岩殿山(634m)

岩殿山 2019年2月21日

東京スカイツリーと同じ標高634mの岩殿山は中央高速道の大月の手前にある岩殿トンネルの上にあり、兜状の岩壁(鏡岩)が特徴の山です。歴史的にも地質的にも話題性のある山でもあります。4時間弱のハイキングでしたが、鎖場や岸壁の縁歩きなどスリルも結構ありました。


中央線大月駅

中央線大月駅を出て、すぐ左の商店街を通り抜け、踏切を渡たり東電大月支社の脇を通って道なりに進んで行きます。

市民会館入口を左に橋を渡り、駐車場の脇を通ってそのまま139号線を上がっていくと左手に岩殿山登山口があります。

この階段の下あたりを中央高速のトンネルが通っているようです。

1917年9月の台風5号による大雨のためにいろいろな所で土砂崩れが発生し、現在なお災害復旧工事が進行していました。しばらくは入山すらできない状態だったようですが、現在は迂回ルートによる入山が可能になっているとのことでした。しかし、丸山公園のトイレはまだ使えない状態でした。

天気も良かったので、いろいろな所から富士山がとても綺麗に眺められました。

ふれあいの館

後で分かりましたが、このふれあい館には山岳写真家の白旗史朗さんの作品を展示している写真館(大人300円)が併設されていたようでした。

カウンターが設置されていて、「通過する人は1回だけ押してください」と書いてありました。

礫岩(河原や海岸の砂利や石、粘土が圧縮凝固した岩石)

岩殿山の地質

地質的にはこのあたりはかつて関東山地の端で海に面していて、太平洋プレートに乗った古代丹沢山地(火山島)が衝突、続いて同じく古代伊豆半島(火山島)が衝突したたことにより堆積された丸く削られた砂利や石と粘土が圧縮されて礫岩となり(桂川礫岩層)、更にどんどん隆起していき小高い山となったということです。今でもなお10年で1センチくらい高くなっているようです。

結構階段のぼりが続きましたが、ふれあいの館から10分くらいで岩殿城址への分岐になります。

揚城戸跡(第二の関門)

揚城戸(あげきど)跡ということなので、この大石の間に上に揚げて開く扉があったのでしょうか。

番所跡

かつて礫岩の大路頭があったそうですが、崩落の危険があったので頂部を破砕撤去したと表示された看板が立てられていました。

この先が破砕された路頭の端になります。

馬屋があった跡のようですが、左部分がここも崩落していて通行止になっていました。いろいろな所がだいぶ崩落しているようでした。

秀麗富嶽十二景 八番山頂 岩殿山634mの山頂部 (石碑は乃木希典の詩碑)

岩殿山城は甲斐国都留郡の国衆である小山田氏の居城になります。

中央高速道路

分岐まで戻って「稚児落とし」方面に向かいます。

分岐からは築坂峠までどんどん下って、峠からは鎧岩に向かって登り返します。

築坂峠

鎧岩の鎖場は2箇所連続してありますが、難しくはないもののそれでも息が上がりました。兜岩の鎖場は崩落のため通行禁止になっていたので、迂回路を行くことになりました。

トラバースの部分の一部が危険な状態にあるようでした。
鉄塔のある天神山
天神山の祠

いよいよ「稚児落とし」の岩壁が見えてきました。稚児落としは小山田信茂の側室の千鳥姫が2児を連れて落ちのびる際に泣き出した赤子を追手から気づかれぬように家来が姫から奪って崖から投げ落としたという謂れがあります。

このコースのハイライトでしょうか。端は丸くカーブしているのでチョットひびります。結構迫力がありました。

分岐点

歩いてきた稚児落としの岩壁を望まれるポイントですがなかなか下を覗き見するには勇気がいります。

痩せ尾根になった崖の上の薄っぺらな根が木ごとひっくり返っていました。

ここで登山道は終わり、林道を経て自動車道になります。

舗装道路を左に大月駅に向かいます。

フクジュソウやレンギョウが咲いていました
中央高速の下を行きます

高速下を過ぎたら、二股を左に行きます。

橋を渡って道なりにカーブしていくと駅はもう少し。T字路の右にある歩道橋を上がって左に行くと線路に沿って大月の駅に至ります。

歩道橋から岩殿山周辺の山を展望

富士急の大月駅が手前にあり、少し進んでJR大月駅到着です。3月16日から中央線の特急は全て座席指定になるということでした。

S47年卒 手島達雄


コースDATA

7:58 大月駅  8:15岩殿山登山口  8:30カウンター  8:55岩殿山山頂  9:06分岐  9:23築坂峠    9:40兜岩鎖場  10:08天神山  10:25稚児落とし  10:56林道  11:17高速下  11:30歩道橋  11:30大月駅

「岩殿山(634m)」への3件のフィードバック

  1. 山城だね。真田城もそうだったが戦国時代は防戦のため高い所に築いたんだよね。時々、山里へ降りて食糧を奪略?高遠で武田の殺戮読んだが凄惨なものだった。春になったら飲み会しようか?

      1. 柳田国男は日本の武士を山地民、狩猟採集焼畑農民と思っていた(柄谷行人)事から推測すると西洋化が始まる信長以前は山城が普通だった。アルプス(岩の意)と異なり森林限界が曖昧な日本や中国の山は仙人や天狗が棲んだ文化ある処であった..

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