Schi Heil(シーハイル)      柳澤孝嘉

富樫さんが突っ込み重視の荒削りの滑りで雪煙巻き上げゲレンデを先頭切って滑って行く。その後を常盤さんの友人の園田さんが綺麗な弧を描きながら後に続く。次に私が右方向は良いが左方向は外足に加重がかかり過ぎる歪な滑りで続き、私の後を千野さん、植田さんの順に繋がり、ツークで滑って行く。平成18年3月の神楽三俣スキー場の最上部での光景である。

その後、カッサ湖周囲の田代スキー場へ連絡路を滑るが、千野さんがボーゲンとは逆のVの字をスキーで作り、連絡路をクルクル回りながら下るアクロバティックな滑りを見せる。スキーウエアと同様に派手である。カッサ湖傍のレストハウスで休憩後、田代スキー場の主だったゲレンデを皆でツークで滑り、神楽三俣のゲレンデで一人で練習しているビギナーの中野君のもとに戻り、正午前ロープウェイに乗りその日のスキー合宿を終えた。充実した午前であった。

この合宿はスキー合宿が丸沼高原で行うことが数年前より続ていたため植田さんの提案で旧知の三俣のスキー宿のオーナー、通称ゴリの宿で開くこととなった。前夜、ゴリの部屋にある山や川で拾った石を見せられ、数百万するという怪しげな話の数々を聞かされる異色の合宿であったが、スキー場、宿の雰囲気とも印象に残るスキー合宿でした。私はそれまで学生ならびに社会人時代を通してなかなか継続的にスキーに行く機会がありませんでした。そのためOB会のスキー合宿が開催されてからはそれが楽しみでした。スキー後の食事や呑みながらの学生時代の武勇伝、独軍の仏軍への進行や台湾での紹興酒の飲み方等のくだらいことから事業の転機になった出来事等の人生の滋養になる話までと多方面な話題があり飽きることがありません。

時に一緒にいらっしゃった奥方の前で春歌を歌ったり、ちょっとした言動で諍いとなったことも今となっては楽しい思い出です。しかし、その頃、中心となってスキー合宿を主催して頂いた先輩方も一人、二人、三人と鬼籍に入られ、スキー合宿も立ち消え寂しい限りです。

そこで、一年発起して山スキーでもやろうかと山道具店に行ってみましたが、板、靴、シール等を一式で15万!とのこと。靴も足首が太いため合わず、断念。山スキーよりはるかに安い、西洋ワカンのスノーシューでも買って雪山ハイクにでも出かけようか。

昭和49年卒 柳澤孝嘉

 それは宝もの         手島達雄

2年前、0B会の有志で忘年会をやった折に勢いで決まった金時山の山行がきっかけで、40年以上遠ざかっていた「再びの山行き」が始まった。母を見取り自分の自由な時間が持てるようになって、今までの自分とこれからの自分について考えるようになった。限られた時間の中にある人生、何でもやらなければ損だ。思い立ったら、やり残さず先ずはやってみようと。そして、高校の頃はやり切れていなかったという思いもあって健康増進も兼ねてまた山に行こうと思った。

必要な装備を整え、日帰りハイキングから計画を立てて出かけるようになった。大学に入ってしばらくは山にも行っていたが、興味は別の所に移っていた。大学を出て小学校教員の仕事に就いてからは遠足で児童を引率して天覧山や伊豆ヶ岳などに連れて行くくらいのものだった。異動で2泊3日の尾瀬縦断の林間学校をやっていた学校に赴任した折には、個人的に保護者や職員を誘って燧ケ岳に登ったりしたこともあった。その後、実母の介護の関係もあって教員の職を辞して東京の実家にUターンした。1年間スクールに通った後、庭づくりから、樹木のメンテナンス、花壇の植え付けや寄せ植え講習会などもやる小さなガーデニングショップを開業した。

すでにもう山に行く事もなくなっていたし、OB会からの連絡はいただいていたものの、特に親しくしている先輩後輩が参加している訳でもなく、秋の親睦会で小諸まで行くのも面倒でもあった。休みが取れるようになった事もあり、総会や親睦会に参加していた同期の二村君から誘われてOB会にも顔を出すようになった。

