tejima のすべての投稿

三毳山(みかもやま) 青龍ヶ岳229m 佐野市

2018年3月25日(日)

佐野藤岡ICを過ぎた辺りから快晴なのにナビが「雨で速度が制限されています」と言っている。可笑しいなと思った。

今日はカタクリが満開だと言う事で栃木県佐野の三毳山にカタクリを見に行ってきた。

佐野SAのスマートICを目的地にしていたが出口を見失い、そのままSAに入ってしまった。出直しができそうもないので、一つ先の出口まで行くことになってしまった。仕方なく次のICまで行って、一般道で目的地の「万葉自然公園・かたくりの里」を目指す。駐車場は8時開場だったので、その時間にと思っていたが8時を過ぎてしまった。カタクリは1週間くらい前に既に満開になっていたので、今日は見頃の日曜日なので混雑が予想されていた。それでも駐車場には8時10分くらいに到着することができた。既に車がたくさん駐車しているものの余地はまだまだ十分あった。

早速、身仕度を整えて出発。ザックを背負った山支度のハイカーが多い。こちらは登山靴は履いているものの、ペットボトルとカメラと上着程度しか持っていない。ラインカーで線を引いている駐車場係りの人が昨夜雷鳴がなって、みぞれが降ってラインが全部消えてしまったと教えてくれた。高速道路のアナウンスの謎が解けた。

管理棟のある駐車場からなだらかな道を上がること15分くらいでカタクリの群生地に着いた。

まだ陽光が差していなかったのでカタクリの花は下を向いたままだったが、カタクリの予想以上の群生にびっくりした。道の両方の斜面にびっしりとカタクリが群生していた。多くの望遠レンズを携えたカメラマンが道の端に座り込んで花が開くのを待っている様子だった。

帰って来る頃には花が開いているだろうと、まずは三毳山最高峰の青龍ヶ岳までピストンで行くことにした。展望台(展望台といっても眺めはよくない)経由で頂上に行く道もあり、途中で合流する。

低い山ではあるものの結構息が上がった頃、9時に頂上に到着。佐野市内が一望できる。その奥に控えて見える山が大小山(314m)ということで、地元の方に「”大”と”小”の字が見えるでしょう。とても楽しくいい山ですよ。」と教えていただいた。

頂上から降りて来るとカタクリの群生地には観光客、カメラマン、ハイカーなど人がたくさん増えていた。カタクリは花芯を見せながら花弁を折り曲げて咲いていた。高速や国道からすぐ近くにあって、これだけのカタクリがいい状態で群生が保持されているのはすごいことだと思う。

帰り道、道沿いの野外ステージでケーナ演奏家の演奏を無料で楽しむ事ができた。駐車場に戻ったら駐車場は満車状態で入場待ちの車が道に渋滞していた。

佐野市のゆるキャラ ”さのまる君”登場

今度はここから岩舟寄りの佐野バイパス沿いにある「道の駅みかも」に車を置いて「みかも山公園」の南入口から三毳神社と中岳を目指してピストンする。上りは舗装道路の七曲がりで山頂中継広場まで行き、そこから山道で三毳神社まで行った。

公園内を周遊するフラワートレイン
中継広場から三毳神社への道

三毳神社の社は頑丈な扉が閉まっており、賽銭を投入できる口が開いていたが、どうもありがたさが感じられないので、賽銭を入れる気にはなれない。三毳神社から中岳までは10分くらいであった。

途中芝生に覆われたハングライダーの離陸場があり、日向ぼっこをしているハイカーが寝そべっていた。

中岳の頂上は山頂広場へ向かうルートとかカタクリ園へ向かうルートの分岐になっている小さなピークだった。

カタクリの園は「かたくりの里」よりも規模は小さいものの同じように斜面にカタクリが群生して見事だった。ここからは5分くらいで駐車場のある東口へ行けるが山頂広場、中岳経由で三毳神社まで戻った。

三毳神社からは七曲がりの舗装道路ではなく公園の南口の端から神社に直登できる落ち葉に覆われた古い石の階段を一気に公園の駐車場まで下りた。

道の駅に戻り、地元の野菜などを買い込んだ。時間はちょうど昼時、佐野ラーメンか食べ放題のイチゴにする二択だろう。もう若くはないので一度に両方は無理。佐野ラーメンは後日ということにして近くの農協が営業するイチゴの食べ放題(30分で¥1.500)に決めた。

イチゴのヘタ入れのカップが1杯になった頃お腹もいっぱいになりカタクリ見学の三毳山は終了です。


DATA

三毳山は南北に位置しているので車でアクセスする場合は別ルートで往復するか、駐車場までタクシーを利用するかということになってしまう。今回は北端から青龍ヶ岳を往復し、車で南端まで行き、三毳神社、中岳、三毳の関を往復するということで、途中の30分くらいを端折っての縦走になった。

かたくりの里駐車場8:10 カタクリ群生地 青龍ヶ岳頂上9:00 野外イベント広場(ケーナミニコンサート) かたくりの里駐車場10:45

道の駅みかも11:10 中継広場11:40    三毳神社11:45 中岳12:00 かたくりの園12:10 三毳の関12:20    頂上広場12:25 中岳10:35 三毳神社12:40 公園南入口12:50 道の駅みかも12:55

登山用スマートフォンGPSアプリの活用

登山ほかフィールドスポーツでGPS専用機やGPSウオッチが近頃流行って来ています。しかし、機能も値段もそれなりのようです。GPS専用機の場合は高いもので8万円程度しますし、GPSウォッチの場合でも3万円程度はするようです。しかし、どうしても表示部分が小さいので地図に対照させて現在地やトレースをしたりということになると思った機能が得られない事が多いようです。それに比べてスマートフォンにはすでにGPSが内蔵されているので、無料アプリをインストールしてあらかじめ地図をキャッシュに保存しておけば圏外でも使うこともできますし、機内モード(消費電力をセーブできる)でも現在地を知ることもできるので、結構重宝するものと思います。また、その他色々な機能もありますので、是非一度試してみることをお勧めします。いまやGoogleMapが当たり前のように道探しのグッズとして利用されているように山でもそうなるのでしょうか。ただし、谷筋の場合ではGPS衛星を捕捉できない場合もあり、電池の容量不足などの問題もあり、補完できる複数の手段を持ったていなければならないのは自明のことと思われます。

