メールマガジン6月号/2018

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会 オンラインマガジン 2018 / 6 / 29
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【1】2018年度OB会総会で決まったこと
【2】昨年の山岳遭難の概況
【3】「30周年記念誌」を関係場所に寄贈
【4】城島紀夫著「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」から
【5行ってきました 山行Now
【6】編集後記
【7】記事の募集とメールマガジンについて
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【1】2018年度OB会総会で決まったこと
5月27日(日)に小石川後楽園の涵徳亭で今年度の総会が18名の出席のもとに開催されました。議事とその結果については以下の通りです。議事進行は中野茂氏です。
議事1    今年度の役員人事については会長 冨樫克巳、広報 手島達雄、会計 中野茂が今年度も継続ということで承認されました。
議事2    会計担当の中野氏より昨年度の会計の執行状況がプリントに基づいて報告されました。「OB会30年記念誌」の作成代金(記念誌印刷代金81,480円 記念誌郵送代金14,700円 編集会議場使用料5,450円)については事後承諾の形になりましたが、全額OB会予算から支出することで了承されました。これにより今年度の予算は残高37,431円でスタートということになりました。
議事3    編集委員長の柳澤孝嘉氏と編集委員の手島から記念誌制作についての報告がありました。
議事4  「秋の親睦会」の場所と日程が協議されました。場所については小諸の「日新寮」と館山の「海の家」でどちらにしようかということで協議になりましたが、今年度も小諸の日新寮で9月23日、24日で行うことになりました。
その後、出席者全員の近況報告や記念誌にふれたお話など和やかに交流が進みました。
また、4月に亡くなられた元顧問の故高梨富士三郎氏夫人高梨洋子さんのことについて高梨哲さんからその報告とお礼の挨拶もありました。
去年は台風の影響で秋の親睦会が中止になってしまったので、去年の総会以来1年ぶりに再会した方も多く、楽しいひと時を過ごすことができました。
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【2】昨年の山岳遭難についての概況
 
6月21日に警察庁から昨年の山岳遭難についての概況が発表されました。発表によると昨年に全国で発生した山岳遭難は2,583件で一昨年に比較すると88件増え、遭難者は3,111人で182人増えたということでした。うち死者・行方不明者は354人で35人増ということでした。
一昨年は前年より減少したものの昨年はまた増えてしまったということで、統計が残る1961(昭和36)年以降で最多となってしまったようです。
10年前の平成20年と比較すると発生件数は58.3%増、遭難者数は60.9%増、死者・行方不明者数は26%増ということです。
中高年の登山ブームやインバウンドの増加などが件数を押し上げているようです。
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【3】「30周年記念誌」を関係場所に寄贈
6月21日に柳澤孝嘉氏とともに「30周年記念誌」を獨協中学・高等学校の図書館と同窓会事務局に寄贈してきました。併せて同窓会の機関紙「独協通信」に「ワンゲル部OB会30周年記念誌」を発行したことを記事に起こしたものを持参し、載せてもらうよう依頼してきました。
同窓会事務局は獨協中学・高等学校の校舎2階の協会側に1室があり、月曜日と木曜日の午後だけ事務局の女性が常駐してお仕事をされているようです。アポなしでお伺いしたのですが親切に対応していただきました。
また、OB会や同窓会などを開いた場合には申請すれば1万円の補助金がいただけることを教えていただきました。
なお、容量が大きいので8分割になってしまいましが、30周年記念誌のPDF版をホームページにも掲載しました。
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獨協中学・高等学校のワンゲル部は1955(昭和30)年に創部され、今年で創部から63年になります。他の高等学校ではいつ頃ワンゲル部が創部された資料がありませんので分かりませんが、大学ではこの1955年には青山学院、学習院大学、成城大学、津田塾大学、東京経済大学、中央大学、東京女子大学、明治学院大学でワンダーフォーゲル部が誕生していますので、獨協高校ではとても早い時期にワンゲル部が創部されたのではないかと思います。
どのような経緯で日本でドイツの「ワンダーフォーゲル運動」が「ワンダーフォーゲル部」として広まっていったのかを表した城島紀夫著「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」を見つけたので読んでみました。ホームページにその詳細をまとめてみましたので、ご覧いただければと思います。
いみじくもS33年卒の千野一郎夫人の千野光子さんが「DWVは体育会的な部活かと思ったら、違うのね。」とおっしゃっていましたが正に同じようなことやっていても山岳部との違いが底流に流れているのを感じられたのでしょう。
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【5】行ってきました 山行Now
今月は新しい山行記録がなかったので昨年6月にアップされた記録をご紹介します。
至仏山は昨年は6月でも入山可能でしたが今年は6月末までは植生保護のために入山が規制されていますので7月1日からになります。
今年は各地とも雪解けが早く、多くの山では2,500m辺りまでは雪はすでになくなっているようです。
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【6】編集後記
 