DWVでの経験は高校生のたかだか2年間程度のことだったのにも関わらず、還暦を過ぎてなお、かつてやっていた山の経験が呼び覚まされ引きつけられたのは何でだろうと思う。高校のワンゲルは体育会系の大学の山岳部と違い、まだまだ幼いもので規模も違ってはいたが、高校生なりのプライドもあった。しかし、当時それほど山をがむしゃらにやっていたわけでもなく、むしろ先輩や同期にくっついて行っていた。その2年間はノスタルジックに美化されただけのものではなく、貴重な何かがあったように思う。景色が印象に残っている訳ではない。達成感はあったものの、それが全てではない。苦しくても一歩一歩前に進んで行く事、体力や勇気が試される事もあった。楽しかったというよりは辛かった事の方が多かったとも思う。重い荷物を背負ってひたすら歩くことは苦しかったし、またバテるのではないかという恐れもあった。テントの中で寝付かれないでウトウトしながら朝を迎えたこともあった。景色もろくに見ないで苦しい思いをしながらひたすら重い荷物を担いで登ったり、より高みを目指して仲間とともに挑戦したりと集団の中で互いに磨き合った大事な時期だったのではなかったかと思う。

蜘蛛の足や軍手が入ったこともあった山での食事。冷たくなって足の感覚もなく歩いた冬の合宿。食当で朝早くテントから起き出ての食事準備。雨で濡れて重たくなったテントの重さやラジウスの匂い。石油臭くなって潰れたカレンズ(関口台パン屋のぶどうパン)。つぶれたアルマイトのメンツでブドー酒を飲みながら山の歌を歌った最終日の打ち上げコンパ。新宿駅や上野駅の通路やホームでさかい屋の72㎝キスリングを並べての場所取り。グランド脇の坂道でダッシュを何本もやって吐きそうになったこと。練習後、江戸川公園でタバコを吸っていてお巡りさんに捕まったことなどいろいろな事が思い返される。これらの一つひとつが積み重なって、人生の中でとても貴重でそして輝いているものではないかと思う。貴重で美しく輝けるもの、つまりそれがすなわち人生の ” 宝もの ” なんだと思う。

                                                                昭和47年卒 手島達雄

夏山合宿の思い出 岸 房孝

50年以上前、高校2年の夏山合宿の話です。総勢14、1 5人だったか、行き先は飯豊です。

上野駅から上越線の新津で磐越西線に乗り換えました。その頃の電車はまだSLで、煙を吐いて走っていました。上野駅で磐越西線の徳沢駅と言って切符を買った時、切符に徳沢駅と印刷されていなくて手書きでくれました。それだけ行く人が少ない駅なんだとびっくりしました。徳沢駅に着くと当然バスなどありません。先生が前もって、トラックをチャーターしてあって、それにザックと荷物と我々を乗せて飯豊の登り口まで運んでくれました。それから飯豊山荘めがけて登り出したのですが、夜行電車で来たせいか、ヨレヨレになって歩き、山小屋に着いた思い出があります。次の日から山の稜線に出ました。天気も良く、すばらしい景色でした。山の上では水はありません。でも雪渓が所々にあったので、水にはあまり苦労しませんでした。そこにテントを張り、快適でした。

それから何日か山行を続けて、下山してきて駅で合宿を解散しました。確か越後下関駅だったと思います。そこでどういう訳か夏休みだし家に帰っても仕様がないと言って、我々同期5人で日本海が近いので海に行くことにしました。海に近い駅で降り海岸の砂浜にテントを張り満喫しました。我々だけしかいなくて貸切状態でした。パンツ一丁で海に入り、ウニなど取って食べました。他に食糧がないので、近くのお店のおばちゃんに食べ物をもらったりして、みんなで食べました。海に5人でいた事は夏山合宿と違って開放感があり、とても楽しいひと時でした。今でも思い出します。でも5人の内3人は今はいません。若き日の遠い良き思い出です。

                                                       昭和41年卒 岸 房孝

獨協学園ワンゲル部 碓井達夫

<ワンゲル部に入部して>

獨協高校のワンゲル部は、夏山だけでなく冬山も行い高校生で冬の戸隠・高妻山を攻略したすばらしい記録を持っていることを中学時代から知っていました。昭和43年4月に獨協学園の入学式当日に部室を訪れ、入部を申し出た思い出は今でも鮮明に記憶しています。1年生は6名ほどが入部し、多くの山仲間ができたことの喜びとこれからどんな山に行けるのか期待が高まりました。

