皆様の健康をお祈りします 渡辺知也

冬の西穂高岳で獨協生ほか四人が凍死しました。夏のテントを使用したとの新聞の報道です。

その翌年天野貞祐先生の提唱でワンゲルが創設されました。小生は中学三年生でしたが、早速入部して夏合宿の北アルプスに参加しました。

森本、打矢、赤石先輩等と日本史の皆川先生が指導しました。爾来山に取り憑りつかれた小生は修学旅行を欠席し、その時間を全部山行に充てました。早稲田大学露西亜文学科に入学して以来プッリと山に行かず勉学に専念、トーメンという商社に入社、その翌年にチェコスロバキアに留学、それからウィーンに移動して以来ヨーロッパでの生活が二十数年続きました。その後しばらくしてドイツ人のガールフレンドの両親の広大な別荘がチューリヒ近郊にありそこを基点にして再び山行を始めました。

その後かみさんを取り替えて都合三回結婚しています。現在のかみさんはハンブルグ出身で新聞記者をしています。母親はスイス・ティチーノ州のアスコーナにいて、そこを起点にして再び山行をするようになりました。スイスには何千何万という山行ルートがあるので無限の可能性があります。感心したのは朝早く登り始めて夕方に下山するまでタバコの吸い殻、キャンディーの紙等落ちていないことです。山小屋は無人の処でも皿やタオルがキチンと整理されています。世界一の生活水準の高い国なのでその身倍の程が解ります。その後ロカルノの近くの山村に三百年以上経た家を買い求めました。凡て近代的に創り直し実に快適に暮しています。

そこに夏になると日本から金子、打矢、若井、千野の先輩たちが再三訪れ、よく一緒に山行しました。今にして思えば夢のような話しです。現在は小生も七十六歳になりましたので日本から年金で暮らしています。カミさんは小生よりも二十才も若いので現役ですので、カミさんに喰べさせてもらっています。従って老後の心配はありません。

彼女は特派員としてロカルノで働いています。小生があと十年、つまり八十六才まで生きると日本四十年、西欧四十年の暮しになります。小生の死後は簡単に始末してもらいます。焼場で遺骨をポリバケツに入れ(骨つぼは高価です)ヘリコプターに頼んでピッオヴォゴルノ(海抜二千五百メートル)に運んでもらいます。この山は自宅の眼前に聳え、実に姿の美しい山です。小生は一度は息子と、二度目は金子、千野先輩と登頂を試みましたが、成功していません。三度目は遺骨となって登山します。そこで散骨してもらいます。もっともヘリの代金が高いのでその代わりに裏の小川に流すことになるかも知れません。この家族の判断に小生は口出しできません。

小生は毎朝坐禅をしますが、その際に必ず両親に念ずることがあります。小生をこうして健康に生んでくれてありがとうと云います。この感謝の気持ちが大切です。皆さんも今からでも遅くはありません。御両親が健在ならばせいぜい親孝行のまねごとをするなり、もし逝去されているなら仏前に手を合わせるなり、仏壇もないならば心の中で挨拶して下さい。なにしろ小生は親不孝の最高峰を登りましたので。皆様の健康をお祈りします。

昭和34年卒  渡辺知也

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