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ウォルター・ウェストン

まだ宗教登山や狩猟のための登山しかなかった日本で富士山をはじめ槍ヶ岳や御嶽山、木曽駒ヶ岳をはじめとして多くの山岳を登り、広く海外に日本アルプスや文化を紹介するとともに、日本の従来の登山の概念を革新する近代登山の先駆けとなったのが英国人ウォルター・ウエストンでした。彼を記念して関係した各地ではレリーフが作られ、今だに上高地をはじめとしていろいろな所で毎年ウエストン祭が行われています。

彼は1888(明治22)年から1915(大正4)年の27年間(滞在年数は通算20年間近く)に英国国教会の宣教師として三度に渡って来日し、その間に日本アルプスを中心にいろいろな山岳を踏破し、日本のアルプスや文化をまとめた「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」(日本アルプスの登山と探検)他を英国で出版し、広く海外に日本を紹介しました。

彼は1861年、イギリスのダービー市で生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで学び、1886年に司祭となり、1888年にリドレー・ホール神学校で英国国教会の聖職について学んだのちに日本に宣教師として来日します。

英国をはじめヨーロッパ各国では既に山岳会が作られ、名だたるスイスアルプスはすでに登り尽くされ、アルプス黄金時代から難関ルートへの開拓時代に入っていました。そんな時代にあって、彼もマッターホルンやヴッターホルンなどいろいろなスイスアルプスを登るなどしていた登山愛好家でした。

1888年に宣教師として赴任したものの眼病治療のためと称して?一旦宣教師職を辞して登山にのめり込んでいきます。1890年には富士山を皮切りに日光・白根山や男体山、過去赴任していた九州の祖母山、阿蘇山や霧島山、韓国岳、桜島などの山々や、飛騨山脈や赤石山脈などの山々を登っているようです。

1891年から本格的に登山を開始し、浅間山、槍ヶ岳(悪天候などのため鞍部まで)、御嶽山、木曽駒ヶ岳を登っています。1892年には5月の富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳に、1993年には恵那山、富士山、大町から針ノ木峠・ザラ峠を経て立山、前穂高岳に登っています。

前穂高岳や前年の槍ヶ岳などの登山の折には、明神池の辺に小屋を持つ猟師の上條嘉門次を案内人に登頂しています。

上條嘉門次は生涯でクマ80頭、カモシカ500頭を仕止めたとされ、ウエストンの著書の中で、抜群の案内人として紹介されたために国内外の登山者に案内人として指名されるなど人気を博します。ウェストンと20年間以上に渡る交流から嘉門次はウエストンからピッケルを贈られ、現在でもそのピッケルは嘉門次小屋に掲げられているということです。

1894年には白馬岳、笠ヶ岳(実際は抜戸岳とみられる)、常念岳、御嶽山、身延山を登り、1895年まで滞在し、離日します。

英国に帰国した翌年の1896年には先述した「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」を出版することになります。この本の記述からは神学者のそれではなく、ユーモアを交えたエピソードをはさみながら、民俗学的、文化人類学的、地質学的な観点に基づいて日本アルプスを紹介しており、日本の諺にも日本文化にも精通していることが伺えますが、日本語は拙かったということです。

赴任地での宣教師としての評判はあまり良いとは言えなかったようですが、再度日本への赴任が決まります。1902年、登山愛好家のエミリー・フランシスと結婚し、新婚旅行でカナディアンロッキーに登った足で奥さんと共に再来日します。

その年には広河原から北岳を登り、1903年に甲斐駒ヶ岳、浅間山、1904年に金峰山、鳳凰三山、北岳、間ノ岳、仙丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳に登ります。地蔵岳では弘法大師も誰も成し遂げられなかった尖峰初登坂し他ことで地元の漁師などから神社建立して神主になってくれと地元の人から言われたエピソードもあったようです。

妻のエミリーさんは1903年に富士山、1904年には再度富士山に登り、火口底まで下りて石を持ち帰っています。また、浅間山や八ヶ岳、妙高山、戸隠山と高妻山にも登っており、戸隠・高妻山では初めて登った外国人女性ということでレリーフが設置され、毎年「ミセス・ウェストン祭」が行われているそうです。

そして、二人は1905年に離日します。

それから6年後の1911年には三度目であり、最後になる来日滞在を果たします。その年、二人は妙義山に登っています。

1912年には夫人を伴って有明山、燕岳を登り、槍ヶ岳の東稜、奥穂高岳は奥さんは伴わず登っています。1913年には夫人を伴って焼岳、槍ヶ岳、霞沢岳、奥穂高岳を登っていますが、この時も18年ぶりに再開し既に60代半ばになっていた上條嘉門次が案内しています。一緒に登った妻のエミリー・ウェストンは槍ヶ岳や奥穂高の女性初登頂者となっています。また、夫人とともに白馬岳も登っています。

1914年には単独で立山から剱岳を登り、ザラ峠と針ノ木峠を経由して下山しています。

しかし、第一次世界大戦の勃発で帰国を決意した二人は最後の山行を中房温泉から大天井岳を登り上高地に下りるコースを選びます。上高地では嘉門次とも別れの挨拶を交わし、1915年に離日して日本滞在は終わりを告げます。

