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ワンゲル顧問の頃の思い 金 有一

長い教員生活の中で定年になるまでの最後の十数年間、新村三千夫先生とワンゲル部顧問として子供達に同行し20座に及ぶ百名山へのアタック、里山歩きの楽しさや苦しさを共有してきた。若い彼らは登るのが速い。日帰りの奥多摩などの引率は結構しんどい思いをしたが、宿泊を伴う山行の方が私にとっては楽であった。理由は一つ、背負う荷が彼らより軽いからである。日帰り山行ではザックの重さはほぼ同じだが、夏合宿などでは子供達はテントや食料など多分30kg以上を背負っていた筈である。顧問の私は身の回りの品だけで随分と軽くなる。その差で歩く(登る)早さは同じになるのである。こうして定年になるまで子供達と一緒に朝日、吾妻、大雪、南ア、北アの奥まで足を踏み入れることができたのも新村先生や同行したOB諸君、子供達の協力があってこそと感謝している。合宿当時、登山道や山小屋で出会った人たちとの思い出を幾つか記してみたい。

「白馬岳・朝日岳」合宿(1999年7月、3泊4日、猿倉~大雪渓~白馬岳~雪倉岳~朝日岳~五輪尾根~蓮華温泉~平岩):白馬尻で早めの昼食を済ませ、行動を開始したのは12時少し前、縦走用の重い荷物を背負い斜度のきつい大雪渓に難儀していた。突然の夕立ちで近くの岩場の陰で雨宿りを余儀なくされ、小降りになるのを待って6時までにはテント場につかなければならないと雨の中を再び歩き始めた。小雪渓手前で避難小屋を見つけまた小休止、中を覗くと暗いため人相は判らず、ただ一人軽装の男がいるというのが第一印象だった。突然、「先生!」と、驚くばかりだった。ここに教え子の関井君がいるとは予想だにしなかった。聞くと、山頂の昭和大学医学部診療所のスタッフの一員として奉仕活動し、今日の仕事は最後の登山客を見届けてから頂上の宿舎に戻るとのこと。彼に励まされテント場に着いたのは夕方6時を回っていた。翌朝、彼に別れを告げて朝日岳を目指す。鉢岳を巻き強風を避けて雪倉岳避難小屋での昼食は単独行の女性と一緒、言葉を交わすうちに彼女の壮大な計画を聞き、我が耳を疑った。日本海の親不知から北アルプス・八ケ岳・南アルプスを縦走し静岡県の大浜まで歩くとのこと、無事と完全踏破を祈らずにはいられなかった。時折り記憶が蘇り計画は完遂できただろうか気になっていた頃、年が明けて雑誌「山と渓谷」3月号に完全踏破達成の手記が目に止まり、彼女であることが直ぐに分かった。手記には住所の記載もありお祝いの手紙を書いた。彼女からの返信には『先日はお便りありがとうございます。風の強い7/23の雪倉岳避難小屋でのこと、よく覚えています。あの時頂いたスイカは本当においしかったです。・・・日記に毎日の食事のメニューも書いていたのですが、7/23のお昼のメニューには「スイカ(高校のワンゲル部に頂いた)」と書いてあります。・・・』とあった。この合宿は歩く距離が長く毎日10時間以上のアルバイトを強いられた。

「雲ノ平」合宿(2004年7月、4泊5日、折立~太郎兵衛平テント場~薬師岳~太郎平小屋~薬師沢小屋~雲の平キャンプ場~祖父岳~岩苔乗越~水晶岳~野口五郎小屋~真砂岳~湯俣岳~湯俣温泉~高瀬ダム):毎日が歩く距離の長い山行だった。薬師峠のテント場を早朝に出発し薬師岳をピストンして太郎平小屋で小休止後、北アルプスの秘境と呼ばれる黒部川本流との出会いに建つ薬師沢小屋までジグサグ道を下り、さらに雲ノ平の溶岩台地へ登り返す強行軍だった。水晶岳のピストンを終え東沢乗越のあたりから風も強くなり雨模様、午後3時を回っていただろうか、ずぶぬれになりながら野口五郎岳のテント場に着くとそこは閉鎖、幕営できないとのこと。止む無く野口五郎小屋で素泊まりとなる。献立はカレーライス。幸いに登山客もなく、小屋の方々のご理解を得て自炊が始まる。お手伝いに来ていた小屋のご主人の高校生のお嬢さんと子供達は意気投合、高校生同士楽しそうに和気藹々とカレーを作っている。完成したカレーを口にした小屋のご主人は、小屋のカレーよりも美味しいと褒めてくれた。この夜は心温まる小屋の方々との交流の場となったことは云うまでもない。

