八甲田山雪中行軍遭難事故

”八甲田山雪中行軍遭難事故”は1902(明治35)年1月、対ロシア戦を想定し青森の大日本帝国陸軍歩兵第5連隊の特別編成部隊が寒地での兵営の研究と訓練の一環として計画・実施された”八甲田山雪中行軍”により参加者210名中199名の死者を出した日本史上最大の遭難事故です。この遭難事故については既にさまざまな資料が世に出ていますが、元自衛官という視点で”八甲田山雪中行軍”を明らかにしようとした伊藤薫氏の「八甲田山消された真実」 (山と渓谷社) が今年発刊されました。(2018年2月1日発行) 伊藤氏は該当の連隊を母体とする部隊に所属したこともある元自衛隊員で八甲田山雪中行軍について証言や残された資料などをもとに事故が陸軍によって隠蔽され、捏造された部分があったことを指摘するとともに事故の真相を探った書籍です。映画でしか知らない方も多いと思いますので、この書籍を元に八甲田山雪中行軍についてまとめてみました。この情報はいくつかの限られた情報を元に個人的にまとめたものですので、不正確な部分も多々あるかと思います。ご覧いただく方はそれをご理解いただき、覧いただければと思います。

<当時の状況について>

大日本帝国陸軍歩兵第5連隊(以降第5連隊に略)は東北鎮台の第1分営として1871年旧津軽藩士で組織され、弘前に配置されたものを母体としています。西南戦争への参戦を経て改編を繰り返し、1975年に北方警備の地理的条件から青森に配置変えになります。青森県は廃藩置県の折には弘前に県庁を置く弘前県としてスタートしましたが、その後間をおかず津軽と南部に分かれた行政区分の意識の統一を図るべく当時片田舎の漁港だった青森に県庁を移し県名も青森県と変わりました。したがって、当時の青森の屯営地は片田舎のさみしい寒村にあったようです。

時代は列強の植民地政策の中で、明治政府は富国強兵の名の下に経済を発展させ、西南戦争を経て大陸への侵攻も視野に軍隊が増強拡充されていくことになります。1894年朝鮮半島をめぐり大陸での清国との戦争で朝鮮での日本の覇権、遼東半島の割譲と多額の賠償金を勝ち取ることになります。しかし、ロシア・フランス・ドイツのいわゆる三国干渉によって手放さざるを得なくなってしまい、その後ロシア帝国の南下政策により朝鮮半島の覇権争いが生ずることになります。そんな状況の中、1896年に青森、秋田、山形、岩手と宮城の一部を徴募区とする第8師団が誕生し、新たに弘前に連隊本部を置く歩兵第31連隊(以降第31連隊に略)が誕生します。第5連隊も改編され両連隊共に第8師団の隷下に入ることになります。改編時第5連隊の兵員は地元の青森県出身者で構成されていましたが、その多くはまるごと第31連隊に異動し、歩兵第5連隊は岩手県出身の者を中心として宮城県出身者を加えて新たに編成された混成部隊としてリスタートすることになります。第31連隊は地元の文化伝統が引き継がれていったのに対して歩兵第5連隊は新しく徴兵されたものの寄り集まりでまとまりに欠けていたという実態があるようです。

大日本帝国陸軍は日清戦争以降、大陸での戦線に備えた寒地対応の研究と訓練を進めていました。寒地にある青森県の第5連隊と第31連隊にはその研究が期待されていたようです。中でもリードしていたのは第31連隊であり、福島大尉がその急先鋒であったようです。この福島大尉は映画「八甲田山」で高倉健が演じた死者を1名も出さず八甲田山雪中行軍を成し遂げた徳島大尉のモデルとなった人物です。福島大尉は下士候補生などで特別編成した部隊を使って地元の岩木山山腹など県内の高地での寒地研究に積極的に取り組み、実績と功績を挙げていました。それに対して第5連隊は1泊2日の将校以下209名での雪中行軍訓練を実施したもののダラダラ坂にも関わらず橇を上げる事が出来なかったなどの失敗もあり、十分な研究・訓練がなされておらず、また成果もあげられていなかったようです。両隊は同じ青森県にあってかたや伝統ある部隊であるものの片田舎の青森を駐屯地とする第5連隊と、弘前を駐屯地とした新しく編成された部隊の31連隊ということでいろいろな面でライバル関係あったようです。