今年は梅雨に入ってからは雨が降る日が多く、また仕事も立て込んでいてなかなか山に行くことができませんでした。月末になったら早くも梅雨が明けて真夏の暑さがやってきてしまいました。どこの山に行こうか早く計画しなければと思う今日この頃です。どこか行かれた方は是非記録をお寄せ下さい。今月はあっという間に月末になってしまい、焦ってメールマガジンの発行になってしまいました。
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【7】記事の募集とマガジンについて
 
このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

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獨協中・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会 オンラインマガジン 

DWV.OB会HPアドレスは http://www.dwvob.sakura.ne.jp/wp 
 
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「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」城島紀夫著

DWVは今年63周年を迎える伝統ある部活であり、幸いにして先輩方により創設当初の状況が分かる資料を残していただいており、また直接お聞ききして補完しながらホームページにも残すことができました。

この度、城島紀夫著「ワンダーフォーゲルのあゆみ」(2015年古今書院発行)を図書館で見つけ、DWV創設に至る歴史的・時代的背景を知りたいと思い読んでみました。特にドイツとの関わりも深い獨協学園にあってDWVは創設時期も早く、ワンダーフォーゲルに対する思いも他校とは少し違っていたのかも知れませんが、戦前から日本の大学では部活動として広まっていったワンダーフォーゲル部は厳密に言えばドイツの「渡り鳥運動」を基にしたということではなく、山岳部と差別化するために名称だけ借りたものだと指摘しています。いまさらではありますが、ドイツにおこったワンダーフォーゲル運動とはどのようなものであったか、また日本でどのように広がっていったのかをこの本からまとめてみました。


そもそもドイツで起こった「wandervogel」(渡り鳥の意味)とはどのような運動だったのでしょうか。中世ドイツでは優れた先生を求めて学生たちが各地の大学を求めて渡り歩いており、その学生たちのことを「渡り鳥」と呼んでいたようです。1890年にベルリン郊外のギムナジウム(日本では高校に相当)で速記術を教えていた大学生のヘルマン・ホフマンが生徒ともに森への徒歩旅行を行ったことがワンダーフォーゲルの発端と言われています。

その後、1901年にホフマンの教え子のカール・フィッシャーがリーダーとなって「ワンダーフォーゲル・学生遠足委員会」いう結社を作りました。これはギムナジウムに学ぶ学生たちの既成文化に対するロマン主義に根ざした自由をかかげる抵抗運動だったということです。フィッシャーらはギムナジウムを飛び出して、史跡を訪ね歩いて歴史の勉強をしたり、野原に出てギターを弾いて地方の民謡を歌いフォークダンスを踊ったりもしていたようです。この活動が遍歴、野外活動での自炊、農家の納屋に泊まること、自然体験などの活動として広がっていき、その後、節制主義、菜食主義、自然治癒療法、裸体主義、教育革命、衣服改革、禁酒・禁煙、同性愛など色々なスタイルも登場してきたようです。

1909年にはリヒャルト・シルマンによってユースホステル活動が開始され、ヨーロッパから世界中に徒歩旅行が広がっていきました。しかし、しだいに戦時色が強くなり、政府や軍部によつて青少年育成団体は統合されていきます。そして、第一次世界大戦でドイツが敗戦したことによりワンダーフォーゲルは終わりを迎え、敗戦後ナチ党により1926年にイデオロギーを青少年に教育する目的でヒットラーユーゲント(ヒットラー青少年団)が創設され、「自由ドイツ青年」は解散。1933年にはあらゆる青年団の活動が禁止され、ドイツの青年運動は完全に壊滅します。

