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「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」城島紀夫著

DWVは今年63周年を迎える伝統ある部活であり、幸いにして先輩方により創設当初の状況が分かる資料を残していただいており、また直接お聞ききして補完しながらホームページにも残すことができました。

この度、城島紀夫著「ワンダーフォーゲルのあゆみ」(2015年古今書院発行)を図書館で見つけ、DWV創設に至る歴史的・時代的背景を知りたいと思い読んでみました。特にドイツとの関わりも深い獨協学園にあってDWVは創設時期も早く、ワンダーフォーゲルに対する思いも他校とは少し違っていたのかも知れませんが、戦前から日本の大学では部活動として広まっていったワンダーフォーゲル部は厳密に言えばドイツの「渡り鳥運動」を基にしたということではなく、山岳部と差別化するために名称だけ借りたものだと指摘しています。いまさらではありますが、ドイツにおこったワンダーフォーゲル運動とはどのようなものであったか、また日本でどのように広がっていったのかをこの本からまとめてみました。


そもそもドイツで起こった「wandervogel」(渡り鳥の意味)とはどのような運動だったのでしょうか。中世ドイツでは優れた先生を求めて学生たちが各地の大学を求めて渡り歩いており、その学生たちのことを「渡り鳥」と呼んでいたようです。1890年にベルリン郊外のギムナジウム(日本では高校に相当)で速記術を教えていた大学生のヘルマン・ホフマンが生徒ともに森への徒歩旅行を行ったことがワンダーフォーゲルの発端と言われています。

その後、1901年にホフマンの教え子のカール・フィッシャーがリーダーとなって「ワンダーフォーゲル・学生遠足委員会」いう結社を作りました。これはギムナジウムに学ぶ学生たちの既成文化に対するロマン主義に根ざした自由をかかげる抵抗運動だったということです。フィッシャーらはギムナジウムを飛び出して、史跡を訪ね歩いて歴史の勉強をしたり、野原に出てギターを弾いて地方の民謡を歌いフォークダンスを踊ったりもしていたようです。この活動が遍歴、野外活動での自炊、農家の納屋に泊まること、自然体験などの活動として広がっていき、その後、節制主義、菜食主義、自然治癒療法、裸体主義、教育革命、衣服改革、禁酒・禁煙、同性愛など色々なスタイルも登場してきたようです。

1909年にはリヒャルト・シルマンによってユースホステル活動が開始され、ヨーロッパから世界中に徒歩旅行が広がっていきました。しかし、しだいに戦時色が強くなり、政府や軍部によつて青少年育成団体は統合されていきます。そして、第一次世界大戦でドイツが敗戦したことによりワンダーフォーゲルは終わりを迎え、敗戦後ナチ党により1926年にイデオロギーを青少年に教育する目的でヒットラーユーゲント(ヒットラー青少年団)が創設され、「自由ドイツ青年」は解散。1933年にはあらゆる青年団の活動が禁止され、ドイツの青年運動は完全に壊滅します。

さて、日本では明治時代の1872年に学制が発布され、小学校や師範学校が創立されます。1880年から学校遠足が広まり、第一高等中学では1887年に遠足部ができ、その運動が全国に広がっていくことになります。1883年には鹿鳴館ができ、1885年には伊藤博文が内閣総理大臣に就任、1889年には大日本帝国憲法が公布されます。そして、1894年に日清戦争が起こることになります。1900年に入ると遠足部が発展し、旅行部などが出来始めます。先述したようにこの頃ドイツで既成社会から抵抗運動としてのワンデルンが起こります。1904年には日露戦争が勃発し、1905年に日露講和条約が締結されます。1908年には日本山岳会が発足し、1914年には慶應義塾大学で山岳部が創立されます。同年に第一次世界大戦が始まり、1917年にソビエトが誕生、1918年にはドイツ革命と時代が進んでいきます。

1920年代にはほとんどの高等教育機関で旅行部や山岳部ができ、1922年になるとボーイスカウト(少年義勇団)とYMCAによるキャンピング活動が開始されます。国防体制の強化策としてハイキングや登山などの歩行運動が全国的に広がりをみせます。1920年代の日本はいわゆる大正デモクラシーの頃であり、普通選挙法、関東大震災など自由と帝国主義的なものが交錯した時代ではなかったかと思われます。1923年には東京帝国大スキー山岳部が設立されます。そして、1925年、ドイツに2年間留学していた出口林次郎が帰国後入省した内務省で外郭団体である「奨健会」を設立し主事に就任。「国民歩行運動」を先導していきます。この「奨健会」こそが日本のワンダーフォーゲル部の源になったようです。

