メールマガジン11月号 / 2020

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会メールマガジン 2020/11/29

———————————————————

DWVのOBを山の話題で結ぶメールマガジン11月号の配信です。

———————————————————

△▲△▲△        も くじ  △▲△▲△

【1】低山は自粛から一転して密に

【2】奥穂高の標高が単独3位になるかも

【3】HPのセキュリティーを強化

【4】獨協通信95号にOB会の記事が掲載

【5】富士山入山料の義務化

【6】登山史最大のミステリー

【7】行ってきました Now

【8】編集後記

【9】記事の募集とマガジンについて

——————————————————————————————————————

【1】低山は自粛から一転して密に

コロナ感染拡大のため自粛していた低山にコロナ禍からの解放気分と感染リスクが低いだろうということで多くの人が訪れるようになり、遭難が多発しているようです。

神戸、阪神間の六甲山系では9月末時点で、神戸市内では山岳救助事案が過去25年で最多となっているという事です。芦屋、西宮両市内でも前年同期の倍になっているそうです。

富士山や南アルプスを抱える山梨県でも富士山の登山禁止と南アルプスの登山道の閉鎖や山小屋の一斉休業で山岳救助事案が少なかったものの10月に入って大菩薩や道志山系の低山の山岳救助事案が急増しているそうです。

4月〜6月は山岳救助事案が八ヶ岳・秩父山系を中心に13件で遭難者は13人、7月〜8月は大菩薩・道志山系中心に20件、22人だったのが、11月1日から11月25日まで1ヶ月で27件、37人と10年間で最多、例年と比べると3倍に上っていてるということです。

例年は富士山と南アルプス山系が半数以上を占めていたということですが、今年は9割が日帰り登山で起っており、そのほとんどは低山で発生したということです。首都圏に近いということで、4月~9月に遭難した45人中35人が県外からの登山客で、そのうち首都圏の登山客が約85%に上っていたそうです。

低山だから大丈夫だろうという意識と「お忍び」でという気持ちから登山届けを出さないケースも多いという事です。救助事案の多くは登山者が道に迷ったり、山道から転落・転倒するなどで、低山だから大丈夫というものではないので、県警では登山届けを出すよう呼びかけています。

—————————————————————————————————————

【2】奥穂高の標高が単独3位になるかも

山岳の標高は低くなっている山もあれば、高くなっている山もあり、変化しています。

2014年の国土地理院の発表によれば全国の87山のうち、48山が1m高くなり、39山が1m低くなりました。それまで日本4位の山として知られていた間ノ岳(山梨県・静岡県)は標高が1m高くなり、奥穂高岳(長野県・岐阜県)と並んで3位となっていました。

ほかにも、羅臼岳、天城山(万三郎岳)、赤石岳、光岳などは1m高くなっています。一方、幌尻岳、、栗駒山、安達太良山(鉄山)、などは1m低くなったそうです。この変更は、測量技術の発達による精度の向上と東日本大震災などの近年の地殻変動の影響ということのようです。

2019年には現地計測により八ヶ岳の横岳が1m高くなり、2020年には写真撮影により塩見岳が5m高くなっています。

国土地理院の「日本の主な山岳一覧」はこちらからご覧いただけます。 https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41140.html

さて、奥穂高岳の頂上には穂高岳山荘の故今田重太郎氏によって3mの大ケルンが積み上げられています。奥穂高岳は3,190mで日本第3の高峰ですが、第2位の北岳(3,193m)とは3mしか違わないということで、北岳よりも高くしたいという願いなのか定かではありませんが、重太郎氏の思いが伺えます。このケルンは人工物なので標高にはもちろん反映されませんが。

奥穂高岳には三角点がなく、富士山・北岳・間ノ岳の標高調査が行われたのが2014年なのに対し、奥穂高岳の計測はは1975年で、当時はGPSを使った測量法ではなく航空写真から割り出された標高で、センチ単位で比較できなかったので、3190mで間ノ岳と同じ3位になっていました。

この前、TBSテレビの「林先生の初耳学」で北アルプスの最高峰の奥穂高岳の標高を検証しようというという試みがなされていて、最新の計測システム・GNSS(全球測位衛星システム)をケルンの付け根に設置し、計測を行いました。「同じ場所で2回測り平均値を出す」という正式なルールに基づいた計測の結果、1回目が3191.132m、2回目が3191.066mで平均結果は3191.099mとなり、標高の表記は小数点第1位を四捨五入するということなので従来の標高よりも1mほど高いということになります。これが正式に認められると奥穂高岳は標高ランキングで単独3位に躍り出ることになります。

——————————————————————————————————————

【3】ホームページのセキュリティーを強化

ホームページ一には一番上のアドレスバーにURL( Uniform Resource Locator)という所在を示すアドレスが表示されています。そのアドレスには近頃は 🔒マークが付いているのが一般的になっています。

これはSSL(Secure Sockets Layer)というデータを暗号化して送受信する仕組みになっているかどうかを示すサインになっています。ネットに上げた個人情報などが流出したり、ホームページが改ざんされないように暗号化して送受信するためのシステムになります。

