「教育への情熱、生徒への愛情」高梨先生を悼む 飯島義信

◆生徒とともに自らの青春を謳歌
容体が思わしくないと伺って,あわてて病院に駆けつけた時には先生の意識はすでになかった。連日の猛暑がふと和らいだ8月14日のことで,その日の夕方遅く,先生は永眠された。日ごろの忙しさにかまけてご無沙汰していたことが,今さらのように悔やまれてならない。
 高梨先生に初めて出会ったのは,いまから四十数年前,中学3年の時であった。空襲の焼け跡があちこちにとり残されていた頃で,日本中が貧しく騒然としていた時代だった。そんな時,旧制中学の気分を引きずったままの教師が残っているようなところに現れた先生は,気風がよく漱石の坊ちゃんを思わせるようなところがあった。巧みな比喩を用い,ざっくばらんな口調で古い時代を切り分ける先生の授業は,アテネの民主制から説きおこし,民主主義の意義を全面に打ち出した社会科の教科書とともに忘れがたいものである。高校になって入部した文芸部では,同人誌『吠える』によく執筆していただいた。時に物議を引き起こしかねないものもあったように聞いているが,身近なことからさまざまな問題提起をしてみせてくれる先生の文章は読み応えがあった。また,獨協祭の時には演劇の指導をはじめとして,舞台や幕の準備,公演全体の構成進行にも先生は労を惜しもうとはしなかった。まるで生徒とともに自らの青春を楽しんでいるかのようであった。
◆二度と若者を戦場に送り出さない
 数年後,母校で同じ社会科を教えることになって,先生とは新たな関わりをもつようになった。相変わらず旗幟鮮明で,はっきりと物を言うことは,その面倒見のよさとともに変わりはなかった。が,先生は以前よりせっかちさを増したように見受けられた。多分,生活指導の責任者という重責を背負うことになっていた先生は,同僚教師や生徒に自らの意が通じないことに焦りを覚えるようになっていたのだろう。
 その後,先生は学年主任,高等学校の主任,そして教頭へとすすまれた。このことは,先生にとって本当のところ不本意なことだったのかもしれない。しかし,教室での授業や校務の遂行だけでなく,背伸びしがちな高校生相手の読書会,都会育ちの生徒を連れての農村調査,教頭の激務により断念するまで続けたワンダーフォーゲル部の顧問としての数々の山行,さらには,100周年記念体育館に始まり,今ようやく軌道に乗った校舎改築の推進,こういった先生の教師としての誠実な実践が,教育に対する情熱,生徒への愛情,働く仲間との連帯感,職場での強い責任感などと相まって,ごく自然に先生を教頭へと押し上げることになったのだと思う。
 そんな先生の教師としての原点はどこにあったのだろうか。おそらくそれは,あの戦争の問題であったと思う。戦争を憎み,二度と若者を戦場に送り出さない。それが自分も兵隊にとられ,また肉親や友人を戦争で失った先生の願いであった。
 しかし,そのことを先生は声高に叫んだりはしなかった。真面目に真剣に授業に臨み,生徒の本分をつくすことを求め,また同じ趣味や目的をもつ仲間が信頼と協力の上に,何かを成し遂げようと努力することを歓迎した。
 そういった確かな営為を続けることが,民主的な人間を育て,かつての日本人が犯した過ちを繰り返さないことにつながると,先生は確信していたに違いない。
 ここ半世紀の間,日本の夏は戦争と平和の夏となっている。その日本の夏の盛りに亡くなられたことで,我々残されたものたちは,夏が来るたびに高梨先生が伝えようとしたことを,深く考えないわけにはいかなくなったのである。獨協学園ワンダーフォーゲル部顧問  飯島義信

『獨協通信』第49 号,1997年12月10日より転載

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