メールマガジン10月号 / 2020

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会メールマガジン 2020/10/19

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DWVのOBを山の話題で結ぶメールマガジン10月号の配信です。

今回は日本アルプスを海外に紹介するとともに日本近代登山の先駆けとなったウォルター・ウェストンとヨーロッパアルプスを日本に紹介した槇  有恒の二人を特集してみました。

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【1】ウォルター・ウェストンのこと

【2】小島鳥水と日本山岳会の設立

【3】槇 有恒(まき ゆうこう)のこと

【4】国体やインターハイの登山部門

【5】山は秋と冬を行ったり来たり

【6】国立公園内の山小屋への補助を拡充

【7】行ってきました Now

【8】編集後記

【9】記事の募集とマガジンについて

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【1】ウォルター・ウェストンのこと

まだ宗教登山や狩猟のための登山しかなかった日本で富士山をはじめ槍ヶ岳や御嶽山、木曽駒ヶ岳をはじめとして多くの山岳を登り、広く海外に日本アルプスや文化を紹介するとともに、日本の従来の登山の概念を革新する近代登山の先駆けとなったのが英国人ウォルター・ウエストンでした。彼を記念して関係した各地ではレリーフが作られ、今だに上高地をはじめとしていろいろな所で毎年ウエストン祭が行われています。

彼は1888(明治22)年から1915(大正4)年の27年間(滞在年数は通算20年間近く)に英国国教会の宣教師として三度に渡って来日し、その間に日本アルプスを中心にいろいろな山岳を踏破し、日本のアルプスや文化をまとめた「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」(日本アルプスの登山と探検)他を英国で出版し、広く海外に日本を紹介しました。

彼は1861年、イギリスのダービー市で生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで学び、1886年に司祭となり、1888年にリドレー・ホール神学校で英国国教会の聖職について学んだのちに日本に宣教師として来日します。

英国をはじめヨーロッパ各国では既に山岳会が作られ、名だたるスイスアルプスはすでに登り尽くされ、アルプス黄金時代から難関ルートへの開拓時代に入っていました。そんな時代にあって、彼もマッターホルンやヴッターホルンなどいろいろなスイスアルプスを登るなどしていた登山愛好家でした。

1888年に宣教師として赴任したものの眼病治療のためと称して?一旦宣教師職を辞して登山にのめり込んでいきます。1890年には富士山を皮切りに日光・白根山や男体山、過去赴任していた九州の祖母山、阿蘇山や霧島山、韓国岳、桜島などの山々や、飛騨山脈や赤石山脈などの山々を登っているようです。

1891年から本格的に登山を開始し、浅間山、槍ヶ岳(悪天候などのため鞍部まで)、御嶽山、木曽駒ヶ岳を登っています。1892年には5月の富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳に、1993年には恵那山、富士山、大町から針ノ木峠・ザラ峠を経て立山、前穂高岳に登っています。

前穂高岳や前年の槍ヶ岳などの登山の折には、明神池の辺に小屋を持つ猟師の上條嘉門次を案内人に登頂しています。

上條嘉門次は生涯でクマ80頭、カモシカ500頭を仕止めたとされ、ウエストンの著書の中で、抜群の案内人として紹介されたために国内外の登山者に案内人として指名されるなど人気を博します。ウェストンと20年間以上に渡る交流から嘉門次はウエストンからピッケルを贈られ、現在でもそのピッケルは嘉門次小屋に掲げられているということです。

1894年には白馬岳、笠ヶ岳(実際は抜戸岳とみられる)、常念岳、御嶽山、身延山を登り、1895年まで滞在し、離日します。

英国に帰国した翌年の1896年には先述した「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」を出版することになります。この本の記述からは神学者のそれではなく、ユーモアを交えたエピソードをはさみながら、民俗学的、文化人類学的、地質学的な観点に基づいて日本アルプスを紹介しており、日本の諺にも日本文化にも精通していることが伺えますが、日本語は拙かったということです。

赴任地での宣教師としての評判はあまり良いとは言えなかったようですが、再度日本への赴任が決まります。1902年、登山愛好家のエミリー・フランシスと結婚し、新婚旅行でカナディアンロッキーに登った足で奥さんと共に再来日します。

