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出会い   飯嶋義信

ワンダーフォーゲル部との出会いは半世紀以上も前のこと、高校一年生の時であった。くしくもワンゲル創部の記念すべき年1955年のことである。今にして残念に思うのはその新生の意気盛んなワンダーフォーゲル部に入部しなかったことだ。私が選んだのは文芸部だった。だが、たまたま文芸部とワンダーフォーゲル部の部室が同じであったことからワンダーフォーゲル部を知ることになったのである。文化系と体育系の部が同居していたというのは奇妙なことだったかもしれない。

当時わが母校は明治以来の洋風木造校舎の痛みが激しく建て替えの声が高まっていたころ、新校長に文部大臣を辞めて間もない天野貞祐先生を迎え、新校舎建築が軌道に乗ったところであった。そんな疾風怒濤のなかで新設のワンダーフォーゲル部と同人誌「吠える」発行で気をはく文芸部に対し不要となった教室が部室として割り当てられたのであろう。旧生物実験室であった部屋はかなり広く、もともと少人数の文芸部は片隅に置かれた払い下げの教員用の机と本立てのまわりに集まって文学談義の真似事をする程度であったから、互いに邪魔にはならなかったと思う。

その時のワンダーフォーゲル部には打矢さんをはじめとして加藤さん森本さんなどの創部メンバー、二期目を支える若井さん井上さん滝川さん、同期の千野さん南さんなどそうそうたる面々がいて名前を覚えてもらうだけでもやっとだったのに、「吠える」を買ってもらったり原稿依頼したりで生意気な口を聞いたことを覚えている。勿論入部を誘われたが、中二の時に敗血症こじらせて長い間休んだことがあって山に行くなど考えられなかった。

話が前後するが、実はこの長期欠席の前は中学陸上競技部の短距離選手としてグランドを走り回っていた。その陸上部の先輩の一人が打矢さんだった。打矢さんは投擲専門で砲丸だけならともかく、狭い校庭で円盤や槍まで投げていたのには驚かされた。ともかく吉岡隆徳に憧れていた陸上少年が詩や小説をかじったり同人誌を作ったりすることに夢中になっていたのである。さらに「吠える」に執筆してもらっていた高梨先生のところに出入りするようになり、秦野の農村調査に誘われ一日ヤビツ峠から大山に登ったことがあった。山の面白さを知ったのはこの時だったと思う。

その後山には一人で行くようになった。仲間と一緒だと足手まといになると勝手に思ったからである。山行の知識や情報はワンダーフォーゲル部の部員に聞いたり山道具まで借りたりした。エルゾーグの「処女峰アンナプルナ」を読んで感動し、衝動的に八ヶ岳縦走に挑戦し疲れ果てたこともあった。大学に入ってからは時々山には出かけたがのめり込む事はなかった。それが、母校の教員になり高梨先生に声をかけられて顧問になったのがワンダーフォーゲル部との再会であった。以来二十数年、引率山行を重ねることになったがその間、何とか顧問を続けられたのは、慎重なうえにも慎重にという高梨先生の方針の下に、OB諸兄の協力、現役部員の頑張りがあったからのことだと思い感謝するばかりである。

最後に顧問として常に念頭においていたフランスの登山家ジャン・フランコのことば「山は根気強い勤勉さと、沈着と、頑張りの学校だ」を紹介して終りとしたい。

              元DWV顧問 飯嶋義信

OB会山行 御神楽岳 金 有一

私はワンゲル部OBではないがOB会との結び付きは佐藤八郎、常盤雪夫、杉島祐一さんらとクラスメートであったことから飯能河原のバーベキューに誘われたことが発端だった。以来、小諸の親睦会や休日の山行に居心地の良さもあり参加するようになり、OB会の仲間に加えていただいている。