DWVのOB会のホームページは今までこのSSLに対応していませんでしたのて、セキュリティーを強化すべく今回SSL仕様に変更しました。

今まで、OB会のホームページを開くと「安全ではありません」などのアラートが出ていたかもしれませんが、現在は🔒マークが付いていると思いますので確認ください。

もし、🔒マークが付いていないようでしたら、https://dwvob.sakura.ne.jp/wp/ と入力してホームページを開いてみて下さい。なお、従来はアドレスが http://dwvob.sakura.jp/wp/ でしたがSSL方式に変えたので、httpの後ろにsがいた https://  になっていますので、合わせてご確認ください。

——————————————————————————————————————

【4】獨協通信95号に当OB会の記事が掲載

獨協中学・高等学校の同窓会の広報誌「獨協通信」には「OB会」のコーナーが新設されていますが、この12月発行の獨協通信95号の「OB会」のコーナーにDWVのOB会の記事が掲載されます。

手島の同期が同窓会の事務をしていることから、声をかけてもらい、原稿を寄稿させていただきました。掲載写真や原稿は勝手に作らせていただきましたので、内容についてご不満などがあるかもしれませんが、とりあえずチェックして見て下さい。

——————————————————————————————————————

【5】富士山入山料の義務化

今年の富士山はコロナ感染防止の観点から密になるということが避けられないため、山小屋が全面休業し、登山禁止の措置が取られました。

富士山では世界文化遺産に指定された平成25年から安全対策拡充を目的として保全協力金として一人1,000円を徴収するようになっていますが、あくまで任意の協力金ということで、昨年夏の徴収率は山梨県と静岡県ともに67%だったそうです。

登山客への調査では約8割が「来訪者全員からの徴収に賛同」と回答しているということもあり、富士山の入山料について山梨、静岡両県などでつくる「富士山世界文化遺産協議会」の作業部会に助言する専門委員会は18日までに、富士山入山料の義務化を検討することが確認しました。

協議会で正式に承認されれば、専門委が2020年度中に徴収金額や対象などの制度案をまとめ、早ければ2022年夏から入山料の義務化による徴収が開始されることになるということです。

——————————————————————————————————————

【6】登山史最大のミステリー

日本山岳会ではエベレスト企画第3回としてZOOMを利用した誰でも参加できる無料のセミナーを主催しています。今回はマロリーの遺体発見メンバーのJake Norton氏(クライマー、映像作家、1999年マロリー捜索隊メンバー、米コロラド州在住)を講師でとして、登山史最大のミステリー「゛マロりーとアーヴィンを探して」という主題で笹生博夫氏(日本山岳会会員)通訳でのセミナーです。日時は12月5日(土)の午前10:00- (最大2時間を予定)ということです。パソコンやスマートフォンで視聴可能 ということです。下記のHPのオンラインJAC申し込みをクリックして、メールアドレスなどを入力するとメールでzoomのリンクやパスワードなどが送られてきます。あらかじめZOOMアプリなどをダウンロードしておく必要はありません。興味のある方はアクセスしてはいかがですか。

日本山岳会主催オンラインセミナー 「登山氏最大のミステリー –マロリーとアーヴィンを探して—

——————————————————————————————————————

【6】行ってきました Now

11月  陣馬高尾縦走(2020年11月1日)  日光・鳴神山(2020年11月5日)  日光・社山(2020年11月5日)  荒船山(2019年11月17日)

12月  浅間隠山(2016年12月8日)  金時山(2015年12月13日)  王岳( 2017年12月21日)  パノラマ台(2016年12月30日)

——————————————————————————————————————

【7】編集後記

登山靴選びは普段、街中で履いている靴と違って難しいものです。今まで低山用に履いていた靴はちょっと窮屈ではあったのですが、すでに何回も使っていたのですが、先日陣馬から高尾を登った上った折にはつま先が当たって痛い、痛いと思いながら歩き通しました。数日後お風呂に入っていて足の指を見たら片足の中指と薬指の爪が真っ黒になっていました。

これはいかんと、早速、日帰りハイキング用の靴を求めて神保町の「石井スポーツ」に行きましたが、なかなか気に入った物やサイズがなく、その足で水道橋の「さかいや」へ。次に御徒町の「アートスポーツ」、池袋の「好日山荘」、新宿の「石井スポーツ」と廻ったものの、「これだ!」というものに出くわすことができませんでした。

結局、山登りを再開して初めて買った色ボケしてしまったヌバック皮のイタリア製の靴がピッタリだということに行き着きました。栄養クリームなどを塗り込んでメンテナンスをしたら、買った当初の感じが蘇ってきました。これならまだまだ履ける・・・。

世界中でコロナの第3波が押し寄せています。日本では「GO TO TRAVEL」や「GO TO EAT」などのキャンペーンもあって気が緩んできていることもあるようです。今年も残すところ1ヶ月になりました。気をつけてお過ごし下さい。

——————————————————————————————————————

【8】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

日光・社山(1,827m)

2020年11月5日(木)

中禅寺湖を挟んで男体山の対岸に聳える三角に尖った山容の社山(1,827m)は特に秋には中禅寺湖の青と紅葉した八丁出島、対岸に聳える男体山を眺めながら登ることが出来きることでも人気があります。