英国に帰ってからは執筆活動や日本アルプスや日本文化についての講演などを行ないながら日本への思いを温めていたようですが、1940年(78歳)に脳出血で急逝してしまいます。

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」は日本アルプスについての紹介だけでなく、日本文化に対しての深い洞察と知識、リスペクトと深い愛情が感じられる紀行本です。今では失われてしまった当時の人々の意識や暮らしぶりについても知ることができます。岡村精一の翻訳もとても読みやすいものでした。嘉門次小屋四代目の上條輝夫の妻である上條久枝著の「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」と合わせて読んでみ流ことをお勧めします。

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参照文献 (ウェストン夫妻の登山履歴は資料により違いがあるので正確でないかも知れません。)

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」–『日本アルプス 登山と探検』 (岡村精一訳、平凡社ライブラリー)

「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」 上條久枝 著 求龍堂

「知られざるW・ウェストン」 田畑真一 著 信濃毎日新聞社

アイガー北壁の登攀史

先日、アイガー北壁の悲劇を主題とした2008年製作のドイツ映画「アイガー北壁」をTVで観ました。そこで、アイガー北壁の登攀史をちょっとまとめてみましたので、ご紹介です。

監督 : フィリップ・シュテルツェル 出演 : ベンノ・フュルマン, ヨハンナ・ヴォカレク, フロリアン・ルーカス, ウルリッヒ・トゥクール

アイガー北壁初登攀の競争は1934年のドイツ隊が2,900m付近から滑落死亡する事故から始まります。翌年の1935年にはやはりドイツ人2名が3,300m付近で膝まで雪に埋もれ、立ったまま凍死するという事故が起こっています。この場所は後に”死のバーク”と呼ばれるようになります。

ベルリンオリンピック前年の1936年、ナチスドイツはアイガー北壁を完登した者にオリンピックメダルを授与するというプロパガンダを打ち立てて挑戦を煽ります。

その年、映画になった悲劇はドイツ隊2名とオーストリア隊2名が同時に挑み、途中から合同パーティーとなって登頂を目指して起こります。先発していたドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツは”振り子トラバース”というルートを開拓し、前年死亡事故があった”死のビバーク”地点を越えた所まで登っていましたが、オーストリア隊の一人が負傷したため、置き去りにする事も出来ないと一緒に下山することになります。3人は動けなくなった1名を搬送しながら懸垂下降して下山していましたが、天候が悪化して雪崩により1名が即死、2人が滑落して宙吊り状態になってしまいます。そしてビレイしている者を助けるために意識のある1名は自らロープを切って2人は滑落してしまいます。生き残った1名は北壁に開けられた鉄道の坑道入口の”アイガーバンド”まで数メートルの所まで下降しますが、ロープが足りずに結んだロープの結び目がカラビナを通すことが出来ず力尽きてしまい、4人全員が死亡してしまうことになります。

その後も宙吊り事故で2年間遺体が放置されるという事故も発生していますが、アイガー北壁の完登は、1938年ドイツ隊とオーストリア隊の合同登攀で達成されることになります。

この時、完登を果たしたオーストリア隊のハインリッヒ・ハーラーはこの時の様子を「白い蜘蛛」に著しています。その後、ハーラーはヒマヤラ登山を目指すことになります。しかし、インドでイギリス軍の捕虜になり収容所に収容されてしまいます。しかし、収容所を脱走して苦難の果てにチベットに入ることになり、幼少のダライラマ14世との交流が始まります。この間の出来事が自伝「チベットの7年」として出版され、「セブンイヤーズインチベット」というブラッドピッド主演の映画になっています。

日本でのアイガー北壁登攀は1964年に芳野満彦と渡部恒明が挑戦しますが、失敗に終わり、翌年目標をマッターホルン北壁に変えて完登を果たします。これは新田次郎著の「栄光の岸壁」にも描かれています。

日本人で初めてノーマルルートを完登したのは1965年の高田光政になります。この時のザイルパートナーの渡部恒明は頂上まであと300mの所で怪我をして動けなくなってしまいます。高田は渡部を助けるためには渡部を残して頂上を目指し、一般ルートから下山して救助隊に助けを求めることだと判断し完登を果たします。しかし、救助隊が助けに向かったものの、ガスが晴れた時には滑落した渡部の遺体が壁の取り付きで発見されることになります。(このことは新田次郎著の「アイガー北壁」に実名で描かれています)

1969年には現モンベル会長の辰野勇が当時の最年少記録で二登を果たし、同年に加藤滝男、今井道子、加藤保男、根岸知、天野博文、久保進の6名が直登ルートでの完登を果たします。

この時期スズメバチに注意

この時期、熊と同じように山で遭遇したくないのがスズメバチです。8月下旬には高尾山の6号路や4号路でもスズメバチの巣が出来て、撤去済みではあるものの通行注意情報が出ています。

スズメバチは秋に巣が最大になり、活動も活発になります。春に越冬から覚めた女王蜂は巣を作り始め、働き蜂を産み続けて巣を大きくしていきます。働き蜂は全て雌で、毒針を持っています。女王蜂候補として選ばれた雌にはロイヤルゼリーが与えられます。秋になると毒針を持たない雄が現れ、女王蜂候補と結婚飛行に出て後尾します。その後、女王蜂、雄蜂、働き蜂は寿命を終えます。唯一生き残るのは女王蜂候補だけで、巣から離れて暖かい朽ちた倒木の中などで越冬します。(ミツバチは働きバチも越冬します。)