嘗てOB会の山行は八郎さんが中心となって企画をし、届く加代夫人によるイラスト入り手書きの山行案内はほのぼのとしていた。最近は小諸の親睦会がOB会主催の山行に取って代わっているが、以前の四季折々の山行(山旅)は丹沢山塊、箱根、高尾・道志、奥多摩、奥武蔵、奥秩父、西上州、筑波、浅間周辺、草津、戸隠・黒姫、上高地、越後、鹿沼、日光・奥鬼怒、尾瀬、南会津などの玄人好みの山々を発掘し登るのが八郎流だった。10年から20年以上も前になるので詳細な記憶は定かでないが、写真を見ると旧遊した山々の光景が思い出される。特に、5月や秋の連休に野岩鉄道や会津鉄道を利用して足繁く通った南会津の山々は懐かしい。会津駒ケ岳、荒海山、七ヶ岳、小野岳、博士山、二岐山、御神楽岳である。

御神楽岳(1386m)は磐越西線津川駅の南20kmほどのところにある越後山脈北部の一峰である。それほど高くないし知名度の低い山だが、急峻な岩壁を周囲にめぐらせ荒々しい山容を誇っている。OB会では5月の連休に2年連続で挑戦したことがある。室谷登山コースを登るが稜線に取り付く辺りは膝まで達する程の雪積。対峙する尾根筋は中腹から稜線にかけては至るところ岩が露出して急な斜面をつくっておりU字型に浅くへこんでいる。アバランチ・シュートと呼ばれる雪崩のすべり台である。谷底には黒く汚れた雪渓が残る恐ろしい程の眺めだった。片側が切れ落ちる稜線を雪庇に注意しながら灌木やネマガリダケの生えている側を登るが山頂は未だ先、我々の実力はここまでと撤退を決断する。今も我々にとっては未踏の山である。「みかぐら」という響きの良い名は何に由来したのだろうか。調べてみると、越後野誌に「古ヘ覚道ト云フ人、峰ニ登テ神楽ヲ奏セシ、故ニ山名トス」と記されているとあった。神秘的な一面を持ったこの山に魅かれるのは、私が追っかけをしているギフチョウの棲息地として知られていることも理由の一つになっている。

この山行で忘れてならないのは登山前日の夜、みかぐら温泉の送迎バスによる祭り見物である。普段「狐の嫁入り」と云えば、「天気雨」を思い出す人が多いだろう。だが、津川では毎年5月3日の夜に開催される奇祭「狐の嫁入り行列」がある。町に口伝されてきた狐火伝説を元にしていて、毎年5万人もの人が訪れる祭りである。白無垢姿の花嫁が108人のお供を引き連れて行列を作り、松明や提灯で幻想的な雰囲気に包まれた町内をゆっくりと進む。花嫁の鼻筋を白く化粧し頬に描かれた狐独特の三本のひげと尖った口先のメークは狐顔そのもので神秘的な様相を醸し出している。お巡りさん、駅員さん、高速道路出口のオジサン、参加する町民までも狐のメーク、そして見物客も。やがて行列は常浪川に架かる城山橋上で花婿と花嫁の対面で最高潮に。暗闇に包まれた河原から燃えさかる篝火に見送られ、渡し船で常浪川を隔てた麒麟山へ。篝火と狐の鳴き声が山々にこだまする様は幻想的で「狐に化かされたような」感動を与えてくれたことも、

OB会山行の懐かしい思い出でとなっている。

(山行:2007年5月)    元DWV顧問    金  有一

朝日連峰縦走の思い出  阿部 武

独協ワンゲルに入ったきっかけは野山を歩き回るのが、ワンダーフォーゲルと思い込んでいたからでした。実態は全く別物でした。丹沢でのボッカ訓練の頃から、何故こんなところに入ってしまったのか後悔ばかりするようになっていました。河原で石を拾ってザックに詰めていざ出発。丹沢は人が多い。行き交う度に「チワー」と声を掛ける。内心声を出したくもないし、声を掛けてもらうのも嫌だった。