大学では1928年に明治大学・駿台あるこう会が設立されます。1933年、「奨健会」がワンダーフォーゲル部を組織し、「奨健会ワンダーフォーゲル部」に改名することになります。「奨健会」を設立した出口がドイツに留学していた頃のドイツではすでにワンダーフォーゲル運動はほぼ終わっていた時期であり、ワンダーフォーゲル部という名称を使用したものの目的とするものは「国民歩行運動」であり、本来の青年運動としてのワンダーフォーゲル運動とは異なるものであったようです。

1933年、YMCAも「渡鳥会」と名付けてワンダーフォーゲルを開始します。また同年鉄道省が富国強兵・殖産振興策に沿って全国的に”ハイキング”と銘打って徒歩遠足や旅行を大々的に宣伝します。この年には本家ドイツではヒットラーが首相に就任し、ワンダーフォーゲルなどの青年運動は全て解散させられています。日本ではワンダーフォーゲルは国民歩行運動であり、”心と体”を鍛錬する的な意味が強かったと思われます。

「奨健会」に参加していた学生が出口の指導のもとに1935年には大学で初めて立教大学と慶應大学でワンダーフォーゲル部が設立されます。翌年には明治大学・駿台あるこう会がワンダーフォーゲル部に改名します。しかし、1939年第二次世界大戦が勃発し戦時色が強くなり、1941年には太平洋戦争が起こります。文部省が軍事教練担当の現役将校を全国の大学の各学部に配属し、軍事教練が必修科目になり、「歩行行軍」が科目として学生に履修させました。そして、立教大学ワンダーフォーゲル部が健歩部に、慶應義塾ワンダーフォーゲル部は歩行会に、明治大学ワンダーフォーゲル部は山岳部とボーイスカウト団と併合され行軍強歩部に、青山学院ハイキング部は基礎訓練・行軍班に改称させられおり、事実上ワンダーフォーゲル部は解体させられています。

そして、敗戦。太平洋戦争の終戦後、いち早く1945年には明治大学はワンダーフォーゲル部を復活させ、翌年の1946年には慶應大学。立教大学では1948年に復活させています。新制大学の発足とともにその後、中央大学が1948年、早稲田大学が1949年、東京大学と法政大学が1951年、日本大学が1953年、1954年にはお茶の水女子、東京都立、横浜市立、神奈川、國學院、千葉、1955年には青山学院、学習院、成城、津田塾、東京経済でそれぞれワンダーフォーゲル部が創部されています。高校については記述がないので定かではありませんが、1955年創部のDWVは当時先鋭的なものだったことが伺えます。

森本・打矢両氏による1955年に学園文芸誌「めじろ」に発表された「ワンダーフォーゲル」によれば、この1、2年文部省が中心となって、渡り鳥運動の発展に力を入れ、指導者の養成に努めていたこと、山野をして自然に親しむを目的としてDWVが創部されたことが記されています。また、当時ドイツでのワンダーフォーゲル運動については下記のように把握していたことが述べられいます。

  1. 自己意識の覚醒、青年たるの意義の発見。
  2. 自然愛好、純真自由の全き人格養成。
  3. 健康増進、剛健思想と実行力の養成。
  4. 人間性と社会心の培養。
  5. 郷土愛、祖国愛の強化。
  6. 自然生活からの簡素な生活革新。
  7. 健全な民衆娯楽(郷土の民謡、俚謡、踊り等)の向上発展等に寄与する。

また、DWVではその目的として特に当時の天野貞祐校長が言う「人間形成の場」と捉えていることが伺えます。先生方と生徒たちとが一緒になって旅行するなり、テント生活するなりして親しみ、先生の人格をくみ取り人間を磨いて始めて学校が学問を授けるだけでなく人格を作り上げるとしています。


DWVは当初、早稲田大学の活動にも参加させてもらったりしていますが、早稲田大学ワンダーフォーゲル部の部長で高三の英語を担当されている同大学教授の渡辺先生に側面から援助していただいたということで、早稲田大学のワンダーフォーゲル部との関係もあったようで指導も受けていたようです。


学園文芸誌「めじろ」72号森本悌次・打矢之威両氏による「ワンダーフォーゲル」

打矢之威「早大ワンダーフォーゲルに参加して」

「ワンダーフォーゲルのあゆみ」城島紀夫著 2015年 古今書院発行

OB会「30周年記念誌」巻頭に寄せて 奥貫晴弘 

高梨先生ご存命中ならば、私など拙い言葉ではなく、当然、高梨先生の力強いお言葉がこの巻頭を飾るはずです。それが叶わぬ今、もう半世紀以上の昔、先生に親しく接して頂いていた当時に思いを馳せつつ、私なりに責めの一端を果たしたいと思います。

