田中廣明(S43年卒)さんから長野便りをいただきました。
飯綱山に登ろうと思っていたところ、グズグスの雪で撤退したそうです。翌日、斑尾なら大丈夫だろうと行ったところ、やはりグズグズて下りてきたそうです。
残雪の山は見た目はいいけど、登るのは・・・ということでした。
S43年卒 田中廣明
田中廣明(S43年卒)さんから長野便りをいただきました。
飯綱山に登ろうと思っていたところ、グズグスの雪で撤退したそうです。翌日、斑尾なら大丈夫だろうと行ったところ、やはりグズグズて下りてきたそうです。
残雪の山は見た目はいいけど、登るのは・・・ということでした。
S43年卒 田中廣明
DWV創立メンバーの一人であるS31年卒の打矢さんから他会員の元に「残暑お見舞い」が届きました。拡散希望と言うことではありませんでしたが、近況報告ということで勝手にアップさせていただきました。
先日、JR で偶然独協高校一年生のワンゲル部員と会いました。
夕方、大宮駅から私のすぐそばに、独協の制服の生徒が乗車してきました。たまに見かける懐かしい制服ですが、何故かその時は声を掛けました。
“おじさんも独協の卒業生だよ” “何年前ですか?” “55年くらいまえかな”
“何か部活はおやりになってましたか?” “うん、ワングル部だったヨ” “え?僕もです!”
名前も聞かなかったですが、古河から通う好青年でした。たった一駅間の短い会話でしたがその日は一日嬉しく、うきうきさせて頂きました。ワンゲル部OB会のHPがあることを教えました。
S41年卒 菅野則一
巣鴨・東僑酒楼にて冨樫S43年卒、本多(S43年卒)、田中(S43年卒)、木村(S44年卒)、佐久間(S44年卒)、手島(S47年卒)、柳澤(S49年卒)の7名で2019忘年会を開きました。2019.12.14
カリフォルニアのアナハイム近くに住んでいる笠原 聖(S47年卒 写真中央)さんが一時帰国するということで同期の碓井達夫(写真左) 渡辺亮介(写真右) 手島達雄(S47年卒)DWV.OBが30年の時間を超えて再会しました。(卒業して15年後くらいに一度会って以来)
笠原さんのリクエストで、4人で目白駅から歩いて高校へ行ってみることになりました。
「千登世橋の階段でもトレーニングしたよね。」「ガンバッテーと声かけられたりしたことがあったよ。」
田中角栄邸前の交番はなくなり、規模も小さくなっていました。日本女子大は道を挟んで反対側にもおしゃれな建物が出来ていました。
道を渡って懐かしい中華「栄和楼」の前を通りました。昼飯を食べて食後のタバコを吸っていて先生に見つかったこともありました。当時、2階席には自決前に三島由紀夫も来ていたようです。(後で調べてみたら栄和楼は数年前に閉店していたようです。)
野球部が練習していたので、顧問の先生にお話しして建物の中に入れてもらうことが出来ました。S48年の卒業生でもある数学の先生とも少しお話ししました。
当時のものでしようか、石垣が体育館前に少し残っていました。当時は5〜6mはあったでしょうか、石垣の上から懸垂下降の練習もしました。坂ではダッシュ、うさぎ跳び、いざりなどのトレーニングもしていました。
学校を卒業して48年、歩んできた道のりが背中に乗っかって見えます。
池袋に出て、渡辺さんの馴染みのドイツ料理とワインの店「エリカ」で懐かしい話題と近況報告でお酒が進みました。この日は丁度お祭りで店前にも神輿が繰り出し、法被を着た若衆がたくさん闊歩していました。
楽しいひと時でした。
OB会の総会の案内が届いていない(事務局で住所が把握できていない方)46年卒、47年卒.OBは是非、連絡ください。
2018年12月14日(金) 西日暮里 八天将にて
S43年卒の冨樫克己、田中廣明、本多 純。S44年卒の木村泰樹、佐久間俊一。そしてS47年卒の手島達雄の6名で鍋を囲んで2018年の忘年会を行いました。車の話題や合宿での出来事などで話が盛り上がりました。佐久間さんとは今まで連絡がつかなかったのですが、今回連絡がついて参加の運びとなりました。(敬称略)