「荒川岳・赤石岳」合宿(2005年7月、4泊5日、椹島~千枚岳~荒川岳東岳~赤石岳~椹島):山行の途中から赤石岳で百名山完登を目指す富良野の獣医さん(テレビ番組・倉本聡「北の国から」で獣医役としても出演)と出合い99座目の荒川岳東岳、100座目の赤石岳に同行、子供達が立会い人となり百名山完登のお祝いをしたことは感慨深い経験だった。赤石避難小屋では獣医さんからお世話になったお礼にと子供達にジュースの差し入れもあった。この夜の登山者は獣医さんと我々だけ、小屋番氏が食後に面白い場所に案内するからシュラフをもって来るようにと云う。小屋から山頂近くまで行くと小屋番氏はシートを拡げシラフにくるまって仰向けに寝るようにと指示。漆黒の闇の中に都会では決して見ることが出来ない満天の星空、目が慣れてくると一つ二つと流れ星が多方向から流れる、人工衛星の赤い糸のような航跡に歓声が上がる。小屋番氏の解説を聞きながら獣医さんと一緒に壮大な宇宙の神秘さに想いを馳せたひと時だった。秋になって獣医さんから学校宛てに段ボール箱いっぱいの富良野産新ジャガイモが子供達に送られてきて、部室で分けたことも懐かしい思い出である。

「三頭山」送別山行(2007年2月、日帰り):私が定年を迎えた年の2月、送別山行・三頭山を企画してくれた。武蔵五日市駅に着くと駅前に、ハリウッドの映画スターが乗るような『大きな黒塗りのリムジン』が出迎えているではないか。何人が乗れるだろうか、対座のシート、車内の調度品に目を見張る。都民の森の駐車場に横付けすると大勢の登山者の視線がリムジンに向けられて、下りる時は少し気恥かしかったが、新村先生と子供達の心遣いが嬉しかった。新村先生、山行を共にして今はOBとなった諸君、ご一緒させていただいた数々の山行、原稿を書きながら懐かしく思い出しております。お世話になりました。

DWV元顧問    金  有一

植田先輩を偲んで 常盤雪夫

南アルプス 鋸岳ビバーク

手元に数枚のスナップ写真がある。その1枚には寒さからかズボンのポケットに手を入れ、寝ぼけ顔で焚き火跡を見ている私がいる。その後ろには大きな岩小屋があり、数多くの岳人が利用したであろうその天井は煤けて黒くなっている。

すっかり記憶が薄らいでしまった南アルプス鋸岳紀行はこのスナップ写真から始まる。メンバーは顧問の奥貫靖弘先生、3年の渡辺知也先輩、同じく3年の植田一朗先輩、そして2年の常盤の4人である。山行は昭和33年(1958年-)の5月連休の時のことである。

岩小屋を出発後、河原沿いの登山道はしばらくして鬱蒼たる樹林帯の中を進むようになる。やがて、1回目の渡渉地点に出る。先ず私が空身でザイルを着け対岸に渡る。その場で用心のため確保体制を執り、他の3人が1人ずつ次々と渡る。踝ぐらいの深さだがよろけると膝以上の深さまでつかってしまう。雪解け水は流れが速く清らかだが冷たい。最後に私が渉り直し渡渉を終える。渡る距離は10mほどだが結構時間を使った。このような渡渉を3回繰り返しやっと樹林帯を抜けた。

そこは稜線まで続くであろうと思われる長くて急峻なガレ場の下端である。明るい。

足元の岩は、鉄平石のように表面は平らだが、積み重なっているために不安定であり非常に歩きづらい。特に鋲靴の者にとっては滑ることも心配しなければならず気を使う。小休止の度に上を見上げれどガレ場は際限なく続き天空に突き抜けている。

急登と歩きにくさからこのガレ場を抜けるのには結構な時間を要した。

この紀行文を書くにあたり、あまりにも私の記憶が少ないのでインターネットで検索しコースや地名などの参考にすることとした。

検索によれば、我々のコースは、長野県・戸台口から戸台川沿いに遡行し、角兵衛沢から角兵沢衛沢の頭で稜線に達した後、第一高点(頂上)、第二高点を経て熊の穴沢を下山し戸台口に戻るというルートであったと思われる。

