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「西穂高遭難の教えるもの」完全版 皆川完一

ワンゲル部顧問でもあった故皆川完一先生による「西穂高遭難の教えるもの」は獨協学園ワンダーフォーゲル部が創部される前年の1954年に本校2年生の金子隆司君と戸山高校の生徒3名が西穂高で遭難死した事故について書かれたものです。

この記事はすでに、Historyとコラムに転載していたものの、この度、獨協中・高校の図書館で学園文芸誌「めじろ」71号でこの記事を見つけ、完全版ではなかったことが判明しました。今回、以前の文章に加えての新しい部分を加えて転載しましたのでご覧下さい。  西穂高遭難の教えるもの 皆川完一

 

西 穂 高 遭 難 の 教 え る も の  皆川完一

金子君の遭難という悲しい現実に直面し、いままでしばしば問題になって来たことであるが、ここでもう一度ちかごろの高校生の登山について考えてみたいと思う。

私たちのいうスポーツとしての登山はあらゆる意味に於て高きをめざしている。しかし低 い山よりは 高い山へ、登るに用意な山よりは困難な山へ、夏山よりは冬山へ、既知の山よりは未知の山へ、と発展していく過程も、決して1足とびに経過出来るものではな くその間に多くの研究と訓練とを必要とする。このことは登山の歴史を考えてもわかるであろう。今日のように氷雪の山を登るに至るまでの登山界の変遷は、個 人の中に於いても経過されなければならない筈である。生物学の原則が教える「個体発生は系統発生をくり返す」ということをここに持ち出すことも、あながち 不適当とは思われない。こうした原則は登山についても必要であるような気がする。

高校生の登山、いな今日一般の登山の風潮について多くの欠陥を指摘をする前に、全般的 にみて先ず基礎的な研究と訓練の不足を問題にしなければならない。特に 高校生に於ては経験の不足ににも拘らず、氷雪の山に登るのは多くの無理がある。それよりも夏山に於て、充分な訓練と豊富な経験をつまなければならない。今 日の登山界の動向、或は高校生の若い意気からは、夏山の縦走などは、或は価値のないものと思われるかも知れない。しかしそこにも登山としての立派な意義が ある。このような登山を経験してどうして、登山を知らぬものの、登山は冒険を目的としてスリルをたのしむ馬鹿げた行為であるという考え方に反撥することが 出来ようか。夏山のピークハンテングから更に発展して岩登りに到達しても、やはり高校時代は基礎的な訓練に終始しその間に単に技術書から学んだ机上の知識 ではなく、身についた経験とどんな危険に遭遇しても、活路切り開く実力と意志とを養成しなければならない。これらの基礎的な訓練の上にたってはじめて氷雪 の山をめざすことが可能になる。しかしそれは年令的にみて高校生の経験では無理というものであり大学山岳部に入ってから上級部員と先輩の指導によって、冬 山の醍醐味を味わっても決しておそくはあるまい。

高校生の冬山が無理だというのは、単に個人的な研究と訓練の不足から来るものではない。冬山に必要な経験をつませる組織も問題になる。当然のことであるが、冬山の実力というものは個人的には充分に養成されるものではなく、山岳部のような団体の中にあって先輩の指導の下に統制ある訓練を必要とする。また冬山に必要な厖大な装備にしても、個人的に全部揃えることは経済的に無理であり、山岳部等に於いて用意され、たえず使用の実験をしなければならない。ところが現在の高校山岳部は学制改革以来その歴史も新しく、その組織の上に於いても不十分な点が多い。私は現在の高校3年にあたる旧制高校1年の時に、長い歴史を持った山岳部の中で、先輩と上級部員に指導されてはじめて冬山の洗礼を受けた経験があるが、今日ではその年令で冬山をねらうというのである。同行の先輩もなければ充分な装備も用意されていない。ただ意気込みだけでは多くの危険が生じるわけである。

