押し入れやガレージに眠っていたDWVの写真や山記録などでいつのことだったか?どこの山だったのか?誰だったのか?など分からないのでみんなに見てもらい物のページをMEMORYS(カテゴリー)に新しく作りました。新しいページはここから
カテゴリーは埋蔵品です。分かった方はコメントで回答をお願いします。埋蔵品は投稿でもメールでも郵送でも構いませんので送ってください。dokkyo.dwvob@gmail.com
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写真2枚です。
47年卒の野村、46年卒の碓井、41年卒の菅野、高梨先生が写っています。(敬称略)69年か71年だと思いますが、分かる方はコメント下さい。(写真の提供は46卒の碓井達夫です)
高梨冨士三郎先生の十八番 ノーエ節です
富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ゃノーエ
富士のサイサイ 白雪ゃ朝日で溶ける (そりゃ)
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ
とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ
三島サイサイ 女郎衆はお化粧が長い (そりゃ)
お化粧長けりゃノーエ お化粧長けりゃノーエ
お化粧サイサイ 長けりゃお客がこまる
お客こまればノーエ お客こまればノーエ
お客サイサイ こまれば石の地蔵さん (そりゃ)
石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ
石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ
頭サイサイ 丸けりゃカラスがとまる (そりゃ)
カラスとまればノーエ カラスとまればノーエ
カラスサイサイ とまれば娘島田
娘島田はノーエ 娘島田はノーエ
娘サイサイ 島田は情でとける (そりゃ)
とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ
とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ
長瀬 治(昭和43年卒)投稿から
2016年12月8日
天気がいいというので車利用で浅間隠山に行ってきた。富士山や赤城山などを眺めながら関越道を飛ばす。高崎ICで降り、県道27号、国道406号を進み、倉渕町権田から県道54号に入る。権田からは途中比較的細い山道になり、その後また広い整備された山道になる。車窓からの山の姿に徐々にアドレナリンが高まっていく。二度上(にどあげ)峠の近くなった所の右手に登山口があり、その先20mくらいの左手の路肩に駐車スペースがある。登山口は見落とし勝ちなので注意が必要だ。国道406号からだと18Km、峠の手前1Kmくらいの所である。駐車スペースはその先にもいくつかあった。
車を駐めて登山の支度を整えて登山口まで戻って行く。歩き出して30分くらいで一旦降りになるので疲れがあまりたまらずに頂上に立て、晴れた日には360度の展望が楽しめる登り1時間半、下り1時間のお手軽登山が楽しめる。
ここからしばらくなだらかな下りが続く。
ここから頂上に向けての登りになる。
二股の分岐で、左が浅間隠山の表示がある。右手は表示が欠けているが10mほど行くと南峰になる。
林の向こうに頂上が見える。
頂上到着。前方に雪に覆われた浅間山が綺麗に見えた。反対側には赤城連峰や榛名山、谷川岳や平標山などが眺められる。
帰りは多少遠回りになるが軽井沢に降りて行くことにした。登山口から二度上峠まではすぐ。北軽井沢までもそれほど時間がかからないが、高速までは結構長い。
北軽井沢からの浅間山の眺め。登山口からは3時間の帰路であった。 (S47年卒 手島達雄)
打矢 之威(ゆきとし)
私は1954年 (昭和29年)独協高校1年生の時、同級生の森本(故人)加藤(故人)、丸山、赤瀬の4人と独協高校ワンダーフォーグル部創設に関わりました。その1年後(1955年)、 井上、植村 (故人)、滝川、若井、牧田の諸氏が入部し、さらに1956年に南(故人)、千野(故人)が加わりDWVの基礎ができました。当時英語の講師として早稲田大学の渡辺英太郎先生(W大WV部監督)、日本史の皆川完―先生(日本山岳会会員)等、そうそうたる山の専門家が独協で教鞭をとられており、また大田 資、奥貫 晴弘、高梨 三郎等の諸先生もWV活動に関心を待たれていたので創部初期から指導者に恵まれていたと思います。さらには理科授業の助手であつた東京理科大山岳部在席の金子雄一郎氏も幾多の山行に同行されたと思います。