山に登るには、体力をつけることが一番です。部活の練習は以下のようなものであったと記憶しています。まずは持久力を付けるため長距離の走り込み。これは、学校から池袋を回り千登世橋から学校に戻ってくるコースです。坂道のダッシュは、グランド脇の坂を使いました。ほんとうに随分と走りました。校舎の階段を使ったものでは、交代で「おんぶ」しながらの昇り降りもかなりきつい練習でした。また、校舎の1階から4階までのダッシュ。実はほとんど競争のようなもので、最上階では、ラジウスが置かれていて1階からダッシュで上まで登り、ラジウスが勢い良く点火した者が一番になる、という酷なものでした。最上階では、3年生が目を光らせて待っています。このような練習の成果もあって、徐々に体力も増してきたのは事実です。

また、合宿となると団体装備や個人装備を含め、たくさんの荷物を運び上げなければなりません。ここで問題となるのは、キスリングに如何にパッキングするかによって、体力の消耗を防ぎ長い時間をかけて歩くことが出来るかの分かれ目になります。パッキングでは先輩諸氏から詰め方を教えていただき、どうにか形の良い担ぎやすいザックに仕上がりました。後は山に行く回数と共にパッキングの技術も上達していきました。

山に入れば歩き方、休憩の取り方や水の飲み方など、下界と違うことも多く学ばせてもらいました。

 

<思い出深い初めての冬山>

部活の合宿で印象に残っているのは1年生の冬の浅間山です。

昭和43年の冬山合宿は、当初の計画(登山計画書1968年 浅間山:HP参照)では、2年部員2名、1年部員6名の参加となっていましたが、合宿日が近づくにしたがって、一人減り、二人減り、だんだん参加者が少なくなっていきました。当時から高校生の冬山登山での危険性については指摘されていました。多くの理由は冬山において高校生の体力・技術力・判断力では緊急時に安全を確保するのが難しいとの理由から、原則として禁止されていました。部員の親御さんたちにも少なからず、冬山は危険との意識があったのではないかと推測しています。

その結果、この合宿に参加したのは、1年部員3名(中村 周司、飛沢 祐一、碓井 達夫)と高梨先生と飯島先生の合計5名の冬山合宿でした。

当初の計画では、湯の平にベースキャンプを設置し浅間山に登る予定でしたが、参加人数が少ないことから急遽、浅間山荘周辺のバンガローをベースに計画を変更しました。団体装備を全て持って行ったのか、定かではありませんが、当時、ワンゲル部のザックと云えば特大の72㎝のキスリングが主流で、その荷物は半端なく自分の頭より高いザックになり、一人で担ぐことができなく、部員に手伝ってもらいやっと担げるような重さでした。もちろん、歩くのもやっとの状態で、駅の階段の昇り降りで息が切れるほどでした。バンガローに変更したことにより、湯の平まで荷揚げをしなくてすんだことはラッキーでした。

さて、バンガローをベースキャンプにして、いよいよ冬山の体験の始まりです。登頂の日、冬山装備に身を固めいっぱしのアルピニストになったような気分になりました。先生からアイゼンを履いての歩行の仕方や、ピッケルの操作などを教えてもらいながら順調に高度を上げて行きます。二ノ鳥居を過ぎると徐々に傾斜が増し、右手に牙山の荒々しい岩壁を望み湯の平に入ります。賽の河原から森林限界を抜け、前掛山の荒涼とした斜面を風の洗礼を受けながら登って行くと山頂に着きました。山頂からの景色の記憶はなく、火口が真下に見えたのと風が強かった記憶しかありません。

テント泊ではなかったのですが、バンガローの中もかなり冷え込みシュラフに入る前に、高梨先生が「気付け薬だ。」と称し、ウイスキーの小瓶を取り出し、キャップに注ぎ一杯ずつ内緒で飲ませてくれた事が今でも懐かしく思い出されます。