朝5時に二人で車で東京を出発。東北自動車道で宇都宮まで。有料道路、いろは坂を通って、7時40分に立木観音の歌ヶ浜駐車場に到着しました。

雲ひとつない快晴でしたが、まだ日差しもなく、気温が低く買ったので、手袋をしていてもまだ寒く悴んでいました。

日光白根山の冠雪は白く輝いていて、とても綺麗でした。

紅葉を期待していたのですが、既に落葉広葉樹の多くは落葉してしまっていました。

英国大使館とイタリア大使館脇の河畔を回り込んで行きます。

落葉の中をザワザワと音を立てながら狸窪に向かいます。

車で走っている時に見た男体山の北斜面にはかなり雪が積もっていましたが、南斜面には雪は残っていませんでした。

狸窪(ムジナクボ)、阿世潟を通って阿世潟峠まで。

阿世潟峠までは緩やかな登りでしたが、いよいよ阿世潟峠から本格的な登りになっていきます。笹原が一面に広がり、展望の良い落葉樹の明るくとても気持ちの良い尾根道でした。

右には男体山と中禅寺湖、左には足尾の山々が見渡せました。

中禅寺湖
八丁出島

やはり、八丁出島は上から見ても紅葉は終了しているようでした。

中段あたりからは緩斜面を挟んで一段、2段とかなりの急登が現れました。

凍結した土が溶けてきていて、上っ面がぬかるんでいて滑りそうで足元がおぼつかない状態でした。

疎林が続いていましたが、頂上付近はコメツガのこんもりした森になっていました。

雪が少しだけ残っていました。

大石の所が社山の頂上です。中禅寺湖側は樹木によって展望はありませんが、足尾側の展望が開けていました。

ゆっくり、サンドウィッチやおにぎりで昼食。食後、寝っ転がってのんびり出来ました。

頂上のすぐ先で昼食をとりましたが、もう少し先の黒檜山方面寄りの端が展望もよく、平で休憩には適していました。

真っ白だった日光白根山の頂上の雪はだいぶ溶けてきているようでした。

中禅寺湖や男体山を眺めながら、行きと同じ道を下山にかかりました。

阿世潟峠
阿世潟

大使館別荘地に遊覧船が到着

歌ヶ浜、到着です。

紅葉のビークは既に過ぎてしまっていましたが、天気もよく晩秋の気持ちの良いハイキングでした。

S47年卒 手島達雄 S49年卒 柳澤孝嘉


コースDATA

立木観音(歌ケ浜駐車場)7:40 英国大使館別荘7:55 狸窪(六ムジナクボ)8:10 阿世潟8:40 阿世潟峠9:02 社山10:33   (昼食)  11:27    阿世潟峠12:16 阿世潟12:30 狸窪13:00 英国大使館別荘13:10 立木観音(歌ケ浜駐車場)13:25

DWV 冬期戸隠連峰高妻山の初登記録

目的の冬山は豪雪地帯として有名な戸隠連峰の奥にそびえる高妻山、前年の冬合宿でもチャレンジしたが悪天候と深雪で失敗したので、その年は何としても登頂を果たすと皆リベンジに燃えていたと思います。期間は12月22日から1週間ぐらいの予定。参加者は総勢10名ぐらい、奥貫先生以外私は会うまで顔も知らない若者(高校生)達でした。確かCLは高島(?)、SLは斎藤君(?) 何しろ50年以上前の出来事なのですべてに朧気で参加者の名前や日時やコース等も思違いや錯誤があると思いますが、今でも鮮明に脳裏に残つている出来事は遭難寸前まで追い込まれた一連の状況です。

戸隠連峰は屏風のようにそびえる鋭鋒が前面に立ちはだかり、その間隙を縫って谷川沿いに高妻山の登山路に近づくコース、途中30-50Mぐらいの滝場があり積雪と氷着いた岩場が交互に連続して冬場は難コースでした。滝場の上に避難小屋があり、そこに大量の登山具、食料などデポして頂上アッタクに備える段取りになっていました。その年は未曽有の大雪で下山後知ったことですが上信越は1週間ぐらい連続して猛吹雪が荒れて、道路、鉄道すべてのインフラがマヒしていたとのこと。我々も全く動けず、毎日避難小屋でゴー ゴーという荒れた天候に堪え、ひたすら天気の回復を祈るのみ。12月22日に入山後全く動けず、年末まで沈滞を余儀なくされた。今年もダメかとあきらめムードが出始めたが、多分晦日の30日。その日は朝から快晴になり、高妻の大斜面は真っ白な新雪に覆われ正に天祐の瞬間と感じられた。このチャンスを逃してなるものかと全員張り切って出発。ところが体がすっぽり埋まるほどのフカフカの新雪は全くはかどらない。そこで先頭隊員を空身にして5メートル、10メートルとラッセルさせる。ばてると次々と先頭を交代させ、スタカットラッセル。高度差2-300メートルの急斜面を雪のトンネ ルを作るがごとく牛歩戦術で高度を稼いだ。予定より大幅に遅れ頂上に着いたのは午後1時頃、全員で万歳して冬季初登頂の喜びに浸る間もなく、私は帰りの危険を考えると気持ちが重かった。頂上直下の大斜面は新雪に覆われ、白一色のっぺら坊の雪崩の巣みたいな場所に見えた。 標高2,353Mのおむすび形の優美な山容だが積雪した冬季になると真に危険な山に豹変する。予定より大幅に遅れているのですぐにでも全員下山させたいが、新雪の大斜面は大勢で一気に下ると雪崩に巻き込まれる。そこで奥貫先生と相談して一年生から順番に一人一人安全な灌木地帯まで間をおいて下らせたので時間がかかる。先生にお先に降りてくださいとお願いしたが”いや私は最後で良い、君が先に降りろ”と全員安全を確かめてから自分は最後に行動する。まさに沈没しかかった駆逐艦の艦長のような責任感のある先生であった。最大の難所は切り抜けたが、まだまだ滝場岩場、急斜面の連続で全員くたくた汗まみれ雪まみれ。日は暮れてくる。早朝から10時間以上行動している。