さて、スズメバチの毒は強力で、アレルギー反応で死に至ることもあるので気をつけなくてはなりません。「蜂の一刺し」と言われますが、スズメバチの針は抜けない構造で、何度でも刺すことが出来き、また空中に噴射することも出来ます。散布された毒液は警戒ホルモンの働きがあり、他の蜂を興奮させ、呼び集めさせます。1匹で飛んでいる時は攻撃性はそれほど強くありませんが、巣を守ろうとする時には攻撃性が強く、巣に近づくことはとても危険です。10m以内に近づくと警戒行動をとり、接近者の周囲を飛び回りはじめます。また、刺されたり、毒液が発射されると仲間を集めてより興奮して攻撃してきます。スズメバチの巣は土中や木洞などに作ることが大半なので気づかないことも多いので、蜂の出入りなどに気を配ることが必要になります。

蜂の接近に驚いて声高に騒いだり、はたき落そうとしたりすると、却って蜂が興奮して危険度が増します。スズメバチは巣に近づいたり、睨み合ったりなどすると左右の大顎を噛み合わせて打ち鳴らし、「カチカチ」という警戒音を出し威嚇してくることもあります。これは最後の警告の段階であり、それでもその場から立ち去らないと、仲間の蜂を呼び寄せて集団で攻撃してくるのです。

香水には警報フェロモンと同じ物質が含まれているので、仲間を集めてしまうようです。また、黒い服は、幼虫やさなぎの捕食者として攻撃の標的と見間違いたり、ヒトを含む大型哺乳類の弱点となる黒色部分(眼や耳孔など)を狙って攻撃を仕掛けてくると考えられ、避けるべきと言われています。

スズメバチが1匹で飛び回っている場合は急に動いたり、むやみに手で振り払ったりしないようにして屈むようにしていれば飛んで行ってしまうことが多いですが、巣を見つけた場合は静かに体を低くして後ずさりして巣から離れる事が肝心なようです。

日本史上最大被害の熊事件

前号のメールマガジンで熊の目撃情報や人身事故が増えていることを取り上げましたが、1970年に起こった福岡大のワンダーフォーゲル部員を執拗に襲ったのも日本では北海道だけに生息する大型のヒグマでした。日本で過去最大の熊被害を出したのも三毛別に現れたヒグマ(羆)であり、「三毛別羆事件」と呼ばれています。

この事件を文春文庫から出版されている木村盛武著の「慟哭の谷」を元にまとめてみました。

事件は1915(大正4)年、北海道苦前郡苦前村三毛別の六線沢で起こりました。当時の北海道では開拓事業が進み、かなり奥地まで開拓者が入っていました。三毛別での開拓はまだ開墾初期の段階であり、暮らしは貧しいものでした。沢に沿った森に切り出した木を草や板で囲い、樹皮で屋根を葺き、入口はムシロを垂らしただけの掘建て小屋での生活でした。

事件が起こったのは牡丹雪から粉雪に変わり、そして積雪期に変わってゆく11月初旬であり、通常羆(ヒグマ)は冬眠に入っている時期でした。マタギの間では冬眠出来ないでいる熊や冬眠を妨げられてしまった熊は凶暴になると言われていたようです。

事件は深夜、軒先に吊るしたトウモロコシを狙って羆が唸り声を立てながら小屋の周りをうろついていたことから始まりました。その夜はそれだけで済みましたが、30センチくらいもある足跡が残されていたそうです。

11月20日に再び羆が現れたので、鉄砲を持つ2人のマタギを呼んで泊まり込みで待ち構えていた所、30日夜半に三度羆は現れます。鉄砲は当たりはしたものの仕留めるまでには至らず、足跡を追うも吹雪のために断念することになります。その日以降暫く羆は出なくなります。

12月9日、六線沢上流にある小屋で主人の留守を守っていた妻と預かり子が羆に襲われることになります。寄宿人が帰って来た時、座り込んで顔の下から吹き出した血が固まって死んでいる預かり子を発見します。壁は破壊され、窓枠に髪の毛がこびりついていたといいます。居るはずの当主の妻の姿は見当たりませんでした。30人におよぶ捜索隊が結成され、拐われたと思われる当主の妻と羆の捜索が開始されました。途中、馬の背丈よりも遥かに大きい羆と遭遇するものの、取り逃してしまいます。

懸命な捜索により森のトド松の根元から女の衣服の一部と脚と頭骨の一部とが見つかりました。女はほぼ羆に食われ、残りを貯蔵するために雪の中に埋めておいたのだろうということでした。捜索隊は遺体の一部を持ち帰ることになります。

12月10日、2人の通夜が営まれている席に例の羆が遺体(獲物)を取り戻すべく壁を崩して乱入して来ます。男たちは慌てて外に飛び出したり、便所や屋根裏に身を潜み難を避けられたのでした。しかし、羆はそれから20分も経たないうちに下流にある家を襲うことになります。