展望の利く稜線からは遠く北アルプス、中央アルプスの峰々、むろん北岳・千丈岳や前衛の山々が眺められた。すれ違うのにも苦労するほどの狭い尾根道、多少の岩登り技術を必要とする大小のピークを過ぎるころ、突然「ここでビバークする」の声。呆然とする。確かに時間は午後3時を過ぎているが、あるのは畳3枚ほどの岩だらけの狭い空間である。転落防止のためザイルで互いを結び合い食事の支度に取り掛かる。

ピークとピークが形作るV字型の間からは八ヶ岳の裾野がやや赤みがかって水平線ならぬ斜方線を描いている。一見地球が傾いているとも思える壮大な景色である。富士山の裾野も見事だが、視界一杯に広がる八ヶ岳のそれも負けてはいない。

軽い食事の後、寝袋に入り横になる。スペースの狭さとザイルで結びあっているため寝返りは出来ない。おまけにゴツゴツと背中が痛い。救いは顔の上に広がる満天の星空である。2000mを超える高地でのビバークであり、寒いが我慢出来なくはない。私は疲れもあって意外とよく眠れた。

ビバーク地点が第一高点に達する前の地点なのかそれとも後なのかは判然としない。その第一高点に関しては、後日叔父に会った際、第一高点にある石油缶が名詞箱代わりに使われていて叔父の名詞もある筈と聞いた。叔父が鋸岳に登頂したのは太平洋戦争末期のことである。

当時、私は植田先輩からパッカード(米国製乗用車)と呼ばれていた。馬力はあるが燃料を食う例えである。熊の沢を経て戸台口までの戸台川沿いの林道は途方もなく長く感じられ、4人はあまりしゃべらず無口でひたすら歩いていたが、突然、植田先輩から”シジミ蝶”についての話を持ちかけられたのは意外だった。その蝶の可愛さ、可憐さなどについて先輩は朴訥に話した。60年前のことである。

すでに鬼籍に入られた先輩は、そのとき私に何を伝えたかったのだろうか。

                                                      昭和35年卒     常盤雪夫

 

杉島佑一君との想い 佐藤八郎

彼との出会いは、高校1年の時同じクラスになり席が近く小生を囲み、杉島君、そして金君と話が合い、山の話になりました。

小生がワンゲルに入部しようと誘ったところ杉島君が入部したいと言うので、二人早速入部。それから40年以上の付き合いが始まりました。

高校時代は毎週の様に奥多摩、丹沢山系の山へ行きました。彼の実家は名栗でしたので、御実家に泊まって武甲山へ山登りしたものです。大学生になってからは、山ではなくスキー、スキーでした。

そんな彼は、高校1年から登山靴は革製、小生はキャラバンシューズでした。スキーをする時は、当時最高級のホワイトスター、衣装はトニーザイラーが映画で着ていた様な格好で滑っていました。私としては、学生として不思議に思いました。

其の後、社会人になり彼は建築会社へ、小生はベアリング会社へと、それぞれの道へ進みました。

今振り返りますと、短い命に只々驚き、今は冥福を祈るばかりです。

昭和35年卒   佐藤八郎

彦坂震三氏の思い出 中野 茂

彦坂震三氏は昭和43年3月の卒業生で、同年4月に中学に入学した私とは目白の校舎では入れ違いの関係になります。因みにワンゲルの部室があったという木造図書館はこの年に建て替えが始まり、部室棟として作られたコンクリート長屋へ移ったのはこの年だったのだろうと思います。

彦坂氏との交流が何時頃からだったのかハッキリとした時期は思い出せないのですが、平成5年には間違いなく同乗していたり自宅にお邪魔したりしていましたので、彦坂氏が亡くなられる平成18年11月までのおおよそ15年の付き合いであったと記憶しています。

荒川区尾久で幼少期を過ごして、一時期、母上が勤めていた小学校の校舎に住んでいたことがあるという話を聞いたことがありました。私が知り合ったころは越谷市で食料品製造業を営んでおられました。それ以前には自動車部品製造をしていた時期があったとも聞いた覚えがあります。獨協大学時代は校舎よりも雀荘に多く通い、雀士を自認する父上から盲牌の甘さを指摘された事に奮起して、盤面を滑らせるだけで牌の区別がつくまでに上達したという話を聞いた事があります。しかし、OB会には私はもとより打ち手がいませんのでお手並みを見ることはありませんでした。