やっと谷間の渓流地帯にたどり着いたが、高校生たちはふらふら夢遊病者のように足元が定まらない。そのうち何人かは凍りついた渓流に倒れ込んでしまう。このままでは凍死の危険がある。そこで叱咤激励しながら全員上半身を裸にさせ、乾布摩擦と乾いた下着に取り替えさせ、大型の凍てついた重たいキスリングはその場に放置させ、空身になって隊列を組ませ大声で校歌などを歌いながらひたすら前進した。真っ暗な中たぶん夜8時か9時ごろ、前方遥か遠くにポツンと裸電球の明かりがぼーっと見えたとき、正直言ってこれで助かったとほっとした。着くとそこは戸隠奥社の小さな社坊であった。ドアーをドンドン叩くと神官が顔を出しびっくりした様子で”あんた達一体どこから来たんだ!”と叫んだ。一部始終を説明し、このままでは子供たちが凍死しかねない、何とか今晩だけで泊めて欲しいと懇願した。そして親切な神社に命を助けてもらった次第です。あの時の光景と切迫した気持ちは生涯忘れられない。奥貫先生も同じお気持ちであったでしょう。

S31年卒 打矢之威


0Bとして参加した昭和31年度卒の打矢之威氏の記録文から抜粋しました。本文はこちらから

陣馬山高尾山縦走

2020年11月1日(日)

前回は藤野駅からピストンで陣馬山を登ってきたが、今回は陣馬山をスタートに高尾山まで縦走してみた。


藤野駅を降りるとバス停には既に長い行列が出来ていた。バスは8時6分発のはずであったが、乗客が多いので定刻より前に臨時バスに乗って出発。”密”の隙間なく立っている状態だった。

15分くらい経った一ノ尾根登山口バス停で半数以上が降りたので、その後終点までは座っていけた。

和田からの陣馬山登山口はこの先にもあって、同じように一ノ尾根出ることが出来る。そちらの方が距離は短いのかも知れない。

宅地を抜けるまでが急坂で、既に息が上がってしまった。

一ノ尾根出会いからは前回も登ったなだらかな尾根になる。

山頂前の急登と木段を越せば、もう頂上だ。

今回は既にバス使って標高354mからのスタートだったので、頂上には9時20分に着くことが出来た。

日曜日なので信玄茶屋も開いていた。さすが日曜日なので頂上は人たくさんのハイカーが休んでいた。

高尾山までの縦走路はエスケープルートがたくさんあるので、今日はどこまで行けるか分からないが、高尾山を目指して早々に頂上を後にした。

奈良子峠

明王峠、到着。茶屋は営業していなかった。

ここからは相模湖へも下りられる。

底沢峠

この底沢峠からも底沢集落を経て相模川方面へ下りることが出来る。

樹林が伐採された明るい尾根上に出る。伐採した所にはモミジの幼木が植林されていた。10年後くらいにはモミジ台になるのだろう。

堂所山を経て関場峠へ行く道と、堂所山を巻いて小仏方面へ行く分岐になっている。堂所山に向かった。

堂所山(731m)

首都圏自然歩道

景信山(727.3m)、到着。

小仏峠の狸のお置物。

見晴への階段

城山へ

陣馬山から城山(小仏城山)までの尾根は県境になっていて、県境に立つ城山茶屋と春美茶屋が背中合わせに建ってる。売っている物の値段は同じのようだ。

景信山のベンチはたくさんの人だったので、昼食を先延ばしにしていた。こちらの方が明るくゆったりとしていたので、ここで昼食をとることにした。

なめこ汁をもらい、お湯を沸かしてインスタントラーメンとロイヤルミルクティーで遅い昼食。

なめこ汁は陣馬山の清水茶屋の方がうまい。(個人の感想です)