あれから、半世紀もの年月が経ちますが、高校生活の3年間はワンゲル部によって多く山に登り、多くのことを学んだ貴重な青春時代でした。

これからも、獨協学園ワンダーフォーゲル部とOB会が、益々発展されることを祈念いたします。

                                                  昭和46年卒 碓井達夫

創部50周年記念現役OB合同登山    金 有一

年配の同窓生には「馬城」「目城」「めじろ」という名で親しまれた懐かしい年刊誌をご記憶の方も多いことと思います。ふとしたことから、図書館の学園資料室に大切に保存されている「めじろ72号」(1955年発行・発行人村松定孝)を手にする機会がありました。何気なく頁をめくっていると「ワンダーフォーゲル」と題された森本悌次、打矢之威(昭31卒)両氏が寄稿された一文に目がとまりました。「今年から獨協にワンダーフォーゲル部が創立されましたが・・・」で始まる文章には,ドイツで誕生 したワンダーフォーゲルという国民的自然生活運動を天野貞祐先生のお話と重ね合わせ、「正直、勤勉、清潔、規則正しく」という四つのことを実行することに他ならないと記されてあり、併せて創部時の諸先輩の方々の自然に対する熱意も語られていました。数えてみるとワンダーフォーゲル部が創られてかれこれ50 年になることも分かりました。偶然にも、私が現在クラブ顧問としてかかわっているワンダーフォーゲル部創部当時の状況を知り,先達の方々の苦労と熱き思い を垣間見て少なからず感動を覚えました。クラブ活動はその時代を反映し、栄枯盛衰を繰り返し受け継がれていますが、どのような経緯を経て今日に至っているか、現役部員には明らかでない場合が多いようです。そこで、創部50年を記念して、OBと現役の交流を 合同登山を通して実現させたいとの考えが抑えがたくなり、OB会に打診したところ、多くのOBの方々から賛同を得、実現の運びとなりました。登る山も記念 登山に相応しい北海道の大雪山・旭岳と決まりました.遠隔地でもあり合宿地の制限や現役部員の負担など解決しなければならない問題もありましたが,幸いに もOB会から団体装備と遠征費用にと、多額のご寄付をいただき難問も解決し,先輩方の激励もあり準備も整いました。

全コースをOBと現役が一緒に歩くことには制約もあり、第一日目の旭岳だけの合同登山となりました.参加メンバーは,創部当時を熟知し、還暦を過ぎた今でも元気に山登りを続けられている若井永(昭32卒)、井上正巳(昭32卒)夫妻、千野一郎(昭33卒),常盤雪夫(昭35卒)と、若い世代のOBからは大橋友徳(平10卒)、半田諭志(平12卒)、石鍋健太(平13卒)が参加し、現役部員である中高生10人及び顧問2人の大所帯となりました。盛んに白い噴煙を上げる爆裂火口の地獄谷を左に見ながら、火山礫のガラガラしたきつい登りに果敢に挑み頂上をめざしました。北海道の最高峰からの眺めは正に雄大で、一同、征服感に浸りながらOBと現役の心が一つになったのを感じたひと時でした。

現役の諸君らは、これから50年、同行の先輩方と同じ年齢になる頃、ワンダーフォーゲル部は創部100年を迎えることも感じていたようでした。


「獨協通信」第61号(平成15年12月10日発行)ひろばより転載       DWV元顧問 金  有一

皆様の健康をお祈りします 渡辺知也

冬の西穂高岳で獨協生ほか四人が凍死しました。夏のテントを使用したとの新聞の報道です。

その翌年天野貞祐先生の提唱でワンゲルが創設されました。小生は中学三年生でしたが、早速入部して夏合宿の北アルプスに参加しました。

森本、打矢、赤石先輩等と日本史の皆川先生が指導しました。爾来山に取り憑りつかれた小生は修学旅行を欠席し、その時間を全部山行に充てました。早稲田大学露西亜文学科に入学して以来プッリと山に行かず勉学に専念、トーメンという商社に入社、その翌年にチェコスロバキアに留学、それからウィーンに移動して以来ヨーロッパでの生活が二十数年続きました。その後しばらくしてドイツ人のガールフレンドの両親の広大な別荘がチューリヒ近郊にありそこを基点にして再び山行を始めました。