この家には前日の事件を受けて避難して来た臨月の妊婦を含む女子供合わせて10人(男は一人だけ)がいました。羆は突然小屋の壁を壊して侵入し、妊婦を含む4人が殺され、3人が重傷を負います。叫び声を聞きつけて駆けつけた村人は静まり返った家の中からは骨を噛み砕く音だけがしていたといます。臨月だった妊婦は上半身を食われ、腹は破られていましたが胎児は無傷のままで暫く動いてたものの死んでしまいます。

この2日間で妊婦や子供を含め6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3名が重症を負うことになったのです。

12月11日、270人もの大規模な討伐隊が組織され、軍隊を含め12日からの3日間で延600人、アイヌ犬10頭が投入されることになります。

捜索の中、検死のために来ていた医者は山中で発見された羆の糞の中から人骨、髪の毛、未消化の人肉が確認されていますが、羆を発見するこ出来ませんでした。犠牲者の遺体を餌におびき寄せる作戦も実行しましたが、羆は近くまでは来たものの気配を察知したのか逃げてしまいます。捜索が続けられる中も羆は村人不在な人家を荒らし回っていました。

12月13日夜になって、警備していた者が対岸の切り株の数が多い事に気づき、黒い塊になっていた羆を発見して軍隊の打ち手が発砲するものの、また仕留め損なってしまいます。

12月14日、単独で山に入っていた山本兵吉という熊打ち(生涯で300頭の熊を仕留めたという伝説のマタギ)により、やっと頂上付近で発見され心臓と頭に玉が命中し、仕留められたのです。

この羆は体重340kg、身の丈2.7m、年齢は推定7、8歳だったということです。

討ち取られた羆は橇で搬送されますが、今まで晴天が続いていたのに天候が悪化して猛吹雪になったということです。熊を殺すと天気が急変すると言われ、村人は「熊風」と呼んでいるようです。

討伐後、羆は解体解剖されましたが、腹からは六線沢で初めに襲われて食われてしまった女の葡萄色の脚絆の他、雨竜で食われた女の赤い肌着、旭川で食われた女の肉色の脚絆、天塩の飯場の女の物と思われる物も発見されたということです。

この事件は木村盛武によって再調査され、事件の50年後にあたる1964(昭和39)年に「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」として発表され、2015年にノンフィクション「慟哭の谷」として文春文庫から出版されています。戸川幸雄は「羆風」を書き下ろし、吉村昭は小説「羆嵐」を著しています。

イモトさんの登山歴

イモトさんの日本テレビ「イッテQ」登山部での登山歴をWikipediaから整理してまとめてみました。

  • 2009年5月 キリマンジャロ登頂(標高5895m)
  • 2010年01月 崋山登山(標高2160m)
  • 2010年08月 モンブラン登頂 (標高4810m)(三山縦走(タキュル→モンモディ→モンブラン))
  • 2011年08月 キリマンジャロ登頂(標高5895m)(2回目)
  • 2011年12月 西穂独標登頂(標高2701m) (雪山登山、滑落訓練)
  • 2012年01月 アコンカグア登頂断念(標高6962m、標高6890m地点で国際山岳ガイドの角谷道弘の判断で下山開始) 
  • 2012年08月 国立登山研究所人工壁登頂(高さ17m)(人工のクライミング・ウォールによるロッククライミング基礎訓練)
  • 2012年08月 剱岳(源次郎尾根ルート)登頂(標高2999m)(アイゼンによる岩山登山訓練、高所訓練)
  • 2012年08月 リッフェルホルン登頂(標高2757m)(マッターホルン登頂のテストトライアルクライミング)
  • 2012年08月 ブライトホルン登頂(標高4164 m)(マッターホルン登頂のテストトライアルクライミング)
  • 2012年09月 リッフェルホルン登頂(標高2757m)(2回目)(標高差200mのアイゼンによる岩山登山訓練)
  • 2012年09月 マッターホルン登頂 (標高4478m)(下山にヘリコプター使用)
  • 2013年春頃 エクスカリバータワー(オランダ)登頂(高さ37m)(人工のクライミング・ウォール)
  • 2013年03月 八ヶ岳(南沢大滝氷壁)登頂(高さ21m) (アイスクライミング技術習得訓練)
  • 2013年07月 槍ヶ岳合宿
  • 2013年07月 槍ヶ岳登頂(標高3180m)
  • 2013年07月 北穂高岳登頂(標高3106m)
  • 2013年08月 富士山登頂(標高3776m)(一合目からの登頂)
  • 2013年10月 マナスル登頂(標高8163m)
  • 2014年02月 キナバル登頂(標高4095m)
  • 2014年04月 メラピーク(英語版)登頂(標高6461m)(エベレスト登頂前の高所順化)
  • 2014年04月 エベレスト登頂断念(標高8850m、メラピーク下山後のベースキャンプ・カーレ(標高4900m)で断念[56][57])
  • 2014年冬 大山登頂(標高1729m)
  • 2015年03月 八甲田山合宿(スノーシューズトレーニング、クレパス脱出訓練、3週間の雪上生活訓練)
  • 2015年03月 八甲田山系大岳単独登頂(標高1584m)
  • 2015年春頃 ルッツォーネダム(英語版)登頂 (高さ165m、傾斜90度)(世界一の人工のクライミングウォール
  • 2015年06月 デナリ登頂(標高6168m)
  • 2016年08月 メンヒ登頂(標高4107m)(アイガー登頂のテストトライアルクライミング)
  • 2016年08月 アイガー登頂 (標高3970m)(下山にヘリコプター使用)
  • 2017年012月 アルプフーベル登頂(標高4206m)
  • 2017年12月 ヴィンソン・マシフ登頂 (標高4892m)イモト