一丁平

もみじ台の茶屋の細田屋は規模は小さいが、蕎麦やうどんの提供もあるようだ。

高尾山頂まであとわずか。だんだんと人が増えて来た。そろそろマスクが必要な雰囲気。

最後の急な石段を避けて、左からの山道で山頂へ。

右の木段で頂上へ。

頂上下のベンチは穴場の休憩スポット。

さすが、日曜日の高尾山頂上は凄い人。コロナ依然と変わりないようだ。マスクを着けていることを除いては。

距離は長いが、人ゴミを避けて3号路、2号路、6号路と下山する。

2号路は終盤、ケーブル駅経由の道と琵琶滝経由の道に分かれるので、琵琶滝へ向かう。

琵琶滝の社を上から下り来て、6号路に合流していく。

岩屋大師

高尾山ケーブル駅に到着。

秋の紅葉目当ての行楽客で土産店はとても賑わっていた。紅葉はこれからのようだが。

なんとか登り通すことが出来た。疲れたが・・・。

S47年卒 手島達雄



コースDATA

藤野駅8:00(臨時バス)    和田バス停8:10    陣馬山登山口8:20    和田一ノ尾根分岐8:50    和田一ノ尾根第2分岐9:10    陣馬山9:20    奈良子峠10:07    明王峠10:13    底沢峠10:22    伐採地10:24    堂所山10:37    景信山11:37    小仏峠12:08    見晴12:15    城山12:30  ( 昼食13:15  )  一丁園地13:24    もみじ台13:47    高尾山13:55(3号路) 琵琶滝15:00    高尾山駅15:20


陣馬山(854.8m)

20201029

高尾駅で茅野行きの中央本線に乗り換えて2駅目の藤野駅で下車。駅から一ノ尾根を登り山頂へ。帰りは栃谷尾根から藤野駅へ下山しました。腰痛が改善してきた兆しなので、快晴の中の試しの秋低山ハイクに出かけました。


駅を出たらすぐ左の道を線路に沿って行きます。

踏切を渡って直進し、長いトンネルを潜って行きます。

トンネルには歩道のラインがありますが、車の行き違いができないなので、多くの車はかなりスピードを出して走って行きます。

途中、御嶽神社という鳥居が見えたので登ってみました。その先には細く急な石段が真っ直ぐ伸びていました。

怪我なく登って下りられるよう祈願しました。

帰りは石段を避けて、ジグザクの山道を降りました。

河川は大雨で被害て改修したのか、とても綺麗によく整備されていました。

道路の右脇に陣馬山登山口の立派な道標が建てられていました。

登山届けのポストも設置されていましたが、今回はパス。

左は一ノ尾根登山道、右は栃谷尾根登山道の分岐に到着。

入間坂バス停への分岐

一ノ尾根テラス

頂上下の木段

頂上には清水茶屋と富士見茶屋、信玄茶屋の3茶屋があります。が平日営業は清水茶屋さんだけで、けんちん汁が名物。信玄茶屋はコーヒー、富士見茶屋はうどんが名物となっているようです。

持参したチキンラーメンはやめて、富士山を見ながら清水茶屋でなめこ汁とおでんをいただきました。とても美味しかったです。頂上で1時間ほど過ごして下山しました。

栃谷尾根は結構急登でした。

途中、10mくらい先で谷に駆け下りて行った獣?がいました。姿は確認できませんでしたが、こちらの気配を感じて飛び降りるようにして谷を下りて行きました、いろいろな所に熊危険!の札がかかっていたので、さも熊か?と思ってビビりました。

里で赤いジャケットを着た猟友会のパトロール隊がいたので聞いてみたら熊じゃなく、シカだろうということでした。

山道は一ノ尾根より短時間で終わり、しばらく行くと栃谷集落に至ります。

斜面に柚子と茶畑が広がりました。栃谷集落は急斜面に点在してとても雰囲気のある集落でした。

先の大雨の被害でしょうか、大木が根っこごと流されていました。

下山の山道は短かったものの、藤野駅までの車道は長く腰の痛みが再発してきた感じでした。

S47年卒 手島達雄


コースDATA

藤野駅7:57 トンネル8:02    御嶽神社 8:10陣場登山口バス停8:25    陣馬山登山口8:28    栃谷尾根分岐8:30     入間坂バス停への分岐9:10    一ノ尾根テラス9:25    山頂10:20

下山開始11:25    明王峠分岐11:30    祠12:05    栃谷集落12:10    一ノ尾根分岐12:50    藤野駅13:15

 

藤野の観光協会の登山コースガイド

 

 

槇 有恒(まき ゆうこう)のこと

ヨーロッパアルプスを日本に紹介し、後に日本山岳会の会長にもなる槙 有恒は新潟県の氏族の家柄で東京都文京区で生まれたようです。

宮城県師範学校付属小学校、仙台第二中学校を経て、1911年(明治44年)、慶應義塾大学予科に入学します。1914年に前穂高岳と焼岳を登り、その時に偶然にも日本山岳会会長の小島鳥水と会っています。

ヨーロッパ帰りの慶應義塾大学教授の鹿子木員信とともに日本山岳会に入会し、翌1915年には鹿子木員信教授の勧めでクラスメイトとともに日本で初めて大学山岳会を結成することになります。

1916年には上條嘉門次の案内で槍ヶ岳、穂高岳、薬師岳を登っています。

1917年に慶應義塾大学法学部を卒業し、1918年(大正7年)、アメリカ・コロンビア大学に留学するものの大戦の影響で勉学もままならず、1919年にイギリスに渡りますが、ウェストンを訪ねてアドバイスを受けて、スイスに渡ることになります。

1920年にスイスのグリンデルヴァルトを拠点としてガイドにトレーニングを受けて本格的にスイスアルプスを登り出します。当時アイガーはイギリスのC.バリントンが南西面と西稜から初登頂に成功しており、その後南西稜、南尾根が踏破され、東山稜だけが未踏破となっていました。