私の家族はみな杏が好物だと言うと店頭では5粒6粒の単位で売る代物を大量に頂き、その後に加工現場を拝見したところ従業員が1粒ずつ手作業で整えている姿をみて、大いに恐縮したものです。

彦坂氏とは車に同乗して出かけることが多く、小諸日新寮の親睦会、水晶山の四万温泉、筑波山、岩櫃山のときは先乗りして本隊と合流する前に浅間隠山を歩きました。この原稿を書きながらポロポロと話が思い出されるのは、移動中の時間を多く過ごした故と思います。

先にも書きましたが、彦坂氏は平成18年に亡くなりました。私はお見舞いには行っていません。楽しく付き合った人の末期を見るのは辛いというのが理由です。あと病室の彦坂氏から還暦記念の “ 赤シャツ ” が着たいとの願いがあり、私なりに奔走したつもりでしたが、ご家族のもとにお届けできたのは亡くなられた後でした。申し訳ないと思っています。

昭和49年卒 中野 茂

千野一郎さんを偲んで 長瀬 治

“飄々ひょうひょうとしたムードメーカー   ”千野一郎さん

千野一郎さん(1958年卒)との初の出会いは2002年6月第17回総会(銀座「獨協倶楽部」)である。“二次会”となったビアホールでは千野さんと席が隣り合わせになり、「会社を整理し,時間ができたのでこれからは機会をみて参加するからよろしくネ」とのことだった。

10年年長で初対面でもあった千野さんにいささか緊張しつつも酒を交わしながら、佐藤八郎さん(1960年卒)主催の月例山行やスキー行のことなどを歓談し、「スキーはちょくちょく滑っているよ」と千野さんは話した。

OB会有志によるスキー行は新潟県湯沢が初回(1998年2月)だが、この二次会に同席していた富樫克己現OB会長が翌年2003年1月の湯沢スキー行に千野さんの参加を取りつけた。これをきっかけとして先輩後輩という垣根を越えた(と私は勝手に思っている)千野さんとの楽しいお付き合いが始まった。

月例山行はひとまずおいて、千野さんのスキーはうまかった。無理無駄がなくポイントを押さえた安定感のある滑り……と言え、スキーはちょくちょくやっている感はたしかにあった(スキー雑誌の編集アルバイトをしたことがある私の経験から見ての感想だが)。

それにくらべ,私はといえば、「力(りき)み過ぎているよ。迷いがあるよね。もっと肩の力を抜いてリラックスしたほうがいいと思うよ」と私の滑りを見た千野さんから、ワンポイントアドバイスを受けた。

滑りやスタイルには、その人の生き方やありようのみならず性格すらも反映するものと思っているので、往時の私の置かれた状況を千野さんにひと目でずばり見抜かれたおもいがしたことは、いまでも忘れられない。

湯沢以外では千野さんの軽井沢にある山荘(ログハウス)が,近隣スキー場へのベースとして提供され、佐藤さんや常盤雪夫さん(1960年卒)らとともにたびたびお世話になり、夜の酒宴でも笑い声が絶えなかった。

山をおりたあるときには、「ナガセちゃん、ライブハウスに行かないかい?」と弾んだ声でいきなり電話があり、千野さんお気に入りのバンドが演奏するからと原宿のライブハウスへお伴したこともあったり……。

十数年間のお付き合いだったが、月例山行やスキー行を問わず、いつも笑顔で飄々として場を盛り上げるムードメーカーだった。

*2015年10月9日秋晴れ。数年前から人工透析の身だった千野さんは「突然,大動脈解離に見舞われ、本人も何が起こっているのかわからないうちに意識がなくなり……、最後までおしゃれでスマートで、ちょっとおとぼけな人でした……」(42年間連れ添った千野光子さん談)。75歳だった。

アルプスを臨む韮崎の墓碑には『慈鳳院銀嶺友楽居士』(じほういんぎんれいゆうらくこじ:大きな鳥になって、はるか彼方から雪山を臨み、多くの友人と音楽を楽しみながら、ゆったりと遊んでいる仏さま)とある。