代表的なアプリは「Geographfica」「FeildAccess」「ヤマレコMAP」の3つですが、いずれもiphoneでもAndroid携帯でも対応があります。いずれも制限なしの有料版と部分使用制限がある無料版がありますが、一般的な使用の範囲でなら無料版で十分事足りると思います。以下、Webで詳細をお確かめ下さい。

「Geographfica」 http://geographica.biz

「ヤマレコMAP」http://www.yamareco.com/yamareco/map

「FeildAccess」 https://internet.watch.impress.co.jp/docs/column/chizu/477479.html

「御嶽山噴火 生還者の証言」を読んで

「御嶽山噴火 生還者の証言」

あれから2年、伝え繋ぐ共生への試み 小川さゆり著

この事故では58名が死亡、5名が未だ不明のままになっています。2014年9月10日、11日と火山性微動が50回を超えていたものの、警戒レベル1は継続のまま11分前に登山者には気づかれない程度の微動の後、11時52に唐突に水蒸気爆発を起こしました。

噴火は秋の紅葉シーズンまっさかりの晴天の土曜日、そしてお昼の時間帯であり、山頂付近には250人ほどの登山者がいたと言われています。御嶽山は1979年10月28日にも水蒸気爆発を起こしているものの登山シーズンからは外れており、また噴火もゆっくりだったこともあり怪我人は出たものの死者は一人もありませんでした。

今回の噴火は一番人が集まっている時間帯に逃げる余地も時間もなく一気に大きな爆発が起こってしまったことで多くの被害者を出すことになってしまいました。運も大きく作用していたのでしょうが、火口近くにいたにも関わらず生還した人もありました。

その一人が登山ガイドをしているこの本の筆者の小川さおりさんでした。不幸中の幸、運にも恵まれたのでしょうが、当日の登山はガイド登山ではなく身軽な単独での下見登山であり、彼女は登山経験に基づいて臨機応変に対処したことで命を免れました。

この本は小川さんの噴火時に居合わせた経験を元に登山ガイドとしての視点から他の証言も混えながら御嶽山の噴火はどんなものであったかを教えてくれるものです。

いつ何時どんなことが起こるか分かりません。日本の代表的な山である百名山で言えばその34座が活火山にあたります。心の備えとして噴火とはどんなものなのか知っておく必要があるのではないでしょうか。

以下、小川さんの体験した噴火からその終息までの状況について小川さんの証言について抜粋してまとめました。


「ドドーン」というあまり大きくない低い音がした。剣ヶ峰の右奥に、見上げるほどに立ち昇った積乱雲のような噴煙と青空一面に放り出された黒い粒を見た。視界を遮る腐卵臭のするガスに巻かれた。温泉地にある「立ち入り禁止」の箇所で、もくもく出ている、あの少し黄色味かかった濃いガスだ。

噴煙を見てから20秒あったかどうか。鼻につくそのガスが喉に張りつく。ガスを吸わないように我慢するが、苦しくて吸ってしまう。酸素ではないので吸えば吸うだけ苦しくなっていく。喉を押さえてのたうち回る。

「もうダメだ」そう思った瞬間、風向きが変わったのかガスの臭いはするが、何とか息ができるようになった。今生きているので、そう長い時間ではなかつたと思うが、このとき、一番死ぬ恐怖を味わった。

1分くらいだろうか。それ以上長かったらここで死んでいた。視界はうっすらと自分たちの周りだけは見えていた。ついに放り出された噴石が降り出した。噴石を見てから2分弱はあった。その音は、説明しにくい凄まじいものだった。山で聞く落石の「ブーン」という音よりさらに早く、それが雨のように大量に真横に飛んでくる。噴石が山肌にぶつかり砕ける音と焦げくさい臭いがした。口の中はじゃりじゃりで水分がなく、喉が張りつきそうだった。噴火から6分くらいだと思う。

12時少し前、冷たい新鮮な空気が吹き込んだ。ガスの臭いのない新鮮な空気だった。15秒くらいで2回目の爆発があった。12時くらいのはずである。辺りは真っ暗闇になる。目の前にかざした手のひらが見えない。まったく見えない暗闇のなか、噴石が飛んでくる絶望的な音や鈍い爆発音も聞こえた。噴石と一緒に小さな石の粒がざんざんと降り出し、あっという間にしゃがんでいる腰まで埋まった。熱くはなくちょうど砂風呂に入っているようだった。

そして3回目の爆発が起きた。時間はおそらく12時30分くらいだと推測する。「ドッカーン」という物凄い音がした。時折ぼんやり見える視界を小さな穴から肩越しに見ていると、灰色のなかをレンジ、洗濯機ほどの黒い影が一瞬で視界から一ノ池方向に消えていった。そして軽トラックほどの黒い塊を見た。ずっと暗闇だった。

噴石が止んできた。真っ暗闇のなか雷が横に何本も走った。剣ヶ峰方向に、今度は縦に雷が3本走った。噴火してから約1時間。12時50分ごろ。最初はぼんやりと、次第にはっきりとあっという間に視界が開けた。目に映るその光景に息を呑んだ。見えるものすべてが真っ黒だった。まったく色のない世界に一変していた。私は稜線から全身が隠れる岩場を探し、一ノ池方面に下っていた。

私は急な斜面を足を怪我しないように慎重に、かつ大胆にかかとを使いかなりのスピードで駆け下りた。膝上まで積もった灰は、新雪のなかを走るように私にスピードをくれた。

セメントのようなべたべたした雨が降ってきた。セメントのような雨はすぐに止んだ。セメントのような雨が靴の裏につき、そこに火山灰がつく。靴が重く高下駄のようになる。ちょうどアイゼンに雪がつき「だんご」になるのとまったく同じである。・・・私はここに来て「助かった」というより「生き抜いた」と感じた。そして「ホッ」とした。