さて、日本では明治時代の1872年に学制が発布され、小学校や師範学校が創立されます。1880年から学校遠足が広まり、第一高等中学では1887年に遠足部ができ、その運動が全国に広がっていくことになります。1883年には鹿鳴館ができ、1885年には伊藤博文が内閣総理大臣に就任、1889年には大日本帝国憲法が公布されます。そして、1894年に日清戦争が起こることになります。1900年に入ると遠足部が発展し、旅行部などが出来始めます。先述したようにこの頃ドイツで既成社会から抵抗運動としてのワンデルンが起こります。1904年には日露戦争が勃発し、1905年に日露講和条約が締結されます。1908年には日本山岳会が発足し、1914年には慶應義塾大学で山岳部が創立されます。同年に第一次世界大戦が始まり、1917年にソビエトが誕生、1918年にはドイツ革命と時代が進んでいきます。

1920年代にはほとんどの高等教育機関で旅行部や山岳部ができ、1922年になるとボーイスカウト(少年義勇団)とYMCAによるキャンピング活動が開始されます。国防体制の強化策としてハイキングや登山などの歩行運動が全国的に広がりをみせます。1920年代の日本はいわゆる大正デモクラシーの頃であり、普通選挙法、関東大震災など自由と帝国主義的なものが交錯した時代ではなかったかと思われます。1923年には東京帝国大スキー山岳部が設立されます。そして、1925年、ドイツに2年間留学していた出口林次郎が帰国後入省した内務省で外郭団体である「奨健会」を設立し主事に就任。「国民歩行運動」を先導していきます。この「奨健会」こそが日本のワンダーフォーゲル部の源になったようです。

大学では1928年に明治大学・駿台あるこう会が設立されます。1933年、「奨健会」がワンダーフォーゲル部を組織し、「奨健会ワンダーフォーゲル部」に改名することになります。「奨健会」を設立した出口がドイツに留学していた頃のドイツではすでにワンダーフォーゲル運動はほぼ終わっていた時期であり、ワンダーフォーゲル部という名称を使用したものの目的とするものは「国民歩行運動」であり、本来の青年運動としてのワンダーフォーゲル運動とは異なるものであったようです。

1933年、YMCAも「渡鳥会」と名付けてワンダーフォーゲルを開始します。また同年鉄道省が富国強兵・殖産振興策に沿って全国的に”ハイキング”と銘打って徒歩遠足や旅行を大々的に宣伝します。この年には本家ドイツではヒットラーが首相に就任し、ワンダーフォーゲルなどの青年運動は全て解散させられています。日本ではワンダーフォーゲルは国民歩行運動であり、”心と体”を鍛錬する的な意味が強かったと思われます。

「奨健会」に参加していた学生が出口の指導のもとに1935年には大学で初めて立教大学と慶應大学でワンダーフォーゲル部が設立されます。翌年には明治大学・駿台あるこう会がワンダーフォーゲル部に改名します。しかし、1939年第二次世界大戦が勃発し戦時色が強くなり、1941年には太平洋戦争が起こります。文部省が軍事教練担当の現役将校を全国の大学の各学部に配属し、軍事教練が必修科目になり、「歩行行軍」が科目として学生に履修させました。そして、立教大学ワンダーフォーゲル部が健歩部に、慶應義塾ワンダーフォーゲル部は歩行会に、明治大学ワンダーフォーゲル部は山岳部とボーイスカウト団と併合され行軍強歩部に、青山学院ハイキング部は基礎訓練・行軍班に改称させられおり、事実上ワンダーフォーゲル部は解体させられています。

そして、敗戦。太平洋戦争の終戦後、いち早く1945年には明治大学はワンダーフォーゲル部を復活させ、翌年の1946年には慶應大学。立教大学では1948年に復活させています。新制大学の発足とともにその後、中央大学が1948年、早稲田大学が1949年、東京大学と法政大学が1951年、日本大学が1953年、1954年にはお茶の水女子、東京都立、横浜市立、神奈川、國學院、千葉、1955年には青山学院、学習院、成城、津田塾、東京経済でそれぞれワンダーフォーゲル部が創部されています。高校については記述がないので定かではありませんが、1955年創部のDWVは当時先鋭的なものだったことが伺えます。

森本・打矢両氏による1955年に学園文芸誌「めじろ」に発表された「ワンダーフォーゲル」によれば、この1、2年文部省が中心となって、渡り鳥運動の発展に力を入れ、指導者の養成に努めていたこと、山野をして自然に親しむを目的としてDWVが創部されたことが記されています。また、当時ドイツでのワンダーフォーゲル運動については下記のように把握していたことが述べられいます。