意外な人も登山を楽しんでいます

市毛房子さん、石丸健二郎さん、釈由美子さん、小野寺昭さんなどが山関係のTVやラジオに出演しているのでよく知られいますが、その他にも芸能人や作家でよく山に行っている(いた?)人も多いようです。

片山右京さん、吉田類さん、駄星周さん、岡田准一さん、渡辺杏さん、小島聖さん、藤井フミヤさん、高橋一生さん、堀ちえみさん、中谷有紀さん、金子貴俊さん、夢枕獏さん、椎名誠さん、湊かなえさん、宍戸海さん、工藤有貴さんなども山を楽しんでいます。杏(渡辺杏)さんなどは20歳の時に奥穂からジャンダルムを経由して西穂高を登っているそうです。

これら芸能人や作家がプライベートで登山を楽しんでいるのに対して”プライベートでは山には登りたくない。”と言っているのがイモトさんです。イモトさんは日本テレビの「イッテQ!」登山部の仕事として、やだー!怖い、怖い!と言いながらもマッターホルンやアイガーを始めとして厳しいアルペンコースを踏破しています。下山はヘリを使うなどして批判もされていますが、・・・。

しかし、完全サポートを受けているとは言え、勇気と体力、スキルは本当に見事なものだと思います。ある意味でプロの登山家とも言えるのかも知れません。

イモトさんの登山歴をWikipediaの記事からまとめてみました。Wikipediaの記事はこちらからご覧ください。

『御嶽山の御嶽教』

「御嶽教の神がかり」

秋の紅葉シーズンで賑わい、山での昼食を楽しんでいる最中に山頂付近で噴火大爆発を起こし、多くの犠牲者を出した御嶽山ですが、登ってみると分かるのですが他の山とはちょっと異質な感じを受けます。不気味な感じさえ抱く方もあると思われます。祠や道祖神、お地蔵さんなどは山でよく見かけますが、御嶽山では○○神霊と書かれたたくさんの石碑や行者の像が建てられているのを目にすることが出来ます。

「御嶽講」というものがあって昔から多くの信者が登っていた信仰の山だということは聞いていましたので、そんな信者が記念に寄進した物だろと思っていました。

この石碑に書かれた神霊とは一体何なのか、そしてこの石碑は何のために建てられたものなのか疑問に思いながらも・・・。

御嶽山ではこの神霊碑が集められている所を神霊場と言うそうですが、そこで御嶽教の行者が”いたこ”のように憑依して託宣する宗教儀礼を行なっているという記事を目にしました。

調べていくと御嶽山で感じた違和感は青森の「恐山」に抱いていたものと同じ違和感だったんだと思い至りました。御嶽山は”黄泉がえり”の山でもあったのです。

令和元年版の文化庁の宗教年鑑によりますと御嶽教の信者数は全国に47,990人ほどいて、他に御嶽教修正派,御嶽山曽間本教,御嶽山大教などの教派もあるようです。神道13派のうち圧倒的な数の違いはあるものの天理教(信者は4,572,417人)に次ぐ信者数を持つ教団だということです。祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱を「御嶽大神」とし、江戸時代に黒沢口登山道を開闢した「覚明」行者を開山神霊、王滝口登山道を開闢した「普寛」行者を開闢神霊として崇敬しています。そして1873年(明治6年)に下山応助が全国の御嶽大神を崇拝する信仰者を集団結合させ、1882(明治15)年に平山省斎が初代管長となり、教派神道の一派として公認されています。

御嶽教はおよそ1200 年余り前の 774 (宝亀 5 )年に国内で疫病が発生し、国司の信濃守石川望足が「国常立尊」と「大巳貴命」と「少彦名」を御嶽山に祀り、疫病の平癒と退散を祈願したことがその後の御嶽登拝につながるきっかけとなったということです。

古来、山岳宗教にはその根底に一種の「生まれ変わり」を意図する世界観があります。人間は聖なる山岳に存在する霊魂が御神縁によって女人の体内に宿り、神の分霊としてこの世に生まれ、神のお恵みを受けて育成生長し、死後は、またその根元である聖なる山へ帰るものと考えられています。山中に建てられた○○神霊と書かれた石碑は亡くなられた信者が山に帰った証として建てられ祀られている墓碑にも似たものであるようです。黒沢口には5,000体もの神霊碑が建っていて祀られているということです。

またこの御嶽教には「御座」(ござ又はおざ)という特徴的な宗教儀礼があります。「中座」と呼ばれる行者に霊神が神がかりし、子孫にお告げや言葉をかけるという信仰が今も受け継がれています。「御座立て」と称され、神仏や霊神が降臨し(神霊を憑依させ)託宣を行うシャーマニスティックな巫儀儀礼であり、”神がかり”によって病気治療や卜占を行う信仰です。