私は浪人後早稲田大学商学部に入学し我慢していた山登りを再開、早速早稲田大学山の会に入部して本格的に山登りを楽しんでいました。確か大学3年の冬、最も山登りが充実し経験も技量も積んだころ、奥貫先生からお誘いを受けDWVの冬合宿にコーチとして参加することになりました。
目的の冬山は豪雪地帯として有名な戸隠連峰の奥にそびえる高妻山、前年の冬合宿でもチャレンジしたが悪天候と深雪で失敗したので、その年は何としても登頂を果たすと皆リベンジに燃えていたと思います。期間は12月22日から1週間ぐらいの予定。参加者は総勢10名ぐらい、奥貫先生以外私は会うまで顔も知らない若者(高校生)達でした。確かCLは高島(?)、 SLは斎藤君(?) 何しろ50年以上前の出来事なのですべてに朧気で参加者の名前や日時やコース等も思違いや錯誤があると思いますが、今でも鮮明に脳裏に残つている出来事は遭難寸前まで追い込まれた一連の状況です。
戸隠連峰は屏風のようにそびえる鋭鋒が前面に立ちはだかり、その間隙を縫って谷川沿いに高妻山の登山路に近づくコース、途中30-50Mぐらいの滝場があり積雪と氷着いた岩場が交互に連続して冬場は難コースでした。滝場の上に避難小屋があり、そこに大量の登山具、食料などデポして頂上アッタクに備える段取りになっていました。
その年は未曽有の大雪で下山後知ったことですが上信越は1週間ぐらい連続して猛吹雪が荒れて、道路、鉄道すべてのインフラがマヒしていたとのこと。我々も全く動けず、毎日避難小屋でゴー ゴーという荒れた天候に堪え、ひたすら天気の回復を祈るのみ。12月22日に入山後全く動けず、年末まで沈滞を余儀なくされた。今年もダメかとあきらめムードが出は始めたが、多分晦日の30日。 その日は朝から快晴になり、高妻の大斜面は真っ白な新雪に覆われ正に天祐の瞬間と感じられた。このチャンスを逃してなるものかと全員張り切って出発。ところが体がすっぽり埋まるほどのフカフカの新雪は全くはかどらない。そこで先頭隊員を空身にして5メートル、10メートルとラッセルさせる。ばてると次々と先頭を交代させ、スタカットラッセル(*注)。高度差2-300メートルの急斜面を雪のトンネ ルを作るがごとく牛歩戦術で高度を稼いだ。予定より大幅に遅れ頂上に着いたのは午後1時頃、全員で万歳して冬季初登頂の喜びに浸る間もなく、私は帰りの危険を考えると気持ちが重かった。頂上直下の大斜面は新雪に覆われ、白一色のっぺら坊の雪崩の巣みたいな場所に見えた。 標高2,353Mのおむすび形の優美な山容だが積雪した冬季になると真に危険な山に豹変する。予定より大幅に遅れているのですぐにでも全員下山させたいが、新雪の大斜面は大勢で一気に下ると雪崩に巻き込まれる。そこで奥貫先生と相談して一年生から順番に一人一人安全な灌木地帯まで間をおいて下らせたので時間がかかる。先生にお先に降りてくださいとお願いしたが”いや私は最後で良い、君が先に降りろ”と全員安全を確かめてから自分は最後に行動する。まさに沈没しかかった駆逐艦の艦長のような責任感のある先生であった。最大の難所は切り抜けたが、まだまだ滝場岩場、急斜面の連続で全員くたくた汗まみれ雪まみれ。日は暮れてくる。早朝から10時間以上行動している。
やっと谷間の渓流地帯にたどり着いたが、高校生たちはふらふら夢遊病者のように足元が定まらない。そのうち何人かは凍りついた渓流に倒れ込んでしまう。このままでは凍死の危険がある。そこで叱咤激励しながら全員上半身を裸にさせ、乾布摩擦と乾いた下着に取り替えさせ、大型の凍てついた重たいキスリングはその場に放置させ、空身になって隊列を組ませ大声で校歌などを歌いながらひたすら前進した。真っ暗な中たぶん夜8時か9時ごろ、前方遥か遠くにポツンと裸電球の明かりがぼーっと見えたとき、正直言ってこれで助かったとほっとした。着くとそこは戸隠奥社の小さな社坊であった。ドアーをドンドン叩くと神官が顔を出しびっくりした様子で”あんた達一体どこから来たんだ!”と叫んだ。一部始終を説明し、このままでは子供たちが凍死しかねない、何とか今晩だけで泊めて欲しいと懇願した。そして親切な神社に命を助けてもらった次第です。あの時の光景と切迫した気持ちは生涯忘れられない。奥貫先生も同じお気持ちであったでしょう。