小川さゆり 著 ヤマケイ新書 2016年10月5日 山と渓谷社 あれから2年、伝え繋ぐ共生への試み

沼津アルプス(静浦山地)縦走

2018年3月18日(日)

低山ながら起伏の激しい香貫山(193m)、横山(183m)、徳倉山(256m)、志下山(214m)    、小鷲津山(330m)、鷲津山(392m) 、大平山(356m)という7つのビークと八重坂峠、横山峠、志下坂峠   、馬込峠、坂下峠、多肥峠、多肥口峠の7つの峠を縦走する通称「沼津アルプス」と呼ばれるハイキングコースです。この沼津アルプスは海底火山群が本州と衝突して伊豆半島が形成された中で隆起した山地で火山噴出物などの伊豆ジオ遺産の地でもあります。

ハイキングといっても結構登り下りが激しく、フィックスされたロープ場や鎖場、岩の痩せ尾根などもあり、体力的にも技術時にも舐めてかかれない山ではあります。何といってもそれぞれの地点で駿河湾や富士山を眺めながらの縦走は飽きさせません。また、エスケープルートが豊富なので全山縦走ではなく、体力に応じてそれぞれの山を分けて登ることも可能なコースとなっています。

当日は天気は良かったものの残念ながら富士山は眺めることができませんでした。お目にかかったのは帰りの三島の電車の中からだけでした。

沼津市観光情報WEBサイトから

香貫山登山口の近くまでバスでも行けるようですが(黒瀬バス停)、沼津駅南口から市役所を目指して直進し、橋を渡ってから歩道橋のところで左折し、神社を過ぎたら道を渡り、しばらく行くと登山口の道標があります。階段を上がってしばらく行くと五重のある広場に着きます。眼下に沼津の街が眺められます。朝早かったので、ここで朝食をとりました。

愛鷹山はよく見えるものの、その上に見えるはずの富士山は雲に隠れて見えませんでした。

広場から駐車場を経て、香貫山環境保全林という大きな表示のある登り道を上がって行きます。途中山道が分岐しますが左手の方へ行くと景色の良い尾根道になります。

香貫山頂上

頂上ぐるっと回ってから、「沼津アルプス」との表示のある方に進んで行くと公園の中を突っ切るように導かれます。

公園エリアから下山するように林道や車道を経由して八重坂方面に進みます。

八重坂峠

ここからはいよいよ登山道らしい急登になっていきます。

横山

横山峠

徳倉山頂上

徳倉山頂上は明るく広いので昼食をとるのにもいい場所になる。徳倉山は像の背中のような山容の山で、しばらくなだらかな部分が続きます。

香貫台分岐

太平洋戦争時にこの地に機関銃の台座が設置されていたということです。

塩満村を見渡せるこの地に江戸時代に建立されたという馬頭観音の碑が残っています。

志下坂峠
大トカゲ場
小鷲津山と鷲津山

この縦走で一番の難所は小鷲津山と鷲津山でしょう。長く続くわけではありませんが、フィックスされたロープをつい握ってしまいます登り下りが結構厳しい所です。

馬込峠
ぼたもち岩
志下峠

中将さん
小鷲津山

平重衡終焉の地
鷲津山頂上
眺めはあまり良くないがベンチもあり広々としていて、昼食には絶好の場所である。

この日は日曜日ということもあり5、6人のグループが何組もあり頂上は賑やかでした。

大平山を目指します。

多肥峠から多肥峠口まではウバメガシのやせ尾根が続きます。

ウバメガシ林の岩の痩せ尾根

多肥峠口から大平山をピストンします。

大平山頂上

多肥口峠

多肥峠口から多肥海岸への最後の下りになります。

登山道が終わり林道になる。

国道に出て、突っ切って土手を上がって行くと海岸に出られますが、国道をトンネルのある方向とは逆の左の方向に少し行き道を渡ると沼津駅行きのバス停があります。駅までは480円で30分ほどです。かすかに下界のいろいろな音を聞きながらも駿河湾の景色とダイナミックな山登りを楽しめる楽しい低山縦走でした。

昭和47年卒 手島


コースDATA

東京駅6:33発 こだま631号 三島駅7:24着 7:29発 沼津駅着7:33 香貫山登山口8:00 五重の塔8:11 (朝食)     香貫山8:43 八重坂9:11 横山9:33 横山峠9:51 徳倉山10:15 銃座10:32    志下坂峠10:57 大トカゲ場11:00    志下山11:10    馬込峠11:15 ぼたもち岩11:25 中将岩11:32 小鷲津山11:48 鷲津山 12:03(昼食) 多肥峠12:46 ウバメガシ林の岩の痩せ尾根 多肥口峠13:09 大平山13:21 多肥口峠13:34     林道13:45 三叉路13:54    多肥海岸14:00    多肥バス停14:04

八甲田山雪中行軍遭難事故

”八甲田山雪中行軍遭難事故”は1902(明治35)年1月、対ロシア戦を想定し青森の大日本帝国陸軍歩兵第5連隊の特別編成部隊が寒地での兵営の研究と訓練の一環として計画・実施された”八甲田山雪中行軍”により参加者210名中199名の死者を出した日本史上最大の遭難事故です。この遭難事故については既にさまざまな資料が世に出ていますが、元自衛官という視点で”八甲田山雪中行軍”を明らかにしようとした伊藤薫氏の「八甲田山消された真実」 (山と渓谷社) が今年発刊されました。(2018年2月1日発行) 伊藤氏は該当の連隊を母体とする部隊に所属したこともある元自衛隊員で八甲田山雪中行軍について証言や残された資料などをもとに事故が陸軍によって隠蔽され、捏造された部分があったことを指摘するとともに事故の真相を探った書籍です。映画でしか知らない方も多いと思いますので、この書籍を元に八甲田山雪中行軍についてまとめてみました。この情報はいくつかの限られた情報を元に個人的にまとめたものですので、不正確な部分も多々あるかと思います。ご覧いただく方はそれをご理解いただき、覧いただければと思います。