今回の金子君たちの行動にしても、個人的にはかなり経験をつんでいるようであるが、個人的な行動に先走って山岳部を育てようとはしていない。同行の戸山高校生は自由な行動を欲して属していた山岳部を脱退までしている。計画にしてもはじめの無謀な計画は他からの注意によって変更してはいるが、その際先輩の同行を求めていないのは自己の力に対する過信と言われても仕方あるまい。遭難の直接原因とされている内張りのない古くなったテントにしても、他からの借用品であり、それを用意するだけの山岳部の充実の方が先ではなかったかと思われる。炭俵をテントの下に敷いたのはマットがないためで、経験者ではそれでも間に合うこともあるが、長い間には居住性が悪くなるものである。はじめての高所キャンプの実験としては不充分であったようである。又実験にしても最悪の事態を想定し、あらゆる変化に対処するだけの注意が足りなかったのではないだろうか。

今回の遭難は強風によりテントが破壊され凍死に至ってしまったのであるが、他の装備は大体良好であったから、シュラーフに入って破れたテントにくるまっていれば遭難発生と思われる21日の夜は明かせたかも知れなが。22・23両日も風雪が激しかったようであるが、充分装備をととのえ力を合わせて行動すれば強風の中でも危険地帯を突破して西穂山荘に避難することが出来たであろう。2名は何らなすところなく、テントの中に凍死し、他の2名は救援を求めに出たのかもしれないが、アイゼン・ピッケルをつけず、又そのうち1名は靴もはかずに共に行方不明になっている。要するに最悪の事態に遭遇しても危険と闘える技倆と精神的肉体的実力があれば、或いは死に至らなかったのかもしれないと思われるのははなはだ残念である。

登山には絶えず危険が伴っている。高さをめざす結果必然的に危険が付随して来ることは覚悟しなければならない。危険になるが故に登山は禁止されるべきものではなく、危険を排除し、又最悪の事態を克服出来る実力がまず要請されなければならない。登山は人生に於いて高きを求めず生活態度にも通ずるものがあり、人間完成の途上にある高校生のあり方にふさわしいものと思う。登山を禁止する事は却て高きをめざし、うつくしきものにあこがれる高校生の精神を無視するものであり、今後も適切な指導の下に高校生に可能な登山はますます奨励されなければならない。

この度の遭難の教える教訓は、単に登山にとどまらないであろう。ただ登山はその失敗が最も決定的な形であらわれるというちがいだけである。高校時代は、人間を完成させるための充分な見識を養わなければならないが、それは先輩の指導により、どのような事態にも中途で挫折しないだけの実力を充分に養うことにある。そして決して現在の自己の力を過信するなということである。人間完成の途上にある金子君が、中途にしてたおれたことは惜しみてもあまりやることである。

(「めじろ」第71号 獨協学園 1954年度)


皆川先生については常盤雪夫氏による追悼文がこちらにあります。

1965年10月 高妻山偵察山行での写真

前列左から長瀬 治(S43年卒)、田中廣明(S43年卒)、長谷川喜代志(S43年卒)、後列左から清水祥三(S42年卒)、平川良(S42年卒)

左から長瀬 治(S43年卒)、長谷川喜代志(S43年卒)


長瀬  治氏所蔵の12月に予定されていた高妻山合宿のための偵察山行の折の山頂での記念写真です。高妻山偵察登山の記録はちらから

この年の冬山合宿記録はこちらからご覧ください。

ワンゲル部室前で 1966年

長瀬氏(昭和43年卒)所蔵の1枚です。


前列左から 佐久間(44年卒) 野本(44年卒) 笹本(44年卒) 高橋(44年卒) 田中(4年卒)    2列目左から 志村(44年卒) 長瀬(43年卒) 鷦鷯(44年卒)    3列目左から 長谷川(43年卒) 冨樫(43年卒)    4列目左から 清水(42年卒) 伊藤(42年卒) 山田(42年卒) 寺沢(42年卒)

新たな見解に立つ [ワンゲル部]

