「コラム」カテゴリーアーカイブ

登山用語の変遷

2019年4月のメールマガジンから転載した記事になります。


ザイル、ピッケル、アイゼン、コッヘル、ハーケン、シュラフ、チンネ、ヒュッテ、ブロッケン、モルゲンロート、シュリンゲ、ザイテングラート、ヤッケなど登山関係の用語にはドイツ語がたくさん使われています。

近代医療関係にも馴染みのあるドイツ語ですが、山の用語にドイツ語が多いのは日本の近代登山を牽引した人たちがベルナーオーバーラントなどを中心にしたドイツ語圏にあるヨーロッパアルプスを舞台に活動していたことからのようです。

その後フランス人で「星と嵐」を著しヨーロッパ6大北壁を征服し新たな時代を気づいたガストン・レビュファの影響もあってかクーロワールやピオレ(ピッケル)などフランス語による用語も使われるようにもなっていきました。

また、イタリアはスカルパ、ガルモント、ドロミテ、ノルディカ、スポルティバ、ザンバランなどの登山靴や、ビブラムのソールなどのが人気で、グリベル、カシン(カンプ)などの登攀用具も人気がありました。登山用語としてはあまり定着しなかったようですが。

また、1990年代になるとヨセミテなどを舞台にフリークライミングが盛んになるにつれて英語による登山用語が使われるようになってきました。ザイルからクライミングロープ、シュリンゲからスリング、ジッヘルからビレイなどに変わっていってきています。このように登山用具も時の影響力のある国の言葉が使われているようです。

スリーピングバック、バックパック、クッカーあたりまでは分かりますが、ゲーター、リーシュベルト、カトラリー、リッド、ベースレイヤー、シェル、アウターなとど聞き慣れない言葉が多くなってしまいました。各国の登山形態のトレンドや登山メーカーが及ぼす力学によって使われる言葉も変わっていくのでしょう。

「狼酒」をご存知ですか

2019年3月のメールマガジンから転載した記事になります。


秩父や奥多摩あたりには狼の狛犬が据えられいる神社が多くあります。かつてニホンオオカミは地域社会や自然環境の中で確固たる位置にあり、狼信仰にも繋がっている存在でもあったはずですが、残念ながら既にその存在が途絶えてから百年以上になります。

山と渓谷社発行の遠藤公男著の『ニホンオオカミの最後』では「狼酒」(おおかみざけ)なるものが紹介されています。著者が岩手県大槌町の民家で発見したもので、江戸時代に「狼の切り取った骨肉の一片をカメに入れ、塩水を加えて心臓の薬とした」ものを代々秘薬として受け継がれていたというものです。家人が見つけた時にはまだ少し液体が残っていたということですが、遠藤氏が発見した時には既にわずかの骨しか残っていなかったようです。

先日、ニュースで遠藤氏が狼酒の中に残っていた骨を岐阜大学名誉教授で総合研究大学院大学客員研究員である石黒直隆博士に分析を依頼しDNA鑑定の結果、過去に岩手県下で見つかっているニホンオオカミのDNA配列と同じであったことが分かりました。

狼酒の発見から40年の時を経て、この酒が確かにニホンオオカミの骨を漬け込んだものであり、またそのような文化があったことが証明されたわけです。著書では狼狩りのことや狼が社会的にどのように受け入れられ、どのようにして絶滅していったかなどについても述べられていますので一読されてみてはいかがでしょうか。

ニホンオオカミの発見への期待はロマンとしてばかりでなく、イノシシやシカが大繁殖している現在、生態系を復活させるためにも狼の再登場を願う向きもあるようです


2019年3月のメールマガジンから転載しました。

中高年登山のバテない体づくり

2018年11月のメールマガジンから転載した記事になります。


登山やトレッキングはゆっくり歩いている分には乳酸がたまることなく歩き続けることができるので、中高年のスポーツとしてはとても向いているそうです。

中高年登山の基本はスロースピード。1.5倍くらいの時間設定のもとに計画を立てることが必要なようです。

ただ、中高年でもトレーニング次第で1拍動で送ることのできる血量を増やしたり、心拍数を少なく調整出来ることによって疲れにくい体を作ることができるそうです。また、栄養の摂取や休憩の仕方などもバテない山行をする上で大事なポイントになるということです。