私が獨協学園に勤めていたのは昭和30年(1955年)4月から昭和37年(1962年)9月までです。高校教師として着任して一年後、DWVの顧問を命じられました。それまで奥多摩や丹沢を一人で又は二三人の友人と歩く程度の経験しかなかったのですが、23歳の若気の至りで引き受けてしまいました。私が顧問をしていた7年足らずの間の山行は、(思い出せるままに記せば)、夏休みは横尾キャンプで槍ヶ岳・蝶ヶ岳、涸沢キャンプで穂高連峰、常念岳。蝶ヶ岳を経て横尾キャンプで槍ヶ岳、飯豊連峰主稜縦走、朝日連峰主稜縦走など。冬休みは(戸隠山系)高妻山、 (南ア)仙丈岳などでした。

いずれも、高校生を率いて歩くのは、登山経験の少ない私ごときには難役でしたが、ここがDWVのすばらしい所だと思いますが、大抵OBたちが一人あるいは二人と特別に参加して、しっかりと山行をリードしてくれたのです。打矢さん、若井さん、井上さん、涸沢ときには更に理科室助手の金子さん等の名前が今も記憶に浮かびます。

高梨先生とは、先に記した山行のいくつかを共にしましたが、最初は飯豊山行だったと思います。先生は、諸君もご存知の如く、世評とか権威の類に無頓着で、用心することのない、人なつっこい、万人の友人というべき方で、勤務当初から私の敬愛する先輩でありました。学園祭などで先生の演出するお芝居(「三年寝太郎」「なまはげ」等)のお手伝いをするなど、日頃から親しくして頂いて、そんな折り山行の話なども口にしたのでしょう、さらりと飯豊山行に参加して下さいました。このときは、OBの若井さんも参加してくれ、磐越西線の山都駅から歩き出し、山中で二度キャンプ、天気にも恵まれた快適な山歩きで、先生もとても満足された様子でした。この山行にはすてきなオマケがつき—-と申しますのは、下山して米坂線の小国駅で解散した後、高梨先生と若井さんと私の三人は、共に坂町駅に出て、そこから遥遥と小諸なる日新寮に赴き、浅間山登山も楽しんだのです。列車中の先生のお話の楽しかったこと!先生は話題豊富で、又一寸した身振りを添えた親愛なる語り口がとてもたのしい方です。念の為書き添えておきますが、先生は政治に関する姿勢は厳しい方で、いわゆる60年安保の時などには、先生を中心に教官室の何人もの教官が、放課後毎日のようにデモに通ったものでした。—こうした先生に教室で或いは山で薫陶を受けた諸君が、この衣鉢を今後とも末永く後輩諸君に伝えて行ってほしいと思います。

DWV元顧問 奥貫晴弘

出会い   飯嶋義信

ワンダーフォーゲル部との出会いは半世紀以上も前のこと、高校一年生の時であった。くしくもワンゲル創部の記念すべき年1955年のことである。今にして残念に思うのはその新生の意気盛んなワンダーフォーゲル部に入部しなかったことだ。私が選んだのは文芸部だった。だが、たまたま文芸部とワンダーフォーゲル部の部室が同じであったことからワンダーフォーゲル部を知ることになったのである。文化系と体育系の部が同居していたというのは奇妙なことだったかもしれない。

当時わが母校は明治以来の洋風木造校舎の痛みが激しく建て替えの声が高まっていたころ、新校長に文部大臣を辞めて間もない天野貞祐先生を迎え、新校舎建築が軌道に乗ったところであった。そんな疾風怒濤のなかで新設のワンダーフォーゲル部と同人誌「吠える」発行で気をはく文芸部に対し不要となった教室が部室として割り当てられたのであろう。旧生物実験室であった部屋はかなり広く、もともと少人数の文芸部は片隅に置かれた払い下げの教員用の机と本立てのまわりに集まって文学談義の真似事をする程度であったから、互いに邪魔にはならなかったと思う。

その時のワンダーフォーゲル部には打矢さんをはじめとして加藤さん森本さんなどの創部メンバー、二期目を支える若井さん井上さん滝川さん、同期の千野さん南さんなどそうそうたる面々がいて名前を覚えてもらうだけでもやっとだったのに、「吠える」を買ってもらったり原稿依頼したりで生意気な口を聞いたことを覚えている。勿論入部を誘われたが、中二の時に敗血症こじらせて長い間休んだことがあって山に行くなど考えられなかった。

話が前後するが、実はこの長期欠席の前は中学陸上競技部の短距離選手としてグランドを走り回っていた。その陸上部の先輩の一人が打矢さんだった。打矢さんは投擲専門で砲丸だけならともかく、狭い校庭で円盤や槍まで投げていたのには驚かされた。ともかく吉岡隆徳に憧れていた陸上少年が詩や小説をかじったり同人誌を作ったりすることに夢中になっていたのである。さらに「吠える」に執筆してもらっていた高梨先生のところに出入りするようになり、秦野の農村調査に誘われ一日ヤビツ峠から大山に登ったことがあった。山の面白さを知ったのはこの時だったと思う。