新聞紙上が上高地水害の様子でうずまっていた頃我々も上高地から横谷に向かう計画を立てていたがその関係で常念岳、蝶ヶ岳を越え横尾谷に入り、ここを中心として、槍、穂高岳に展開した。横谷に入るのに1日遅れという失態を演じたが幸い天候に恵まれ又、リーダー常盤君の地道な指導と部員の自覚で無事終了した。

〈合宿での行動〉
常念、蝶ヶ岳越えが合宿に一番ふさわしい経験と思われ、とくに常念でのビバーク(野宿)では体力の消耗と水のなかった事又、数人がにぎり飯を他の人から貰い腹をこわし前進不能ギリギリまで行った事などが我々にとって貴重な体験であった。それだけに横尾で八ー九貫(*)もあるリュックを降ろした時は体に羽が生えたようであった。アヅサ川のほとりに七棟ほどテントを張った。そのながめは壮観であり、明日への情熱を燃やさせた。五日目、我々は二隊に別れ朝霧けむるアヅサ川を後に私の佐藤隊は槍、杉島隊は穂高に向かった。槍沢の雪渓を踏み始めた頃には槍ヶ岳の鋭く尖った姿はもう眼前にせまっていた。しかし槍の頂上は時がたつにつれ登山者が多く一目銀座を思わせるようであった。

食事は朝はみそ汁と少量のカンズメ類で、昼はフランスパンとチーズ、ジャム、夜はその日の自由な献立であり食事は当番制で朝は、はだ寒い三時半ごろ起床で炉に火をともし、明日が樹々をくぐる頃には食事の用意がされている。夜七時に就寝の合図。それは我々にとって非常に生きがいのあるものであった。なぜなら登山の疲労と空腹で明日の希望を断った我々をテントの中では情熱を再びかきたててくれたからだ。キャンプファイヤーは山を愛す若人にとっては、忘れられないものであるが今回はパッとしなかった。今回の合宿で我々は、部の運営と、次期合宿について新しい見解を広め後輩によりよい資料をのこしてゆくつもりである。(唐沢)


昭和33年10月9日付け「獨協新聞」に掲載された「各部の向上を期待ー夏期合宿の成果ー」という各部の合宿を特集した記事から唐沢(昭和35年卒 唐沢英樹氏)と署名のあるワンゲル部の部分を抜粋し掲載させていただきました。この新聞記事は元顧問の金先生から情報をいただきました。

( * 1貫は3.75Kg)

メールマガジン12月号/2017

獨協中学・高等学校ワ ンダー フォーゲル部OB会 オンラインマガジン 2017/ 12/ 26

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△▲△ も くじ △▲△

【1】山はなぜ1座、2座と数えるの?

【2】OB会「30周年記念誌」の原稿募集

【3】田部井淳 人生の生き方と終い方

【4】行ってきました 山行Now

【5】編集後記

【6】記事の募集とメールマガジンについて

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【1】山はなぜ1座、2座と数えるの?

山、座、峰、岳、嵓(倉)など山の呼び方、数え方にもいろいろあるようです。一般的には1座、2座のように座で数えることが多いようですが、なぜ山を「座」というかご存知ですか。

古来、日本で山は神仏など信仰と密接に結びついており、信仰の対象や修行の対象として尊ばれてきました。山は自然の恵みをもたらしてくれる神秘的な存在であり、畏怖畏敬の存在であり、以って神が座(おわ)す場(鎮座・隠れ住まう)神奈備であることから「座」という名称が使われているようです。また、亡くなった者の魂が帰るべき場としても尊ばれている存在だったと思われます。

民俗学者の堀一郎は山岳信仰を火山系(富士山 阿蘇山など)、水分系(白山など)、葬所系(月山 恐山など)の3つに分けられると言います。信仰登山の対象となっている山は思いついたものだけでも、富士山、立山、白山、英彦山、出羽三山、熊野三山、石鎚山、戸隠山、鳳凰三山、御嶽山、両神山、大山、妙義山、岩木山、高妻山、八海山、大峰山、三峰山、鳥海山、早池峰山と限りがありません。