①筋トレによる最大酸素摂取量の向上とストレッチ

踏み台昇降や速歩を週3回程度、1日30分〜40分程度のオーバーロード(過負担)のトレーニングにより向上させることが出来るようです。また、山行の前と後にはストレッチに努めることが効果的なようです。

②効果的な栄養の摂取と休憩

日頃からタンパク質やビタミンなどをバランスよく摂取し、山行前には糖質を十分摂取して蓄積しておくとがバテないからだを作っていくことになるそうです。

また、登山中は糖質やナッツ類(マグネシウム)をこまめに摂取することがいいそうです。昼食としてまとまった食事は摂らず、行動食だけで済ませることも考慮できるということです。

小休止は立ったままで心拍数が平常値になるまで屈伸などをするなどしながら休むのがいいそうです。また、大休止は足を心臓より高くして座って休むようにし、疲れた場合は横になって休むと回復が早いそうです。昼寝も効果的なようです。

==出典は山歩きのサイエンス(中高年の健康と医学Q&A) 宮下充正著から=


2018年11月のメールマガジンから転載しました。

山岳遭難と伝書鳩

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今でこそ山岳遭難事故でも携帯電話で救助要請をすることが一般的になっていますが、1960年代あたりまでは伝書鳩がその役割を担ってもいたようです。伝書鳩は明治時代になってから軍事目的の通信手段として導入されて以来、広く使われるようになっていました。

1960(昭和35)年9月19日に谷川岳一ノ倉沢の衝立岩で起きた登山者2人の宙吊り事故がありましたが、その時にも事故の写真をいち早く伝えようと新聞記者が土合小屋の遭難救助用の伝書鳩を借りてフィルムのパトロネーを鳩の体に結びつけて飛ばしたそうです。

山岳遭難の防止と救助を目的に伝書鳩を利用しようとしたのは、北アルプスの登山基地である大町で三田旭夫氏が伝書鳩を使うために昭和11年(1936)に中部山岳鳩協会を設立し、昭和16年まで大町駅前で登山者に伝書鳩を貸し出していたのが最初のようです。

上越線の開通とともに谷川岳は一ノ倉沢をはじめバリエーションルートでの遭難事故が多発しており、「魔の山」として名を馳せていました。谷筋のために無線もなかなか通じない所でもあったために、いち早く事故を伝える手段として昭和33年に土合駅近くに鳩小屋を作って500羽もの鳩を飼育し、登山者に無料で伝書鳩を貸し出していたそうです。登山者は鳩の入っている箱を担いで登ったそうです。鳩は麓の鳩小屋まで3分くらいで帰着出来たということです。鳩によって助けられた登山者も多かったのでしょう。


2020年1月のメールマガジンから転載しました。

冬山にヒートテックは禁物

冬山にヒートテックはタブーだそうです。都会では冬場の必須アイテムのようなヒートテックの下着ですが、山ではNGだそうです。理由はヒートテックは汗冷えするからだそうです

暖かい下着なので冬山でも良さそうなものですが、そもそもヒートテックが暖かいのは適度の汗が特殊な繊維と擦れて発熱し、薄い素材にもかかわらず熱を溜め込むことができるからなのです。そのためレーヨン素材のヒートテックはポリウレタンやポリエステルに比べ速乾性に劣るため、一定以上の汗をかくとなかなか乾かないので、逆に冷えてしまうのだそうです。

ちなみにヒートテックには男性用と女性用がありますが、サイズやデザインの形状だけの違いではないそうです。男性用はより汗をかく作業に向くように設計され、女性用はより肌に優しい保湿性を高めた設計がされているそうです。

そういえば先日MRIの検査をした時に「ヒートテックは付けてませんか。」と尋ねられました。MRIは濡れた衣類を付けての検査は厳禁ということで、汗を吸収するシステムのヒートテックはNGなんだそうです。調べてみたら火傷をすることもあるそうです。

昔は冬山となるとラクダの下着を付けたりしていましたが、近頃はメリノウールを素材とした物が主流となっているようです。やはりお高いですが。


2020年3月のメールマガジンから転載しました。

魅力的な日本の山

高尾山のトイレ前の様子

日本は国土の7割が山地で2/3が森林に覆われており、多様性のある豊かな環境に恵まれています。山に対する土着の信仰もあって信仰登拝や近代登山、ハイキングやトレランなど山を愛好する人もとても多い国です。