その年には広河原から北岳を登り、1903年に甲斐駒ヶ岳、浅間山、1904年に金峰山、鳳凰三山、北岳、間ノ岳、仙丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳に登ります。地蔵岳では弘法大師も誰も成し遂げられなかった尖峰初登坂し他ことで地元の漁師などから神社建立して神主になってくれと地元の人から言われたエピソードもあったようです。

妻のエミリーさんは1903年に富士山、1904年には再度富士山に登り、火口底まで下りて石を持ち帰っています。また、浅間山や八ヶ岳、妙高山、戸隠山と高妻山にも登っており、戸隠・高妻山では初めて登った外国人女性ということでレリーフが設置され、毎年「ミセス・ウェストン祭」が行われているそうです。

そして、二人は1905年に離日します。

それから6年後の1911年には三度目であり、最後になる来日滞在を果たします。その年、二人は妙義山に登っています。

1912年には夫人を伴って有明山、燕岳を登り、槍ヶ岳の東稜、奥穂高岳は奥さんは伴わず登っています。1913年には夫人を伴って焼岳、槍ヶ岳、霞沢岳、奥穂高岳を登っていますが、この時も18年ぶりに再開し既に60代半ばになっていた上條嘉門次が案内しています。一緒に登った妻のエミリー・ウェストンは槍ヶ岳や奥穂高の女性初登頂者となっています。また、夫人とともに白馬岳も登っています。

1914年には単独で立山から剱岳を登り、ザラ峠と針ノ木峠を経由して下山しています。

しかし、第一次世界大戦の勃発で帰国を決意した二人は最後の山行を中房温泉から大天井岳を登り上高地に下りるコースを選びます。上高地では嘉門次とも別れの挨拶を交わし、1915年に離日して日本滞在は終わりを告げます。

英国に帰ってからは執筆活動や日本アルプスや日本文化についての講演などを行ないながら日本への思いを温めていたようですが、1940年(78歳)に脳出血で急逝してしまいます。

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」は日本アルプスについての紹介だけでなく、日本文化に対しての深い洞察と知識、リスペクトと深い愛情が感じられる紀行本です。今では失われてしまった当時の人々の意識や暮らしぶりについても知ることができます。岡村精一の翻訳もとても読みやすいものでした。嘉門次小屋四代目の上條輝夫の妻である上條久枝著の「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」と合わせて読んでみ流ことをお勧めします。

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参照文献 (ウェストン夫妻の登山履歴は資料により違いがあるので正確でないかも知れません。)

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」–『日本アルプス 登山と探検』 (岡村精一訳、平凡社ライブラリー)

「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」 上條久枝 著 求龍堂

「知られざるW・ウェストン」 田畑真一 著 信濃毎日新聞社

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【2】小島鳥水(こじまうすい)と日本山岳会の設立

ヨーロッパでは古くはルネッサンスあたりから趣味やスポーツとして登山を楽しんでいたようですが、18世紀後半のスイスアルプスのヴェッターホルンやモンブラン登頂がヨーロッパでの近代登山の幕開になったようです。特に英国人はヨーロッパでは一番早く山岳会を作り、先進的に登山を楽しんでいたようです。先述のウォルター・ウェスンともそんな流れの中でスイスアルプスに登っていました。

日本での登山はまだ霊山を登る宗教登山や狩猟を目的としたものだけでした。

そんな中、何人かの外国人は案内人を伴ってまだ地図もろくになかった日本各地の山を登っていたようです。

初代英国駐日公使のラザフォード・オールコックは幕末の1860年に富士山に登頂していますが、霊山を汚すものだとして大問題になり、外国人居留地を襲撃するという動きに繋がっています。

後に英国駐日公使になるアーネスト・サトウは1862年に来日してから 25年間滞在し、富士山をはじめ、御嶽山、赤岳、浅間山、赤城山、庚申山、そして南アルプスの山々に登っています。

1867年には2代目の英国公使ハリー・スミス・パークスの夫人であるファニーさんは外国女性で初めて富士山の登頂を果たしたとされています。

また、1872年に硬貨鋳造の技師として来日したウイリアム・ゴーランドは古墳研究の先駆者としても日本アルプスの命名者としても知られていますが、いろいろな山に登っており、1878年外国人として初めて槍ヶ岳に登頂、1880年には上條嘉門次のガイドで明神岳の登頂を果たしています。