この御座には中座、前座先達・四天などの役割を持った行者が登場し、一連の 行事を司ります。前座は神がかりする中座を誘導・コントロールする役割を持っています。中座は神がかりをする巫(神霊が中座に憑依し託宣する)の役割になります。講中が経文を読むうちに中座に神が乗り移ります。四天は中座に悪魔が誤ってとり憑かないように中座を守護する役割を担います。神のお告げは前座の先達を通して信者に伝えられ、病気治療や行事などをト占います。医者に見放された瀕死の病人が生きかえった話とか、神のお告げ通り農作物が不作だった話、卜占によって株の売買を行い巨利を博したという株屋の話など、いわゆる奇蹟に類した話が数多く伝えられているといいます。

降臨する神霊の中で神仏は上位に置かれ、短時間だけ降臨し全体に対する簡単な挨拶や助言を行うと、たちまち昇天してしまうそうです。しかしその一方で、元々人間であった者が神格化した霊神は神仏より低位に置かれ、頻繁に降臨しては比較的長時間留まり、全体に対する挨拶のみならず個々の信者への相談に回答したり、信者の身体に御祓いや加持付けなどを行なったりするということです。霊神は信者にとって一番身近な崇敬対象であり、神仏と信者の間をつなぎ、御嶽信仰を下支えする重要な存在となっているようです。

この神がかりの宗教儀礼は江戸時代に秩父の大滝村出身で王滝口登山道を開闢した「普寛」という開闢神霊となっている行者が編み出したと言われています。

古来、宗教と占いは切っても切れない関係にあり、卑弥呼を初めとしてまつりごとは占星術師やいろいろな占いによって決められており、おみくじやお祓いなども本来シャーマニスティクな宗教儀礼を基にしているものだと思われます。「沖縄ユタや神人」、「恐山のいたこ」などの口寄せをはじめとして現在もなお精神的な深部にあるスピリチュアルな部分は

御嶽教にはこの神がかりという根源的な  宗教儀礼として位置づられて今に残っているのでしょう。


『御嶽教の開山二霊神』

御嶽教に教祖はなく、山岳宗教から派生した神道であり黒沢口登山道を開闢した「覚明」行者と王滝口登山道を開闢した「普寛」行者の二人の行者を開山霊神として崇拝しています。

御嶽山の集団登山は富士山など多くの山岳と同じように道者たちにより室町時代から始まっていたようです。各地で高山の霊気に触れ、地上では経験できない宗教体験をしようとする人々により「登山講社」が結成されるようになり、次第に一般にも広まっていきました。しかし、御嶽山の登拝を司る御嶽神社神宮は数ヶ月にわたり身を清めるためのいろいろな決まり事が課せられていて一般の人々に登拝は認められていませんでした。

そんな中、一般信者の登拝を許可してもらえるよう嘆願したのが尾張出身の「覚明」行者でした。しかし、数百年続けられてきた慣習を破ることになる許可はなかなか得ることができませんでした。痺れを切らした覚明は1785(天明5)年の夏に無許可のまま多くの信徒を引き連れて頂上登拝を強行します。その後も覚明は勝手に登拝を続けるとともに登山道の改修にも勤め、一般信者が登拝しやすいよう整備にも精進していました。しかし、翌年の1786(天明6)年の夏に御嶽山の二の池あたりで病み、事業半ばでその生涯を閉じてしまいます。

その後、信徒たちは覚明行者の遺志を受け継ぎ、登山道の改修にも尽力しながら一般庶民の御嶽信仰を急速に普及させていきました。御嶽登拝を希望するものも年々増えていく中で御嶽神社神宮も覚明の志を認めるようになり、1792(寛政 4 )年の正月に軽精進による登拝を認めてもらうための申請を黒沢村の役人の承認状を添えて代官所へ提出し、裁可を得ることが出来きました。これにより一般信者の登拝が可能になりました。とは言うものの、まだ登山の期間 は毎年 6 月14日から18日までの5 日間と限定されたものでした。しかし、このことにより御嶽登山者は年々増加し、全国的な信仰へと拡大していったのです。

さて、もう一人の開山行者となる「普寛」行者はというと、黒沢口からの軽精進が正式に許可された年に御嶽登山新ルート開拓の念願をも って武州秩父から来村してきました。当時すでに王滝口登山道は開かれてはいましたが、直接頂上へは繫がってはいませんでした。普寛行者は元々、武州御嶽(奥多摩の御嶽山)で火難・病難除けを祈願して講社を結んで登拝を行なっていました。しかし、武州御嶽より遥かに高い木曽御嶽の方が一層のご利益があるとして自ら木曽御嶽の登拝を行いながら王滝口からの直接登拝を探るとともに木曽御嶽信仰を江戸の人々に広めていました。

はじめは黒沢村や福島代官所への遠慮から非協力的であった王滝村民も次第に王滝口開山へ積極的に協力するようになり、多くの信者も獲得していったのです。 今まで御嶽登山口を独占してきた黒沢村との間に紛争も生ずるようになりましたが、福島宿繁栄のためと福島役人の仲裁により王滝口登山道が公認されたのです。かくして黒沢口と王滝口からの御嶽山登拝が可能となったのです。