その後かみさんを取り替えて都合三回結婚しています。現在のかみさんはハンブルグ出身で新聞記者をしています。母親はスイス・ティチーノ州のアスコーナにいて、そこを起点にして再び山行をするようになりました。スイスには何千何万という山行ルートがあるので無限の可能性があります。感心したのは朝早く登り始めて夕方に下山するまでタバコの吸い殻、キャンディーの紙等落ちていないことです。山小屋は無人の処でも皿やタオルがキチンと整理されています。世界一の生活水準の高い国なのでその身倍の程が解ります。その後ロカルノの近くの山村に三百年以上経た家を買い求めました。凡て近代的に創り直し実に快適に暮しています。

そこに夏になると日本から金子、打矢、若井、千野の先輩たちが再三訪れ、よく一緒に山行しました。今にして思えば夢のような話しです。現在は小生も七十六歳になりましたので日本から年金で暮らしています。カミさんは小生よりも二十才も若いので現役ですので、カミさんに喰べさせてもらっています。従って老後の心配はありません。

彼女は特派員としてロカルノで働いています。小生があと十年、つまり八十六才まで生きると日本四十年、西欧四十年の暮しになります。小生の死後は簡単に始末してもらいます。焼場で遺骨をポリバケツに入れ(骨つぼは高価です)ヘリコプターに頼んでピッオヴォゴルノ(海抜二千五百メートル)に運んでもらいます。この山は自宅の眼前に聳え、実に姿の美しい山です。小生は一度は息子と、二度目は金子、千野先輩と登頂を試みましたが、成功していません。三度目は遺骨となって登山します。そこで散骨してもらいます。もっともヘリの代金が高いのでその代わりに裏の小川に流すことになるかも知れません。この家族の判断に小生は口出しできません。

小生は毎朝坐禅をしますが、その際に必ず両親に念ずることがあります。小生をこうして健康に生んでくれてありがとうと云います。この感謝の気持ちが大切です。皆さんも今からでも遅くはありません。御両親が健在ならばせいぜい親孝行のまねごとをするなり、もし逝去されているなら仏前に手を合わせるなり、仏壇もないならば心の中で挨拶して下さい。なにしろ小生は親不孝の最高峰を登りましたので。皆様の健康をお祈りします。

昭和34年卒  渡辺知也

DWV.OB会の思い出 富樫克己

校生時代、「道徳」の教科書に1953年にエベレスト初登頂したE.ヒラリー(&テンジン)の手記がありました(時は1966年頃ですから結構、情報としては早い)。M.エルゾーグのアンナプルナ登頂。また最近、1924年にエベレスト初登頂したかも知れないG.マロリー(Because it’s there-そこにエベレストがあるから..)の遺体が75年後の1999年に発見されたTV番組もありました。つまり、トレンドはヨーロッパから来ていました。

私の登山はあまり経験的ではない?友人に誘われるまま入部した私の登山の地に足が付いていないのは戦後日本の感覚に似ている?そんな感じでワンゲルに在籍していた?

たまに思い出した様に登山していた私に昔のワンゲルOB会からの参加案内が来ました。当時は皆、若く、OB会は発足したばかり。年齢的にも余裕の出てきたスタッフの集まりで結構、盛り上がっていました。現役時代も流される様だった私にはOBの方々との登山は俄然、リアルなものになりました。何か地に足が付いている人達?戦中派の自信と経験は得難い..高度成長期を支えていた先輩?知らない山に知らないまま参加し、何かあっても大丈夫..って感じでした。同級生との登山も復活し、彦坂くん、長瀬くん、知らなかった後輩との交流も始まりました。

当時の有志OB会山行を率いていたのは昭和35年卒の佐藤OBと常盤OBでした。佐藤奥様のイラストと共に月例山行のパンフが届きました。海外駐在の後、日本の友人関係も途切れ、手持無沙汰だった私は昔の登山を復活させた?まあ、年齢的にもトレンド的にも改めて中高年の登山は当時の先端だった?..のは如何にも獨協的?当時、佐藤先輩の住居が東武沿線だったせいか?山行は南会津が多く会津駒ケ岳、そして七が岳は素晴らしかった。水が流れる谷道を遡っていくって感じが新鮮で、ガスってた頂上付近の霊験さとの対比が渋く、日本的な山の雰囲気。ここら辺が西洋的なアルピニズムとは差異してる中国由来の山岳仏教的なアニミズムがなお、我々に残っているのでは?-遺伝子に残されている記憶、夢に現れてくる祖先の記憶が既視、デジャヴュしてる-かも知れません。3000m級の岩っぽい山(ALP=岩の山の意)はヨーロッパ的な近代登山、アジア的な緑っぽい山との象徴の違いでヒトが生きられないデス・ゾーンはアジア人には意味が無かったのでは?今ではむしろ、先輩達が近代モダン登山に近かった?..と思える時代になりました。

