高梨先生ご存命中ならば、私など拙い言葉ではなく、当然、高梨先生の力強いお言葉がこの巻頭を飾るはずです。それが叶わぬ今、もう半世紀以上の昔、先生に親しく接して頂いていた当時に思いを馳せつつ、私なりに責めの一端を果たしたいと思います。
私が獨協学園に勤めていたのは昭和30年(1955年)4月から昭和37年(1962年)9月までです。高校教師として着任して一年後、DWVの顧問を命じられました。それまで奥多摩や丹沢を一人で又は二三人の友人と歩く程度の経験しかなかったのですが、23歳の若気の至りで引き受けてしまいました。私が顧問をしていた7年足らずの間の山行は、(思い出せるままに記せば)、夏休みは横尾キャンプで槍ヶ岳・蝶ヶ岳、涸沢キャンプで穂高連峰、常念岳。蝶ヶ岳を経て横尾キャンプで槍ヶ岳、飯豊連峰主稜縦走、朝日連峰主稜縦走など。冬休みは(戸隠山系)高妻山、 (南ア)仙丈岳などでした。
いずれも、高校生を率いて歩くのは、登山経験の少ない私ごときには難役でしたが、ここがDWVのすばらしい所だと思いますが、大抵OBたちが一人あるいは二人と特別に参加して、しっかりと山行をリードしてくれたのです。打矢さん、若井さん、井上さん、涸沢ときには更に理科室助手の金子さん等の名前が今も記憶に浮かびます。
高梨先生とは、先に記した山行のいくつかを共にしましたが、最初は飯豊山行だったと思います。先生は、諸君もご存知の如く、世評とか権威の類に無頓着で、用心することのない、人なつっこい、万人の友人というべき方で、勤務当初から私の敬愛する先輩でありました。学園祭などで先生の演出するお芝居(「三年寝太郎」「なまはげ」等)のお手伝いをするなど、日頃から親しくして頂いて、そんな折り山行の話なども口にしたのでしょう、さらりと飯豊山行に参加して下さいました。このときは、OBの若井さんも参加してくれ、磐越西線の山都駅から歩き出し、山中で二度キャンプ、天気にも恵まれた快適な山歩きで、先生もとても満足された様子でした。この山行にはすてきなオマケがつき—-と申しますのは、下山して米坂線の小国駅で解散した後、高梨先生と若井さんと私の三人は、共に坂町駅に出て、そこから遥遥と小諸なる日新寮に赴き、浅間山登山も楽しんだのです。列車中の先生のお話の楽しかったこと!先生は話題豊富で、又一寸した身振りを添えた親愛なる語り口がとてもたのしい方です。念の為書き添えておきますが、先生は政治に関する姿勢は厳しい方で、いわゆる60年安保の時などには、先生を中心に教官室の何人もの教官が、放課後毎日のようにデモに通ったものでした。—こうした先生に教室で或いは山で薫陶を受けた諸君が、この衣鉢を今後とも末永く後輩諸君に伝えて行ってほしいと思います。
DWV元顧問 奥貫晴弘