そんな状況の中、対露戦やむなしとの態勢が決せられ日英同盟が締結された1902年(明治35年)、第31連隊の福島大尉は十和田湖をまわり、第5連隊の裏山的存在の八甲田山麓の田代、青森を経て弘前に帰営する11泊12日の雪中山麓踏破の計画をぶち上げます。著者の伊藤氏は第5連隊の八甲田山雪中行軍は1900年に着任した連隊長の津川中佐が第31連隊に先を越されてはならないと神成大尉(映画では北大路欣也が演じた神田大尉)に企画させたのではないかと述べています。それまで第5連隊では雪中行軍の成功実績もあまりなかったにも拘わらず第31連隊の福島大尉の計画に対して第5連隊がそれを先んじるべく日程を逆算して雪中幕営と橇による物資の輸送などを目的として、特別部隊を編成して田代新湯を往復するする1泊2日の行軍訓練となったのではないかと推論しています。計画ができたのは実施の2日前で、安易な見込み、安易な計画による俄か部隊の編成だったと指摘しています。地域のことを知っている地元出身の兵はおらず、形だけの予備行軍の実施のみで、目的地までの状況を把握できている下士官は誰もいなかったようでした。また、前日に大きなイベントを組んでいたり、雪中訓練に参加する伍長が前夜遅くまで酒を飲んでいたりと誰もが簡単に行って帰ってこられるとたかをくくっていたのではないかと指摘しています。それに対して第31連隊の福島大尉はあらかじめ部下に「足はよく洗って爪を切り清潔にして、脂を塗っておけ。」「放尿後は、ふんどしと袴下(こした=ズボン下)で陰部を包み、軍袴(ぐんこ=ズボン)のボタンを拭いておくのを忘れるな」など細かく30ヶ条の指示を出すなど経験に基づいて周到な準備をしていたようです。ただし、1名の死者も出さず11泊の行程を踏破した第31連隊の雪中行軍と第5大隊の雪中行軍は目的も規模・性格も大きく異なっていたようです。

第5連隊の訓練の目的は雪中幕営をともなった橇による物資の輸送による行軍であり、物資を大型橇に搭載して曳航しながら一定の規模の兵卒を従え雪中で野営するという計画でした。指揮官はこの訓練を企画した神成大尉であり、兵卒は194名、他に将校は5名(中尉4名、少尉1名)でしたが、見習士官の教育担当として上官である第5大隊長の山口少佐以下編成外として9名(大尉2名、軍医1名、特務曹長4名、見習士官2名)が随行していましたので総勢210名になります。著者の伊藤氏は部隊の最上級士官は山口少佐であったことから少佐が事実上の統率官であったこと、士官のほとんどが士族や華族出身で指揮者であるものの平民出身の神成大尉と伊藤中尉は信頼しておらず、命令系統の危うさがあったと指摘しています。

行程は1月22日に部隊のある青森の駐屯地を出発し、国道を経て八甲田山の麓にある無人の田代新湯で露営し、翌日帰営する往復約40 Kmの1泊2日の計画でした。地元住人から止めるように、また案内人を立てた方がいいと忠告(申し出)があったものの、断って軍人だけで行軍を実行しています。食料や共同装備は橇に積んで幕営地で食事を作って供する計画でした。初めのうちは順調だったものの、柔らかい雪道のために橇の曳航に時間がかかり、隊全体の行程にもはなはだ影響が出てきて、目的他までの半分くらいにから風雪が強くなってきていたこともあり、進退の協議もあったようですが前進が決定されました。遅れた橇隊を後ろに本隊は進んでいきましたが、目 的地の手前で天候が悪化してホワイトアウトの状態になり道に迷うことになります。そして、ついに18時ごろ緊急幕営を決断します。露営といっても掘るための十分な道具の用意もなかったので幅2m×5mで深さ2.5m程度の穴を5個掘り、1個の雪壕につき40名が立ったまま並んで入って休む程度のものだったようです。橇が到着したのはすでに21時を過ぎていたようで、地面まで掘り進めなかったため、雪上で食事の準備に取り掛かるもののうまくいかず、結局1時半ごろ生煮えの飯と餅、かんづめの食事をとるだけになってしまったようです。兵士は軍歌斉唱と足踏みで寒さを凌いでいたようです。1時半ごろに翌朝5時の帰営が決定されたものの、急遽2時半ごろに1時間程度の仮眠だけで道もわからないままに幕営地を出発することになります。5台の橇のうち4台がこの幕営地に置き去りにされ、荷物は兵卒に分担されました。しかし、とりあえず昨日来た方向と思しき方に向かって行く訳ですが、やはり帰営の道が分からず幕営地に戻ることになります。しかしその途中、道が分かったと言う伍長の進言があって再度目的地への行軍に変更されることになります。筆者の伊藤氏は証言や残された記録によるとこの行軍では指揮官の神成大尉の指示、命令が明確に登場しておらず、事実上の命令は少佐がしていたのだろうと指摘しています。強風吹が吹く零下の気温の中、粗末な防寒具、蓄積された疲労、不十分な食事など、まさに今にして考えれば必然的に低体温症になるべくしてなったことが伺えます。指揮官の判断力、兵卒を含めた隊員の体力や精神力も限界を超えていたのでしょう。14時間以上も雪の中を彷徨い、第一幕営地から正規ルートで700mくらいの地点で掘る道具もなく寄り集まった状態での2日目の露営となります。すでに十数人の落伍者も出て来ており、中尉が死亡したこともあり、極限の寒さの中で失望、焦燥、喪失感もあり精神的に破綻した者も多く出てしまっていました。そして、3日目にして神成大尉の「神は見放した」的発言が隊の張り詰めたモチベーションの糸が切れたことによってその後脱落者が多数出てしまう引き金になったようです。すでに部隊としての体をなさず、25日の幕営を迎えることになります。部隊はすでにバラバラとなっており、生存者も少なく、また残された証言も定かではなくなっていたようで正確な事実は判明されていないようです。また、救援隊の遅れについても問題視されています。