昭和43年卒 長瀬 治

第33回総会の議題と承認された事項

2018年5月27日、小石川後楽園の涵徳亭で開催された第33回総会において以下の議題が上程され下記の通り承認されましたので、お知らせします。

①今年度役員について

会長 冨樫克己 広報 手島達雄 会計 中野 茂の再任が承認されました。

②会計報告について (総会時を起算として)

前年度繰越し金 179,161円

親睦会案内状往復葉書(124×120枚) 14,480円

総会会場予約金 5,800円

総会案内状作成(110枚) 13,640円

HP契約金(1年間分) 6,180円

記念誌印刷代 81,480円 記念誌郵送代金 14,700円 編集会議会場使用料 5,450円

残金 37,431円 (今年度予算)

③30周年記念誌作成について

編集委員長の柳澤孝嘉、および編集委員の手島達雄、中野より作成についての報告がありました。まだ、残部があるので必要な方は申し出ください。

④秋の親睦会の日程会場について

秋の親睦会は9月23日(日)、24日(月)に小諸の日新寮で行うことが決定しました。ぜひ、今のうちに同期の方などに連絡いただいて日程を調整いただけたらと思います。親睦会でお会いできることを楽しみにしています。

第33回総会の様子 2018

2018年5月27日(日)

17時定刻に2018年総会が小石川後楽園の涵徳亭にて開催されました。

出席者は32年卒の打矢之威、33年卒の若井 永、井上正己夫妻、滝川国勝、33年卒の千野一郎夫人の千野光子、35年卒の佐藤八郎、41年卒の菅野則一、43年卒の冨樫克己、長瀬 治、44年卒の木村泰樹、47年卒の二村謙次、手島達雄、49年卒の柳澤孝嘉、中野 茂、元顧問の飯島義信、金 有一、元顧問故高梨富士三郎長男の高梨 哲の18名でした。(敬称略)


議題は以下の4点について事務局の中野より提案され、下記のように承認されました。

①今年度役員について

会長 冨樫克己 広報 手島達雄 会計 中野 茂の再任が承認されました。

②会計報告について (総会時を起算として)

前年度繰越し金 179,161円 

親睦会案内状往復葉書(124×120枚) 14,480円

総会会場予約金 5,800円

総会案内状作成(110枚) 13,640円

HP契約金(1年間分) 6,180円

記念誌印刷代 81,480円 記念誌郵送代金 14,700円 編集会議会場使用料 5,450円

残金 37,431円 (今年度予算)

③30周年記念誌作成について

編集委員長の柳澤孝嘉、および編集委員の手島達雄、中野より作成についての報告がありました。

④秋の親睦会の日程会場について

秋の親睦会は9月23日(日)、24日(月)に小諸の日新寮で行うことが決定しました。

メールマガジン5月号/2018

獨協中学・高等学校ワ ンダー フォーゲル部OB会 オンラインマガジン 2018 / 5 / 24
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【1】OB会総会間近
【2】OB会30周年記念誌はご覧いただけましたか
【3】高梨ノートが新シリーズに変わりました
【4行ってきました 山行Now
【5】編集後記
【6】記事の募集とメールマガジンについて
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【1】OB会総会間近
OB会総会 5月27日(日)    5時から  小石川後楽園  涵徳亭にて
参加のほどよろしくお願いします。お会い出来る事を楽しみにしています。
なお、5月20日が返信ハガキの締め切りになっていますが出し忘れはありませんか。今からでも対応可能ですので事務局の中野か下記メールアドレスまで連絡下さい。 dokkyo.wvob@gmail.com
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【2】OB会30周年記念誌はご覧いただけましたか
 
 今までOB会を支えていただいた会員各位への感謝と会員相互を結びつけ、これからのOB会の発展継続に繋げていけたらという思いで編集委員長の柳澤孝嘉以下、中野 茂、手島達雄の3名で誌面づくりに取り組んでまいりました。会員各位から寄稿いただいた原稿や貴重な資料や情報を元に30余年の”あゆみ”としてまとめ完成させることができました。
 
不備な点など多々あると思いますが、ご笑覧いただき気がついたことなどありましたら連絡いただければ幸いです。なお、寄稿文などについては順次ホームページにも掲載し、DWV.OB会の記録として残していきたいと思っておりますのでよろしくお願いします。
 