そこで槇は東山稜に挑戦することを決め、1921年、熟練のフュレル(案内人)3人と困難と言われていたアイガーの東山稜(ミッテルレギ稜)の初登攀を成功させます。

ミッテルレギからのルートは途中1泊を要することからガイド教会は小屋を設置することになりますが、槙は登攀成功の記念にとして1万3千フランかかる所、1万フランを寄付します。現在このミッテルレギ小屋は新しい小屋に建て替えられていますが、槇が寄付した旧ミッテルレギ小屋は山麓に移設されており、現在も健在のようです。また。グリンデルヴァルトのモンベル支店には旧ミッテルレギ小屋の扉を展示しているそうです。

槙はスキーについても、早いうちから2本ストックによる滑走技術を習得しており、1923年に冬季の立山登山を目指しますが、パートナーの板倉勝宣が遭難死してしまう事故を起こしています。

海外登山では1925年カナダのアルバータ山の世界初登頂を果たしており、1926年(大正15年)には秩父宮雍仁親王の供奉で冬季スキーや、夏季マッターホルン、アルプスなどを登っています。

1944年(昭和19年)に日本山岳会会長に就任しますが、国策会社の南洋拓殖株式会社の拓殖事業に携わり、侵略に関与したとして戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から公職追放指定を受けています。

1956年(昭和31年)にはヒマラヤ山脈の未踏峰の一つであったマナスル遠征隊の隊長となり、同年5月9日、11日に登頂に成功しています。

仙台市名誉市民に推戴され、文化功労者、勲三等旭日中綬章を受章しています。

その後も立山観光顧問や英国山岳会(アルパインクラブ)、アメリカ山岳会、アパラチア山岳会、スイス山岳会の各名誉会員を務め、1989年(平成元年)5月2日に逝去しています。(敬称略)

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

参考文献

「山行」槇 有恒  旺文社文庫

小島鳥水(こじまうすい)と日本山岳会の設立

ヨーロッパでは古くはルネッサンスあたりから趣味やスポーツとして登山を楽しんでいたようですが、18世紀後半のスイスアルプスのヴェッターホルンやモンブラン登頂がヨーロッパでの近代登山の幕開になったようです。特に英国人はヨーロッパでは一番早く山岳会を作り、先進的に登山を楽しんでいたようです。先述のウォルター・ウェスンともそんな流れの中でスイスアルプスに登っていました。

日本での登山はまだ霊山を登る宗教登山や狩猟を目的としたものだけでした。

そんな中、何人かの外国人は案内人を伴ってまだ地図もろくになかった日本各地の山を登っていたようです。

初代英国駐日公使のラザフォード・オールコックは幕末の1860年に富士山に登頂していますが、霊山を汚すものだとして大問題になり、外国人居留地を襲撃するという動きに繋がっています。

後に英国駐日公使になるアーネスト・サトウは1862年に来日してから 25年間滞在し、富士山をはじめ、御嶽山、赤岳、浅間山、赤城山、庚申山、そして南アルプスの山々に登っています。

1867年には2代目の英国公使ハリー・スミス・パークスの夫人であるファニーさんは外国女性で初めて富士山の登頂を果たしたとされています。

また、1872年に硬貨鋳造の技師として来日したウイリアム・ゴーランドは古墳研究の先駆者としても日本アルプスの命名者としても知られていますが、いろいろな山に登っており、1878年外国人として初めて槍ヶ岳に登頂、1880年には上條嘉門次のガイドで明神岳の登頂を果たしています。

特に本格的に各地の山を登り、紀行文「Mountaineering and exploration in the Japanese Alps」を出版し、海外に日本の山岳や文化を紹介したたのがウォルター・ウェストンでした。このウェストンの本を偶然目にした小島鳥水は(小島鳥水と岡野金次郎は1902年に二人で槍ヶ岳に登っています)、自分たちよりも10年以上も前に槍ヶ岳に登っている西洋人の存在を知ることになります。その後ウェストンが横浜に滞在中であることを知って訪ね、ウェストンから世界の登山状況や山岳会の状況を教えてもらい、日本での山岳会設立を勧められます。

ちなみに英国山岳会は1857年、オーストリア山岳会は1862年、スイス山岳会は1863年、ドイツ山岳会は1869年、フランス山岳会は1878年にそれぞれ結成されています。

そして、いよいよ1905年、小島鳥水を初代会長として日本でも「山岳会」(後の日本山岳会)が設立されることになるのです。

1910年、ウォルター・ウェストンは日本山岳会設立の立役者として貢献したことで名誉会員となっています。

ウォルター・ウェストン

まだ宗教登山や狩猟のための登山しかなかった日本で富士山をはじめ槍ヶ岳や御嶽山、木曽駒ヶ岳をはじめとして多くの山岳を登り、広く海外に日本アルプスや文化を紹介するとともに、日本の従来の登山の概念を革新する近代登山の先駆けとなったのが英国人ウォルター・ウエストンでした。彼を記念して関係した各地ではレリーフが作られ、今だに上高地をはじめとしていろいろな所で毎年ウエストン祭が行われています。