平成28年12月1日 昭和31年度卒業 打矢 之威 記
注 スタカットラッセルとは
冬山歩行の安全確保のため、前者がラッセルしている間後者は停止して前者の安全話確保し、一定まで進んだら前者は停止し後者前進の安全を確保するという尺取り虫が進むような登攀技術のことをいう。スタカットに対して両者が同時に登攀をすることをコンティニュアスという。
✳︎1960年12月の高妻山の記録写真はこちらから
獨協中・高等学校ワ ンダー フォーゲル部OB会 オンラインマガジン 2016/11/15/
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▲△ も くじ △▲
【1】ワンゲル部創部当時のこと
【2】平成25年〜26年山行記録
【3】行ってきました 山行Now
【4】トピックス 田部井淳子さん逝去
【5】獨協学園同窓会HPのリンク
【6】記事の募集
【7】メールマガジンについて
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【1】 ワンゲル部創部当時のこと
ワンゲル部創部当時の経緯や活動が記されている獨協中・高等学校ワ ンダーフォーゲル部OB会のホームページ「Memorys・草創期のワンゲル部」の森本悌次、打矢之威両氏の著作「ワンダーフォーゲル」ですが、前HPから文字化けのために不明だった部分を残したまま掲載してありました。このたび独協中・高等学校の図書館からこの文章が掲載されていた学園文芸誌「めじろ」72号を入手し、完成された全文を更新掲載しましたのでぜひご覧ください。
なお、この72号には本校中学校を同級生より2歳若く卒業した森鴎外の長男であり、本校OBの森於兔(もりおと)氏が在学中のことを「あの頃のこと」と題した寄稿文が掲載されていました。
また、「小蓑毛の煙草作農業」について高梨富士三郎、新宮譲治両先生の社会科実態調査報告が載っており、当時調査参加生徒には高校1年生だった飯島義信先生の名も記されていました。
以下、「ワンダーフォーゲル」森本悌次 打矢之威の「ワンダーフォーゲル」の記事は「Memorys・草創期のワンゲル部」の3本目の記事になります。
【2】平成25年〜26年のワルゲル部山行記録
当時部長だった黒川君から2014年の学園祭の折に発行された部誌「わたりどり」のデータを提供していただき、当時の山行記録を追加掲載しました。今まで20年以上も途切れていた獨協中・高等学校ワンゲル部の歴史がHPを通して相互に繋がったことは大変喜ばしいことと思います。是非、それぞれの世代で同じワンゲル部のOBとして交流され、繋がりを持っていけたらと思います。ホームページでも新しい世代のワンゲル部の活動を是非見て欲しいと思います。なお、今年卒業したOBのうち3名は会員登録していただいています。
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【2】行ってきました 山行Nowから
今年は9月に入って雨の日も多く、日照もあまりなかったので朝夕の気温があまり下がらず、各地とも紅葉が遅れていたようです。例年なら1,500mから2,000m級の山は10月15日ごろ紅葉のピークを迎えるのでしょうが、今年は1週間から10日ぐらいは遅れていたようです。また、寒暖の差があまりなかったせいかコントラストも今一のようです。
晴れの特異日である10月10日の各地の山は天気と紅葉を期待した 山ガール(山姥?)と 山じじーで大渋滞になったということです。特に頂上での記念撮影とトイレは順番待ちの行列が続いていたそうです。
今月はHPから秋の日帰り山行記録を少しご紹介します。
昭和46年卒の碓井さんには初めて山行記録を投稿していただきました。手島(昭和47卒)の山行記録と併せてご覧いただければと思います。
◆ 秋の安達太良山(1699m)
智恵子は東京には空がないという・・・
智恵子は遠くを見ながらいう 阿多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が 智恵子のほんとうの空だという
◆ 明神ヶ岳(1169m)明星ヶ岳(923m)
箱根の外輪山を形成する山で、箱根山や金時山、富士山、相模湾など展望も良好な明るい山稜です。
◆平標山(1984m)