その後山には一人で行くようになった。仲間と一緒だと足手まといになると勝手に思ったからである。山行の知識や情報はワンダーフォーゲル部の部員に聞いたり山道具まで借りたりした。エルゾーグの「処女峰アンナプルナ」を読んで感動し、衝動的に八ヶ岳縦走に挑戦し疲れ果てたこともあった。大学に入ってからは時々山には出かけたがのめり込む事はなかった。それが、母校の教員になり高梨先生に声をかけられて顧問になったのがワンダーフォーゲル部との再会であった。以来二十数年、引率山行を重ねることになったがその間、何とか顧問を続けられたのは、慎重なうえにも慎重にという高梨先生の方針の下に、OB諸兄の協力、現役部員の頑張りがあったからのことだと思い感謝するばかりである。

最後に顧問として常に念頭においていたフランスの登山家ジャン・フランコのことば「山は根気強い勤勉さと、沈着と、頑張りの学校だ」を紹介して終りとしたい。

              元DWV顧問 飯嶋義信

OB会山行 御神楽岳 金 有一

私はワンゲル部OBではないがOB会との結び付きは佐藤八郎、常盤雪夫、杉島祐一さんらとクラスメートであったことから飯能河原のバーベキューに誘われたことが発端だった。以来、小諸の親睦会や休日の山行に居心地の良さもあり参加するようになり、OB会の仲間に加えていただいている。

嘗てOB会の山行は八郎さんが中心となって企画をし、届く加代夫人によるイラスト入り手書きの山行案内はほのぼのとしていた。最近は小諸の親睦会がOB会主催の山行に取って代わっているが、以前の四季折々の山行(山旅)は丹沢山塊、箱根、高尾・道志、奥多摩、奥武蔵、奥秩父、西上州、筑波、浅間周辺、草津、戸隠・黒姫、上高地、越後、鹿沼、日光・奥鬼怒、尾瀬、南会津などの玄人好みの山々を発掘し登るのが八郎流だった。10年から20年以上も前になるので詳細な記憶は定かでないが、写真を見ると旧遊した山々の光景が思い出される。特に、5月や秋の連休に野岩鉄道や会津鉄道を利用して足繁く通った南会津の山々は懐かしい。会津駒ケ岳、荒海山、七ヶ岳、小野岳、博士山、二岐山、御神楽岳である。

御神楽岳(1386m)は磐越西線津川駅の南20kmほどのところにある越後山脈北部の一峰である。それほど高くないし知名度の低い山だが、急峻な岩壁を周囲にめぐらせ荒々しい山容を誇っている。OB会では5月の連休に2年連続で挑戦したことがある。室谷登山コースを登るが稜線に取り付く辺りは膝まで達する程の雪積。対峙する尾根筋は中腹から稜線にかけては至るところ岩が露出して急な斜面をつくっておりU字型に浅くへこんでいる。アバランチ・シュートと呼ばれる雪崩のすべり台である。谷底には黒く汚れた雪渓が残る恐ろしい程の眺めだった。片側が切れ落ちる稜線を雪庇に注意しながら灌木やネマガリダケの生えている側を登るが山頂は未だ先、我々の実力はここまでと撤退を決断する。今も我々にとっては未踏の山である。「みかぐら」という響きの良い名は何に由来したのだろうか。調べてみると、越後野誌に「古ヘ覚道ト云フ人、峰ニ登テ神楽ヲ奏セシ、故ニ山名トス」と記されているとあった。神秘的な一面を持ったこの山に魅かれるのは、私が追っかけをしているギフチョウの棲息地として知られていることも理由の一つになっている。

この山行で忘れてならないのは登山前日の夜、みかぐら温泉の送迎バスによる祭り見物である。普段「狐の嫁入り」と云えば、「天気雨」を思い出す人が多いだろう。だが、津川では毎年5月3日の夜に開催される奇祭「狐の嫁入り行列」がある。町に口伝されてきた狐火伝説を元にしていて、毎年5万人もの人が訪れる祭りである。白無垢姿の花嫁が108人のお供を引き連れて行列を作り、松明や提灯で幻想的な雰囲気に包まれた町内をゆっくりと進む。花嫁の鼻筋を白く化粧し頬に描かれた狐独特の三本のひげと尖った口先のメークは狐顔そのもので神秘的な様相を醸し出している。お巡りさん、駅員さん、高速道路出口のオジサン、参加する町民までも狐のメーク、そして見物客も。やがて行列は常浪川に架かる城山橋上で花婿と花嫁の対面で最高潮に。暗闇に包まれた河原から燃えさかる篝火に見送られ、渡し船で常浪川を隔てた麒麟山へ。篝火と狐の鳴き声が山々にこだまする様は幻想的で「狐に化かされたような」感動を与えてくれたことも、