彼は1888(明治22)年から1915(大正4)年の27年間(滞在年数は通算20年間近く)に英国国教会の宣教師として三度に渡って来日し、その間に日本アルプスを中心にいろいろな山岳を踏破し、日本のアルプスや文化をまとめた「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」(日本アルプスの登山と探検)他を英国で出版し、広く海外に日本を紹介しました。

彼は1861年、イギリスのダービー市で生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで学び、1886年に司祭となり、1888年にリドレー・ホール神学校で英国国教会の聖職について学んだのちに日本に宣教師として来日します。

英国をはじめヨーロッパ各国では既に山岳会が作られ、名だたるスイスアルプスはすでに登り尽くされ、アルプス黄金時代から難関ルートへの開拓時代に入っていました。そんな時代にあって、彼もマッターホルンやヴッターホルンなどいろいろなスイスアルプスを登るなどしていた登山愛好家でした。

1888年に宣教師として赴任したものの眼病治療のためと称して?一旦宣教師職を辞して登山にのめり込んでいきます。1890年には富士山を皮切りに日光・白根山や男体山、過去赴任していた九州の祖母山、阿蘇山や霧島山、韓国岳、桜島などの山々や、飛騨山脈や赤石山脈などの山々を登っているようです。

1891年から本格的に登山を開始し、浅間山、槍ヶ岳(悪天候などのため鞍部まで)、御嶽山、木曽駒ヶ岳を登っています。1892年には5月の富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳に、1993年には恵那山、富士山、大町から針ノ木峠・ザラ峠を経て立山、前穂高岳に登っています。

前穂高岳や前年の槍ヶ岳などの登山の折には、明神池の辺に小屋を持つ猟師の上條嘉門次を案内人に登頂しています。

上條嘉門次は生涯でクマ80頭、カモシカ500頭を仕止めたとされ、ウエストンの著書の中で、抜群の案内人として紹介されたために国内外の登山者に案内人として指名されるなど人気を博します。ウェストンと20年間以上に渡る交流から嘉門次はウエストンからピッケルを贈られ、現在でもそのピッケルは嘉門次小屋に掲げられているということです。

1894年には白馬岳、笠ヶ岳(実際は抜戸岳とみられる)、常念岳、御嶽山、身延山を登り、1895年まで滞在し、離日します。

英国に帰国した翌年の1896年には先述した「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」を出版することになります。この本の記述からは神学者のそれではなく、ユーモアを交えたエピソードをはさみながら、民俗学的、文化人類学的、地質学的な観点に基づいて日本アルプスを紹介しており、日本の諺にも日本文化にも精通していることが伺えますが、日本語は拙かったということです。

赴任地での宣教師としての評判はあまり良いとは言えなかったようですが、再度日本への赴任が決まります。1902年、登山愛好家のエミリー・フランシスと結婚し、新婚旅行でカナディアンロッキーに登った足で奥さんと共に再来日します。

その年には広河原から北岳を登り、1903年に甲斐駒ヶ岳、浅間山、1904年に金峰山、鳳凰三山、北岳、間ノ岳、仙丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳に登ります。地蔵岳では弘法大師も誰も成し遂げられなかった尖峰初登坂し他ことで地元の漁師などから神社建立して神主になってくれと地元の人から言われたエピソードもあったようです。

妻のエミリーさんは1903年に富士山、1904年には再度富士山に登り、火口底まで下りて石を持ち帰っています。また、浅間山や八ヶ岳、妙高山、戸隠山と高妻山にも登っており、戸隠・高妻山では初めて登った外国人女性ということでレリーフが設置され、毎年「ミセス・ウェストン祭」が行われているそうです。

そして、二人は1905年に離日します。

それから6年後の1911年には三度目であり、最後になる来日滞在を果たします。その年、二人は妙義山に登っています。

1912年には夫人を伴って有明山、燕岳を登り、槍ヶ岳の東稜、奥穂高岳は奥さんは伴わず登っています。1913年には夫人を伴って焼岳、槍ヶ岳、霞沢岳、奥穂高岳を登っていますが、この時も18年ぶりに再開し既に60代半ばになっていた上條嘉門次が案内しています。一緒に登った妻のエミリー・ウェストンは槍ヶ岳や奥穂高の女性初登頂者となっています。また、夫人とともに白馬岳も登っています。

1914年には単独で立山から剱岳を登り、ザラ峠と針ノ木峠を経由して下山しています。

しかし、第一次世界大戦の勃発で帰国を決意した二人は最後の山行を中房温泉から大天井岳を登り上高地に下りるコースを選びます。上高地では嘉門次とも別れの挨拶を交わし、1915年に離日して日本滞在は終わりを告げます。

英国に帰ってからは執筆活動や日本アルプスや日本文化についての講演などを行ないながら日本への思いを温めていたようですが、1940年(78歳)に脳出血で急逝してしまいます。

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」は日本アルプスについての紹介だけでなく、日本文化に対しての深い洞察と知識、リスペクトと深い愛情が感じられる紀行本です。今では失われてしまった当時の人々の意識や暮らしぶりについても知ることができます。岡村精一の翻訳もとても読みやすいものでした。嘉門次小屋四代目の上條輝夫の妻である上條久枝著の「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」と合わせて読んでみ流ことをお勧めします。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

参照文献 (ウェストン夫妻の登山履歴は資料により違いがあるので正確でないかも知れません。)