それでも夏の合宿である朝日連峰縦走に連れて行ってもらいました。「雪渓の水は旨いぞ」「星が綺麗に見えるぞ」ワクワクするような事を言われて、荷物を分けられ自宅に持ち帰りました。当時の装備品は灯油・灯油を使うランタンとコンロ・寝袋の下に敷く炭俵・重い寝袋そして飯盒に鍋でした。更に水を吸収するテント一式等でした。忘れてはいけない渋団扇。この団扇は焼き鳥屋等で使われる丈夫な赤い物です。これ等を見た母は、「これを背負って山に本当に行くの?」と目を白黒させていました。後で聞いた話ですが、母は私が帰るまで毎日毎日心配で眠れなかったそうです。自分の持ち物と合わせて40㎏は超えていたと思います。当時は横長で大きなリュックサックをキスリングといっていました。当時北海道を旅する若者をカニ族と呼んでいましたが、まさに私がカニ族になりました。

上野駅集合でしたので、それまでずーっと横向きに歩いて行きました。朝日に登る為に何処の駅で降りたかは覚えていませんが、山に取り付くまでの長かった事、暑かった事覚えています。但し足元に川が流れそれ程苦痛ではなかったのですが、坂井がすっかり参ってしまったようで、彼の荷物の大半を我々1生で分担しました。2年生も少し持ってくれたようですが、我々1年とは比べ物にならない程キスリングが小さく見えました。山に取り付いてからは、あの渋団扇が大活躍。色落ちして顔が赤くなりはしましたが涼しい風を送ってくれました。「上を見るな。足元を見て一歩一歩歩け。休憩まで水飲むな。」過酷でした。坂井は普段口の軽い男でしたが口もきけない程にへばってしまい、更にブヨに刺されて顔が腫れあがり我々1年生は大変心配しました。今考えると脱水症状だったのでしょう。ところで何処に雪渓があるのでしょう。遠くに見えてはいるのですが、道筋には有りませんでした。それでも沢の水で粉末ジュースを溶かして飲むと最高に旨いジュースでした。登りながらもう山はこりごり。1年生ばかり辛い思いをしているのに、2年生は楽そう。もう部活を辞めようと思いました。しかし、稜線に出てからは当たりの景色が見えるようになり、気分は爽快となりました。山を下りて登山靴を脱ぐと、足は豆だらけで疲労感がありましたが、解放感と満足感が広がってゆき、何故か又山に来たいなと思いました。

昭和41年卒  阿部 武

Schi Heil(シーハイル)      柳澤孝嘉

富樫さんが突っ込み重視の荒削りの滑りで雪煙巻き上げゲレンデを先頭切って滑って行く。その後を常盤さんの友人の園田さんが綺麗な弧を描きながら後に続く。次に私が右方向は良いが左方向は外足に加重がかかり過ぎる歪な滑りで続き、私の後を千野さん、植田さんの順に繋がり、ツークで滑って行く。平成18年3月の神楽三俣スキー場の最上部での光景である。

その後、カッサ湖周囲の田代スキー場へ連絡路を滑るが、千野さんがボーゲンとは逆のVの字をスキーで作り、連絡路をクルクル回りながら下るアクロバティックな滑りを見せる。スキーウエアと同様に派手である。カッサ湖傍のレストハウスで休憩後、田代スキー場の主だったゲレンデを皆でツークで滑り、神楽三俣のゲレンデで一人で練習しているビギナーの中野君のもとに戻り、正午前ロープウェイに乗りその日のスキー合宿を終えた。充実した午前であった。

この合宿はスキー合宿が丸沼高原で行うことが数年前より続ていたため植田さんの提案で旧知の三俣のスキー宿のオーナー、通称ゴリの宿で開くこととなった。前夜、ゴリの部屋にある山や川で拾った石を見せられ、数百万するという怪しげな話の数々を聞かされる異色の合宿であったが、スキー場、宿の雰囲気とも印象に残るスキー合宿でした。私はそれまで学生ならびに社会人時代を通してなかなか継続的にスキーに行く機会がありませんでした。そのためOB会のスキー合宿が開催されてからはそれが楽しみでした。スキー後の食事や呑みながらの学生時代の武勇伝、独軍の仏軍への進行や台湾での紹興酒の飲み方等のくだらいことから事業の転機になった出来事等の人生の滋養になる話までと多方面な話題があり飽きることがありません。