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【3】高梨ノートが新シリーズに変わりました
ホームページに掲載している元顧問の故高梨先生の山行メモを「高梨ノート」として掲載していますが、1996年から1972年分までの掲載が終わり現在1960年からの新しいシリーズを掲載しています。1960年の夏の飯豊では「テントが吹きとばされるのではないかと思う。吹きとばされた時のことを考える。生徒はイビキをかいて寝ている。1:05 風依然として強し 夜が明けるのが待ちどしい 横風 前風 やたらに吹きまくる。腹が立ってきた。風のバカヤロー」同年の浅間山では「つまらない山だ」「わたしと奥貫とは小便を火口にして下山」とかの記述もあり、豪快な高梨先生の人柄が偲ばれます。同年冬の高妻山では下山時の緊迫した状況も注目されます。「高梨ノート」はHPの「埋蔵品」に収められています。
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【4】行ってきました 山行Now
鍋割山(1,273m)丹沢山塊  4月29日 2018年
49年卒の柳澤、柳原と47年卒の手島の3人で行った丹沢山塊の鍋割山の記録です。寄(やどりぎ)からの鍋割山コースは渡渉あり、足場の悪いトラバースあり、鎖場あり、痩せ尾根ありという変化に飛んだコースででした。GWだったので、頂上にはたくさんの登山客が昼食をとっていました。
川苔山(1,364m)奥多摩 5月5日 2018年
DWVでは新人歓迎などでもよく使われた奥多摩でも人気の山です。GW中、奥多摩駅は通常1時間に1本のバスが臨時バスが次から次へと出される人出でした。
雨の尾瀬ヶ原  5月17日 2018年
例年だと尾瀬のミズバショウは6月上旬が見頃なのでしょうが、雪解けが早かったのもあるのでしょうかミズバショウも今年は2週間ほど早く開花を迎えたようです。尾瀬ヶ原の見頃はすでにビークを過ぎたようで、リュウキンカもちらほら咲いていました。これからは尾瀬沼の方に見頃が移っていくのではないかと思われます。
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【5】編集後記
 
先日登山家(冒険家)の栗城史多さんが8度目のエベレスト挑戦中、体調を崩して下山中に低体温症で死亡しているのが見つかったというニュースが飛び込んできました。栗城さんは登山を始めて5年間に6大陸の最高峰単独の登頂に成功し、2009年以来エベレストの登頂に挑戦していました。2012年には4度目の挑戦で9本の指を凍傷で失っています。栗城さんのエベレストの挑戦はノーマルルートではなく難しいと言われている北壁ルートで、しかも単独、無酸素という極めて困難な挑戦でした。体調が悪くなり登頂を断念して7,400mからの下山中の出来事だったようで死に至った詳細は届いてきていません。栗城さんの挑戦はインターネット中継などを通して共有するなど注目を受けていました。登山家のあり方として賛美両論あった方でもありました。ご冥福をお祈りします。
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【6】記事の募集とマガジンについて
 
このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

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獨協中・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会 オンラインマガジン 

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OBとしてDWV冬山合宿に参加した時の思い出  打矢之威

私は1954年(昭和29年)独協高校1年生の時、同級生の森本(故人)加藤(故人)、丸山、赤瀬の4人と独協高校ワンダーフォーグル部創設に関わりました。その1年後(1955年)、 井上、植村(故人)、滝川、若井、牧田の諸氏が入部し、さらに1956年に南(故人)、千野(故人)が加わりDWVの基礎ができました。当時英語の講師として早稲田大学の渡辺英太郎先生(W大WV部監督)、日本史の皆川完―先生(日本山岳会会員)等、そうそうたる山の専門家が独協で教鞭をとられており、また大田 資、奥貫 晴弘、高梨 三郎等の諸先生もWV活動に関心を待たれていたので創部初期から指導者に恵まれていたと思います。さらには理科授業の助手であつた東京理科大山岳部在席の金子雄一郎氏も幾多の山行に同行されたと思います。

私は浪人後早稲田大学商学部に入学し我慢していた山登りを再開、早速早稲田大学山の会に入部して本格的に山登りを楽しんでいました。確か大学3年の冬、最も山登りが充実し経験も技量も積んだころ、奥貫先生からお誘いを受けDWVの冬合宿にコーチとして参加することになりました。