すでに1500mより上は冬の世界が広がっていました。三国山脈谷川連峰の西端のとても雰囲気のある山です。
◆苗場山(2228m)
秋の紅葉シーズン限定の田代ロープウェイを利用したコースで頂上台地に高層湿原が広がっています。
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【4】田部井淳子さんが亡くなりました
日本を代表する女性登山家の田部井淳子さんが10月20日腹膜ガンで亡くなりました。2007年には乳ガンが見つかり、2012年には腹膜ガンで余命3ヶ月と宣告されたそうです。それでも「山の遭難に比べたら恵まれている」と治療を続けながら山に登り続け、山の楽しさを伝え、震災後の福島の子供達を励ましながらの77歳の生涯でした。ご冥福をお祈りします。詳しくは下記HPのトピックスを参照ください。
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【5】同窓会HPのリンク
獨協中・高等学校同窓会HPには当ワンダーフォーゲル部OB会のバナーがあったもののリンクがすでに切れていました。この度金先生から事務局に連絡していただき、新しいワンゲル部OB会HPのリンクを貼り直していただきました。同窓会のホームページからも本ホームページにアクセスできるようになりましたのでお知らせします。
http://www.dokkyo-mejiro.com/index.html
【6】記事の募集
本ホームページでは記事を募集しています。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でもいいので、ぜひ投稿ください。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告なども募集しています。投稿をお待ちしています。
投稿の仕方は上記にありますが、ちょっとハードルが高そうな場合は、メールでお寄せいただいてもOKです。
dokkyo.wvob@gmail.com
【7】メールマガジンについて
このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員登録メンバーで 「メールマガジン配信希望」されている方にお送りするものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページと もリンクしていますので今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡いただければと思います。
※このメールについてのお問いあわせは dokkyo.wvob@gmail.comまでお願いし ます。このメールは一斉送信になるので、直接返信されると一斉に送信されてしまうのでご注意下 さい。
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獨協中・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会 オンラインマガジン
掲載記事や画像などを許可なく転載することはご遠慮ください。 ⌘
【作詞】サトウ ハチロー(1935<昭和10年>作)
【作曲】徳富 繁
1.もずが枯木で鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿びき車は おばあさん
コットン水車も 廻ってる
2.みんな去年と 同じだよ
けれども足んねえ ものがある
兄さの薪割る 音がねえ
バッサリ薪割る 音がねえ
3.兄さは満州に いっただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ
合宿最後の晩。
全員車座のなか❝梨さん(高梨先生)❞からみなにウィスキーがふるまわられる。
「角瓶」(サントリー)だ。
で,歌が………。口火を切るのはもちろん梨さん。
♪モ~ズが枯れ木でないている/あんさは……。
*
帰りの夜汽車。
あの歌ってなんですか?とオレは梨さんに聞いた。 長瀬オサム
2016(平成28)年11月10日(木)