そんなこんなもあり10年ほどOBの方々と山行を繰返し、お陰で私の登山歴も個人的山行もあり現役時代より充実した内容になりました。OB会が無ければ私には山は遠かった..継続こそ力なり!思うに人それぞれ、人生のタイミングで突然、登り始めるヒトもいれば過去の実績を自負し止めてしまうヒトもいるでしょう。ヒトそれぞれ、人生いろいろ。現役時代、山は私には厳しかったけどOB会の山は優しかった。大人になって山を楽しむチャンスを与えてくれたOB会に感謝..。

昭和43年卒  富樫克己

ワンゲル顧問の頃の思い 金 有一

長い教員生活の中で定年になるまでの最後の十数年間、新村三千夫先生とワンゲル部顧問として子供達に同行し20座に及ぶ百名山へのアタック、里山歩きの楽しさや苦しさを共有してきた。若い彼らは登るのが速い。日帰りの奥多摩などの引率は結構しんどい思いをしたが、宿泊を伴う山行の方が私にとっては楽であった。理由は一つ、背負う荷が彼らより軽いからである。日帰り山行ではザックの重さはほぼ同じだが、夏合宿などでは子供達はテントや食料など多分30kg以上を背負っていた筈である。顧問の私は身の回りの品だけで随分と軽くなる。その差で歩く(登る)早さは同じになるのである。こうして定年になるまで子供達と一緒に朝日、吾妻、大雪、南ア、北アの奥まで足を踏み入れることができたのも新村先生や同行したOB諸君、子供達の協力があってこそと感謝している。合宿当時、登山道や山小屋で出会った人たちとの思い出を幾つか記してみたい。

「白馬岳・朝日岳」合宿(1999年7月、3泊4日、猿倉~大雪渓~白馬岳~雪倉岳~朝日岳~五輪尾根~蓮華温泉~平岩):白馬尻で早めの昼食を済ませ、行動を開始したのは12時少し前、縦走用の重い荷物を背負い斜度のきつい大雪渓に難儀していた。突然の夕立ちで近くの岩場の陰で雨宿りを余儀なくされ、小降りになるのを待って6時までにはテント場につかなければならないと雨の中を再び歩き始めた。小雪渓手前で避難小屋を見つけまた小休止、中を覗くと暗いため人相は判らず、ただ一人軽装の男がいるというのが第一印象だった。突然、「先生!」と、驚くばかりだった。ここに教え子の関井君がいるとは予想だにしなかった。聞くと、山頂の昭和大学医学部診療所のスタッフの一員として奉仕活動し、今日の仕事は最後の登山客を見届けてから頂上の宿舎に戻るとのこと。彼に励まされテント場に着いたのは夕方6時を回っていた。翌朝、彼に別れを告げて朝日岳を目指す。鉢岳を巻き強風を避けて雪倉岳避難小屋での昼食は単独行の女性と一緒、言葉を交わすうちに彼女の壮大な計画を聞き、我が耳を疑った。日本海の親不知から北アルプス・八ケ岳・南アルプスを縦走し静岡県の大浜まで歩くとのこと、無事と完全踏破を祈らずにはいられなかった。時折り記憶が蘇り計画は完遂できただろうか気になっていた頃、年が明けて雑誌「山と渓谷」3月号に完全踏破達成の手記が目に止まり、彼女であることが直ぐに分かった。手記には住所の記載もありお祝いの手紙を書いた。彼女からの返信には『先日はお便りありがとうございます。風の強い7/23の雪倉岳避難小屋でのこと、よく覚えています。あの時頂いたスイカは本当においしかったです。・・・日記に毎日の食事のメニューも書いていたのですが、7/23のお昼のメニューには「スイカ(高校のワンゲル部に頂いた)」と書いてあります。・・・』とあった。この合宿は歩く距離が長く毎日10時間以上のアルバイトを強いられた。

