新聞紙上が上高地水害の様子でうずまっていた頃我々も上高地から横谷に向かう計画を立てていたがその関係で常念岳、蝶ヶ岳を越え横尾谷に入り、ここを中心として、槍、穂高岳に展開した。横谷に入るのに1日遅れという失態を演じたが幸い天候に恵まれ又、リーダー常盤君の地道な指導と部員の自覚で無事終了した。
〈合宿での行動〉
常念、蝶ヶ岳越えが合宿に一番ふさわしい経験と思われ、とくに常念でのビバーク(野宿)では体力の消耗と水のなかった事又、数人がにぎり飯を他の人から貰い腹をこわし前進不能ギリギリまで行った事などが我々にとって貴重な体験であった。それだけに横尾で八ー九貫(*)もあるリュックを降ろした時は体に羽が生えたようであった。アヅサ川のほとりに七棟ほどテントを張った。そのながめは壮観であり、明日への情熱を燃やさせた。五日目、我々は二隊に別れ朝霧けむるアヅサ川を後に私の佐藤隊は槍、杉島隊は穂高に向かった。槍沢の雪渓を踏み始めた頃には槍ヶ岳の鋭く尖った姿はもう眼前にせまっていた。しかし槍の頂上は時がたつにつれ登山者が多く一目銀座を思わせるようであった。
食事は朝はみそ汁と少量のカンズメ類で、昼はフランスパンとチーズ、ジャム、夜はその日の自由な献立であり食事は当番制で朝は、はだ寒い三時半ごろ起床で炉に火をともし、明日が樹々をくぐる頃には食事の用意がされている。夜七時に就寝の合図。それは我々にとって非常に生きがいのあるものであった。なぜなら登山の疲労と空腹で明日の希望を断った我々をテントの中では情熱を再びかきたててくれたからだ。キャンプファイヤーは山を愛す若人にとっては、忘れられないものであるが今回はパッとしなかった。今回の合宿で我々は、部の運営と、次期合宿について新しい見解を広め後輩によりよい資料をのこしてゆくつもりである。(唐沢)
昭和33年10月9日付け「獨協新聞」に掲載された「各部の向上を期待ー夏期合宿の成果ー」という各部の合宿を特集した記事から唐沢(昭和35年卒 唐沢英樹氏)と署名のあるワンゲル部の部分を抜粋し掲載させていただきました。この新聞記事は元顧問の金先生から情報をいただきました。
( * 1貫は3.75Kg)