仏教でも笠ヶ岳は円空上人が開山し、槍ヶ岳は浄土宗の幡隆上人が開山したとしても知られています。最澄は比叡山に延暦寺を、空海は高野山に金剛峯寺をという具合に山を宗教の中心と据えて本山としたように、多くの寺社が山号を称していることも象徴的なものです。

山頂に寺社や祠がある山も多いわけですが、そもそも山自体が自社の所有だったりする所もあります。富士山の8合目以上の土地は富士山本宮浅間神社の所有ですし、男体山はまるごと二荒三神社の所有であったりもするのです。

雲海の向こうの連なる山々からご来光が昇ってくる様を美しいだけではなく、神々しく感じてしまう何かがあるのでしょうか。

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【2】獨協学園(獨協中学・高等学校)ワンダーフォーゲル部OB会「30周年記念誌」の原稿募集

現在、「30周年記念誌」の編集作業が進められており、1月中には原稿をまとめる本格的な作業に入っていきます。原稿はまだ集まり切れていません。折角の機会です、まだ余地は十分ありますので、OB各位のOB会やワンゲル部の思い出や思いなどを是非お寄せいただければと思います。

PDFで送っていただいてもWord文章のまま送っていただいても結構ですので、是非お願いします。メールのアドレスはこちらになります。 dokkyo.wvob@gmail.com

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【3】「田部井淳子 人生の生き方と終い方」

先日、NHKで「田部井淳子 人生のしまいかた」というタイトルの被災した東北の高校生を富士山へ連れて行く「登ろう!日本一の富士山へ」という田部井さんが発起人のプロジェクトを中心に据えて田部井さんの最期5年間をまとめたドキュメンタリー番組が放送されました。

ご存知のように田部井淳子さんは女性初のエベレスト登頂、女性初の七大陸最高峰登頂(セブンサミッター)の記録を残した登山家です。

「あー、おもしろかったと言って死にたい。」乳ガンを発症し、転移した腹膜ガンで余命3カ月と宣告されても、重い足を引きずりながらもこの思いを通し、77歳を生き切ったタフな彼女からはいろいろと学ぶことがあります。

田部井さんはたくさんの本を出していますが、タイトルに惹かれて「人生は8合目からがおもしろい」(主婦と生活社 2011 既に絶版になっています) を図書館で借りて読みました。

「もう少し人生を楽しんでもいいんじゃない。」「きっと見方も変わるかも。」「ハードルを低くしてわがままに楽しむ」「人の誘いにはまず乗ってみる」 「新しい人との交わりを積極的にと」と田部井さんは誘います。

還暦を過ぎ、子育てが終わり、まるごと自分の時間の幸せと感じ、山登り、シャンソン、ピアノ、ギタレレ、エステ、ピアス、マッサージ、ブログ、競馬、iphone と、思いついたことにどんどん挑戦する姿勢に、女性はかくも逞しいのかと思います。どちらかというと男は体裁を考えたり、やせ我慢したり、いろいろとややこしいところがあって立ち止まってしまいがちなものです。人生の先が見えて来た時、田部井さんの人生の生き方と終い方は一つの指針かもしれません。

苦しかったこと、悲しかったこともたくさんあるでしょうが、それも含め「面白かったと言える人生」を歩みたいものです。「損しないで生き切る勧め」なんだろと思います。本HPに田部井さんの亡くなられた時の記事は下記から参照下さい。

田部井淳子さんが亡くなられました

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【4】行ってきました 山行Now

奥秩父山地 茅ヶ岳(1,074m) 201711月 手島達雄

「日本百名山」を著した深田久弥氏が頂上直下で倒れ亡くなられたことでも知られた山です。中央線の韮崎駅すぐの独立峰で南アルプス、八ヶ岳、金峰・瑞牆、富士山など四方に名山を望むことが出来ます。