「雲ノ平」合宿(2004年7月、4泊5日、折立~太郎兵衛平テント場~薬師岳~太郎平小屋~薬師沢小屋~雲の平キャンプ場~祖父岳~岩苔乗越~水晶岳~野口五郎小屋~真砂岳~湯俣岳~湯俣温泉~高瀬ダム):毎日が歩く距離の長い山行だった。薬師峠のテント場を早朝に出発し薬師岳をピストンして太郎平小屋で小休止後、北アルプスの秘境と呼ばれる黒部川本流との出会いに建つ薬師沢小屋までジグサグ道を下り、さらに雲ノ平の溶岩台地へ登り返す強行軍だった。水晶岳のピストンを終え東沢乗越のあたりから風も強くなり雨模様、午後3時を回っていただろうか、ずぶぬれになりながら野口五郎岳のテント場に着くとそこは閉鎖、幕営できないとのこと。止む無く野口五郎小屋で素泊まりとなる。献立はカレーライス。幸いに登山客もなく、小屋の方々のご理解を得て自炊が始まる。お手伝いに来ていた小屋のご主人の高校生のお嬢さんと子供達は意気投合、高校生同士楽しそうに和気藹々とカレーを作っている。完成したカレーを口にした小屋のご主人は、小屋のカレーよりも美味しいと褒めてくれた。この夜は心温まる小屋の方々との交流の場となったことは云うまでもない。

「荒川岳・赤石岳」合宿(2005年7月、4泊5日、椹島~千枚岳~荒川岳東岳~赤石岳~椹島):山行の途中から赤石岳で百名山完登を目指す富良野の獣医さん(テレビ番組・倉本聡「北の国から」で獣医役としても出演)と出合い99座目の荒川岳東岳、100座目の赤石岳に同行、子供達が立会い人となり百名山完登のお祝いをしたことは感慨深い経験だった。赤石避難小屋では獣医さんからお世話になったお礼にと子供達にジュースの差し入れもあった。この夜の登山者は獣医さんと我々だけ、小屋番氏が食後に面白い場所に案内するからシュラフをもって来るようにと云う。小屋から山頂近くまで行くと小屋番氏はシートを拡げシラフにくるまって仰向けに寝るようにと指示。漆黒の闇の中に都会では決して見ることが出来ない満天の星空、目が慣れてくると一つ二つと流れ星が多方向から流れる、人工衛星の赤い糸のような航跡に歓声が上がる。小屋番氏の解説を聞きながら獣医さんと一緒に壮大な宇宙の神秘さに想いを馳せたひと時だった。秋になって獣医さんから学校宛てに段ボール箱いっぱいの富良野産新ジャガイモが子供達に送られてきて、部室で分けたことも懐かしい思い出である。

「三頭山」送別山行(2007年2月、日帰り):私が定年を迎えた年の2月、送別山行・三頭山を企画してくれた。武蔵五日市駅に着くと駅前に、ハリウッドの映画スターが乗るような『大きな黒塗りのリムジン』が出迎えているではないか。何人が乗れるだろうか、対座のシート、車内の調度品に目を見張る。都民の森の駐車場に横付けすると大勢の登山者の視線がリムジンに向けられて、下りる時は少し気恥かしかったが、新村先生と子供達の心遣いが嬉しかった。新村先生、山行を共にして今はOBとなった諸君、ご一緒させていただいた数々の山行、原稿を書きながら懐かしく思い出しております。お世話になりました。

DWV元顧問    金  有一

植田先輩を偲んで 常盤雪夫

南アルプス 鋸岳ビバーク

手元に数枚のスナップ写真がある。その1枚には寒さからかズボンのポケットに手を入れ、寝ぼけ顔で焚き火跡を見ている私がいる。その後ろには大きな岩小屋があり、数多くの岳人が利用したであろうその天井は煤けて黒くなっている。

すっかり記憶が薄らいでしまった南アルプス鋸岳紀行はこのスナップ写真から始まる。メンバーは顧問の奥貫靖弘先生、3年の渡辺知也先輩、同じく3年の植田一朗先輩、そして2年の常盤の4人である。山行は昭和33年(1958年-)の5月連休の時のことである。