特に本格的に各地の山を登り、紀行文「Mountaineering and exploration in the Japanese Alps」を出版し、海外に日本の山岳や文化を紹介したたのがウォルター・ウェストンでした。このウェストンの本を偶然目にした小島鳥水は(小島鳥水と岡野金次郎は1902年に二人で槍ヶ岳に登っています)、自分たちよりも10年以上も前に槍ヶ岳に登っている西洋人の存在を知ることになります。その後ウェストンが横浜に滞在中であることを知って訪ね、ウェストンから世界の登山状況や山岳会の状況を教えてもらい、日本での山岳会設立を勧められます。

ちなみに英国山岳会は1857年、オーストリア山岳会は1862年、スイス山岳会は1863年、ドイツ山岳会は1869年、フランス山岳会は1878年にそれぞれ結成されています。

そして、いよいよ1905年、小島鳥水を初代会長として日本でも「山岳会」(後の日本山岳会)が設立されることになるのです。

1910年、ウォルター・ウェストンは日本山岳会設立の立役者として貢献したことで名誉会員となっています。

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【3】槇 有恒(まき ゆうこう)のこと

ヨーロッパアルプスを日本に紹介し、後に日本山岳会の会長にもなる槙 有恒は新潟県の氏族の家柄で東京都文京区で生まれたようです。

宮城県師範学校付属小学校、仙台第二中学校を経て、1911年(明治44年)、慶應義塾大学予科に入学します。1914年に前穂高岳と焼岳を登り、その時に偶然にも日本山岳会会長の小島鳥水と会っています。

ヨーロッパ帰りの慶應義塾大学教授の鹿子木員信とともに日本山岳会に入会し、翌1915年には鹿子木員信教授の勧めでクラスメイトとともに日本で初めて大学山岳会を結成することになります。

1916年には上條嘉門次の案内で槍ヶ岳、穂高岳、薬師岳を登っています。

1917年に慶應義塾大学法学部を卒業し、1918年(大正7年)、アメリカ・コロンビア大学に留学するものの大戦の影響で勉学もままならず、1919年にイギリスに渡りますが、ウェストンを訪ねてアドバイスを受けて、スイスに渡ることになります。

1920年にスイスのグリンデルヴァルトを拠点としてガイドにトレーニングを受けて本格的にスイスアルプスを登り出します。当時アイガーはイギリスのC.バリントンが南西面と西稜から初登頂に成功しており、その後南西稜、南尾根が踏破され、東山稜だけが未踏破となっていました。

そこで槇は東山稜に挑戦することを決め、1921年、熟練のフュレル(案内人)3人と困難と言われていたアイガーの東山稜(ミッテルレギ稜)の初登攀を成功させます。

ミッテルレギからのルートは途中1泊を要することからガイド教会は小屋を設置することになりますが、槙は登攀成功の記念にとして1万3千フランかかる所、1万フランを寄付します。現在このミッテルレギ小屋は新しい小屋に建て替えられていますが、槇が寄付した旧ミッテルレギ小屋は山麓に移設されており、現在も健在のようです。また。グリンデルヴァルトのモンベル支店には旧ミッテルレギ小屋の扉を展示しているそうです。

槙はスキーについても、早いうちから2本ストックによる滑走技術を習得しており、1923年に冬季の立山登山を目指しますが、パートナーの板倉勝宣が遭難死してしまう事故を起こしています。

海外登山では1925年カナダのアルバータ山の世界初登頂を果たしており、1926年(大正15年)には秩父宮雍仁親王の供奉で冬季スキーや、夏季マッターホルン、アルプスなどを登っています。

1944年(昭和19年)に日本山岳会会長に就任しますが、国策会社の南洋拓殖株式会社の拓殖事業に携わり、侵略に関与したとして戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から公職追放指定を受けています。

1956年(昭和31年)にはヒマラヤ山脈の未踏峰の一つであったマナスル遠征隊の隊長となり、同年5月9日、11日に登頂に成功しています。

仙台市名誉市民に推戴され、文化功労者、勲三等旭日中綬章を受章しています。

その後も立山観光顧問や英国山岳会(アルパインクラブ)、アメリカ山岳会、アパラチア山岳会、スイス山岳会の各名誉会員を務め、1989年(平成元年)5月2日に逝去しています。

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参考文献

「山行」槇 有恒  旺文社文庫

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【4】国体やインターハイの登山部門

国民体育大会(国体)にも高校総体(インターハイ)にも登山部門があるのをご存知でしょうか。

先述の槇 有恒も第4回、第6回〜第9回まで国体の登山部門会長となっています。

現在の国体ではフリークライミングのリードとボルダリングの2競技が実施されていますが、かつては縦走・踏査・登攀の3種目を実施しており、縦走とクライミング(リード競技)が実施されていたこともあったようです。