  1. 自己意識の覚醒、青年たるの意義の発見。
  2. 自然愛好、純真自由の全き人格養成。
  3. 健康増進、剛健思想と実行力の養成。
  4. 人間性と社会心の培養。
  5. 郷土愛、祖国愛の強化。
  6. 自然生活からの簡素な生活革新。
  7. 健全な民衆娯楽(郷土の民謡、俚謡、踊り等)の向上発展等に寄与する。

また、DWVではその目的として特に当時の天野貞祐校長が言う「人間形成の場」と捉えていることが伺えます。先生方と生徒たちとが一緒になって旅行するなり、テント生活するなりして親しみ、先生の人格をくみ取り人間を磨いて始めて学校が学問を授けるだけでなく人格を作り上げるとしています。


DWVは当初、早稲田大学の活動にも参加させてもらったりしていますが、早稲田大学ワンダーフォーゲル部の部長で高三の英語を担当されている同大学教授の渡辺先生に側面から援助していただいたということで、早稲田大学のワンダーフォーゲル部との関係もあったようで指導も受けていたようです。


学園文芸誌「めじろ」72号森本悌次・打矢之威両氏による「ワンダーフォーゲル」

打矢之威「早大ワンダーフォーゲルに参加して」

「ワンダーフォーゲルのあゆみ」城島紀夫著 2015年 古今書院発行

D.W.V.の略号表記の変更

本ホームページでは獨協学園ワンダーフォーゲル部及び獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部の略称を「D.W.V.」と省略記号を付して表記していましたが、どこの区切りで省略記号を入れれば正解なのかよく分からないので従来通りの「DWV」と省略記号を付さない表記に変えるこことします。ただし、0B会を合わせた場合は「DWV.OB」とOB会の間にカンマを付すこととします。

山岳遭難についての概況が警察庁から発表

昨年の山岳遭難についての概況が警察庁から発表

21日の警察庁の発表によると昨年に全国で発生した山岳遭難は2,583件で昨年に比較すると88件増え、遭難者は3,111人で182人増えたということです。うち死者・行方不明者は354人で35人増ということでした。一昨年は前年より減少したものの昨年は増え、統計が残る1961(昭和36)年以降で最多となったということです。10年前の平成20年と比較すると発生件数は58.3%増、遭難者数は60.9%増、死者・行方不明者数は26%増ということでした。

発生件数を場所別でみるとやはり最も多いのが長野県で292件、次いで北海道の236件、そして山梨県の161件でした。態様別では1位が道迷いで40.2%、2位が滑落で16.8%、3位が転倒で15.1%ということでした。特に昨年は雪崩による遭難者が65人、野生動物襲撃が63人と例年より突出していたようです。

年齢別では40歳以上が2,419人と77.8%で、そのうち60歳以上が1,588人で51%ということで、半数以上を占めています。死者・行方不明者では40歳以上が315人で89%、そのうち60歳以上が229人と64.7%を占めています。中高年の登山ブームを背景として判断ミスや体力不足があるように思われます。

また、インバウンドの増加に伴ってバックカントリーのゲレンデ外コース滑走での遭難をはじめとした外国人の山岳遭難も増えており、昨年は集計を始めた2013年の2.8倍にあたる121人(前年比28人増)だったようです。

警察庁では「体力や経験に見合った山を選び、低い山でも十分な装備をしてほしい。」「登山届は登山する仲間と共有すると共に、家庭や職場、登山口の登山届ポストに提出」「地図やコンパス、ストック、携帯などのGPS機能付きの連絡用通信機器(予備バッテリー)の活用」「信頼できるリーダーを中心とした複数人による登山」などを呼びかけています。

OB会「30周年記念誌」巻頭に寄せて 奥貫晴弘 

高梨先生ご存命中ならば、私など拙い言葉ではなく、当然、高梨先生の力強いお言葉がこの巻頭を飾るはずです。それが叶わぬ今、もう半世紀以上の昔、先生に親しく接して頂いていた当時に思いを馳せつつ、私なりに責めの一端を果たしたいと思います。