時に一緒にいらっしゃった奥方の前で春歌を歌ったり、ちょっとした言動で諍いとなったことも今となっては楽しい思い出です。しかし、その頃、中心となってスキー合宿を主催して頂いた先輩方も一人、二人、三人と鬼籍に入られ、スキー合宿も立ち消え寂しい限りです。

そこで、一年発起して山スキーでもやろうかと山道具店に行ってみましたが、板、靴、シール等を一式で15万!とのこと。靴も足首が太いため合わず、断念。山スキーよりはるかに安い、西洋ワカンのスノーシューでも買って雪山ハイクにでも出かけようか。

昭和49年卒 柳澤孝嘉

 それは宝もの         手島達雄

2年前、0B会の有志で忘年会をやった折に勢いで決まった金時山の山行がきっかけで、40年以上遠ざかっていた「再びの山行き」が始まった。母を見取り自分の自由な時間が持てるようになって、今までの自分とこれからの自分について考えるようになった。限られた時間の中にある人生、何でもやらなければ損だ。思い立ったら、やり残さず先ずはやってみようと。そして、高校の頃はやり切れていなかったという思いもあって健康増進も兼ねてまた山に行こうと思った。

必要な装備を整え、日帰りハイキングから計画を立てて出かけるようになった。大学に入ってしばらくは山にも行っていたが、興味は別の所に移っていた。大学を出て小学校教員の仕事に就いてからは遠足で児童を引率して天覧山や伊豆ヶ岳などに連れて行くくらいのものだった。異動で2泊3日の尾瀬縦断の林間学校をやっていた学校に赴任した折には、個人的に保護者や職員を誘って燧ケ岳に登ったりしたこともあった。その後、実母の介護の関係もあって教員の職を辞して東京の実家にUターンした。1年間スクールに通った後、庭づくりから、樹木のメンテナンス、花壇の植え付けや寄せ植え講習会などもやる小さなガーデニングショップを開業した。

すでにもう山に行く事もなくなっていたし、OB会からの連絡はいただいていたものの、特に親しくしている先輩後輩が参加している訳でもなく、秋の親睦会で小諸まで行くのも面倒でもあった。休みが取れるようになった事もあり、総会や親睦会に参加していた同期の二村君から誘われてOB会にも顔を出すようになった。

DWVでの経験は高校生のたかだか2年間程度のことだったのにも関わらず、還暦を過ぎてなお、かつてやっていた山の経験が呼び覚まされ引きつけられたのは何でだろうと思う。高校のワンゲルは体育会系の大学の山岳部と違い、まだまだ幼いもので規模も違ってはいたが、高校生なりのプライドもあった。しかし、当時それほど山をがむしゃらにやっていたわけでもなく、むしろ先輩や同期にくっついて行っていた。その2年間はノスタルジックに美化されただけのものではなく、貴重な何かがあったように思う。景色が印象に残っている訳ではない。達成感はあったものの、それが全てではない。苦しくても一歩一歩前に進んで行く事、体力や勇気が試される事もあった。楽しかったというよりは辛かった事の方が多かったとも思う。重い荷物を背負ってひたすら歩くことは苦しかったし、またバテるのではないかという恐れもあった。テントの中で寝付かれないでウトウトしながら朝を迎えたこともあった。景色もろくに見ないで苦しい思いをしながらひたすら重い荷物を担いで登ったり、より高みを目指して仲間とともに挑戦したりと集団の中で互いに磨き合った大事な時期だったのではなかったかと思う。

蜘蛛の足や軍手が入ったこともあった山での食事。冷たくなって足の感覚もなく歩いた冬の合宿。食当で朝早くテントから起き出ての食事準備。雨で濡れて重たくなったテントの重さやラジウスの匂い。石油臭くなって潰れたカレンズ(関口台パン屋のぶどうパン)。つぶれたアルマイトのメンツでブドー酒を飲みながら山の歌を歌った最終日の打ち上げコンパ。新宿駅や上野駅の通路やホームでさかい屋の72㎝キスリングを並べての場所取り。グランド脇の坂道でダッシュを何本もやって吐きそうになったこと。練習後、江戸川公園でタバコを吸っていてお巡りさんに捕まったことなどいろいろな事が思い返される。これらの一つひとつが積み重なって、人生の中でとても貴重でそして輝いているものではないかと思う。貴重で美しく輝けるもの、つまりそれがすなわち人生の ” 宝もの ” なんだと思う。

