ウインパーの切れたロープの謎

 
当時、「魔の山」と恐れられ、登るのも躊躇われていたヨーロッパアルブスで唯一未踏峰だったマッターホルン(4478m)が初登頂されたのは1865年7月のことでした。テントの形式にもその名を残しているエドワード・ウインパー(25歳)ら7人によるものでした。初登頂は同時に下山時に4人が滑落し、1400m下の氷河に墜落して死亡するという悲劇でもありました。
 
このマッターホルンの初登頂を記録したウインパー著の岩波文庫アルプス登攀記」は高校生の頃に読み、挿絵なども印象に残っています。
 
「悲劇のロープはなぜ切れてしまったか。」
「ウインパーのアルプス登攀記に記されたことは事実なのか。」
 
関係者の子孫や地元ツェルマットの人たちは疑問に思っているようです。ウインパーの切れたロープの謎についてもう一度読み返しながら考えてみましたので、ご紹介したいと思います。
 
当時マッターホルンはイタリア側のツムット稜の方がスイス側のヘルンリ稜より傾斜が緩いので、挑戦者たちはイタリア側からの初登頂を目指していました。その一人であった英国人のウインパーはすでに何回も挑戦していましたが、なかなか攻略できないでいました。同じようにイタリ人のジャン・アントワーヌ・カレルもイタリア側から国の威信をかけて初登頂を狙っていました。
 
すでにカレル達はイタリア側から登頂を目指して出発していたので、遅れをとったウインパーはスイス側のヘルンリ綾の方が登りやすいかもしれないと、スイス側から初登頂を狙ってアタックすることになりました。
 
ウインパーのメンバーは18歳のスコットランド貴族のフランシス・ダグラス卿、英国人の牧師で37歳のチャールズ・ハドソン氏、その友人で19歳のダグラス・ロバート・ハドウ氏と、シャモニーの名ガイドで35歳のミッシェル・クロ、スイス・ツェルマットのガイドで45歳のペーター・タウクヴァルターシニアとその息子の22歳のペーター・タウクヴァルタージュニアの7人でした。
 
ヘルンリ綾からのアタックは経験の浅いハドウ氏をサポートしながらも順調に進み、登頂を目前にしてウインバーはロープを外して競うように頂上を目指したそうです。無事、7人全員は登頂を果たすことができました。ウインパーは眼下にカレルたちの姿を確認し、大声で叫んだものの聞こえなかったので、岩を落として分からせたということがアルプス登攀記に書かれています。カレルたちは初登頂出来ないことが分かり、途中で下山してしまいました。しかし、3日後にやはりイタリア側からの登頂を果たしているということです。
 
さて、一行はは歓喜に浸った後、下山の準備に取り掛かりますが、挿絵画家でもあるウインパーは頂上からの風景をスケッチに手間取っている間にハドソンと相談して決めたいた順番でクロ、ハドウ、ハドソン、ダグラス卿、タウクヴァルターシニアはロープを結び準備を済ませていました。ウインパーが登頂者の名前を瓶に詰めて残すという作業をしている間に一行は下山を始めていました。後を追ってウインバーとジュニアはロープで結び合って下山を開始し、二手に別れて下山していきました。
 
途中でダグラス卿から、誰かが足を滑らせたらタウクヴァルター・シニアは持ち堪えられないだろうから、ウインパーたちとロープで繋いで欲しいという申し出があり、7人は全員がロープで結ばれることになりました。
 
しばらくして、登山経験が浅く、体力的にもかなり弱ってきていたセカンドのハドウが足を滑らせて先頭だったクロにぶつかって二人は滑落してしまいます。ロープにつながれている後を行く二人がそれに巻き込まれて墜落してしまいます。タウクヴァルター・シニアとウインパーは岩にへばりついてロープを受け止めましたが、ロープはタウクヴァルター・シニアの前でプツンと切れて、4人は1400m下の氷河に墜落してしまいました。
 
「アルプス登攀記」には、ガイドのタウクヴァルター親子は取り乱し、泣き叫んでしばらく何も出来ない状態だったと書かれています。事故後、生き残った3人は何とかツェルマットまでたどり着くことが出来ました。
 
