではザックの重さはほぼ同じだが、夏合宿などでは子供達はテントや食料など多分30kg以上を背負っていた筈である。顧問の私は身の回りの品だけで随分と軽くなる。その差で歩く(登る)早さは同じになるのである。こうして定年になるまで子供達と一緒に朝日、吾妻、大雪、南ア、北アの奥まで足を踏み入れることができたのも新村先生や同行したOB諸君、子供達の協力があってこそと感謝している。合宿当時、登山道や山小屋で出会った人たちとの思い出を幾つか記してみたい。
「白馬岳・朝日岳」合宿(1999年7月、3泊4日、猿倉~大雪渓~白馬岳~雪倉岳~朝日岳~五輪尾根~蓮華温泉~平岩):白馬尻で早めの昼食を済ませ、行動を開始したのは12時少し前、縦走用の重い荷物を背負い斜度のきつい大雪渓に難儀していた。突然の夕立ちで近くの岩場の陰で雨宿りを余儀なくされ、小降りになるのを待って6時までにはテント場につかなければならないと雨の中を再び歩き始めた。小雪渓手前で避難小屋を見つけまた小休止、中を覗くと暗いため人相は判らず、ただ一人軽装の男がいるというのが第一印象だった。突然、「先生!」と、驚くばかりだった。ここに教え子の関井君がいるとは予想だにしなかった。聞くと、山頂の昭和大学医学部診療所のスタッフの一員として奉仕活動し、今日の仕事は最後の登山客を見届けてから頂上の宿舎に戻るとのこと。彼に励まされテント場に着いたのは夕方6時を回っていた。翌朝、彼に別れを告げて朝日岳を目指す。鉢岳を巻き強風を避けて雪倉岳避難小屋での昼食は単独行の女性と一緒、言葉を交わすうちに彼女の壮大な計画を聞き、我が耳を疑った。日本海の親不知から北アルプス・八ケ岳・南アルプスを縦走し静岡県の大浜まで歩くとのこと、無事と完全踏破を祈らずにはいられなかった。時折り記憶が蘇り計画は完遂できただろうか気になっていた頃、年が明けて雑誌「山と渓谷」3月号に完全踏破達成の手記が目に止まり、彼女であることが直ぐに分かった。手記には住所の記載もありお祝いの手紙を書いた。彼女からの返信には『先日はお便りありがとうございます。風の強い7/23の雪倉岳避難小屋でのこと、よく覚えています。あの時頂いたスイカは本当においしかったです。・・・日記に毎日の食事のメニューも書いていたのですが、7/23のお昼のメニューには「スイカ(高校のワンゲル部に頂いた)」と書いてあります。・・・』とあった。この合宿は歩く距離が長く毎日10時間以上のアルバイトを強いられた。
「雲ノ平」合宿(2004年7月、4泊5日、折立~太郎兵衛平テント場~薬師岳~太郎平小屋~薬師沢小屋~雲の平キャンプ場~祖父岳~岩苔乗越~水晶岳~野口五郎小屋~真砂岳~湯俣岳~湯俣温泉~高瀬ダム):毎日が歩く距離の長い山行だった。薬師峠のテント場を早朝に出発し薬師岳をピストンして太郎平小屋で小休止後、北アルプスの秘境と呼ばれる黒部川本流との出会いに建つ薬師沢小屋までジグサグ道を下り、さらに雲ノ平の溶岩台地へ登り返す強行軍だった。水晶岳のピストンを終え東沢乗越のあたりから風も強くなり雨模様、午後3時を回っていただろうか、ずぶぬれになりながら野口五郎岳のテント場に着くとそこは閉鎖、幕営できないとのこと。止む無く野口五郎小屋で素泊まりとなる。献立はカレーライス。幸いに登山客もなく、小屋の方々のご理解を得て自炊が始まる。お手伝いに来ていた小屋のご主人の高校生のお嬢さんと子供達は意気投合、高校生同士楽しそうに和気藹々とカレーを作っている。完成したカレーを口にした小屋のご主人は、小屋のカレーよりも美味しいと褒めてくれた。この夜は心温まる小屋の方々との交流の場となったことは云うまでもない。
「荒川岳・赤石岳」合宿(2005年7月、4泊5日、椹島~千枚岳~荒川岳東岳~赤石岳~椹島):山行の途中から赤石岳で百名山完登を目指す富良野の獣医さん(テレビ番組・倉本聡「北の国から」で獣医役としても出演)と出合い99座目の荒川岳東岳、100座目の赤石岳に同行、子供達が立会い人となり百名山完登のお祝いをしたことは感慨深い経験だった。赤石避難小屋では獣医さんからお世話になったお礼にと子供達にジュースの差し入れもあった。この夜の登山者は獣医さんと我々だけ、小屋番氏が食後に面白い場所に案内するからシュラフをもって来るようにと云う。小屋から山頂近くまで行くと小屋番氏はシートを拡げシラフにくるまって仰向けに寝るようにと指示。漆黒の闇の中に都会では決して見ることが出来ない満天の星空、目が慣れてくると一つ二つと流れ星が多方向から流れる、人工衛星の赤い糸のような航跡に歓声が上がる。小屋番氏の解説を聞きながら獣医さんと一緒に壮大な宇宙の神秘さに想いを馳せたひと時だった。秋になって獣医さんから学校宛てに段ボール箱いっぱいの富良野産新ジャガイモが子供達に送られてきて、部室で分けたことも懐かしい思い出である。
「三頭山」送別山行(2007年2月、日帰り):私が定年を迎えた年の2月、送別山行・三頭山を企画してくれた。武蔵五日市駅に着くと駅前に、ハリウッドの映画スターが乗るような『大きな黒塗りのリムジン』が出迎えているではないか。何人が乗れるだろうか、対座のシート、車内の調度品に目を見張る。都民の森の駐車場に横付けすると大勢の登山者の視線がリムジンに向けられて、下りる時は少し気恥かしかったが、新村先生と子供達の心遣いが嬉しかった。新村先生、山行を共にして今はOBとなった諸君、ご一緒させていただいた数々の山行、原稿を書きながら懐かしく思い出しております。お世話になりました。
DWV元顧問 金 有一