OB会山行の懐かしい思い出でとなっている。

(山行:2007年5月)    元DWV顧問    金  有一

朝日連峰縦走の思い出  阿部 武

独協ワンゲルに入ったきっかけは野山を歩き回るのが、ワンダーフォーゲルと思い込んでいたからでした。実態は全く別物でした。丹沢でのボッカ訓練の頃から、何故こんなところに入ってしまったのか後悔ばかりするようになっていました。河原で石を拾ってザックに詰めていざ出発。丹沢は人が多い。行き交う度に「チワー」と声を掛ける。内心声を出したくもないし、声を掛けてもらうのも嫌だった。

それでも夏の合宿である朝日連峰縦走に連れて行ってもらいました。「雪渓の水は旨いぞ」「星が綺麗に見えるぞ」ワクワクするような事を言われて、荷物を分けられ自宅に持ち帰りました。当時の装備品は灯油・灯油を使うランタンとコンロ・寝袋の下に敷く炭俵・重い寝袋そして飯盒に鍋でした。更に水を吸収するテント一式等でした。忘れてはいけない渋団扇。この団扇は焼き鳥屋等で使われる丈夫な赤い物です。これ等を見た母は、「これを背負って山に本当に行くの?」と目を白黒させていました。後で聞いた話ですが、母は私が帰るまで毎日毎日心配で眠れなかったそうです。自分の持ち物と合わせて40㎏は超えていたと思います。当時は横長で大きなリュックサックをキスリングといっていました。当時北海道を旅する若者をカニ族と呼んでいましたが、まさに私がカニ族になりました。

上野駅集合でしたので、それまでずーっと横向きに歩いて行きました。朝日に登る為に何処の駅で降りたかは覚えていませんが、山に取り付くまでの長かった事、暑かった事覚えています。但し足元に川が流れそれ程苦痛ではなかったのですが、坂井がすっかり参ってしまったようで、彼の荷物の大半を我々1生で分担しました。2年生も少し持ってくれたようですが、我々1年とは比べ物にならない程キスリングが小さく見えました。山に取り付いてからは、あの渋団扇が大活躍。色落ちして顔が赤くなりはしましたが涼しい風を送ってくれました。「上を見るな。足元を見て一歩一歩歩け。休憩まで水飲むな。」過酷でした。坂井は普段口の軽い男でしたが口もきけない程にへばってしまい、更にブヨに刺されて顔が腫れあがり我々1年生は大変心配しました。今考えると脱水症状だったのでしょう。ところで何処に雪渓があるのでしょう。遠くに見えてはいるのですが、道筋には有りませんでした。それでも沢の水で粉末ジュースを溶かして飲むと最高に旨いジュースでした。登りながらもう山はこりごり。1年生ばかり辛い思いをしているのに、2年生は楽そう。もう部活を辞めようと思いました。しかし、稜線に出てからは当たりの景色が見えるようになり、気分は爽快となりました。山を下りて登山靴を脱ぐと、足は豆だらけで疲労感がありましたが、解放感と満足感が広がってゆき、何故か又山に来たいなと思いました。

昭和41年卒  阿部 武

Schi Heil(シーハイル)      柳澤孝嘉

富樫さんが突っ込み重視の荒削りの滑りで雪煙巻き上げゲレンデを先頭切って滑って行く。その後を常盤さんの友人の園田さんが綺麗な弧を描きながら後に続く。次に私が右方向は良いが左方向は外足に加重がかかり過ぎる歪な滑りで続き、私の後を千野さん、植田さんの順に繋がり、ツークで滑って行く。平成18年3月の神楽三俣スキー場の最上部での光景である。

その後、カッサ湖周囲の田代スキー場へ連絡路を滑るが、千野さんがボーゲンとは逆のVの字をスキーで作り、連絡路をクルクル回りながら下るアクロバティックな滑りを見せる。スキーウエアと同様に派手である。カッサ湖傍のレストハウスで休憩後、田代スキー場の主だったゲレンデを皆でツークで滑り、神楽三俣のゲレンデで一人で練習しているビギナーの中野君のもとに戻り、正午前ロープウェイに乗りその日のスキー合宿を終えた。充実した午前であった。

この合宿はスキー合宿が丸沼高原で行うことが数年前より続ていたため植田さんの提案で旧知の三俣のスキー宿のオーナー、通称ゴリの宿で開くこととなった。前夜、ゴリの部屋にある山や川で拾った石を見せられ、数百万するという怪しげな話の数々を聞かされる異色の合宿であったが、スキー場、宿の雰囲気とも印象に残るスキー合宿でした。私はそれまで学生ならびに社会人時代を通してなかなか継続的にスキーに行く機会がありませんでした。そのためOB会のスキー合宿が開催されてからはそれが楽しみでした。スキー後の食事や呑みながらの学生時代の武勇伝、独軍の仏軍への進行や台湾での紹興酒の飲み方等のくだらいことから事業の転機になった出来事等の人生の滋養になる話までと多方面な話題があり飽きることがありません。