27日になって、仮死状態のまま半分埋まった状態の後藤伍長(記念像のモデルとなった)が発見され救出されます。近くにいた指揮官の神成大尉は既に死亡していました。各所で16名が生き残った状態で救出されたものの、後日6名が亡くなってしまったので生存者は最終的には11名だけになってしまいました。最高指揮官だった山口少佐も救出されたうちの1人でしたが、病院で心臓麻痺で衰弱死したと発表されています。新田次郎の小説「八甲田山の彷徨」では責任を取ってピストル自殺したことになっていますが、両手両足とも凍傷だったのでピストルで自殺は到底無理だったようです。また、軍上層部による毒殺説、服毒自殺説など責任問題と合わせてその死因についても取りざたされています。

<福島大尉と第31連隊>

第31連隊の雪中行軍の特別編成部隊は福島大尉を中心として見習士官と士官候補生によって構成される37名の精鋭部隊であり、民間の新聞記者1名が帯同していました。

1月20日に弘前の駐屯地を出発し、220kmの行程を11泊12日で踏破する計画でしたが、宿泊と食事はあらかじめ連絡しておいた地元の旅館や民家を使って饗応させるようなものだったようだようです。また、地元の案内人を先頭に立たせ、道案内とラッセルをさせての行軍でした。

第31連隊は地元青森出身の者が中心であり積雪期対応の訓練がすでに何度も実施されており、その最終段階にあって知識や経験の蓄積が末端の兵隊にも指示命令されていたようです。また、小規模だったこともあって指揮系統が十分機能していたことも第5連隊とは違っていました。結果、第5連隊は目的地に至らず190名の死者を出してほぼ全滅してしまったのに対して第31連隊は道を見失って一時ビバークするも、1名の死者も出さず220Kmを踏破するという結果を残しました。

しかし、著者の伊藤氏によれば福島大尉は功名心が強く、寒地研究のために見習士官などを使って冒険的な研究訓練を実施していたこともあって経験と研究の蓄積もあったことを指摘しています。

映画では高倉健が演じた徳島大尉(福島大尉)は周到な準備を整え、部下などに対しても地元の案内人(秋吉久美子)に対しても人情味ある誠実に対応する人物として描かれていますが、実際の大尉は案内人を道案内だけでなく常に交代で先頭に立たせてラッセルをさせ、食事の世話も含めて使い果たし、挙げ句の果てに安い賃金を払って見捨てるという冷酷な処遇であったようです。やはり第5連隊同様、田代新湯への道が分からず、本隊はビバークしつつ案内人に道を探させ、見つけた小屋には全員が入りきれなかったので案内人は交代で外で足踏みをしながら朝まで休憩をしていたそうです。無理やり案内人を連れて案内させられた村人の7人は全て重度の凍傷を追いながら、難関を突破した途端わずか1人2円の金を与え、二日間のことは絶対口外すべからずと命令し置き去りにして行ってしまったということです。後にこの案内人は地元では「七人の勇者」として讃えられているようです。

青森5連隊では雪の強い日になると、必ず八甲田山方面から「これから帰軍するぞぉ~」という合図のラッパと、大勢の兵隊の行進する足音が聞こえ、「お前らは既に死んでいるのだ!廻れ右!八甲田へ帰れ!」と命令すると、足音は遠ざかっていったという怖い話も残っているようです。

福島大尉が雪中行軍に出発する前、部下に与えた30カ条のアドバイスの現代語訳はこちのHPに記載があります。  http://www.tanken.com/hakkoda.html

「八甲田山雪中行軍遭難事故」への2件のフィードバック

  1. 長いレポート、お疲れ様でした。私もこの本は店頭で見ました。この雪上行軍についてよく解ってませんでしたがなるほどと思いました。戦後、三沢基地が米軍によって造られたのはソ連からのディフェンスだったと聞きました。三沢から北は放棄していた様です。青森の置かれた状況って何となく解る。

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