道志御正体山(みしょうたいやま) 1,681m 201711柳澤孝嘉

御正体山は道志山塊の最高峰で日本二百名山のひとつに数えられ養蚕の神の山として敬われたという山です。山頂には御正体権現が祀られています。

御坂山塊は富士五湖の北側に東西に伸びる蛾ヶ岳、大平山、釈迦ヶ岳、三方分山、烏帽子岳、王岳、節刀ヶ岳、毛無山、鬼ヶ岳、十二ヶ岳、黒岳、御坂山、三ツ峠山などからなる山域で、最高峰は1,793mの黒岳になります。柳澤孝嘉氏はこの御坂山塊の踏破を目指しているそうです。そのうち今回は毛無山 、十二ヶ岳、鬼ヶ岳、王岳 の記録になります。

御坂山塊毛無山(1,964m) 十二ヶ岳(1,683m) 鬼ヶ岳(1,738m) 201711月 柳澤孝嘉

御坂山塊王岳(1,623m) 201712月 柳澤孝嘉

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【4】編集後記

さて、今年も残すところ1週間を切ってしまいました。皆さんにとって今年はどんな年だったでしょうか。来る年が良い年であることをお祈り申し上げます。

私は今年、15の守屋山からはじまり、丹沢表尾根、伊予ガ岳、高尾山、金時山、根子岳と四阿山、上高地、石裂山、鳴虫山、北八ヶ岳縦走、尾瀬ヶ原、唐松岳、岩木山、八甲田山、白馬岳、三本槍岳、本仁田山、蓼科山、飯盛山、茅ヶ岳など歩いて来ました。元気に無事登り通せたことを本当にありがたく思っています。そして今、来年はどこを歩いてみようかと、思いを馳せています。

みなさん、よい年をお迎えください。

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【5】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせは dokkyo.wvob@gmail.com担当手島までお願いし ます。

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獨協中・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会 オンラインマガジン

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王岳(1,623.3m) 御坂山塊 

2017年12月21日(木)

西湖いやしの里根場7:15- —–王岳9:20 9:30—西湖いやしの里根場10:50


11月の山行以降、山に行けず体力が落ちてしまったので節刀ヶ岳より時間がかからない王岳に行ってきました。御坂山塊主稜線縦走目指すとなると鍵掛峠より王岳、精進湖への縦走となるが、車で行った場合、精進湖から駐車場まで交通手段が思い当たらず現在の体力から根場から王岳を往復しました。

12/21   4:00に自宅を出発、前回と同様に談合坂で食事とウダウダした後、西湖いやしの里根場へ。林道を途中まで歩くとコースガイドに記載があるため林道に入るが、私の車では底を擦ってしまい断念。西湖いやしの里根場の登山者用駐車場(未舗装)に置き、登山開始。

西湖いやしの里根場駐車場
駐車場より王岳

林道のお決まりの入り口は酷くして以降は良いのパターンは見られたが、総じてジープでないと林道を登山口まで登りきるのは難しい道路状態であった。

登山口に8:00到着。それより尾根をひたすら急登。上部を除いて総じて道は良好で鍵掛峠より踏まれている印象を受ける。頂上近くの道は笹薮の中にあり、刈り払いがなされていない事と一部登山道が崩れており登りにくい。頂稜付近からは雪を被った南アルプスが北岳から聖岳まで木々の枝越しに望見できた。

頂上よりの富士山
頂稜よりの南アルプス
王岳山頂

この時期、富士山は午前中いっぱい逆光であるが左右均等の大きな姿を山頂より望めた。携帯で写真撮影後、ポットの紅茶を飲み下山した。急な登山道ではあるが登り下りがなく、登り下りがはっきりしている気持ちの良い登山道で、1時間半弱で駐車場へ下りることができた。

昭和49年卒 柳澤孝嘉

毛無山・十二ヶ岳(1,683m)・鬼ヶ岳(1,738m) 御坂山塊 

2017年11月9日(木)

文化洞トンネル7:10—-毛無山 8:45 —–十二ヶ岳10:20 10:30—金山11:10    鬼ヶ岳(11:50 12:10)—–鍵掛峠13:10——漁眠荘前14:20