3人の遺体は氷河の上で発見されましたが、フランシス・ダグラス卿の遺体は見つかっていません。
 
事故後、何故ロープが切れて4人が滑落してしまったのか取り沙汰されることになります。
 
「アルプス登攀記」ではウインパーは切れたロープは、持って行った3本のロープのうち古くて一番弱いもので予備として持っていったロープであったということ、ロープはぴんと張りきったままで切れたもので切れる前に傷がついた形跡も見当たらなかったと書かれています。
 
ウインパーは自分やガイド二人に落ち度はなかったと言っていたようですが、ガイドのタウクヴァルター・シニアの前でロープが切れたことで、タウクヴァルター ・シニアが自分たちの命を守るために意図的にロープを切ったのではないかと嫌疑がかけられ、検証が行われることになります。
 
結果はロープは意図的に切られたものではないとされましたが、ツェルマットで一番のガイドのキャリアは吹っ飛んでしまい、親子の評判は回復することなく、親子はしばらくアメリカに逃れることになります。
 
英国に戻ったウインバーも同様に世間から非難を浴びることになり、その弁明もあって「アルプス登攀記」を出版することになります。アルプス登攀記はウインパー自身の描いた挿絵も効果があって、ベストセラーになったそうです。ウインパーは当初ガイドには責任はないと言っていたようですが、時間が経つと次第にロープを選択したのは自分ではなく、なぜガイドが細いロープを選択したのか分からないと言い始めたそうです。本の出版によって評判を回復したウインパーは、初登頂を争ったカレルとその後も一緒にいろいろな山を登っていたそうです。
 
タウクヴァルター親子は英語が分からなかったので、ウインパーの主張や「アルプス登攀記」に書かれている内容が分からず、反論することもなかったようです。しかし、英語が分かるようになったタウクヴァルター・ジュニアは事故後に泣いて取り乱したのは逆にウインパーの方だったと言っています。
 
「悲劇の切れたロープ」はツェルマットのマッターホルン博物館に展示されています。スイスの登山用品メーカーのマムートはマッターホルン初登頂140周年の際に、切れたロープの強度試験を行い、耐荷重は300kgであり、そのロープではやはり4人の体重を支えることは出来なかっただろうと検証しています。
 
ウインパーによれば、墜落してしまった遺体は2番強度の長いロープに繋がれていたということで、切れてしまったのは3番強度の短いロープ、途中でウインパーがタウクヴァルター・シニアと繋ぐことになったのは1番強度の短いロープ、ウインパーとタウクヴァルタージュニアを繋いでいたのも1番強度の短いロープとなりますので、切れたロープだけに負担が集中してしまったと考えられます。ではなぜ、強度の弱かったロープを使うことになったのでしょうか。
 
最初に滑落した若者の子孫は当時の記録を調べ、事故のずいぶん後にウィンパー自身が「登頂前にロープを切った気がする」と書かれた文章を見つけ、これを事実として地元などではウインパーは登頂を競った時にロープを外したのではなく、切ってしまったので、帰りに結ぶだけの長さが足りずガイドは仕方なく予備のロープを継ぎ足さざるを得なかったのではないかという説が有力になっているようです。
タウクヴァルター・シニアがなぜ自分とダグラス卿の間だけ予備のロープを使ったのか、あるいは使わざるを得なかったのか明らかにされていませんので、真実は闇の中にしまわれたままです。
 
ウインパーは体調を悪くした晩年、見納めにとアルプスを訪れます。ツェルマットの再訪は登頂(事故)から46年も経っていました。彼にとってマッターホルンは「栄光の岩壁」ではなかったのではないでしょうか。
 
その足でモンブランの麓のシャモニーも訪れますが、その宿で心臓麻痺で亡くなり、その地の墓地に埋葬されました。シャモニーの名ガイトのミッシェル・クロはツェルマットの墓地に葬られていますが、シャモニーにはミッシェル・クロと名付けられた通りがあります。
タウクヴァルター親子はツェルマットに戻り、タウクヴァルター家と子孫はその後もツェルマットのガイドとして活躍しているそうです。プロの山岳写真家に転向した白川議員はリッフェル湖から見たマッターホルンの朝焼けに彼岸を見て、6年間通い詰めてアルプスの写真集を発表します。マッターホルンに登頂して山頂からの写真も撮りますが、その時にガイドしてお世話になったのはタウクヴァルターの子孫だったということです。

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