彦坂震三氏は昭和43年3月の卒業生で、同年4月に中学に入学した私とは目白の校舎では入れ違いの関係になります。因みにワンゲルの部室があったという木造図書館はこの年に建て替えが始まり、部室棟として作られたコンクリート長屋へ移ったのはこの年だったのだろうと思います。
彦坂氏との交流が何時頃からだったのかハッキリとした時期は思い出せないのですが、平成5年には間違いなく同乗していたり自宅にお邪魔したりしていましたので、彦坂氏が亡くなられる平成18年11月までのおおよそ15年の付き合いであったと記憶しています。
荒川区尾久で幼少期を過ごして、一時期、母上が勤めていた小学校の校舎に住んでいたことがあるという話を聞いたことがありました。私が知り合ったころは越谷市で食料品製造業を営んでおられました。それ以前には自動車部品製造をしていた時期があったとも聞いた覚えがあります。獨協大学時代は校舎よりも雀荘に多く通い、雀士を自認する父上から盲牌の甘さを指摘された事に奮起して、盤面を滑らせるだけで牌の区別がつくまでに上達したという話を聞いた事があります。しかし、OB会には私はもとより打ち手がいませんのでお手並みを見ることはありませんでした。
私の家族はみな杏が好物だと言うと店頭では5粒6粒の単位で売る代物を大量に頂き、その後に加工現場を拝見したところ従業員が1粒ずつ手作業で整えている姿をみて、大いに恐縮したものです。
彦坂氏とは車に同乗して出かけることが多く、小諸日新寮の親睦会、水晶山の四万温泉、筑波山、岩櫃山のときは先乗りして本隊と合流する前に浅間隠山を歩きました。この原稿を書きながらポロポロと話が思い出されるのは、移動中の時間を多く過ごした故と思います。
先にも書きましたが、彦坂氏は平成18年に亡くなりました。私はお見舞いには行っていません。楽しく付き合った人の末期を見るのは辛いというのが理由です。あと病室の彦坂氏から還暦記念の “ 赤シャツ ” が着たいとの願いがあり、私なりに奔走したつもりでしたが、ご家族のもとにお届けできたのは亡くなられた後でした。申し訳ないと思っています。
昭和49年卒 中野 茂