                                                                昭和47年卒 手島達雄

夏山合宿の思い出 岸 房孝

50年以上前、高校2年の夏山合宿の話です。総勢14、1 5人だったか、行き先は飯豊です。

上野駅から上越線の新津で磐越西線に乗り換えました。その頃の電車はまだSLで、煙を吐いて走っていました。上野駅で磐越西線の徳沢駅と言って切符を買った時、切符に徳沢駅と印刷されていなくて手書きでくれました。それだけ行く人が少ない駅なんだとびっくりしました。徳沢駅に着くと当然バスなどありません。先生が前もって、トラックをチャーターしてあって、それにザックと荷物と我々を乗せて飯豊の登り口まで運んでくれました。それから飯豊山荘めがけて登り出したのですが、夜行電車で来たせいか、ヨレヨレになって歩き、山小屋に着いた思い出があります。次の日から山の稜線に出ました。天気も良く、すばらしい景色でした。山の上では水はありません。でも雪渓が所々にあったので、水にはあまり苦労しませんでした。そこにテントを張り、快適でした。

それから何日か山行を続けて、下山してきて駅で合宿を解散しました。確か越後下関駅だったと思います。そこでどういう訳か夏休みだし家に帰っても仕様がないと言って、我々同期5人で日本海が近いので海に行くことにしました。海に近い駅で降り海岸の砂浜にテントを張り満喫しました。我々だけしかいなくて貸切状態でした。パンツ一丁で海に入り、ウニなど取って食べました。他に食糧がないので、近くのお店のおばちゃんに食べ物をもらったりして、みんなで食べました。海に5人でいた事は夏山合宿と違って開放感があり、とても楽しいひと時でした。今でも思い出します。でも5人の内3人は今はいません。若き日の遠い良き思い出です。

                                                       昭和41年卒 岸 房孝

獨協学園ワンゲル部 碓井達夫

<ワンゲル部に入部して>

獨協高校のワンゲル部は、夏山だけでなく冬山も行い高校生で冬の戸隠・高妻山を攻略したすばらしい記録を持っていることを中学時代から知っていました。昭和43年4月に獨協学園の入学式当日に部室を訪れ、入部を申し出た思い出は今でも鮮明に記憶しています。1年生は6名ほどが入部し、多くの山仲間ができたことの喜びとこれからどんな山に行けるのか期待が高まりました。

山に登るには、体力をつけることが一番です。部活の練習は以下のようなものであったと記憶しています。まずは持久力を付けるため長距離の走り込み。これは、学校から池袋を回り千登世橋から学校に戻ってくるコースです。坂道のダッシュは、グランド脇の坂を使いました。ほんとうに随分と走りました。校舎の階段を使ったものでは、交代で「おんぶ」しながらの昇り降りもかなりきつい練習でした。また、校舎の1階から4階までのダッシュ。実はほとんど競争のようなもので、最上階では、ラジウスが置かれていて1階からダッシュで上まで登り、ラジウスが勢い良く点火した者が一番になる、という酷なものでした。最上階では、3年生が目を光らせて待っています。このような練習の成果もあって、徐々に体力も増してきたのは事実です。

また、合宿となると団体装備や個人装備を含め、たくさんの荷物を運び上げなければなりません。ここで問題となるのは、キスリングに如何にパッキングするかによって、体力の消耗を防ぎ長い時間をかけて歩くことが出来るかの分かれ目になります。パッキングでは先輩諸氏から詰め方を教えていただき、どうにか形の良い担ぎやすいザックに仕上がりました。後は山に行く回数と共にパッキングの技術も上達していきました。

山に入れば歩き方、休憩の取り方や水の飲み方など、下界と違うことも多く学ばせてもらいました。

 