時に一緒にいらっしゃった奥方の前で春歌を歌ったり、ちょっとした言動で諍いとなったことも今となっては楽しい思い出です。しかし、その頃、中心となってスキー合宿を主催して頂いた先輩方も一人、二人、三人と鬼籍に入られ、スキー合宿も立ち消え寂しい限りです。

そこで、一年発起して山スキーでもやろうかと山道具店に行ってみましたが、板、靴、シール等を一式で15万!とのこと。靴も足首が太いため合わず、断念。山スキーよりはるかに安い、西洋ワカンのスノーシューでも買って雪山ハイクにでも出かけようか。

昭和49年卒 柳澤孝嘉

 それは宝もの         手島達雄

2年前、0B会の有志で忘年会をやった折に勢いで決まった金時山の山行がきっかけで、40年以上遠ざかっていた「再びの山行き」が始まった。母を見取り自分の自由な時間が持てるようになって、今までの自分とこれからの自分について考えるようになった。限られた時間の中にある人生、何でもやらなければ損だ。思い立ったら、やり残さず先ずはやってみようと。そして、高校の頃はやり切れていなかったという思いもあって健康増進も兼ねてまた山に行こうと思った。

必要な装備を整え、日帰りハイキングから計画を立てて出かけるようになった。大学に入ってしばらくは山にも行っていたが、興味は別の所に移っていた。大学を出て小学校教員の仕事に就いてからは遠足で児童を引率して天覧山や伊豆ヶ岳などに連れて行くくらいのものだった。異動で2泊3日の尾瀬縦断の林間学校をやっていた学校に赴任した折には、個人的に保護者や職員を誘って燧ケ岳に登ったりしたこともあった。その後、実母の介護の関係もあって教員の職を辞して東京の実家にUターンした。1年間スクールに通った後、庭づくりから、樹木のメンテナンス、花壇の植え付けや寄せ植え講習会などもやる小さなガーデニングショップを開業した。

すでにもう山に行く事もなくなっていたし、OB会からの連絡はいただいていたものの、特に親しくしている先輩後輩が参加している訳でもなく、秋の親睦会で小諸まで行くのも面倒でもあった。休みが取れるようになった事もあり、総会や親睦会に参加していた同期の二村君から誘われてOB会にも顔を出すようになった。

DWVでの経験は高校生のたかだか2年間程度のことだったのにも関わらず、還暦を過ぎてなお、かつてやっていた山の経験が呼び覚まされ引きつけられたのは何でだろうと思う。高校のワンゲルは体育会系の大学の山岳部と違い、まだまだ幼いもので規模も違ってはいたが、高校生なりのプライドもあった。しかし、当時それほど山をがむしゃらにやっていたわけでもなく、むしろ先輩や同期にくっついて行っていた。その2年間はノスタルジックに美化されただけのものではなく、貴重な何かがあったように思う。景色が印象に残っている訳ではない。達成感はあったものの、それが全てではない。苦しくても一歩一歩前に進んで行く事、体力や勇気が試される事もあった。楽しかったというよりは辛かった事の方が多かったとも思う。重い荷物を背負ってひたすら歩くことは苦しかったし、またバテるのではないかという恐れもあった。テントの中で寝付かれないでウトウトしながら朝を迎えたこともあった。景色もろくに見ないで苦しい思いをしながらひたすら重い荷物を担いで登ったり、より高みを目指して仲間とともに挑戦したりと集団の中で互いに磨き合った大事な時期だったのではなかったかと思う。

蜘蛛の足や軍手が入ったこともあった山での食事。冷たくなって足の感覚もなく歩いた冬の合宿。食当で朝早くテントから起き出ての食事準備。雨で濡れて重たくなったテントの重さやラジウスの匂い。石油臭くなって潰れたカレンズ(関口台パン屋のぶどうパン)。つぶれたアルマイトのメンツでブドー酒を飲みながら山の歌を歌った最終日の打ち上げコンパ。新宿駅や上野駅の通路やホームでさかい屋の72㎝キスリングを並べての場所取り。グランド脇の坂道でダッシュを何本もやって吐きそうになったこと。練習後、江戸川公園でタバコを吸っていてお巡りさんに捕まったことなどいろいろな事が思い返される。これらの一つひとつが積み重なって、人生の中でとても貴重でそして輝いているものではないかと思う。貴重で美しく輝けるもの、つまりそれがすなわち人生の ” 宝もの ” なんだと思う。