私が獨協学園に勤めていたのは昭和30年(1955年)4月から昭和37年(1962年)9月までです。高校教師として着任して一年後、DWVの顧問を命じられました。それまで奥多摩や丹沢を一人で又は二三人の友人と歩く程度の経験しかなかったのですが、23歳の若気の至りで引き受けてしまいました。私が顧問をしていた7年足らずの間の山行は、(思い出せるままに記せば)、夏休みは横尾キャンプで槍ヶ岳・蝶ヶ岳、涸沢キャンプで穂高連峰、常念岳。蝶ヶ岳を経て横尾キャンプで槍ヶ岳、飯豊連峰主稜縦走、朝日連峰主稜縦走など。冬休みは(戸隠山系)高妻山、 (南ア)仙丈岳などでした。

いずれも、高校生を率いて歩くのは、登山経験の少ない私ごときには難役でしたが、ここがDWVのすばらしい所だと思いますが、大抵OBたちが一人あるいは二人と特別に参加して、しっかりと山行をリードしてくれたのです。打矢さん、若井さん、井上さん、涸沢ときには更に理科室助手の金子さん等の名前が今も記憶に浮かびます。

高梨先生とは、先に記した山行のいくつかを共にしましたが、最初は飯豊山行だったと思います。先生は、諸君もご存知の如く、世評とか権威の類に無頓着で、用心することのない、人なつっこい、万人の友人というべき方で、勤務当初から私の敬愛する先輩でありました。学園祭などで先生の演出するお芝居(「三年寝太郎」「なまはげ」等)のお手伝いをするなど、日頃から親しくして頂いて、そんな折り山行の話なども口にしたのでしょう、さらりと飯豊山行に参加して下さいました。このときは、OBの若井さんも参加してくれ、磐越西線の山都駅から歩き出し、山中で二度キャンプ、天気にも恵まれた快適な山歩きで、先生もとても満足された様子でした。この山行にはすてきなオマケがつき—-と申しますのは、下山して米坂線の小国駅で解散した後、高梨先生と若井さんと私の三人は、共に坂町駅に出て、そこから遥遥と小諸なる日新寮に赴き、浅間山登山も楽しんだのです。列車中の先生のお話の楽しかったこと!先生は話題豊富で、又一寸した身振りを添えた親愛なる語り口がとてもたのしい方です。念の為書き添えておきますが、先生は政治に関する姿勢は厳しい方で、いわゆる60年安保の時などには、先生を中心に教官室の何人もの教官が、放課後毎日のようにデモに通ったものでした。—こうした先生に教室で或いは山で薫陶を受けた諸君が、この衣鉢を今後とも末永く後輩諸君に伝えて行ってほしいと思います。

DWV元顧問 奥貫晴弘

出会い   飯嶋義信

ワンダーフォーゲル部との出会いは半世紀以上も前のこと、高校一年生の時であった。くしくもワンゲル創部の記念すべき年1955年のことである。今にして残念に思うのはその新生の意気盛んなワンダーフォーゲル部に入部しなかったことだ。私が選んだのは文芸部だった。だが、たまたま文芸部とワンダーフォーゲル部の部室が同じであったことからワンダーフォーゲル部を知ることになったのである。文化系と体育系の部が同居していたというのは奇妙なことだったかもしれない。

当時わが母校は明治以来の洋風木造校舎の痛みが激しく建て替えの声が高まっていたころ、新校長に文部大臣を辞めて間もない天野貞祐先生を迎え、新校舎建築が軌道に乗ったところであった。そんな疾風怒濤のなかで新設のワンダーフォーゲル部と同人誌「吠える」発行で気をはく文芸部に対し不要となった教室が部室として割り当てられたのであろう。旧生物実験室であった部屋はかなり広く、もともと少人数の文芸部は片隅に置かれた払い下げの教員用の机と本立てのまわりに集まって文学談義の真似事をする程度であったから、互いに邪魔にはならなかったと思う。

その時のワンダーフォーゲル部には打矢さんをはじめとして加藤さん森本さんなどの創部メンバー、二期目を支える若井さん井上さん滝川さん、同期の千野さん南さんなどそうそうたる面々がいて名前を覚えてもらうだけでもやっとだったのに、「吠える」を買ってもらったり原稿依頼したりで生意気な口を聞いたことを覚えている。勿論入部を誘われたが、中二の時に敗血症こじらせて長い間休んだことがあって山に行くなど考えられなかった。