<思い出深い初めての冬山>

部活の合宿で印象に残っているのは1年生の冬の浅間山です。

昭和43年の冬山合宿は、当初の計画(登山計画書1968年 浅間山:HP参照)では、2年部員2名、1年部員6名の参加となっていましたが、合宿日が近づくにしたがって、一人減り、二人減り、だんだん参加者が少なくなっていきました。当時から高校生の冬山登山での危険性については指摘されていました。多くの理由は冬山において高校生の体力・技術力・判断力では緊急時に安全を確保するのが難しいとの理由から、原則として禁止されていました。部員の親御さんたちにも少なからず、冬山は危険との意識があったのではないかと推測しています。

その結果、この合宿に参加したのは、1年部員3名(中村 周司、飛沢 祐一、碓井 達夫)と高梨先生と飯島先生の合計5名の冬山合宿でした。

当初の計画では、湯の平にベースキャンプを設置し浅間山に登る予定でしたが、参加人数が少ないことから急遽、浅間山荘周辺のバンガローをベースに計画を変更しました。団体装備を全て持って行ったのか、定かではありませんが、当時、ワンゲル部のザックと云えば特大の72㎝のキスリングが主流で、その荷物は半端なく自分の頭より高いザックになり、一人で担ぐことができなく、部員に手伝ってもらいやっと担げるような重さでした。もちろん、歩くのもやっとの状態で、駅の階段の昇り降りで息が切れるほどでした。バンガローに変更したことにより、湯の平まで荷揚げをしなくてすんだことはラッキーでした。

さて、バンガローをベースキャンプにして、いよいよ冬山の体験の始まりです。登頂の日、冬山装備に身を固めいっぱしのアルピニストになったような気分になりました。先生からアイゼンを履いての歩行の仕方や、ピッケルの操作などを教えてもらいながら順調に高度を上げて行きます。二ノ鳥居を過ぎると徐々に傾斜が増し、右手に牙山の荒々しい岩壁を望み湯の平に入ります。賽の河原から森林限界を抜け、前掛山の荒涼とした斜面を風の洗礼を受けながら登って行くと山頂に着きました。山頂からの景色の記憶はなく、火口が真下に見えたのと風が強かった記憶しかありません。

テント泊ではなかったのですが、バンガローの中もかなり冷え込みシュラフに入る前に、高梨先生が「気付け薬だ。」と称し、ウイスキーの小瓶を取り出し、キャップに注ぎ一杯ずつ内緒で飲ませてくれた事が今でも懐かしく思い出されます。

あれから、半世紀もの年月が経ちますが、高校生活の3年間はワンゲル部によって多く山に登り、多くのことを学んだ貴重な青春時代でした。

これからも、獨協学園ワンダーフォーゲル部とOB会が、益々発展されることを祈念いたします。

                                                  昭和46年卒 碓井達夫

創部50周年記念現役OB合同登山    金 有一

年配の同窓生には「馬城」「目城」「めじろ」という名で親しまれた懐かしい年刊誌をご記憶の方も多いことと思います。ふとしたことから、図書館の学園資料室に大切に保存されている「めじろ72号」(1955年発行・発行人村松定孝)を手にする機会がありました。何気なく頁をめくっていると「ワンダーフォーゲル」と題された森本悌次、打矢之威(昭31卒)両氏が寄稿された一文に目がとまりました。「今年から獨協にワンダーフォーゲル部が創立されましたが・・・」で始まる文章には,ドイツで誕生 したワンダーフォーゲルという国民的自然生活運動を天野貞祐先生のお話と重ね合わせ、「正直、勤勉、清潔、規則正しく」という四つのことを実行することに他ならないと記されてあり、併せて創部時の諸先輩の方々の自然に対する熱意も語られていました。数えてみるとワンダーフォーゲル部が創られてかれこれ50 年になることも分かりました。偶然にも、私が現在クラブ顧問としてかかわっているワンダーフォーゲル部創部当時の状況を知り,先達の方々の苦労と熱き思い を垣間見て少なからず感動を覚えました。クラブ活動はその時代を反映し、栄枯盛衰を繰り返し受け継がれていますが、どのような経緯を経て今日に至っているか、現役部員には明らかでない場合が多いようです。そこで、創部50年を記念して、OBと現役の交流を 合同登山を通して実現させたいとの考えが抑えがたくなり、OB会に打診したところ、多くのOBの方々から賛同を得、実現の運びとなりました。登る山も記念 登山に相応しい北海道の大雪山・旭岳と決まりました.遠隔地でもあり合宿地の制限や現役部員の負担など解決しなければならない問題もありましたが,幸いに もOB会から団体装備と遠征費用にと、多額のご寄付をいただき難問も解決し,先輩方の激励もあり準備も整いました。