9月の上旬にスイスの渡辺知也氏(S34年卒)より記念誌作成委員長の柳澤孝嘉氏の元に礼状の葉書が届きましたので、ご紹介します。
前略、礼状を出そうと思いつつここまで伸ばしてしまいました。訳もなくお詫び致します。立派な誌が出来ました。それにしても亡くなった人が多いのに驚きました。
貴兄も長生きをして下さい。年金のとりそこないのない様にしましょう。
この橋はローマ人が作ったといわれています。2000年もたっています。お元気でいて下さい。 知也
(文書は送られてきた自筆の書面を柳澤氏が浄書したものです)
冬の西穂高岳で獨協生ほか四人が凍死しました。夏のテントを使用したとの新聞の報道です。
その翌年天野貞祐先生の提唱でワンゲルが創設されました。小生は中学三年生でしたが、早速入部して夏合宿の北アルプスに参加しました。
森本、打矢、赤石先輩等と日本史の皆川先生が指導しました。爾来山に取り憑りつかれた小生は修学旅行を欠席し、その時間を全部山行に充てました。早稲田大学露西亜文学科に入学して以来プッリと山に行かず勉学に専念、トーメンという商社に入社、その翌年にチェコスロバキアに留学、それからウィーンに移動して以来ヨーロッパでの生活が二十数年続きました。その後しばらくしてドイツ人のガールフレンドの両親の広大な別荘がチューリヒ近郊にありそこを基点にして再び山行を始めました。
その後かみさんを取り替えて都合三回結婚しています。現在のかみさんはハンブルグ出身で新聞記者をしています。母親はスイス・ティチーノ州のアスコーナにいて、そこを起点にして再び山行をするようになりました。スイスには何千何万という山行ルートがあるので無限の可能性があります。感心したのは朝早く登り始めて夕方に下山するまでタバコの吸い殻、キャンディーの紙等落ちていないことです。山小屋は無人の処でも皿やタオルがキチンと整理されています。世界一の生活水準の高い国なのでその身倍の程が解ります。その後ロカルノの近くの山村に三百年以上経た家を買い求めました。凡て近代的に創り直し実に快適に暮しています。
そこに夏になると日本から金子、打矢、若井、千野の先輩たちが再三訪れ、よく一緒に山行しました。今にして思えば夢のような話しです。現在は小生も七十六歳になりましたので日本から年金で暮らしています。カミさんは小生よりも二十才も若いので現役ですので、カミさんに喰べさせてもらっています。従って老後の心配はありません。
彼女は特派員としてロカルノで働いています。小生があと十年、つまり八十六才まで生きると日本四十年、西欧四十年の暮しになります。小生の死後は簡単に始末してもらいます。焼場で遺骨をポリバケツに入れ(骨つぼは高価です)ヘリコプターに頼んでピッオヴォゴルノ(海抜二千五百メートル)に運んでもらいます。この山は自宅の眼前に聳え、実に姿の美しい山です。小生は一度は息子と、二度目は金子、千野先輩と登頂を試みましたが、成功していません。三度目は遺骨となって登山します。そこで散骨してもらいます。もっともヘリの代金が高いのでその代わりに裏の小川に流すことになるかも知れません。この家族の判断に小生は口出しできません。
小生は毎朝坐禅をしますが、その際に必ず両親に念ずることがあります。小生をこうして健康に生んでくれてありがとうと云います。この感謝の気持ちが大切です。皆さんも今からでも遅くはありません。御両親が健在ならばせいぜい親孝行のまねごとをするなり、もし逝去されているなら仏前に手を合わせるなり、仏壇もないならば心の中で挨拶して下さい。なにしろ小生は親不孝の最高峰を登りましたので。皆様の健康をお祈りします。
昭和34年卒 渡辺知也
獨協学園ワンダーフォーゲル部は、かつてないほど部員数が増え、現在の現役部員は19名を数えるほどになりました。
長瀬 治(昭和43年卒)投稿から