2016年のレジャー白書によれば日本の登山参加人口は650万人 、ハイキングやビクニックなどを合わせるとと参加人数は2200万人を超えるそうです。

ヨーロッパではドイツ、イギリス、イタリア、フランスなども登山を愛好する人が多いようですが、アルプスの本場スイスでも登山者人口は270万人と言われています。

近頃は北アルプスなどにも韓国からもたくさんの人が登りに来ていますが、韓国では登山者数が急増しているそうです。

さて、世界で1年間に登られている登山者数のベストテンを調べてみると、多分ベストテンは全て日本の山になるのではないかと言われています。

そのトップがあるのが高尾山で260〜300万人、続いて金剛山が80万〜120万人、富士山は20万人、 金時山でも10万人と言われています。

高尾山はミシュランで三ッ星を獲得したことで外国人にも話題になっていてることが近年登山者数が増大していることに影響しているようです。

東の高尾山、西の金剛山はともに低山でよく整備されているので簡単に登れ、ラジオ体操の様に毎日登っている人も多いのもその理由のようです。

日本の山は低山から日本アルプスのように3,000mを超す山岳もあり、火山や堆積褶曲山地、深い森林や岩綾・岩峰、多種多様な動植物など極めて多様性に満ちていて、しかも手軽に自然の懐に入ることができることから日本人だけでなく海外の人にとっても魅力的なようです。

富士山には日本人ばかりでなく、毎年多くの外国人が登りに来ています。今年は天候不順もあって登山者数は20万人ほどだったようです。

平成27年のデーターでは台湾人が230(海外在住213)人、アメリカ人が207(海外在住106)人、中国人が203(海外在住58 香港53)人、フランス人が100(海外在住92)人、韓国人85(海外在住61)人、ドイツ人59(海外在住44)人が登りに来たということです。

外国人にとって富士山は観光の一つとして登りに来ているのでしょうが、インバウンドの登山客は富士山ばかりでなく、他のいろいろな山でもたくさん見かけるようになって来ました。中には外国人が小屋番をしている山小屋も現れて来ています。

2018年12月のメールマガジンから転載しました。


今年はコロナの影響でインバウンドがほぼ停止しているばかりではなく、富士山の登山禁止、南アルプスなどをはじめとして、登山道や山小屋の閉鎖のために国内での登山も困難な状況でした。自粛が明けてからは一転して低山に近郊の都市から人が集まる状況が続いており、遭難も増えてきています。

コロナ感染予防を契機に、より日本の山岳や自然を健全な状態で楽しめるようになってくれたらいいと思います。

ゴアテックス製品のメンテナンス

今や雨具をはじめアウターや登山靴などにも透湿防水素材のゴアテックス(GORE-TEX)が使われています。しかし、メンテナンスが面倒そうだし、あまり洗わない方がいいんじゃないかと思って何となく洗濯をためらっていたので、調べてみました。


まず、ゴアテックス製品を洗濯機で洗う方法をご紹介します。

まず、洗う前にはファスナーやベルクロ、コード類などは全て閉じておきます。収納式のフードは開いて出しておきます。これは生地を痛めたり洗いむらが起こらないようにするためです。また、同様の理由でネットに入れて洗うといいそうです。

洗う水の温度は40ºC 以下のぬるま湯がいいようです。ただし、洗剤分が残っていると撥水性能の低下につながるため、少量の液体洗剤で洗い、すすぎは 2回しっかりと行います。柔軟剤は使用しません。脱水は生地を痛めてしまう恐れがあるのでNG。また、汚れがひどいものと一緒に洗うのも避けます。

洗った後は強く絞ったりせず、水分を軽く切ってから吊り干しします。紫外線は生地を劣化させる原因になりますので、風通しのいい日陰に干すといいそうです。

また乾燥後、熱を加えることで撥水性が回復するので、低温設定で乾燥機で加熱するか、当て布をしてアイロンがけをするか、ドライヤーで表面に熱を加えます。これは撥水効果を高める大事なポイントになります。生地に熱を加えることによって表面の産毛のような繊維が立ち上がり撥水力が向上するということです。

乾燥機が使用できないゴアテックスジャケットも稀にありますので、乾燥機を使用する際は洗濯タグをチェックすることが必要です。また、シームテープが剥がれているなど、劣化が進んでいる場合も乾燥機は使用できませんのでご注意が必要です。