全コースをOBと現役が一緒に歩くことには制約もあり、第一日目の旭岳だけの合同登山となりました.参加メンバーは,創部当時を熟知し、還暦を過ぎた今でも元気に山登りを続けられている若井永(昭32卒)、井上正巳(昭32卒)夫妻、千野一郎(昭33卒),常盤雪夫(昭35卒)と、若い世代のOBからは大橋友徳(平10卒)、半田諭志(平12卒)、石鍋健太(平13卒)が参加し、現役部員である中高生10人及び顧問2人の大所帯となりました。盛んに白い噴煙を上げる爆裂火口の地獄谷を左に見ながら、火山礫のガラガラしたきつい登りに果敢に挑み頂上をめざしました。北海道の最高峰からの眺めは正に雄大で、一同、征服感に浸りながらOBと現役の心が一つになったのを感じたひと時でした。

現役の諸君らは、これから50年、同行の先輩方と同じ年齢になる頃、ワンダーフォーゲル部は創部100年を迎えることも感じていたようでした。


「獨協通信」第61号(平成15年12月10日発行)ひろばより転載       DWV元顧問 金  有一

皆様の健康をお祈りします 渡辺知也

冬の西穂高岳で獨協生ほか四人が凍死しました。夏のテントを使用したとの新聞の報道です。

その翌年天野貞祐先生の提唱でワンゲルが創設されました。小生は中学三年生でしたが、早速入部して夏合宿の北アルプスに参加しました。

森本、打矢、赤石先輩等と日本史の皆川先生が指導しました。爾来山に取り憑りつかれた小生は修学旅行を欠席し、その時間を全部山行に充てました。早稲田大学露西亜文学科に入学して以来プッリと山に行かず勉学に専念、トーメンという商社に入社、その翌年にチェコスロバキアに留学、それからウィーンに移動して以来ヨーロッパでの生活が二十数年続きました。その後しばらくしてドイツ人のガールフレンドの両親の広大な別荘がチューリヒ近郊にありそこを基点にして再び山行を始めました。

その後かみさんを取り替えて都合三回結婚しています。現在のかみさんはハンブルグ出身で新聞記者をしています。母親はスイス・ティチーノ州のアスコーナにいて、そこを起点にして再び山行をするようになりました。スイスには何千何万という山行ルートがあるので無限の可能性があります。感心したのは朝早く登り始めて夕方に下山するまでタバコの吸い殻、キャンディーの紙等落ちていないことです。山小屋は無人の処でも皿やタオルがキチンと整理されています。世界一の生活水準の高い国なのでその身倍の程が解ります。その後ロカルノの近くの山村に三百年以上経た家を買い求めました。凡て近代的に創り直し実に快適に暮しています。

そこに夏になると日本から金子、打矢、若井、千野の先輩たちが再三訪れ、よく一緒に山行しました。今にして思えば夢のような話しです。現在は小生も七十六歳になりましたので日本から年金で暮らしています。カミさんは小生よりも二十才も若いので現役ですので、カミさんに喰べさせてもらっています。従って老後の心配はありません。

彼女は特派員としてロカルノで働いています。小生があと十年、つまり八十六才まで生きると日本四十年、西欧四十年の暮しになります。小生の死後は簡単に始末してもらいます。焼場で遺骨をポリバケツに入れ(骨つぼは高価です)ヘリコプターに頼んでピッオヴォゴルノ(海抜二千五百メートル)に運んでもらいます。この山は自宅の眼前に聳え、実に姿の美しい山です。小生は一度は息子と、二度目は金子、千野先輩と登頂を試みましたが、成功していません。三度目は遺骨となって登山します。そこで散骨してもらいます。もっともヘリの代金が高いのでその代わりに裏の小川に流すことになるかも知れません。この家族の判断に小生は口出しできません。