かつて実施されていた踏査種目では10kgに調整したザックを背負い、地形図上に複数あるポイント(標識)を探し、規定時間内にゴールするというチーム制オリエンテーリングでした。縦走競技は同じように10kgに調整されたザックを背負い、規定時間内に指定されたコースの登山を完了するもので、天気図作製、計画書、記録書提出なども評価されるもので、踏査競技と縦走競技、登攀競技をそれぞれ100点ずつの総合点で競ったものでした。

インターハイの登山部門は4人でパーティを組んで3泊4日の登山の行程を通して、安全に登山出来るために必要な技術や体力を定着させることを目的として競うものです。

体力(バテていないか)、歩行技術(バランスが良いか)、装備(パッキングはいいか、必要なものをすべて持っているか、防水などの工夫がしてあるか)、設営・撤収(テント設営、撤収の作業要領はよいか)、炊事(献立の内容、コンロの取り扱い)、登山計画や記録、天気図(ラジオの気象通報による天気図作製)、その他必要な知識(その山の概要、自然、気象知識、読図知識、食料知識、救急知識、登山用語、登山技術や装備の知識などについてのペーパーテスト)、マナーの各項目についてを点数下して評価して審査が行われています。

残念ながらコロナのために今年の鹿児島国体は開催時未定の延期、インターハイは中止となっています。

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【5】山は秋と冬を行ったり来たり

10月17日には富士山をはじめ穂高連峰などの北アルプスや八ヶ岳、白山、男体山、燧ヶ岳、鳥海山、立山、妙高連峰、浅間山、武尊山、甲斐駒ヶ岳など各地の高山では降雪があり、初冠雪も記録されています。

まだ、根雪になるわけではないでしょうが、これからは秋と冬が行ったり来たりしながら季節が進んでいくのでしょう。

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【6】国立公園内の山小屋への補助を拡充

環境省は来年度から、国立公園内にある山小屋の新型コロナ感染拡大防止にともなう施設の改修費用に対して補助する方針を決めたということです。今年度は1年間休業している山小屋も多くあり、また営業していても収容人数を半数に抑えて収入が減ったり、改修費用など経費が嵩んだりしていることから、山小屋のトイレ整備を対象とした現行の補助制度にコロナ感染拡大防止のための施設改修を加え4倍程度の予算を計上する方針だということです。

コロナ禍によって予約しなければならなかったり、収容人数も少なくなってしまったりと不都合はありますが、期せずして宿泊のクオリティーは向上してきているので、その点ではいい傾向にあるのではないでしょうか。

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【7】行ってきました Now

10月

茶臼岳(2019年10月24日)  蓼科山 (2017年10月26日)

11月

御正体山(2017年11月2日)  平標山(2016年11月3日) 三頭山(2018年11月3日) 磐梯山(2019年11月3日)   日向山(2016年11月4日)    飯盛山(2017年11月9日) 十二ヶ岳(2017年11月9日) 明神ヶ岳(11月10日)   岩櫃山(2018年11月15日)     大菩薩嶺(2019年11月17日)  荒船山(2019年11月17日) 茅ヶ岳(2017年11月19日) 武甲山(2019年11月21日) 

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【8】編集後記

“ 日本近代登山の父 “とも言われているウォルター・ウェストンですが、私はこれまであまり気に留めることがありませんでした。今回調べてみて今更ながら彼が “ 日本の山への憧れ ” と ” 探査の熱意 ” を持って山に登り、上條嘉門次、小島鳥水、槇 有恒などを結びつけ、日本の近代登山黎明期を作ったパイオニアだったということを実感しました。地図も、十分な情報なく、道も整備されてない未知なる登山は、彼の著作のタイトルにあるように正に” Exploration “「探査」だったのだろうと思われます。彼の切り開いた道は太く確かなものになったようです。

上高地のウェストンのレリーフですが、旗色の悪くなった戦時中に人知れず外され消えてしまっていたという事実があるようです。敵国人を顕彰するレリーフであり、金属製品の供出も行われていたことから、難を逃れるために槇 有恒と山岳画家の茨木猪之史が仕組んで秘密裏に実行したものだったということです。

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【9】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

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