洗濯後、加熱しても充分に撥水性が回復しない時は、溶剤につけ込むタイプやエアゾールタイプなどの市販の撥水剤を使います。溶剤につけ込むタイプの撥水剤はむらなく生地に撥水加工ができます。

ちなみに洗濯するとゴアテックスの透湿防水効果が落ちるのではないかとちょっと心配になりますが、ゴア社では使用の度に洗濯することを推奨しています。

2020年3月のメールマガジンから転載しました。

50年前の夏山合宿のメニュー

1970(昭和45)年の飯豊連峰夏山合宿時のメニューを日程とともにご紹介します。

24日 (上野 郡山 山都 一ノ木)

昼) ラーメン 日本茶 クラッカー

夜) すき焼き みそ汁 サラダ 日本茶 飯


25日 (一ノ木 川入 御沢)

朝) みそ汁 のり 丸干し 梅干し ふりかけ 日本茶 飯

昼) パン ジャム ジュース バター ピーナッツ

夜) カレー 福神漬け たくわん 日本茶 飯


26日 (御沢 地蔵山 種蒔山 切合小屋)

朝) みそ汁 のり 佃煮 ふりかけ たくわん 飯

昼) パン ジャム バター ポタージュ 紅茶 コーヒー

夜) 野菜炒め サラダ みそ汁 ふりかけ 日本茶 飯


27日 (切合小屋 飯豊本山 御西岳 文平ノ池 大日岳  文平ノ池)

朝) 雑煮 たくわん

昼) パン ジャム ジュース バター ピーナッツ

夜) カレーシチュー 福神漬け サラダ 日本茶 飯


28日 (文平ノ池 御西岳 烏帽子岳 与四太郎池)

朝) みそ汁 ふりかけ つけ物 飯

昼) パン ジャム ジュース バター ピーナッツ

夜) 豚汁 サラダ 日本茶 飯


29日 (与四太郎池 門内岳 扇ノ地紙 頼母木山 頼母木平)

朝) たくわん みそ汁 のり 飯

昼) パン ジャム ジュース バター ピーナッツ

夜) 野菜炒め みそ汁 日本茶 飯


30日 (頼母木平 杁差岳 大熊小屋)

朝) おじや たくわん つけ物

昼) パン ジャム ジュース バター ピーナッツ

夜) 焼きそば ラーメン コーヒー


31日 (大熊小屋 大石 越後下関 米沢 上野)

朝) 計画の記載なし(残り物)


昼は各回共通でパン、バター、ジャム、ジュース、バター、ピーナッツ、紅茶、コーヒーなどでした。

行動食はレモン、夏みかん、甘納豆、アメ、チョコレート、チーズなどでした。

(2016年12月号のメールマガジンから転載)

槇 有恒(まき ゆうこう)のこと

ヨーロッパアルプスを日本に紹介し、後に日本山岳会の会長にもなる槙 有恒は新潟県の氏族の家柄で東京都文京区で生まれたようです。

宮城県師範学校付属小学校、仙台第二中学校を経て、1911年(明治44年)、慶應義塾大学予科に入学します。1914年に前穂高岳と焼岳を登り、その時に偶然にも日本山岳会会長の小島鳥水と会っています。

ヨーロッパ帰りの慶應義塾大学教授の鹿子木員信とともに日本山岳会に入会し、翌1915年には鹿子木員信教授の勧めでクラスメイトとともに日本で初めて大学山岳会を結成することになります。

1916年には上條嘉門次の案内で槍ヶ岳、穂高岳、薬師岳を登っています。

1917年に慶應義塾大学法学部を卒業し、1918年(大正7年)、アメリカ・コロンビア大学に留学するものの大戦の影響で勉学もままならず、1919年にイギリスに渡りますが、ウェストンを訪ねてアドバイスを受けて、スイスに渡ることになります。

1920年にスイスのグリンデルヴァルトを拠点としてガイドにトレーニングを受けて本格的にスイスアルプスを登り出します。当時アイガーはイギリスのC.バリントンが南西面と西稜から初登頂に成功しており、その後南西稜、南尾根が踏破され、東山稜だけが未踏破となっていました。

