朝日連峰縦走の思い出  阿部 武

独協ワンゲルに入ったきっかけは野山を歩き回るのが、ワンダーフォーゲルと思い込んでいたからでした。実態は全く別物でした。丹沢でのボッカ訓練の頃から、何故こんなところに入ってしまったのか後悔ばかりするようになっていました。河原で石を拾ってザックに詰めていざ出発。丹沢は人が多い。行き交う度に「チワー」と声を掛ける。内心声を出したくもないし、声を掛けてもらうのも嫌だった。

それでも夏の合宿である朝日連峰縦走に連れて行ってもらいました。「雪渓の水は旨いぞ」「星が綺麗に見えるぞ」ワクワクするような事を言われて、荷物を分けられ自宅に持ち帰りました。当時の装備品は灯油・灯油を使うランタンとコンロ・寝袋の下に敷く炭俵・重い寝袋そして飯盒に鍋でした。更に水を吸収するテント一式等でした。忘れてはいけない渋団扇。この団扇は焼き鳥屋等で使われる丈夫な赤い物です。これ等を見た母は、「これを背負って山に本当に行くの?」と目を白黒させていました。後で聞いた話ですが、母は私が帰るまで毎日毎日心配で眠れなかったそうです。自分の持ち物と合わせて40㎏は超えていたと思います。当時は横長で大きなリュックサックをキスリングといっていました。当時北海道を旅する若者をカニ族と呼んでいましたが、まさに私がカニ族になりました。

上野駅集合でしたので、それまでずーっと横向きに歩いて行きました。朝日に登る為に何処の駅で降りたかは覚えていませんが、山に取り付くまでの長かった事、暑かった事覚えています。但し足元に川が流れそれ程苦痛ではなかったのですが、坂井がすっかり参ってしまったようで、彼の荷物の大半を我々1生で分担しました。2年生も少し持ってくれたようですが、我々1年とは比べ物にならない程キスリングが小さく見えました。山に取り付いてからは、あの渋団扇が大活躍。色落ちして顔が赤くなりはしましたが涼しい風を送ってくれました。「上を見るな。足元を見て一歩一歩歩け。休憩まで水飲むな。」過酷でした。坂井は普段口の軽い男でしたが口もきけない程にへばってしまい、更にブヨに刺されて顔が腫れあがり我々1年生は大変心配しました。今考えると脱水症状だったのでしょう。ところで何処に雪渓があるのでしょう。遠くに見えてはいるのですが、道筋には有りませんでした。それでも沢の水で粉末ジュースを溶かして飲むと最高に旨いジュースでした。登りながらもう山はこりごり。1年生ばかり辛い思いをしているのに、2年生は楽そう。もう部活を辞めようと思いました。しかし、稜線に出てからは当たりの景色が見えるようになり、気分は爽快となりました。山を下りて登山靴を脱ぐと、足は豆だらけで疲労感がありましたが、解放感と満足感が広がってゆき、何故か又山に来たいなと思いました。

昭和41年卒  阿部 武

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