<ワンゲル部に入部して>
獨協高校のワンゲル部は、夏山だけでなく冬山も行い高校生で冬の戸隠・高妻山を攻略したすばらしい記録を持っていることを中学時代から知っていました。昭和43年4月に獨協学園の入学式当日に部室を訪れ、入部を申し出た思い出は今でも鮮明に記憶しています。1年生は6名ほどが入部し、多くの山仲間ができたことの喜びとこれからどんな山に行けるのか期待が高まりました。
山に登るには、体力をつけることが一番です。部活の練習は以下のようなものであったと記憶しています。まずは持久力を付けるため長距離の走り込み。これは、学校から池袋を回り千登世橋から学校に戻ってくるコースです。坂道のダッシュは、グランド脇の坂を使いました。ほんとうに随分と走りました。校舎の階段を使ったものでは、交代で「おんぶ」しながらの昇り降りもかなりきつい練習でした。また、校舎の1階から4階までのダッシュ。実はほとんど競争のようなもので、最上階では、ラジウスが置かれていて1階からダッシュで上まで登り、ラジウスが勢い良く点火した者が一番になる、という酷なものでした。最上階では、3年生が目を光らせて待っています。このような練習の成果もあって、徐々に体力も増してきたのは事実です。
また、合宿となると団体装備や個人装備を含め、たくさんの荷物を運び上げなければなりません。ここで問題となるのは、キスリングに如何にパッキングするかによって、体力の消耗を防ぎ長い時間をかけて歩くことが出来るかの分かれ目になります。パッキングでは先輩諸氏から詰め方を教えていただき、どうにか形の良い担ぎやすいザックに仕上がりました。後は山に行く回数と共にパッキングの技術も上達していきました。
山に入れば歩き方、休憩の取り方や水の飲み方など、下界と違うことも多く学ばせてもらいました。
<思い出深い初めての冬山>
部活の合宿で印象に残っているのは1年生の冬の浅間山です。
昭和43年の冬山合宿は、当初の計画(登山計画書1968年 浅間山:HP参照)では、2年部員2名、1年部員6名の参加となっていましたが、合宿日が近づくにしたがって、一人減り、二人減り、だんだん参加者が少なくなっていきました。当時から高校生の冬山登山での危険性については指摘されていました。多くの理由は冬山において高校生の体力・技術力・判断力では緊急時に安全を確保するのが難しいとの理由から、原則として禁止されていました。部員の親御さんたちにも少なからず、冬山は危険との意識があったのではないかと推測しています。
その結果、この合宿に参加したのは、1年部員3名(中村 周司、飛沢 祐一、碓井 達夫)と高梨先生と飯島先生の合計5名の冬山合宿でした。
当初の計画では、湯の平にベースキャンプを設置し浅間山に登る予定でしたが、参加人数が少ないことから急遽、浅間山荘周辺のバンガローをベースに計画を変更しました。団体装備を全て持って行ったのか、定かではありませんが、当時、ワンゲル部のザックと云えば特大の72㎝のキスリングが主流で、その荷物は半端なく自分の頭より高いザックになり、一人で担ぐことができなく、部員に手伝ってもらいやっと担げるような重さでした。もちろん、歩くのもやっとの状態で、駅の階段の昇り降りで息が切れるほどでした。バンガローに変更したことにより、湯の平まで荷揚げをしなくてすんだことはラッキーでした。
さて、バンガローをベースキャンプにして、いよいよ冬山の体験の始まりです。登頂の日、冬山装備に身を固めいっぱしのアルピニストになったような気分になりました。先生からアイゼンを履いての歩行の仕方や、ピッケルの操作などを教えてもらいながら順調に高度を上げて行きます。二ノ鳥居を過ぎると徐々に傾斜が増し、右手に牙山の荒々しい岩壁を望み湯の平に入ります。賽の河原から森林限界を抜け、前掛山の荒涼とした斜面を風の洗礼を受けながら登って行くと山頂に着きました。山頂からの景色の記憶はなく、火口が真下に見えたのと風が強かった記憶しかありません。
テント泊ではなかったのですが、バンガローの中もかなり冷え込みシュラフに入る前に、高梨先生が「気付け薬だ。」と称し、ウイスキーの小瓶を取り出し、キャップに注ぎ一杯ずつ内緒で飲ませてくれた事が今でも懐かしく思い出されます。
あれから、半世紀もの年月が経ちますが、高校生活の3年間はワンゲル部によって多く山に登り、多くのことを学んだ貴重な青春時代でした。
これからも、獨協学園ワンダーフォーゲル部とOB会が、益々発展されることを祈念いたします。
昭和46年卒 碓井達夫