ワンダーフォーゲル部との出会いは半世紀以上も前のこと、高校一年生の時であった。くしくもワンゲル創部の記念すべき年1955年のことである。今にして残念に思うのはその新生の意気盛んなワンダーフォーゲル部に入部しなかったことだ。私が選んだのは文芸部だった。だが、たまたま文芸部とワンダーフォーゲル部の部室が同じであったことからワンダーフォーゲル部を知ることになったのである。文化系と体育系の部が同居していたというのは奇妙なことだったかもしれない。
当時わが母校は明治以来の洋風木造校舎の痛みが激しく建て替えの声が高まっていたころ、新校長に文部大臣を辞めて間もない天野貞祐先生を迎え、新校舎建築が軌道に乗ったところであった。そんな疾風怒濤のなかで新設のワンダーフォーゲル部と同人誌「吠える」発行で気をはく文芸部に対し不要となった教室が部室として割り当てられたのであろう。旧生物実験室であった部屋はかなり広く、もともと少人数の文芸部は片隅に置かれた払い下げの教員用の机と本立てのまわりに集まって文学談義の真似事をする程度であったから、互いに邪魔にはならなかったと思う。
その時のワンダーフォーゲル部には打矢さんをはじめとして加藤さん森本さんなどの創部メンバー、二期目を支える若井さん井上さん滝川さん、同期の千野さん南さんなどそうそうたる面々がいて名前を覚えてもらうだけでもやっとだったのに、「吠える」を買ってもらったり原稿依頼したりで生意気な口を聞いたことを覚えている。勿論入部を誘われたが、中二の時に敗血症こじらせて長い間休んだことがあって山に行くなど考えられなかった。
話が前後するが、実はこの長期欠席の前は中学陸上競技部の短距離選手としてグランドを走り回っていた。その陸上部の先輩の一人が打矢さんだった。打矢さんは投擲専門で砲丸だけならともかく、狭い校庭で円盤や槍まで投げていたのには驚かされた。ともかく吉岡隆徳に憧れていた陸上少年が詩や小説をかじったり同人誌を作ったりすることに夢中になっていたのである。さらに「吠える」に執筆してもらっていた高梨先生のところに出入りするようになり、秦野の農村調査に誘われ一日ヤビツ峠から大山に登ったことがあった。山の面白さを知ったのはこの時だったと思う。
その後山には一人で行くようになった。仲間と一緒だと足手まといになると勝手に思ったからである。山行の知識や情報はワンダーフォーゲル部の部員に聞いたり山道具まで借りたりした。エルゾーグの「処女峰アンナプルナ」を読んで感動し、衝動的に八ヶ岳縦走に挑戦し疲れ果てたこともあった。大学に入ってからは時々山には出かけたがのめり込む事はなかった。それが、母校の教員になり高梨先生に声をかけられて顧問になったのがワンダーフォーゲル部との再会であった。以来二十数年、引率山行を重ねることになったがその間、何とか顧問を続けられたのは、慎重なうえにも慎重にという高梨先生の方針の下に、OB諸兄の協力、現役部員の頑張りがあったからのことだと思い感謝するばかりである。
最後に顧問として常に念頭においていたフランスの登山家ジャン・フランコのことば「山は根気強い勤勉さと、沈着と、頑張りの学校だ」を紹介して終りとしたい。
元DWV顧問 飯嶋義信