<当時の状況について>

大日本帝国陸軍歩兵第5連隊(以降第5連隊に略)は東北鎮台の第1分営として1871年旧津軽藩士で組織され、弘前に配置されたものを母体としています。西南戦争への参戦を経て改編を繰り返し、1975年に北方警備の地理的条件から青森に配置変えになります。青森県は廃藩置県の折には弘前に県庁を置く弘前県としてスタートしましたが、その後間をおかず津軽と南部に分かれた行政区分の意識の統一を図るべく当時片田舎の漁港だった青森に県庁を移し県名も青森県と変わりました。したがって、当時の青森の屯営地は片田舎のさみしい寒村にあったようです。

時代は列強の植民地政策の中で、明治政府は富国強兵の名の下に経済を発展させ、西南戦争を経て大陸への侵攻も視野に軍隊が増強拡充されていくことになります。1894年朝鮮半島をめぐり大陸での清国との戦争で朝鮮での日本の覇権、遼東半島の割譲と多額の賠償金を勝ち取ることになります。しかし、ロシア・フランス・ドイツのいわゆる三国干渉によって手放さざるを得なくなってしまい、その後ロシア帝国の南下政策により朝鮮半島の覇権争いが生ずることになります。そんな状況の中、1896年に青森、秋田、山形、岩手と宮城の一部を徴募区とする第8師団が誕生し、新たに弘前に連隊本部を置く歩兵第31連隊(以降第31連隊に略)が誕生します。第5連隊も改編され両連隊共に第8師団の隷下に入ることになります。改編時第5連隊の兵員は地元の青森県出身者で構成されていましたが、その多くはまるごと第31連隊に異動し、歩兵第5連隊は岩手県出身の者を中心として宮城県出身者を加えて新たに編成された混成部隊としてリスタートすることになります。第31連隊は地元の文化伝統が引き継がれていったのに対して歩兵第5連隊は新しく徴兵されたものの寄り集まりでまとまりに欠けていたという実態があるようです。

大日本帝国陸軍は日清戦争以降、大陸での戦線に備えた寒地対応の研究と訓練を進めていました。寒地にある青森県の第5連隊と第31連隊にはその研究が期待されていたようです。中でもリードしていたのは第31連隊であり、福島大尉がその急先鋒であったようです。この福島大尉は映画「八甲田山」で高倉健が演じた死者を1名も出さず八甲田山雪中行軍を成し遂げた徳島大尉のモデルとなった人物です。福島大尉は下士候補生などで特別編成した部隊を使って地元の岩木山山腹など県内の高地での寒地研究に積極的に取り組み、実績と功績を挙げていました。それに対して第5連隊は1泊2日の将校以下209名での雪中行軍訓練を実施したもののダラダラ坂にも関わらず橇を上げる事が出来なかったなどの失敗もあり、十分な研究・訓練がなされておらず、また成果もあげられていなかったようです。両隊は同じ青森県にあってかたや伝統ある部隊であるものの片田舎の青森を駐屯地とする第5連隊と、弘前を駐屯地とした新しく編成された部隊の31連隊ということでいろいろな面でライバル関係あったようです。

そんな状況の中、対露戦やむなしとの態勢が決せられ日英同盟が締結された1902年(明治35年)、第31連隊の福島大尉は十和田湖をまわり、第5連隊の裏山的存在の八甲田山麓の田代、青森を経て弘前に帰営する11泊12日の雪中山麓踏破の計画をぶち上げます。著者の伊藤氏は第5連隊の八甲田山雪中行軍は1900年に着任した連隊長の津川中佐が第31連隊に先を越されてはならないと神成大尉(映画では北大路欣也が演じた神田大尉)に企画させたのではないかと述べています。それまで第5連隊では雪中行軍の成功実績もあまりなかったにも拘わらず第31連隊の福島大尉の計画に対して第5連隊がそれを先んじるべく日程を逆算して雪中幕営と橇による物資の輸送などを目的として、特別部隊を編成して田代新湯を往復するする1泊2日の行軍訓練となったのではないかと推論しています。計画ができたのは実施の2日前で、安易な見込み、安易な計画による俄か部隊の編成だったと指摘しています。地域のことを知っている地元出身の兵はおらず、形だけの予備行軍の実施のみで、目的地までの状況を把握できている下士官は誰もいなかったようでした。また、前日に大きなイベントを組んでいたり、雪中訓練に参加する伍長が前夜遅くまで酒を飲んでいたりと誰もが簡単に行って帰ってこられるとたかをくくっていたのではないかと指摘しています。それに対して第31連隊の福島大尉はあらかじめ部下に「足はよく洗って爪を切り清潔にして、脂を塗っておけ。」「放尿後は、ふんどしと袴下(こした=ズボン下)で陰部を包み、軍袴(ぐんこ=ズボン)のボタンを拭いておくのを忘れるな」など細かく30ヶ条の指示を出すなど経験に基づいて周到な準備をしていたようです。ただし、1名の死者も出さず11泊の行程を踏破した第31連隊の雪中行軍と第5大隊の雪中行軍は目的も規模・性格も大きく異なっていたようです。

第5連隊の訓練の目的は雪中幕営をともなった橇による物資の輸送による行軍であり、物資を大型橇に搭載して曳航しながら一定の規模の兵卒を従え雪中で野営するという計画でした。指揮官はこの訓練を企画した神成大尉であり、兵卒は194名、他に将校は5名(中尉4名、少尉1名)でしたが、見習士官の教育担当として上官である第5大隊長の山口少佐以下編成外として9名(大尉2名、軍医1名、特務曹長4名、見習士官2名)が随行していましたので総勢210名になります。著者の伊藤氏は部隊の最上級士官は山口少佐であったことから少佐が事実上の統率官であったこと、士官のほとんどが士族や華族出身で指揮者であるものの平民出身の神成大尉と伊藤中尉は信頼しておらず、命令系統の危うさがあったと指摘しています。