                                                                昭和47年卒 手島達雄

夏山合宿の思い出 岸 房孝

50年以上前、高校2年の夏山合宿の話です。総勢14、1 5人だったか、行き先は飯豊です。

上野駅から上越線の新津で磐越西線に乗り換えました。その頃の電車はまだSLで、煙を吐いて走っていました。上野駅で磐越西線の徳沢駅と言って切符を買った時、切符に徳沢駅と印刷されていなくて手書きでくれました。それだけ行く人が少ない駅なんだとびっくりしました。徳沢駅に着くと当然バスなどありません。先生が前もって、トラックをチャーターしてあって、それにザックと荷物と我々を乗せて飯豊の登り口まで運んでくれました。それから飯豊山荘めがけて登り出したのですが、夜行電車で来たせいか、ヨレヨレになって歩き、山小屋に着いた思い出があります。次の日から山の稜線に出ました。天気も良く、すばらしい景色でした。山の上では水はありません。でも雪渓が所々にあったので、水にはあまり苦労しませんでした。そこにテントを張り、快適でした。

それから何日か山行を続けて、下山してきて駅で合宿を解散しました。確か越後下関駅だったと思います。そこでどういう訳か夏休みだし家に帰っても仕様がないと言って、我々同期5人で日本海が近いので海に行くことにしました。海に近い駅で降り海岸の砂浜にテントを張り満喫しました。我々だけしかいなくて貸切状態でした。パンツ一丁で海に入り、ウニなど取って食べました。他に食糧がないので、近くのお店のおばちゃんに食べ物をもらったりして、みんなで食べました。海に5人でいた事は夏山合宿と違って開放感があり、とても楽しいひと時でした。今でも思い出します。でも5人の内3人は今はいません。若き日の遠い良き思い出です。

                                                       昭和41年卒 岸 房孝

獨協学園ワンゲル部 碓井達夫

<ワンゲル部に入部して>

獨協高校のワンゲル部は、夏山だけでなく冬山も行い高校生で冬の戸隠・高妻山を攻略したすばらしい記録を持っていることを中学時代から知っていました。昭和43年4月に獨協学園の入学式当日に部室を訪れ、入部を申し出た思い出は今でも鮮明に記憶しています。1年生は6名ほどが入部し、多くの山仲間ができたことの喜びとこれからどんな山に行けるのか期待が高まりました。

山に登るには、体力をつけることが一番です。部活の練習は以下のようなものであったと記憶しています。まずは持久力を付けるため長距離の走り込み。これは、学校から池袋を回り千登世橋から学校に戻ってくるコースです。坂道のダッシュは、グランド脇の坂を使いました。ほんとうに随分と走りました。校舎の階段を使ったものでは、交代で「おんぶ」しながらの昇り降りもかなりきつい練習でした。また、校舎の1階から4階までのダッシュ。実はほとんど競争のようなもので、最上階では、ラジウスが置かれていて1階からダッシュで上まで登り、ラジウスが勢い良く点火した者が一番になる、という酷なものでした。最上階では、3年生が目を光らせて待っています。このような練習の成果もあって、徐々に体力も増してきたのは事実です。

また、合宿となると団体装備や個人装備を含め、たくさんの荷物を運び上げなければなりません。ここで問題となるのは、キスリングに如何にパッキングするかによって、体力の消耗を防ぎ長い時間をかけて歩くことが出来るかの分かれ目になります。パッキングでは先輩諸氏から詰め方を教えていただき、どうにか形の良い担ぎやすいザックに仕上がりました。後は山に行く回数と共にパッキングの技術も上達していきました。

山に入れば歩き方、休憩の取り方や水の飲み方など、下界と違うことも多く学ばせてもらいました。

 

<思い出深い初めての冬山>

部活の合宿で印象に残っているのは1年生の冬の浅間山です。

昭和43年の冬山合宿は、当初の計画(登山計画書1968年 浅間山:HP参照)では、2年部員2名、1年部員6名の参加となっていましたが、合宿日が近づくにしたがって、一人減り、二人減り、だんだん参加者が少なくなっていきました。当時から高校生の冬山登山での危険性については指摘されていました。多くの理由は冬山において高校生の体力・技術力・判断力では緊急時に安全を確保するのが難しいとの理由から、原則として禁止されていました。部員の親御さんたちにも少なからず、冬山は危険との意識があったのではないかと推測しています。