そこで槇は東山稜に挑戦することを決め、1921年、熟練のフュレル(案内人)3人と困難と言われていたアイガーの東山稜(ミッテルレギ稜)の初登攀を成功させます。

ミッテルレギからのルートは途中1泊を要することからガイド教会は小屋を設置することになりますが、槙は登攀成功の記念にとして1万3千フランかかる所、1万フランを寄付します。現在このミッテルレギ小屋は新しい小屋に建て替えられていますが、槇が寄付した旧ミッテルレギ小屋は山麓に移設されており、現在も健在のようです。また。グリンデルヴァルトのモンベル支店には旧ミッテルレギ小屋の扉を展示しているそうです。

槙はスキーについても、早いうちから2本ストックによる滑走技術を習得しており、1923年に冬季の立山登山を目指しますが、パートナーの板倉勝宣が遭難死してしまう事故を起こしています。

海外登山では1925年カナダのアルバータ山の世界初登頂を果たしており、1926年(大正15年)には秩父宮雍仁親王の供奉で冬季スキーや、夏季マッターホルン、アルプスなどを登っています。

1944年(昭和19年)に日本山岳会会長に就任しますが、国策会社の南洋拓殖株式会社の拓殖事業に携わり、侵略に関与したとして戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から公職追放指定を受けています。

1956年(昭和31年)にはヒマラヤ山脈の未踏峰の一つであったマナスル遠征隊の隊長となり、同年5月9日、11日に登頂に成功しています。

仙台市名誉市民に推戴され、文化功労者、勲三等旭日中綬章を受章しています。

その後も立山観光顧問や英国山岳会(アルパインクラブ)、アメリカ山岳会、アパラチア山岳会、スイス山岳会の各名誉会員を務め、1989年(平成元年)5月2日に逝去しています。(敬称略)

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参考文献

「山行」槇 有恒  旺文社文庫

小島鳥水(こじまうすい)と日本山岳会の設立

ヨーロッパでは古くはルネッサンスあたりから趣味やスポーツとして登山を楽しんでいたようですが、18世紀後半のスイスアルプスのヴェッターホルンやモンブラン登頂がヨーロッパでの近代登山の幕開になったようです。特に英国人はヨーロッパでは一番早く山岳会を作り、先進的に登山を楽しんでいたようです。先述のウォルター・ウェスンともそんな流れの中でスイスアルプスに登っていました。

日本での登山はまだ霊山を登る宗教登山や狩猟を目的としたものだけでした。

そんな中、何人かの外国人は案内人を伴ってまだ地図もろくになかった日本各地の山を登っていたようです。

初代英国駐日公使のラザフォード・オールコックは幕末の1860年に富士山に登頂していますが、霊山を汚すものだとして大問題になり、外国人居留地を襲撃するという動きに繋がっています。

後に英国駐日公使になるアーネスト・サトウは1862年に来日してから 25年間滞在し、富士山をはじめ、御嶽山、赤岳、浅間山、赤城山、庚申山、そして南アルプスの山々に登っています。

1867年には2代目の英国公使ハリー・スミス・パークスの夫人であるファニーさんは外国女性で初めて富士山の登頂を果たしたとされています。

また、1872年に硬貨鋳造の技師として来日したウイリアム・ゴーランドは古墳研究の先駆者としても日本アルプスの命名者としても知られていますが、いろいろな山に登っており、1878年外国人として初めて槍ヶ岳に登頂、1880年には上條嘉門次のガイドで明神岳の登頂を果たしています。

特に本格的に各地の山を登り、紀行文「Mountaineering and exploration in the Japanese Alps」を出版し、海外に日本の山岳や文化を紹介したたのがウォルター・ウェストンでした。このウェストンの本を偶然目にした小島鳥水は(小島鳥水と岡野金次郎は1902年に二人で槍ヶ岳に登っています)、自分たちよりも10年以上も前に槍ヶ岳に登っている西洋人の存在を知ることになります。その後ウェストンが横浜に滞在中であることを知って訪ね、ウェストンから世界の登山状況や山岳会の状況を教えてもらい、日本での山岳会設立を勧められます。

ちなみに英国山岳会は1857年、オーストリア山岳会は1862年、スイス山岳会は1863年、ドイツ山岳会は1869年、フランス山岳会は1878年にそれぞれ結成されています。

そして、いよいよ1905年、小島鳥水を初代会長として日本でも「山岳会」(後の日本山岳会)が設立されることになるのです。

1910年、ウォルター・ウェストンは日本山岳会設立の立役者として貢献したことで名誉会員となっています。