行程は1月22日に部隊のある青森の駐屯地を出発し、国道を経て八甲田山の麓にある無人の田代新湯で露営し、翌日帰営する往復約40 Kmの1泊2日の計画でした。地元住人から止めるように、また案内人を立てた方がいいと忠告(申し出)があったものの、断って軍人だけで行軍を実行しています。食料や共同装備は橇に積んで幕営地で食事を作って供する計画でした。初めのうちは順調だったものの、柔らかい雪道のために橇の曳航に時間がかかり、隊全体の行程にもはなはだ影響が出てきて、目的他までの半分くらいにから風雪が強くなってきていたこともあり、進退の協議もあったようですが前進が決定されました。遅れた橇隊を後ろに本隊は進んでいきましたが、目 的地の手前で天候が悪化してホワイトアウトの状態になり道に迷うことになります。そして、ついに18時ごろ緊急幕営を決断します。露営といっても掘るための十分な道具の用意もなかったので幅2m×5mで深さ2.5m程度の穴を5個掘り、1個の雪壕につき40名が立ったまま並んで入って休む程度のものだったようです。橇が到着したのはすでに21時を過ぎていたようで、地面まで掘り進めなかったため、雪上で食事の準備に取り掛かるもののうまくいかず、結局1時半ごろ生煮えの飯と餅、かんづめの食事をとるだけになってしまったようです。兵士は軍歌斉唱と足踏みで寒さを凌いでいたようです。1時半ごろに翌朝5時の帰営が決定されたものの、急遽2時半ごろに1時間程度の仮眠だけで道もわからないままに幕営地を出発することになります。5台の橇のうち4台がこの幕営地に置き去りにされ、荷物は兵卒に分担されました。しかし、とりあえず昨日来た方向と思しき方に向かって行く訳ですが、やはり帰営の道が分からず幕営地に戻ることになります。しかしその途中、道が分かったと言う伍長の進言があって再度目的地への行軍に変更されることになります。筆者の伊藤氏は証言や残された記録によるとこの行軍では指揮官の神成大尉の指示、命令が明確に登場しておらず、事実上の命令は少佐がしていたのだろうと指摘しています。強風吹が吹く零下の気温の中、粗末な防寒具、蓄積された疲労、不十分な食事など、まさに今にして考えれば必然的に低体温症になるべくしてなったことが伺えます。指揮官の判断力、兵卒を含めた隊員の体力や精神力も限界を超えていたのでしょう。14時間以上も雪の中を彷徨い、第一幕営地から正規ルートで700mくらいの地点で掘る道具もなく寄り集まった状態での2日目の露営となります。すでに十数人の落伍者も出て来ており、中尉が死亡したこともあり、極限の寒さの中で失望、焦燥、喪失感もあり精神的に破綻した者も多く出てしまっていました。そして、3日目にして神成大尉の「神は見放した」的発言が隊の張り詰めたモチベーションの糸が切れたことによってその後脱落者が多数出てしまう引き金になったようです。すでに部隊としての体をなさず、25日の幕営を迎えることになります。部隊はすでにバラバラとなっており、生存者も少なく、また残された証言も定かではなくなっていたようで正確な事実は判明されていないようです。また、救援隊の遅れについても問題視されています。

27日になって、仮死状態のまま半分埋まった状態の後藤伍長(記念像のモデルとなった)が発見され救出されます。近くにいた指揮官の神成大尉は既に死亡していました。各所で16名が生き残った状態で救出されたものの、後日6名が亡くなってしまったので生存者は最終的には11名だけになってしまいました。最高指揮官だった山口少佐も救出されたうちの1人でしたが、病院で心臓麻痺で衰弱死したと発表されています。新田次郎の小説「八甲田山の彷徨」では責任を取ってピストル自殺したことになっていますが、両手両足とも凍傷だったのでピストルで自殺は到底無理だったようです。また、軍上層部による毒殺説、服毒自殺説など責任問題と合わせてその死因についても取りざたされています。

<福島大尉と第31連隊>

第31連隊の雪中行軍の特別編成部隊は福島大尉を中心として見習士官と士官候補生によって構成される37名の精鋭部隊であり、民間の新聞記者1名が帯同していました。

1月20日に弘前の駐屯地を出発し、220kmの行程を11泊12日で踏破する計画でしたが、宿泊と食事はあらかじめ連絡しておいた地元の旅館や民家を使って饗応させるようなものだったようだようです。また、地元の案内人を先頭に立たせ、道案内とラッセルをさせての行軍でした。

第31連隊は地元青森出身の者が中心であり積雪期対応の訓練がすでに何度も実施されており、その最終段階にあって知識や経験の蓄積が末端の兵隊にも指示命令されていたようです。また、小規模だったこともあって指揮系統が十分機能していたことも第5連隊とは違っていました。結果、第5連隊は目的地に至らず190名の死者を出してほぼ全滅してしまったのに対して第31連隊は道を見失って一時ビバークするも、1名の死者も出さず220Kmを踏破するという結果を残しました。

しかし、著者の伊藤氏によれば福島大尉は功名心が強く、寒地研究のために見習士官などを使って冒険的な研究訓練を実施していたこともあって経験と研究の蓄積もあったことを指摘しています。

映画では高倉健が演じた徳島大尉(福島大尉)は周到な準備を整え、部下などに対しても地元の案内人(秋吉久美子)に対しても人情味ある誠実に対応する人物として描かれていますが、実際の大尉は案内人を道案内だけでなく常に交代で先頭に立たせてラッセルをさせ、食事の世話も含めて使い果たし、挙げ句の果てに安い賃金を払って見捨てるという冷酷な処遇であったようです。やはり第5連隊同様、田代新湯への道が分からず、本隊はビバークしつつ案内人に道を探させ、見つけた小屋には全員が入りきれなかったので案内人は交代で外で足踏みをしながら朝まで休憩をしていたそうです。無理やり案内人を連れて案内させられた村人の7人は全て重度の凍傷を追いながら、難関を突破した途端わずか1人2円の金を与え、二日間のことは絶対口外すべからずと命令し置き去りにして行ってしまったということです。後にこの案内人は地元では「七人の勇者」として讃えられているようです。