小生は毎朝坐禅をしますが、その際に必ず両親に念ずることがあります。小生をこうして健康に生んでくれてありがとうと云います。この感謝の気持ちが大切です。皆さんも今からでも遅くはありません。御両親が健在ならばせいぜい親孝行のまねごとをするなり、もし逝去されているなら仏前に手を合わせるなり、仏壇もないならば心の中で挨拶して下さい。なにしろ小生は親不孝の最高峰を登りましたので。皆様の健康をお祈りします。

昭和34年卒  渡辺知也

DWV.OB会の思い出 富樫克己

校生時代、「道徳」の教科書に1953年にエベレスト初登頂したE.ヒラリー(&テンジン)の手記がありました(時は1966年頃ですから結構、情報としては早い)。M.エルゾーグのアンナプルナ登頂。また最近、1924年にエベレスト初登頂したかも知れないG.マロリー(Because it’s there-そこにエベレストがあるから..)の遺体が75年後の1999年に発見されたTV番組もありました。つまり、トレンドはヨーロッパから来ていました。

私の登山はあまり経験的ではない?友人に誘われるまま入部した私の登山の地に足が付いていないのは戦後日本の感覚に似ている?そんな感じでワンゲルに在籍していた?

たまに思い出した様に登山していた私に昔のワンゲルOB会からの参加案内が来ました。当時は皆、若く、OB会は発足したばかり。年齢的にも余裕の出てきたスタッフの集まりで結構、盛り上がっていました。現役時代も流される様だった私にはOBの方々との登山は俄然、リアルなものになりました。何か地に足が付いている人達?戦中派の自信と経験は得難い..高度成長期を支えていた先輩?知らない山に知らないまま参加し、何かあっても大丈夫..って感じでした。同級生との登山も復活し、彦坂くん、長瀬くん、知らなかった後輩との交流も始まりました。

当時の有志OB会山行を率いていたのは昭和35年卒の佐藤OBと常盤OBでした。佐藤奥様のイラストと共に月例山行のパンフが届きました。海外駐在の後、日本の友人関係も途切れ、手持無沙汰だった私は昔の登山を復活させた?まあ、年齢的にもトレンド的にも改めて中高年の登山は当時の先端だった?..のは如何にも獨協的?当時、佐藤先輩の住居が東武沿線だったせいか?山行は南会津が多く会津駒ケ岳、そして七が岳は素晴らしかった。水が流れる谷道を遡っていくって感じが新鮮で、ガスってた頂上付近の霊験さとの対比が渋く、日本的な山の雰囲気。ここら辺が西洋的なアルピニズムとは差異してる中国由来の山岳仏教的なアニミズムがなお、我々に残っているのでは?-遺伝子に残されている記憶、夢に現れてくる祖先の記憶が既視、デジャヴュしてる-かも知れません。3000m級の岩っぽい山(ALP=岩の山の意)はヨーロッパ的な近代登山、アジア的な緑っぽい山との象徴の違いでヒトが生きられないデス・ゾーンはアジア人には意味が無かったのでは?今ではむしろ、先輩達が近代モダン登山に近かった?..と思える時代になりました。

そんなこんなもあり10年ほどOBの方々と山行を繰返し、お陰で私の登山歴も個人的山行もあり現役時代より充実した内容になりました。OB会が無ければ私には山は遠かった..継続こそ力なり!思うに人それぞれ、人生のタイミングで突然、登り始めるヒトもいれば過去の実績を自負し止めてしまうヒトもいるでしょう。ヒトそれぞれ、人生いろいろ。現役時代、山は私には厳しかったけどOB会の山は優しかった。大人になって山を楽しむチャンスを与えてくれたOB会に感謝..。

昭和43年卒  富樫克己