岩小屋を出発後、河原沿いの登山道はしばらくして鬱蒼たる樹林帯の中を進むようになる。やがて、1回目の渡渉地点に出る。先ず私が空身でザイルを着け対岸に渡る。その場で用心のため確保体制を執り、他の3人が1人ずつ次々と渡る。踝ぐらいの深さだがよろけると膝以上の深さまでつかってしまう。雪解け水は流れが速く清らかだが冷たい。最後に私が渉り直し渡渉を終える。渡る距離は10mほどだが結構時間を使った。このような渡渉を3回繰り返しやっと樹林帯を抜けた。

そこは稜線まで続くであろうと思われる長くて急峻なガレ場の下端である。明るい。

足元の岩は、鉄平石のように表面は平らだが、積み重なっているために不安定であり非常に歩きづらい。特に鋲靴の者にとっては滑ることも心配しなければならず気を使う。小休止の度に上を見上げれどガレ場は際限なく続き天空に突き抜けている。

急登と歩きにくさからこのガレ場を抜けるのには結構な時間を要した。

この紀行文を書くにあたり、あまりにも私の記憶が少ないのでインターネットで検索しコースや地名などの参考にすることとした。

検索によれば、我々のコースは、長野県・戸台口から戸台川沿いに遡行し、角兵衛沢から角兵沢衛沢の頭で稜線に達した後、第一高点(頂上)、第二高点を経て熊の穴沢を下山し戸台口に戻るというルートであったと思われる。

展望の利く稜線からは遠く北アルプス、中央アルプスの峰々、むろん北岳・千丈岳や前衛の山々が眺められた。すれ違うのにも苦労するほどの狭い尾根道、多少の岩登り技術を必要とする大小のピークを過ぎるころ、突然「ここでビバークする」の声。呆然とする。確かに時間は午後3時を過ぎているが、あるのは畳3枚ほどの岩だらけの狭い空間である。転落防止のためザイルで互いを結び合い食事の支度に取り掛かる。

ピークとピークが形作るV字型の間からは八ヶ岳の裾野がやや赤みがかって水平線ならぬ斜方線を描いている。一見地球が傾いているとも思える壮大な景色である。富士山の裾野も見事だが、視界一杯に広がる八ヶ岳のそれも負けてはいない。

軽い食事の後、寝袋に入り横になる。スペースの狭さとザイルで結びあっているため寝返りは出来ない。おまけにゴツゴツと背中が痛い。救いは顔の上に広がる満天の星空である。2000mを超える高地でのビバークであり、寒いが我慢出来なくはない。私は疲れもあって意外とよく眠れた。

ビバーク地点が第一高点に達する前の地点なのかそれとも後なのかは判然としない。その第一高点に関しては、後日叔父に会った際、第一高点にある石油缶が名詞箱代わりに使われていて叔父の名詞もある筈と聞いた。叔父が鋸岳に登頂したのは太平洋戦争末期のことである。

当時、私は植田先輩からパッカード(米国製乗用車)と呼ばれていた。馬力はあるが燃料を食う例えである。熊の沢を経て戸台口までの戸台川沿いの林道は途方もなく長く感じられ、4人はあまりしゃべらず無口でひたすら歩いていたが、突然、植田先輩から”シジミ蝶”についての話を持ちかけられたのは意外だった。その蝶の可愛さ、可憐さなどについて先輩は朴訥に話した。60年前のことである。

すでに鬼籍に入られた先輩は、そのとき私に何を伝えたかったのだろうか。

                                                      昭和35年卒     常盤雪夫

 

杉島佑一君との想い 佐藤八郎

彼との出会いは、高校1年の時同じクラスになり席が近く小生を囲み、杉島君、そして金君と話が合い、山の話になりました。

小生がワンゲルに入部しようと誘ったところ杉島君が入部したいと言うので、二人早速入部。それから40年以上の付き合いが始まりました。

高校時代は毎週の様に奥多摩、丹沢山系の山へ行きました。彼の実家は名栗でしたので、御実家に泊まって武甲山へ山登りしたものです。大学生になってからは、山ではなくスキー、スキーでした。

そんな彼は、高校1年から登山靴は革製、小生はキャラバンシューズでした。スキーをする時は、当時最高級のホワイトスター、衣装はトニーザイラーが映画で着ていた様な格好で滑っていました。私としては、学生として不思議に思いました。

其の後、社会人になり彼は建築会社へ、小生はベアリング会社へと、それぞれの道へ進みました。

今振り返りますと、短い命に只々驚き、今は冥福を祈るばかりです。

昭和35年卒   佐藤八郎