青森5連隊では雪の強い日になると、必ず八甲田山方面から「これから帰軍するぞぉ~」という合図のラッパと、大勢の兵隊の行進する足音が聞こえ、「お前らは既に死んでいるのだ!廻れ右!八甲田へ帰れ!」と命令すると、足音は遠ざかっていったという怖い話も残っているようです。

福島大尉が雪中行軍に出発する前、部下に与えた30カ条のアドバイスの現代語訳はこちのHPに記載があります。  http://www.tanken.com/hakkoda.html

故皆川先生と故森本悌次先輩を上野駅まで見送る

右から1番目がS32年卒の故植村俊則氏、2番目が故皆川完一先生、3番目がS32年卒の若井永氏になります。北大入学の森本悌次氏を上野に見送りに行った時の写真だそうです。1956(S31)年

故皆川先生 は1953年から1957年まで獨協学園で日本史の講師として勤務されている傍、1955(昭和30)年からDWVの顧問をされておられました。平成11年10月28日に享年83才でお亡くなりになりました。日本山岳会会員で「山日記」、「山」編集代表者・担当理事もされていました。

DWV創部前年の1954年にあった獨協学園の2年生と戸山高校の生徒が冬の西穂高で遭難した事故について書かれた下記の記事が残っています。

「西穂高遭難の教えるもの」

 

皆川完一先生略歴

東京大学国史学科卒、同大学院を経て1956年から歴史編纂所に勤務されています。1962年に獨協学園をお辞めになり同年東大助手、1972年助教授、1979年教授、1988年に定年退官されます。その後名誉教授、愛知学院大学教授、1992年に中央大学文学部教授、1998年に定年退職されます。正倉院文書研究の第一人者の歴史学者でした。

 

筑波山 女体山877m 御幸ヶ平コース 白雲橋コース

2018年3月4日(日)

49年卒の柳澤君と柳原君と3人で御坂山地の王岳に行く予定だった。前日、「柳原が都合が悪くなって行けなくなってしまったんだけど、どうします?」と柳澤君から電話があった。当日は朝4時の集合だったが、自分は前夜に前職の同窓会を予定していた。翌朝起きる自信もなかったので、今回は取りやめにしようかということになった。

その後、注文していた登山靴が届いたという連絡があったので早速取りに行くことにした。履いてみたらちょっとキツイ。そこで翌日の山行きを断ったものの、試し履きをしたくて夜の飲み会は一次会で引き上げて、翌日靴馴らしに行くことにした。

筑波山は3回目である。靴の調子が悪かったらケーブルカーで降りればいいと、今回は梅まつり開催中だったので筑波山神社からケーブルカー脇の御幸ヶ原コースで登り、茶店で昼食をとり女体山を経由して白雲橋コースで筑波山神社に戻り梅園を見学て帰路につく計画だった。

8時発のバスは始発なので混んではいたもののスムーズに筑波山神社入り口まで行くことが出来たが、後で聞いたところによれば梅まつりの渋滞で通常ならば40分のところを2時間近くもかかったこともあったそうだ。駅からバス停までもなるべく早く行かないとバスも座ることは出来ない。

筑波山神社拝殿山門

筑波山は中高年の登山者、小さな子供連れのハイカー、トレラン、インバウンドの観光客やハイカーなどさまざまな人がたくさん押しかけいてる。特に梅まつりの期間中ということでケーブルを使った観光客も多く、御幸ヶ原は賑わっていた。

筑波山神社の本殿への階段
筑波山神社女体山本殿

筑波山は女体山と男体山にそれぞれ本殿があり、山腹には大きな拝殿がある。巨石や巨木も多く、山全体が神奈備として古の昔から信仰の対象とされてきた山でもある。標高は低いものの自然も豊かで、百名山にも数えられている山でもある。

女体山の頂上直下はかなりの急登でしかも凍っていたこともあって、下から上がってくる人が多く渋滞が発生していた。御幸ヶ原コースは凍っている所はなかったが、尾根筋は雪はほとんど残っていなかったものの凍結している部分が結構あった。

弁慶の七戻、高天原、母の胎内くぐり、大仏石、北斗岩、裏面大黒岩、出船入船、などの奇岩巨石の連続がはじまる。(セキレイ石、ガマ石は御幸ヶ原と女体山の間)

女体山頂上が見渡せる

樹齢400年のスギの切り株

御幸ヶ原コースと白雲橋コースにはみごとなスギの巨木もたくさんある。

白蛇弁天

筑波山神社に戻り、無事下山できたことに感謝して再び参拝。

バスの発車時刻を確認するためにバス停に行った所、梅まつりのために道路の渋滞が甚だしく、バス到着時間の見込みが立たないということだった。面倒くさくなって梅園見学は中止にしてバス待ちの列に並ぶことにした。幸い30分くらい待ってバスは到着した。下りの路線は渋滞することはなかったが、上りの路線はかなり下まで車の渋滞が続いていた。

いざとなったらケーブルカーで下ることも出来るからと靴慣らしに選んだ筑波山だったが、靴底が硬いのはとくに問題はなかったものの、やはりジーンとした圧迫感があり、左足の小指付け根が少々痛かった。新調した靴はクライミング用の靴なのでそもそも足先が窮屈な設計なのだが、ちょっと靴幅を広げ、靴下をもう少し薄手の物に変える必要がありそうだ。  47年卒 手島達雄


コースDATA

北千住駅発7:11     つくばエクスプレス 快速つくば行き 筑波駅着7:42    A4出口 つくばセンター発8:00    つつじヶ丘行きシャトルバス 筑波山神社入り口8:40    筑波山山門8:50    男女川源流10:05    御幸ヶ原10:42    昼食11:00    セキレイ石11:30    女体山頂上11:40    母の胎内くぐり12:30    切り株12:35    弁慶茶屋跡12:40    白蛇弁天13:10    分岐13:14    筑波山神社楠木正勝の墓13:24    筑波山神社山門13:30