東京駅八重洲口から登山口まで直行で行ける6時50分発箱根桃源台行きの高速バスを利用しての山行。バスは霞が関から高速に入り、御殿場で降りた。トイレ付きの4列のバスである。東名御殿場駅とJR御殿場駅でほとんどの人が降車した。山の格好をした人は4人だけだった。車窓からは雪をかぶった富士山が綺麗に見えた。明神ヶ岳は金時山と同じ金時登山口のバス停で降りることになる。金時山には昨年12月に冨樫、木村両先輩と、後輩になる中野君と4人で雨で景色もまるで見えない中を登った。私にとってはその山行が45年ぶりの再ブレークの発端となった。それ以来、当時70キロを越えていた体重と高い血圧を下げるべく始めたつもりの山行だったが、今回で27回目の山行になってしまった。体重も6キロ以上も痩せ、最高血圧も20以上は下がってきているが、すでに山行の目的は健康増進ではなくなってきている。今年は日帰り中心に体を慣らしている段階だが、来年からは小屋かテント泊で高度も上げていきたいと考えている。
さて、バスは途中渋滞があったので予定時間より少し遅れて、登山口到着は8時50分近くになっていた。
バス停近くのローソンでトイレを済ませ、昼食のおにぎりと飲み物を仕入れる。ローソン脇の道が金時山矢倉沢コースと明神ヶ岳共通の登山口になる。しばらく舗装道路を上がって行き、途中から本格的な登山道になる。チョット暗い感じの山道である。
途中、すきを担いだ人に「上は紅葉が綺麗ですよ。」と声をかけられた。筍でも掘ってきたのかと思っていたが道をよく見ると土を鋤き取った跡が見られたので、どうやら水切りを掘ってくれていたようだ。しばらく行くと茶店のある金時山がよく見える広場に至る。ここが金時山との分岐になる。茶屋は営業していなかったが、外には50円と書かれた簡易トイレもあった。金時山の山肌は紅葉がまだまだ綺麗だった。
明神ヶ岳方向に登って行く。振り返ると金時山がよく見えた。コルの奥にちゃっかり雪をかぶった富士山が少し顔を出していた。笹原のなだらかな稜線を行く。
進行方向右手には箱根山方向や裾野に広がる箱根の温泉街方向がよく見通せる。
山道の脇にはまだリンドウやアザミが結構咲いていた。
比較的なだらかな尾根道を登り下りしながら明神ヶ岳山頂に到着。
植生保護のために周囲はロープで囲われており、中央にベンチが一つある比較的広々とした芝生の頂上である。木曜日とあって今まで登っている人には合わなかったが、ここにきて何組ものパーティーが昼食の準備にかかっていた。30代前後の女性だけのパーティーが3組くらい、男女のパーティーが2組くらい。どのパーティーもストーブを使って鍋やラーメンなど賑やかに調理をしている様子だった。
朝のうちは結構晴れていたが、登っているうちに雲が重なってきて金時山も富士山も見えなくなっていた。「わー富士山が見える。」と声が聞こえ、その方向を見るとうっすら金時山のぽっくりした頂上の上に富士山が姿を見せていた。
ひとりの私は、フリーズドライの四角い固形スープに魔法瓶からお湯を注いであっという間に調理終了。おにぎり2つの昼食はこれもあっという間に終了。デザート用に持ってきたフリーズドライのお汁粉にお湯を注いで、これもあっという間。
昼食を終え、少し休んでから他のパーティーをよそに、一番早く頂上を後にする。
少し下がったところから左手を見ると雲の下に相模湾が見渡せた。
明神ヶ岳からは基本下りながら明星ヶ岳に至る。途中「強羅の大文字焼き」が行われる山腹の上を通り抜けて行く。山頂手前のコルに宮城野へ下る分岐点があり、展望のない明星ヶ岳頂上ははこの先になる。
分岐点からは頂上までは10分くらい。ここからも宮城野へ下るルートがあるので、こちらから下山することにする。
この周囲には「マユミ」の木があり、赤い実が梅の花のように一面に実っていて美しかった。
舗装道路に出てから国道(東海道1号線)までしばらく行くことになる。国道には箱根湯本経由小田原駅行きの箱根登山バスが通っている。国道に出るとバス停の表示が左右どちらにもあったので、とりあえず右手のトイレもあるという方に行くことにした。後で分かったが、左方向のバス停が宮城野橋バス停で右手方向のバス停が宮城野支所前バス停である。
さすが箱根、1時間に何本ものバスが通っているようだ。
少し雨が降ってきた中を1月にはたくさんの沿道の観客に囲まれて大学生のアスリートが走り抜けて行く箱根駅伝のルートをバスは小田原まで下りて行った。
(手島達雄 S47年卒)
コースデータ 5時間(休憩30分)
金時登山口バス停発9:00 登り口9:08 金時山下分岐9:30 頂上着11:40 発12:20 明星ヶ岳下分岐12:45 明星ヶ岳頂上着13:25 舗装道路14:10 宮城野支所前バス停14:30