この記事は菅原壽清著『木曽御嶽信仰-宗教人類学的研究-』及び「宗教研究」に掲載されている牧野眞一氏の記事などを参考(一部引用)にして会員用の記事にさせていただきました。不正確な部分がああればご容赦ください。

「黒部の山賊」 のご紹介

伊藤正一著「黒部の山賊」のご紹介

「終戦の1945年、里は極度の食糧難にあえいでいた。あちこちに行き倒れの姿が見られ、都会の焼け跡では毎夜ピストル強盗が横行していた。山もまた荒れ果てていた。広い北アルプスには登山者の姿はほとんど見られなかったにもかかわらず、山小屋では布団や窓ガラスまでが盗み去られていた。そして翌年7月濁小屋ではついに2人の登山者が物盗りに撲殺されるという事件まで起きたのだった。

伊藤正一はこのような世相の中、上高地西糸屋の奥原英雄氏などの仲介により戦争で持ち主をなくした三俣蓮華小屋を買い取ることになる。物理学を志していた正一は、自ら考案した新型飛行機エンジンの設計案を陸軍航空技術研究所に採用され、戦中は東京–松本間を行き来しながら開発に没頭していた。しかし、敗戦によりその方面の研究の道は事実上潰えてしまう。

古里の松本に近い北アルプスの自然にかねてより愛着を持っていた正一は、人生の空白期間の活用法として、ある意味全く畑違いの世界の冒険に身を乗り出すことにしたのである。ところがいざ三俣小屋の視察に行こうと準備している矢先に正一は耳を疑うような噂を聞く。”三俣方面に前科30犯の凶悪犯がいて、黒部渓谷一帯を荒らしまくっている。彼は登山者や猟師を脅しては物を盗っており、昔から黒部方面での行方不明者は全て彼の手にかかって死んだものである。三俣小屋は彼らに占拠されているらしい・・・。世相が世相だけに山賊たちの噂は真実味を持って人々に伝播していった。正一は現場に乗り込む前にまずは状況を把握しようと試みるが、実態を知る者は誰もおらず、とうとう1946年夏、友人2名とともに三俣小屋に向かうことにする。そこで一行を待ち受けていたのは・・・」(「源流の記憶」プロローグから抜粋)

底本「黒部の山賊」伊藤正一 2014年 山と渓谷社刊  伊藤正一写真集 「源流の記憶」2015年 山と渓谷社刊


❇︎三俣山荘、水晶小屋、湯俣山荘、雲ノ平山荘を運営、雲ノ平への最短ルートとなる新道開発など黒部源流部山域の開発の中心的存在となった伊藤正一氏の写真展が下記の内容で現在丸の内で開催されています。(伊藤正一氏は2016年6月17日お亡くなりにな っています。)

DWV.OBの冨樫氏も写真展を観てきたと聞いてもおり、今回メールマガジンでもご紹介してみました。特に定本「黒部の山賊」がとても面白かったです。当時ベストセラーになったということでしたが、今回初めて読んでみました。


伊藤正一写真展 のご案内

会期 2019年6月28日(金)〜7月25日(木)    会場 エプサイトギャラリー(東京都千代田区丸の内3-4-1新国際ビル エプソンスクエア2F)

時間 10:00〜18:00(最終日は14:00まで)    日曜休館 入場料 無料

シカ問題が深刻に

近年、里山で農家がイノシシ、サル、シカなどによる被害から守るために電気柵などを設けているのを目にしますが、里山だけでなく奥山を歩いていても当たり前のように樹木に巻かれたネットや動物柵やネットを目にします。

男体山山麓のシカ除けネット

これは主にシカによる植物の食害から環境を守るための対策になります。近頃は尾瀬にもシカが侵入して多大なる被害を与えていることが伝えられています。

尾瀬ヶ原に設置されたニホンジカの食害調査用柵

イノシシやサルは農村で農産物に被害を与えたり、都会にも出没したりと話題になっています。しかし、シカによる被害は農業被害だけにとどまらず、自然環境全体への影響が問題視されています。林野庁の報告書によれば2000年以降、サル、ノネズミ、ノウサギ、イノシシ、クマ、カモシカ、シカの害獣別森林被害統計を見ると、シカによる被害面積は被害全体の過半数を超えており、シカが森林環境に及ぼす影響が圧倒的に多いことが分かります。

シカによる植物の食害はすでに下草や樹木などが復活できる限度を超えて、各地で環境自体を大きく変えてしまっている事態になっています。

⚪︎シカの特性

反芻機能を持つシカはササやドングリ、木の葉、樹皮などを完全消化することができ、しかも1日に5kg以上の植物を食べ、特に毎年角の生え変わる必要のあるオスはそれ以上を食べる大食漢のようです。また、繁殖能力が高く、1歳の秋から妊娠できるようになり、その後毎年出産するので条件が良ければ加速度的に増えてしまうという特性を持っています。基本的には雌雄別に群れで行動しますが、用心深く、夜行性もあり運動能力も高いので簡単には防衛や捕獲することができないようです。捕獲頭数は年々確実に増えているものの、それをはるかに上回る勢いででシカが増加しているのが現状です。