メールマガジン2月号/2018

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

獨協中学・高等学校ワ ンダー フォーゲル部OB会 オンラインマガジン 2018 / 2 / 20

△▲△ も くじ △▲△

【1】馳 星周著「蒼き山嶺」

【2】登山届も進化しています

【3】富士山の入山制限

【4】那須茶臼岳雪崩遭難事故のHP開設

【5】行ってきました 山行Now

【6】編集後記

【7】記事の募集とメールマガジンについて

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

今年は東京でも冬日が続くなど例年になく寒い日が続いています。北陸や新潟では大雪で除雪も大変なようですが、現在の積雪量は新潟県の守門で3m、福井県の九頭龍で2.4m、青森県の酸ヶ湯で4m弱あるようです。いずれも去年を上回っています。ちなみに積雪量の最大記録は1927年に伊吹山で11.82m、2位が2013年に青森県の酸ヶ湯で5.66m、1日の降雪量では1975年に伊吹山で2.4m、平地では1946年に妙高市で2.1mを記録しています。

————————————————————————————————————

【1】本のご紹介 サスペンス小説 馳 星周著「蒼き山嶺」

自身登山も愛好するサスペンス作家の馳星周氏が著した残雪期の白馬岳を舞台に鑓温泉から上がって白馬岳を経由して日本海に至る栂海新道を舞台にしたサスペンス小説です。大学山岳部の同期生だった元長野県警山岳救助隊員と公安刑事、そしてヒマラヤで遭難死した同期生の妹が繰り広げるサスペンス。「え、そうだったの。それはありえないだろう。」と話の展開にびっくりさせられましたが、楽しめました。今年の1月に発刊された新刊本です。著者の馳氏は北アルプスや積雪期の八ヶ岳などにも登るなど、趣味としても登山を楽しまれているようです。「神奈備」という山の神に救いを求めて姿をくらました薄幸の少年と行方を追う強力の男が御嶽山を舞台に生と死、神、人間の絆を問う著作もあります。

————————————————————————————————————

【2】登山届も進化しています

遭難事故が増加している中、登山届が義務化されてきています。それぞれの主要な登山口では登山届用のポストが設置されています。しかし、登山届を出しても下山報告している訳でも確認している訳でもないので、捜索開始には家族や所属する山岳会や関係者からの要請が必要となるのは自明のことです。

基本的には登山届は捜索が開始された場合の手がかりとなる資料になります。登山届は下山を確認できる家族や関係者に託すことが最も重要なのでしょう。また、登山届を作成したのに登山届用のポストが見当たらなかったりして出さないままのことも多くあるように思います。またポストの登山届から個人情報が盗み取られるというケースも出て来ているようです。

そんなこともあって、近頃はインターネット経由で対象の各都道府県警等に届け出る人も多くなっているよです。そんな中、WEBやスマホにも対応している「コンパス」というシステムがあり、使っている人や対応している機関が増えてきているようです。あらかじめWEBで登山届をアップロードしておき、登山後に報下山完了告を入れます。予定通り下山報告がない場合はあらかじめ登録しておいた複数の緊急連絡先に下山未確認のメールが入るシステムになります。情報は関係機関にも共有化されているので、スムーズに捜索にも利用できるようです。https://www.mt-compass.com

————————————————————————————————————

【3】富士山の入山制限

世界文化遺産に認定したユネスコが国に富士山登山者の適正数と改善を求めていた件で、山梨県と静岡県両県で組織された「富士山世界文化遺産協議会」の学術委員会は山梨県と静岡県からの登山者をピーク時の1日当たりの登山者数を12〜25%減らし、4つある登山口のうち山梨県側の吉田口は4,000人、静岡県側の富士宮口は2,000人までとする案が示されました。静岡県側の須走口と御殿場口については、著しい混雑が認められないとして適正数を示していません。この案をもとに協議会で正式決定した後、11月末までに国はユネスコに報告する見込みのようです。

————————————————————————————————————

【4】那須茶臼岳雪崩遭難事故のHP開設

那須茶臼岳雪崩遭難事故の遺族・被害者らが中心となり、事故を繰り返さないためにということで、この度HPが開設されました。遺族や被害者の思いや県教育委員会や高体連など関係団体との関係などについても掲載されています。http://nasu0327.com

————————————————————————————————————

【5】行ってきました 山行Now

奥久慈男体山(653.7m) 201828

奥久慈の袋田の滝近くの大子(だいご)にある700mに満たない低山ですが、ピラミッド様の岩山です。高度感はありませんが、これでもかと鎖場が連続します。水戸から水郡線なのでアプローチに時間がかかりますが、結構楽しめます。

雲竜渓谷201824

かつては2本のアイスアックスと出歯アイゼンを使った氷瀑クライミングのメッカでしたが、近頃は氷瀑見学の観光地になってしまっているようです。観光と言っも流石にチェーンスパイクかアイゼン、ストックかピッケル、そしてヘルメット装備でという所ですが。近頃は何処でもそうでしょうが中国からの団体も大勢さん来ていました。

高鈴山(623.3m) 多賀山地2018128

季節になるとイワウチワなどの草花が咲く常陸の低山です。田中澄江が花の百名山にも選んでいる山で、山頂からは那須や日光の山々や静かな常陸の海が見渡せます。下山は日立駅まで直行です。

————————————————————————————————————

【6】編集後記

平昌オリンピックが連日盛り上がっています。DWV.OB会にもスキーの名手が沢山いて、かつては月例会でもシーズンに何回もスキーをやっていたようです。近年のゲレンデは若いボーダーばかりなのかと思いきや時間とお金を持っているシルバーのスキーヤーが多いんだとか。まずはエンジョイできる体力、気力、財力の維持増進に努めなければならないですね。

—————————————————————————————————

【7】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com担当手島までお願いし ます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