話が前後するが、実はこの長期欠席の前は中学陸上競技部の短距離選手としてグランドを走り回っていた。その陸上部の先輩の一人が打矢さんだった。打矢さんは投擲専門で砲丸だけならともかく、狭い校庭で円盤や槍まで投げていたのには驚かされた。ともかく吉岡隆徳に憧れていた陸上少年が詩や小説をかじったり同人誌を作ったりすることに夢中になっていたのである。さらに「吠える」に執筆してもらっていた高梨先生のところに出入りするようになり、秦野の農村調査に誘われ一日ヤビツ峠から大山に登ったことがあった。山の面白さを知ったのはこの時だったと思う。

その後山には一人で行くようになった。仲間と一緒だと足手まといになると勝手に思ったからである。山行の知識や情報はワンダーフォーゲル部の部員に聞いたり山道具まで借りたりした。エルゾーグの「処女峰アンナプルナ」を読んで感動し、衝動的に八ヶ岳縦走に挑戦し疲れ果てたこともあった。大学に入ってからは時々山には出かけたがのめり込む事はなかった。それが、母校の教員になり高梨先生に声をかけられて顧問になったのがワンダーフォーゲル部との再会であった。以来二十数年、引率山行を重ねることになったがその間、何とか顧問を続けられたのは、慎重なうえにも慎重にという高梨先生の方針の下に、OB諸兄の協力、現役部員の頑張りがあったからのことだと思い感謝するばかりである。

最後に顧問として常に念頭においていたフランスの登山家ジャン・フランコのことば「山は根気強い勤勉さと、沈着と、頑張りの学校だ」を紹介して終りとしたい。

              元DWV顧問 飯嶋義信

OB会山行 御神楽岳 金 有一

私はワンゲル部OBではないがOB会との結び付きは佐藤八郎、常盤雪夫、杉島祐一さんらとクラスメートであったことから飯能河原のバーベキューに誘われたことが発端だった。以来、小諸の親睦会や休日の山行に居心地の良さもあり参加するようになり、OB会の仲間に加えていただいている。

嘗てOB会の山行は八郎さんが中心となって企画をし、届く加代夫人によるイラスト入り手書きの山行案内はほのぼのとしていた。最近は小諸の親睦会がOB会主催の山行に取って代わっているが、以前の四季折々の山行(山旅)は丹沢山塊、箱根、高尾・道志、奥多摩、奥武蔵、奥秩父、西上州、筑波、浅間周辺、草津、戸隠・黒姫、上高地、越後、鹿沼、日光・奥鬼怒、尾瀬、南会津などの玄人好みの山々を発掘し登るのが八郎流だった。10年から20年以上も前になるので詳細な記憶は定かでないが、写真を見ると旧遊した山々の光景が思い出される。特に、5月や秋の連休に野岩鉄道や会津鉄道を利用して足繁く通った南会津の山々は懐かしい。会津駒ケ岳、荒海山、七ヶ岳、小野岳、博士山、二岐山、御神楽岳である。

御神楽岳(1386m)は磐越西線津川駅の南20kmほどのところにある越後山脈北部の一峰である。それほど高くないし知名度の低い山だが、急峻な岩壁を周囲にめぐらせ荒々しい山容を誇っている。OB会では5月の連休に2年連続で挑戦したことがある。室谷登山コースを登るが稜線に取り付く辺りは膝まで達する程の雪積。対峙する尾根筋は中腹から稜線にかけては至るところ岩が露出して急な斜面をつくっておりU字型に浅くへこんでいる。アバランチ・シュートと呼ばれる雪崩のすべり台である。谷底には黒く汚れた雪渓が残る恐ろしい程の眺めだった。片側が切れ落ちる稜線を雪庇に注意しながら灌木やネマガリダケの生えている側を登るが山頂は未だ先、我々の実力はここまでと撤退を決断する。今も我々にとっては未踏の山である。「みかぐら」という響きの良い名は何に由来したのだろうか。調べてみると、越後野誌に「古ヘ覚道ト云フ人、峰ニ登テ神楽ヲ奏セシ、故ニ山名トス」と記されているとあった。神秘的な一面を持ったこの山に魅かれるのは、私が追っかけをしているギフチョウの棲息地として知られていることも理由の一つになっている。