入笠山の頑丈な害獣柵

⚪︎農業被害だけでなくシカが増えて困っていること

・樹皮(形成層)をぐるっと一回り食べられたり、角研ぎにより剥がされてしまうと大量の樹木が枯れてしまっている。

・シカが食べることができない植物だけが増えてしまったり、多雪で従来だと入れなかった所にまでシカが侵入して、湿原の植物や高山植物など貴重な植物が食い荒らされている。自然環境の多様性が低下してしまっている。

・一定の樹木や下草が食べられてしまうことによって関連した鳥や昆虫が減ってしまったり、逆にシカの死体や生体、糞に取り付くシデムシ、センチコガネ、ダニ、ヒルなどが増えてしまっている。

・下草や落ち葉まで食べ尽くしてしまうと、表土が流出したり乾燥が進んで土砂崩れなど斜面の崩壊やダムや道路への損傷など防災、資源確保の面でも問題が出てきている。

シカのバランスを崩した増加は動植物の多様性の低下や自然環境の破壊などを進ませる原因となっている。

⚪︎シカが増えてしまった原因・天敵となる狼がいなくなった。

・天敵となる狼がいなくなった。

・高度成長化での人工林の植樹が進み、シカの食生にあった明かるい林床の面積が増え格好の生息環境が形成された。

・明治から戦中にかけて毛皮や肉の利用による狩猟による捕獲圧が農村や社会のありようが変化したことやシカの保護政策により狩猟が制限されるなど狩猟圧が低下した。

・農村の過疎化や都市化など生活の変化にともなう農村文化自体の変化とハンターの高齢化と減少が進んだ。

・温暖化により子鹿の死亡率が減少したり、シカの活動範囲が広がった。


シカの特性や環境の変化、いろいろな社会的原因が複合的に影響して頭数抑制のバランスが崩れてしまったのがシカが急激に増えてしまった原因のようです。

近年、女性ハンターやジビエなどが話題になっていますが、バランスのとれた自然環境を保護していくためには短絡的に”シカを殺せばいい”というものではなく、適正な管理下における頭数制限にしても簡単に出来ることではなく、農村や都市の生活や構造のあり方やなども含めて継続的に考えていかなければならないことなのかもしれません。

「ザ・ノースフェース」の創業者

ダグラス・トンプキンスは1943年3月20日にオハイオ州で生まれました。12歳でロッククライミングを始めた彼は、スキーや登山にのめり込んでいきます。17歳になると、高校を卒業しないまま、コロラドへ渡ります。ヨーロッパや南米で働いて資金を貯めてはスキーに明け暮れていきました。

1964年にサンフランシスコで結婚し、1966年には妻スージー・トンプキンスとともに、スキーやバックパック用品を取り揃えた小さなお店を開きます。これが「ザ・ノースフェース」のスタートになります。当初から人気のお店で、顧客でもあったハップ・クロップが経営に参画し、当時としては画期的だったダウンジャケットやバックパック、新型のテントなどの商品を開発するなど爆発的なヒットとなりました。

しかし、トンプキンス夫妻は2年後にはお店をハップ・クロップに売却して、ダグラスは親友のイヴォン・シュイナード(後のブラックダイヤモンドやパタゴニアの創業者)とともに南米パタゴニア目指してサーフボードや登山道具と旅を記録するための16ミリのカメラをバンに乗せて旅に出ます。当時全くの未開地だったパタゴニアの自然は二人の男に衝撃を与え、その後のイヴォンとダグの人生に大きな影響を及ぼす旅となります。カリフォルニア州・ベンチュラを出発し、南米・ティエル・デル・フエゴまで車を走らせ、サーフィン、スキー、登山をしながら旅をする様子は16mmカメラで収め冒険映画として発表されます。これは現在でも伝説の冒険映画とも言われています。

その後、ダグラス夫妻はエスプリ・ホールディングス(esprit holdings)というファッションブランドを立ち上げることになります。このブランドは世界60か国に進出する人気ブランドへと発展し莫大な富を得ることになりました。しかし、「必要のないものを人々に売るのは止めた」「この業界に意味はない」と1989年にはこのエスプリも売却し、ビジネスから身を引き、環境保護活動に傾注していきます。

チリに移住し、1991年には3億4500万ドルもの金額を投じて220万エーカー(東京ドーム190426個分)という膨大な土地を購入し、その後も買い足し続けていきます。2015年、チリ政府に対して100万エーカー以上の土地を寄付したいと申し出ていましたが、その数ヶ月後、パタゴニアを創設した友人のイヴォン・シュイナードらとパタゴニアのネラル・カレラ湖でカヤックを楽しんでいた最中に強風と高波でカヤックが転覆し、ヘリコプターで搬送されたが低体温症で死亡してしまうのです。

トンプキンスの妻は夫の意思と計画を受け継いで環境活動を続け、寄付した土地をパタゴニア国立公園として成立させることになるのです。

トンプキンスとシュイナードの交友については「パタゴニア」のHPに詳しく述べられています。


複数のネットでの記事を参照して記事を構成しています。検証ができていませんので、不正確な部分もあるかと思います。メーカーの思いを伝えられたらということで記事を作成しましたので、ご理解いただければと思います。