獨協中・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会 オンラインマガジン

DWV.OB会HPアドレスはhttp://www.dwvob.sakura.ne.jp/wp

Face Bookは @dwvob.jpでフォローしてください

掲載記事や画像などを許可なく転載することはご遠慮ください。 ⌘

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

奥久慈男体山(大子男体山) 653.7m

2018年2月8日(木)

多賀山地の高鈴山に登った時、地元の方から「大子(だいご)の男体山といわきの二ツ箭山が面白いから行ったらいいと。」教えてもらっていたので、今回は奥久慈男体山(大子男体山)に行って来ました。

上野駅は8時発の常磐線の特急ひたち3号で水戸駅まで行き、水郡線に乗り換えて西金(さいがね)駅まで行きます。水郡線は本数が少ないローカル列車なので西金駅には10時20分になってしまいます。

西金駅は無人駅。西金駅からは舗装道路を1時間以上かけて登山口まで行きます。タクシーがあったらタクシーでもと思っていましたが、タクシーどころかお店やさんも何もありませんでした。

帰路の水戸行きの列車を時刻表で確認したら、やはり西金駅からの上りは15時台にはなかったので、16時01に合わせるしかないようでした。

車もあまり通らない車道をひたすら上って行きます。湯沢分岐を右に行くとつつじヶ丘方面になります。つつじヶ丘には展望台があり、男体山から篭岩山に続く山並みを見通せられるそうです。

さらに湯沢川に沿って登って行くと、左斜面の林が美しい北沢地区に入ります。左岸にはゾウ類の足跡化石が発見されたという看板が立っていました。

さらに先に進むと、右手に岩峰が見えて来ます。はじめはあれが男体山かと思ったていましたが、駅でもらったパンフレットを見ると右の岩峰が鷹取山、左が入道岩ということが分かりました。

古分屋敷という地区に入って行くと唐突に前方に大きな岩山が見えて来て、岩の塊のような山容がどんどん大きくなっていきます。これが奥久慈男体山です。

どこをどうやって登れるのか。ちょっと心配になりました。

弘法堂入り口

登山口へは道を左に折れ、下って行きます。左にトンネルの入り口がある奥久慈パノラマラインと交差し、右に進んで行きます。右手にトイレのある無料駐車場がありましたが、日陰の場所のためか辺りは雪の中でした。

舗装道路に雪はほとんどありませんでしたが、この駐車場だけ雪が残っていました。

常陸秋そばののぼりが立つ大円地山荘を横目で見ながら登山口に向かいました。チョット見、チベット風のイメージの雰囲気のある所です。

登山道から5分くらいで、一般道と健脚コースの分岐になりまず。健脚コースは1/3くらい鎖場が連続するコースで、一般道は比較的なだらかなものの時間がかかるコースになります。行きは健脚コース、帰りは一般コースを行くことにしました。

健脚コースの鎖場ははじめのうちは根っこや枝に捕まりながらという感じでした。

鎖も貧弱なものから傾斜がきつくなるに従って大きく長いものになっていきました。鎖のアンカーはしっかりしているので、鎖を持ち替えなっがらの、鎖に頼った幟が登りが続きます。

途中、1箇所展望がよくきく絶景ポイントがありました。先ほど登って来た集落も真下に小さく見えました。鎖場のコースは南に面した崖状だったので雪は残っていませんでしたが、さらに核心部を詰めていくと雪が見えるようになりました。凍りついているので、念のためチェーンスパイクをはくことにしました。

東屋まで来ると頂上はもうすぐでしたが、ここからは氷りついた雪道が続くようにになりました。

すして、男体山頂上到着。まずは頂上の祠に登頂を感謝してお参り。祠の下は断崖絶壁。頂上は360度のパノラマでした。653mではあるものの奥久慈男体山は広々とした風景が広がっていました。

NHKのアンテナだそうです。

残念ながら富士山までは見られませんでしたが、那須連峰や日光連山、そして前に登った高鈴山なども見ることができました。

眺めのご馳走を楽しんでから、大円地山荘でのおそばを期待して一般道を下山することにしました。途中、東京スカイタワーと同じ634mの標高を示す看板が設置されていました。

下山コースの1/2くらいは凍った積雪があったので、チェーンスパイクを履いたままの下山になりました。

大円地越という広場になった峠には、ベンチなども設置されていました。

大円地越を下がった斜面はけやき林になっていて、とても明るく綺麗な斜面でした。その後は大きな岩がゴロゴロしている暗い杉林の斜面に変わります。

大岩が転がって行くのを押さえるてい訳でもないでしょうが。

往路に通った一般道と健脚コースの分岐に到着。一般道を行く人用の杖でしょうか、たくさん枝が並べられていました。

大円地山荘は築100年の自宅民家で蕎麦屋を営んでいました。お蕎麦もお通しの漬物などもとても美味しかったでした。おみやげに売り物にならないものだけどとリンゴまでいただきました。

一緒になった先客のご婦人から「車で来ているので、もしよかったら駅までお乗せしましょうか」とお申し出をいただき、ありがたくお受けしてご一緒させていただくことになりました。1時間歩かないで済んでしまいました。ご婦人はトレーニングも兼ねて男体山には頻繁に来ているそうで、上品そうな華奢な雰囲気に似ずかつては雲竜瀑や袋田の滝などの氷瀑も登っていたアルピニストでした。

予定より早く駅に着いてしまったので、逆に寒い中で1時間以上も列車を待つことになってしまいました。ホームにある囲いだけの待合室の中を歩きながら、14:01の上り水戸行きの列車を待っていました。定刻、何のアナウンスもなく列車はやって来て東京までの帰路に着きました。

47年卒 手島達雄


コースDATA

上野駅8:00ひたち3号 水戸駅9:18  水郡線 9:22  西金駅10:21 湯沢分岐10:44 北沢10:58 弘法入り口11:13 駐車場11:25 登山口11:29 分岐11:31 展望スポット12:10 東屋12:44 頂上12:51 大円地越13:25 分岐13:55 大円地山荘14:00    14:20 西金駅14:50    16:01 水戸駅17:14  ひたち22号 17:27 上野駅18:37