その結果、この合宿に参加したのは、1年部員3名(中村 周司、飛沢 祐一、碓井 達夫)と高梨先生と飯島先生の合計5名の冬山合宿でした。

当初の計画では、湯の平にベースキャンプを設置し浅間山に登る予定でしたが、参加人数が少ないことから急遽、浅間山荘周辺のバンガローをベースに計画を変更しました。団体装備を全て持って行ったのか、定かではありませんが、当時、ワンゲル部のザックと云えば特大の72㎝のキスリングが主流で、その荷物は半端なく自分の頭より高いザックになり、一人で担ぐことができなく、部員に手伝ってもらいやっと担げるような重さでした。もちろん、歩くのもやっとの状態で、駅の階段の昇り降りで息が切れるほどでした。バンガローに変更したことにより、湯の平まで荷揚げをしなくてすんだことはラッキーでした。

さて、バンガローをベースキャンプにして、いよいよ冬山の体験の始まりです。登頂の日、冬山装備に身を固めいっぱしのアルピニストになったような気分になりました。先生からアイゼンを履いての歩行の仕方や、ピッケルの操作などを教えてもらいながら順調に高度を上げて行きます。二ノ鳥居を過ぎると徐々に傾斜が増し、右手に牙山の荒々しい岩壁を望み湯の平に入ります。賽の河原から森林限界を抜け、前掛山の荒涼とした斜面を風の洗礼を受けながら登って行くと山頂に着きました。山頂からの景色の記憶はなく、火口が真下に見えたのと風が強かった記憶しかありません。

テント泊ではなかったのですが、バンガローの中もかなり冷え込みシュラフに入る前に、高梨先生が「気付け薬だ。」と称し、ウイスキーの小瓶を取り出し、キャップに注ぎ一杯ずつ内緒で飲ませてくれた事が今でも懐かしく思い出されます。

あれから、半世紀もの年月が経ちますが、高校生活の3年間はワンゲル部によって多く山に登り、多くのことを学んだ貴重な青春時代でした。

これからも、獨協学園ワンダーフォーゲル部とOB会が、益々発展されることを祈念いたします。

                                                  昭和46年卒 碓井達夫

創部50周年記念現役OB合同登山    金 有一

年配の同窓生には「馬城」「目城」「めじろ」という名で親しまれた懐かしい年刊誌をご記憶の方も多いことと思います。ふとしたことから、図書館の学園資料室に大切に保存されている「めじろ72号」(1955年発行・発行人村松定孝)を手にする機会がありました。何気なく頁をめくっていると「ワンダーフォーゲル」と題された森本悌次、打矢之威(昭31卒)両氏が寄稿された一文に目がとまりました。「今年から獨協にワンダーフォーゲル部が創立されましたが・・・」で始まる文章には,ドイツで誕生 したワンダーフォーゲルという国民的自然生活運動を天野貞祐先生のお話と重ね合わせ、「正直、勤勉、清潔、規則正しく」という四つのことを実行することに他ならないと記されてあり、併せて創部時の諸先輩の方々の自然に対する熱意も語られていました。数えてみるとワンダーフォーゲル部が創られてかれこれ50 年になることも分かりました。偶然にも、私が現在クラブ顧問としてかかわっているワンダーフォーゲル部創部当時の状況を知り,先達の方々の苦労と熱き思い を垣間見て少なからず感動を覚えました。クラブ活動はその時代を反映し、栄枯盛衰を繰り返し受け継がれていますが、どのような経緯を経て今日に至っているか、現役部員には明らかでない場合が多いようです。そこで、創部50年を記念して、OBと現役の交流を 合同登山を通して実現させたいとの考えが抑えがたくなり、OB会に打診したところ、多くのOBの方々から賛同を得、実現の運びとなりました。登る山も記念 登山に相応しい北海道の大雪山・旭岳と決まりました.遠隔地でもあり合宿地の制限や現役部員の負担など解決しなければならない問題もありましたが,幸いに もOB会から団体装備と遠征費用にと、多額のご寄付をいただき難問も解決し,先輩方の激励もあり準備も整いました。

全コースをOBと現役が一緒に歩くことには制約もあり、第一日目の旭岳だけの合同登山となりました.参加メンバーは,創部当時を熟知し、還暦を過ぎた今でも元気に山登りを続けられている若井永(昭32卒)、井上正巳(昭32卒)夫妻、千野一郎(昭33卒),常盤雪夫(昭35卒)と、若い世代のOBからは大橋友徳(平10卒)、半田諭志(平12卒)、石鍋健太(平13卒)が参加し、現役部員である中高生10人及び顧問2人の大所帯となりました。盛んに白い噴煙を上げる爆裂火口の地獄谷を左に見ながら、火山礫のガラガラしたきつい登りに果敢に挑み頂上をめざしました。北海道の最高峰からの眺めは正に雄大で、一同、征服感に浸りながらOBと現役の心が一つになったのを感じたひと時でした。

現役の諸君らは、これから50年、同行の先輩方と同じ年齢になる頃、ワンダーフォーゲル部は創部100年を迎えることも感じていたようでした。


「獨協通信」第61号(平成15年12月10日発行)ひろばより転載       DWV元顧問 金  有一