11/2の御正体山山行がうまく行ったため、以前から気になっていた十二ヶ岳へ行ってきました。高校時代、柳原君と彼が山で知り合った社会人の方々と早春の御坂峠から大石峠まで縦走し、大石峠から先は厳しいからと止めた経緯があり、6月に碓井さん達が行かれた記録を読んだことが後押しなりました。

11/2   3:00に自宅を出発、前回と同様に談合坂で食事とウダウダした後、西湖の文化洞トンネルへ。山地図には文化洞トンネル際に駐車場が書かれているが、現在は使用不可であった。

文化洞トンネルを抜けたところにある駐車場を探すのに少し手間取る。碓井さんの記録をちゃんと読んでいなかったのが原因です。学習していないなあ。先行者が今回、1人いましたが、お会いしたのは十二ヶ岳山頂でした。この日は冬型の気圧配置で天気は良いのですが、風が強く、寒い日でした。

文化洞トンネル上の冬枯れの尾根を登り、最後は九十九折の急登にて毛無山頂上へ。コースタイムよりやや遅れて到着。ポットに詰めた自販機の紅茶を飲む。毛無山山頂の看板は倒れ、地面に放置してある。それから十二ヶ岳まではそれぞれ看板が書かれた十一の峰を越える。小さなロープや鎖のある岩場があり、手袋をしても冷たい。十ヶ岳は崩壊しており、巻いて越え核心部の十一ヶ岳の下りと十二ヶ岳の登りを迎えた。十一ヶ岳の下りは太いロープを掴んで下るが、途中、外皮が剥がれ、内芯のみの部があり一人で来ているのでなるべくロープに過重をかけないように三点確保で慎重に下る。

キレット部は名物の吊り橋となっており強風に揺れて怖い。対岸の十二ヶ岳の登りはリッジ上に鎖とロープが設置され、それを使用しての登行となるが、十一ヶ岳と同様に消耗したロープや支点が木に取られた箇所が多い。碓井さん達が登られた初夏と異なり木に葉がなく枯れ木なのか根がしっかりしているものか分からず、三点確保で登る。葉が落ちているため高度感があり、寒風の中、一人で登っていると孤独感に襲われる。稜線で桑留尾からの道を合わせるとすぐに社ある頂上に着いた。先行者が休んでおり、互いに以外に厳しかったと言葉を交わす。

桑留尾へ下山するとのこと。正面に逆光の富士山と光る西湖の湖面が眩しい。

十二ヶ岳山頂のお社

十二ヶ岳の下りも長いロープの岩場の下りとなっており、その先の傾いた梯子を登り、峯を越えるとうって変わりカヤトと笹の穏やかな尾根となった。大石ペンション村からの道を合わせ、ひと登りで主稜線上の金山に着いた。頂上というよりは稜線上の平坦地で綺麗な富士の姿と越えてきた十二ヶ岳が間近に見える。

金山の標識
逆光の富士山
樹木越しに十二ヶ岳

広い稜線を緩やかに上下行した後、鬼ヶ岳の登りとなる。登山道両側の枝木が重なる道を頂上に見える鬼の角といわれる石に向かって登るが、なかなか着かない。頂上は鬼の角を中心に細長い山頂で、雪がついた八ヶ岳や南アルプスの山々を望めた。

鬼ヶ岳山頂の鬼の角
鬼が岳山頂より八ヶ岳の遠望

正午に着いたたためセブンのサンドイッチと紅茶をとり、西湖湖畔のバス時刻に合わせるため早々に鍵掛峠に向け下山した。峠まではただの稜線の下りかと思っていたが、ロープを伝っての長い下りの後、小ピークや岩を所々、ロープや鎖を使って登り下りし登山道の両側は刈り払いがあまりなされていず、思いのほか消耗する。鍵掛峠は峠というよりは稜線上のコルで西湖に向かう急な小尾根を下り、紅葉が綺麗な尾根を沢に向かい下り堰堤に着いた。