この山行で忘れてならないのは登山前日の夜、みかぐら温泉の送迎バスによる祭り見物である。普段「狐の嫁入り」と云えば、「天気雨」を思い出す人が多いだろう。だが、津川では毎年5月3日の夜に開催される奇祭「狐の嫁入り行列」がある。町に口伝されてきた狐火伝説を元にしていて、毎年5万人もの人が訪れる祭りである。白無垢姿の花嫁が108人のお供を引き連れて行列を作り、松明や提灯で幻想的な雰囲気に包まれた町内をゆっくりと進む。花嫁の鼻筋を白く化粧し頬に描かれた狐独特の三本のひげと尖った口先のメークは狐顔そのもので神秘的な様相を醸し出している。お巡りさん、駅員さん、高速道路出口のオジサン、参加する町民までも狐のメーク、そして見物客も。やがて行列は常浪川に架かる城山橋上で花婿と花嫁の対面で最高潮に。暗闇に包まれた河原から燃えさかる篝火に見送られ、渡し船で常浪川を隔てた麒麟山へ。篝火と狐の鳴き声が山々にこだまする様は幻想的で「狐に化かされたような」感動を与えてくれたことも、

OB会山行の懐かしい思い出でとなっている。

(山行:2007年5月)    元DWV顧問    金  有一

朝日連峰縦走の思い出  阿部 武

独協ワンゲルに入ったきっかけは野山を歩き回るのが、ワンダーフォーゲルと思い込んでいたからでした。実態は全く別物でした。丹沢でのボッカ訓練の頃から、何故こんなところに入ってしまったのか後悔ばかりするようになっていました。河原で石を拾ってザックに詰めていざ出発。丹沢は人が多い。行き交う度に「チワー」と声を掛ける。内心声を出したくもないし、声を掛けてもらうのも嫌だった。

それでも夏の合宿である朝日連峰縦走に連れて行ってもらいました。「雪渓の水は旨いぞ」「星が綺麗に見えるぞ」ワクワクするような事を言われて、荷物を分けられ自宅に持ち帰りました。当時の装備品は灯油・灯油を使うランタンとコンロ・寝袋の下に敷く炭俵・重い寝袋そして飯盒に鍋でした。更に水を吸収するテント一式等でした。忘れてはいけない渋団扇。この団扇は焼き鳥屋等で使われる丈夫な赤い物です。これ等を見た母は、「これを背負って山に本当に行くの?」と目を白黒させていました。後で聞いた話ですが、母は私が帰るまで毎日毎日心配で眠れなかったそうです。自分の持ち物と合わせて40㎏は超えていたと思います。当時は横長で大きなリュックサックをキスリングといっていました。当時北海道を旅する若者をカニ族と呼んでいましたが、まさに私がカニ族になりました。

上野駅集合でしたので、それまでずーっと横向きに歩いて行きました。朝日に登る為に何処の駅で降りたかは覚えていませんが、山に取り付くまでの長かった事、暑かった事覚えています。但し足元に川が流れそれ程苦痛ではなかったのですが、坂井がすっかり参ってしまったようで、彼の荷物の大半を我々1生で分担しました。2年生も少し持ってくれたようですが、我々1年とは比べ物にならない程キスリングが小さく見えました。山に取り付いてからは、あの渋団扇が大活躍。色落ちして顔が赤くなりはしましたが涼しい風を送ってくれました。「上を見るな。足元を見て一歩一歩歩け。休憩まで水飲むな。」過酷でした。坂井は普段口の軽い男でしたが口もきけない程にへばってしまい、更にブヨに刺されて顔が腫れあがり我々1年生は大変心配しました。今考えると脱水症状だったのでしょう。ところで何処に雪渓があるのでしょう。遠くに見えてはいるのですが、道筋には有りませんでした。それでも沢の水で粉末ジュースを溶かして飲むと最高に旨いジュースでした。登りながらもう山はこりごり。1年生ばかり辛い思いをしているのに、2年生は楽そう。もう部活を辞めようと思いました。しかし、稜線に出てからは当たりの景色が見えるようになり、気分は爽快となりました。山を下りて登山靴を脱ぐと、足は豆だらけで疲労感がありましたが、解放感と満足感が広がってゆき、何故か又山に来たいなと思いました。

昭和41年卒  阿部 武