目的の冬山は豪雪地帯として有名な戸隠連峰の奥にそびえる高妻山、前年の冬合宿でもチャレンジしたが悪天候と深雪で失敗したので、その年は何としても登頂を果たすと皆リベンジに燃えていたと思います。期間は12月22日から1週間ぐらいの予定。参加者は総勢10名ぐらい、奥貫先生以外私は会うまで顔も知らない若者(高校生)達でした。確かCLは高島(?)、SLは斎藤君(?) 何しろ50年以上前の出来事なのですべてに朧気で参加者の名前や日時やコース等も思違いや錯誤があると思いますが、今でも鮮明に脳裏に残つている出来事は遭難寸前まで追い込まれた一連の状況です。

戸隠連峰は屏風のようにそびえる鋭鋒が前面に立ちはだかり、その間隙を縫って谷川沿いに高妻山の登山路に近づくコース、途中30-50Mぐらいの滝場があり積雪と氷着いた岩場が交互に連続して冬場は難コースでした。滝場の上に避難小屋があり、そこに大量の登山具、食料などデポして頂上アッタクに備える段取りになっていました。その年は未曽有の大雪で下山後知ったことですが上信越は1週間ぐらい連続して猛吹雪が荒れて、道路、鉄道すべてのインフラがマヒしていたとのこと。我々も全く動けず、毎日避難小屋でゴー ゴーという荒れた天候に堪え、ひたすら天気の回復を祈るのみ。12月22日に入山後全く動けず、年末まで沈滞を余儀なくされた。今年もダメかとあきらめムードが出始めたが、多分晦日の30日。その日は朝から快晴になり、高妻の大斜面は真っ白な新雪に覆われ正に天祐の瞬間と感じられた。このチャンスを逃してなるものかと全員張り切って出発。ところが体がすっぽり埋まるほどのフカフカの新雪は全くはかどらない。そこで先頭隊員を空身にして5メートル、10メートルとラッセルさせる。ばてると次々と先頭を交代させ、スタカットラッセル。高度差2-300メートルの急斜面を雪のトンネ ルを作るがごとく牛歩戦術で高度を稼いだ。予定より大幅に遅れ頂上に着いたのは午後1時頃、全員で万歳して冬季初登頂の喜びに浸る間もなく、私は帰りの危険を考えると気持ちが重かった。頂上直下の大斜面は新雪に覆われ、白一色のっぺら坊の雪崩の巣みたいな場所に見えた。 標高2,353Mのおむすび形の優美な山容だが積雪した冬季になると真に危険な山に豹変する。予定より大幅に遅れているのですぐにでも全員下山させたいが、新雪の大斜面は大勢で一気に下ると雪崩に巻き込まれる。そこで奥貫先生と相談して一年生から順番に一人一人安全な灌木地帯まで間をおいて下らせたので時間がかかる。先生にお先に降りてくださいとお願いしたが”いや私は最後で良い、君が先に降りろ”と全員安全を確かめてから自分は最後に行動する。まさに沈没しかかった駆逐艦の艦長のような責任感のある先生であった。最大の難所は切り抜けたが、まだまだ滝場岩場、急斜面の連続で全員くたくた汗まみれ雪まみれ。日は暮れてくる。早朝から10時間以上行動している。

やっと谷間の渓流地帯にたどり着いたが、高校生たちはふらふら夢遊病者のように足元が定まらない。そのうち何人かは凍りついた渓流に倒れ込んでしまう。このままでは凍死の危険がある。そこで叱咤激励しながら全員上半身を裸にさせ、乾布摩擦と乾いた下着に取り替えさせ、大型の凍てついた重たいキスリングはその場に放置させ、空身になって隊列を組ませ大声で校歌などを歌いながらひたすら前進した。真っ暗な中たぶん夜8時か9時ごろ、前方遥か遠くにポツンと裸電球の明かりがぼーっと見えたとき、正直言ってこれで助かったとほっとした。着くとそこは戸隠奥社の小さな社坊であった。ドアーをドンドン叩くと神官が顔を出しびっくりした様子で”あんた達一体どこから来たんだ!”と叫んだ。一部始終を説明し、このままでは子供たちが凍死しかねない、何とか今晩だけで泊めて欲しいと懇願した。そして親切な神社に命を助けてもらった次第です。あの時の光景と切迫した気持ちは生涯忘れられない。奥貫先生も同じお気持ちであったでしょう。

  昭和31年度卒  打矢之威