途中の紅葉

沢沿いに堰堤をいくつか乗り越えた後、未舗装の林道に出てしばらく歩くと西湖いやしの里根場の家屋群の脇に突然にでた。東南アジアからの観光客で賑わう中、西湖周遊道路の漁眠荘前バス停まで歩き、定期バスに乗り駐車場のある文化洞トンネル前で降り、駐車場まで歩いた。平日にもかかわらず定期バスは中国からの観光客で座席が全て埋まっているのに驚いた。今回は長丁場で、充実した山行であった。時間の関係から節刀ヶ岳を割愛したが機会があれば大石峠から節刀ヶ岳を登り45年越しに念願である御坂山塊の主稜線踏破を完成させたいと現在、計画中である。

昭和49年卒 柳澤孝嘉


46年卒の碓井達夫氏の山行記録はこちらから参照ください。

道志 御正体山(1,681.4m)

2017年11月2日(木)

道坂トンネル前 6:45——御正体山 10:45 11:00——-道坂トンネル前 14:20


メタボリック症候群の体が気になり、また、木曜日を休みとしたため、久しぶりに山を登る気になりました。暑い時期はメタボな体に良くないため寒くなった11月に以前より丹沢や箱根の山より見えて気になっていた山、御正体山へ行ってきました。

メタボな体には高低差のあるコースはきついので、道坂峠コースか山伏峠コースか迷いましが高速から近い道坂コースから登ってきました。

11/2  3:30に自宅を出発。途中、談合坂で食事とウダウダしながら休み、道坂トンネル前に6:30到着。先行者がいるようで横浜ナンバーの車が一台止まっていた。約7台位駐車できるスペースと今倉山への看板あり。ついつい対面の林道の方に惹かれて10分程登ったが、様子がおかしく地図を見直し、今倉山の看板の方が正解と分かり15分ロス。登る前に皆さん、地図を確認しましょう。

道坂峠へ緩々と上がり、稜線を右折して登りに入った。トレイルはしっかり踏まれているのですが、刈り払いがなされていないようで所々に藪があり分けて進んだところ、ズボンに茶色い何かが付いている。よく見ると“ヤマダニ”だ!ズボン前後を見てみると5、6箇所についており、慌てて振り落とした。藪を通る度、ヤマダニが付くのでスパッツをつけザックの中にあったユウカリの匂いがついた虫よけシールをズボン全体にべたべたと貼り、ズボンをチェックし振り落としながら進んだ。このような状況なので先行者はどうやら今倉山へ行ったようで、久しぶりの山なのに少し心が折れそうになる。

この尾根で唯一、ランドマークのある岩下ノ丸に到着。そこから右折して下降、その後、幅広い尾根を上下行しながら白井平分岐へ到着。コースタイムで後45分と書いてあり、もう少しと頑張るが、地図を見直すと標高差約350mあり約1時間強かかりやっと御正体山の山頂に着いた。

御正体山頂の社
山頂の指導標

山頂は平坦で、開けており、お社とテーブルが一つと簡素な処で木々が周囲にあり展望は皆無。自然林保護のため頂上付近は伐採していないとのこと。しかし、登山中、右側の尾根や谷でひっきりなしに林道工事の音が聞こえており如何なものか。

セブンのサンドイッチを食べ、早々と下山。また、ヤマダニのいる藪を通るのかと暗い気持ちで歩いていると道坂峠からの男女4人の登山者に出会う。ヤマダニのことを話すが気づかなかったとのこと。これはラッキー。その後、数カ所でヤマダニの付着はあったが少なく精神的には楽になった。三ノ塔のような岩下ノ丸の登りには久しぶり山行のため疲労しペースダウン。コースタイムよりやや遅れ、道坂トンネル前の駐車場へ到着した。駐車場到着後、着替えてヤマダニをチェックしたことは言うまでもない。このような状況ですのでこのコースは温かい時期は不向きか。行くならば休日に誰かの後で。

昭和49年卒 柳澤孝嘉