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」–『日本アルプス 登山と探検』 (岡村精一訳、平凡社ライブラリー)

「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」 上條久枝 著 求龍堂

「知られざるW・ウェストン」 田畑真一 著 信濃毎日新聞社

メールマガジン10月号 / 2020

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会メールマガジン 2020/10/19

——————————————————————

DWVのOBを山の話題で結ぶメールマガジン10月号の配信です。

今回は日本アルプスを海外に紹介するとともに日本近代登山の先駆けとなったウォルター・ウェストンとヨーロッパアルプスを日本に紹介した槇  有恒の二人を特集してみました。

——————————————————————

△▲△▲△        も くじ  △▲△▲△

【1】ウォルター・ウェストンのこと

【2】小島鳥水と日本山岳会の設立

【3】槇 有恒(まき ゆうこう)のこと

【4】国体やインターハイの登山部門

【5】山は秋と冬を行ったり来たり

【6】国立公園内の山小屋への補助を拡充

【7】行ってきました Now

【8】編集後記

【9】記事の募集とマガジンについて

————————————————————————————–

【1】ウォルター・ウェストンのこと

まだ宗教登山や狩猟のための登山しかなかった日本で富士山をはじめ槍ヶ岳や御嶽山、木曽駒ヶ岳をはじめとして多くの山岳を登り、広く海外に日本アルプスや文化を紹介するとともに、日本の従来の登山の概念を革新する近代登山の先駆けとなったのが英国人ウォルター・ウエストンでした。彼を記念して関係した各地ではレリーフが作られ、今だに上高地をはじめとしていろいろな所で毎年ウエストン祭が行われています。

彼は1888(明治22)年から1915(大正4)年の27年間(滞在年数は通算20年間近く)に英国国教会の宣教師として三度に渡って来日し、その間に日本アルプスを中心にいろいろな山岳を踏破し、日本のアルプスや文化をまとめた「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」(日本アルプスの登山と探検)他を英国で出版し、広く海外に日本を紹介しました。

彼は1861年、イギリスのダービー市で生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで学び、1886年に司祭となり、1888年にリドレー・ホール神学校で英国国教会の聖職について学んだのちに日本に宣教師として来日します。

英国をはじめヨーロッパ各国では既に山岳会が作られ、名だたるスイスアルプスはすでに登り尽くされ、アルプス黄金時代から難関ルートへの開拓時代に入っていました。そんな時代にあって、彼もマッターホルンやヴッターホルンなどいろいろなスイスアルプスを登るなどしていた登山愛好家でした。

1888年に宣教師として赴任したものの眼病治療のためと称して?一旦宣教師職を辞して登山にのめり込んでいきます。1890年には富士山を皮切りに日光・白根山や男体山、過去赴任していた九州の祖母山、阿蘇山や霧島山、韓国岳、桜島などの山々や、飛騨山脈や赤石山脈などの山々を登っているようです。

1891年から本格的に登山を開始し、浅間山、槍ヶ岳(悪天候などのため鞍部まで)、御嶽山、木曽駒ヶ岳を登っています。1892年には5月の富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳に、1993年には恵那山、富士山、大町から針ノ木峠・ザラ峠を経て立山、前穂高岳に登っています。

前穂高岳や前年の槍ヶ岳などの登山の折には、明神池の辺に小屋を持つ猟師の上條嘉門次を案内人に登頂しています。

上條嘉門次は生涯でクマ80頭、カモシカ500頭を仕止めたとされ、ウエストンの著書の中で、抜群の案内人として紹介されたために国内外の登山者に案内人として指名されるなど人気を博します。ウェストンと20年間以上に渡る交流から嘉門次はウエストンからピッケルを贈られ、現在でもそのピッケルは嘉門次小屋に掲げられているということです。

1894年には白馬岳、笠ヶ岳(実際は抜戸岳とみられる)、常念岳、御嶽山、身延山を登り、1895年まで滞在し、離日します。

英国に帰国した翌年の1896年には先述した「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」を出版することになります。この本の記述からは神学者のそれではなく、ユーモアを交えたエピソードをはさみながら、民俗学的、文化人類学的、地質学的な観点に基づいて日本アルプスを紹介しており、日本の諺にも日本文化にも精通していることが伺えますが、日本語は拙かったということです。

赴任地での宣教師としての評判はあまり良いとは言えなかったようですが、再度日本への赴任が決まります。1902年、登山愛好家のエミリー・フランシスと結婚し、新婚旅行でカナディアンロッキーに登った足で奥さんと共に再来日します。

その年には広河原から北岳を登り、1903年に甲斐駒ヶ岳、浅間山、1904年に金峰山、鳳凰三山、北岳、間ノ岳、仙丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳に登ります。地蔵岳では弘法大師も誰も成し遂げられなかった尖峰初登坂し他ことで地元の漁師などから神社建立して神主になってくれと地元の人から言われたエピソードもあったようです。

妻のエミリーさんは1903年に富士山、1904年には再度富士山に登り、火口底まで下りて石を持ち帰っています。また、浅間山や八ヶ岳、妙高山、戸隠山と高妻山にも登っており、戸隠・高妻山では初めて登った外国人女性ということでレリーフが設置され、毎年「ミセス・ウェストン祭」が行われているそうです。

そして、二人は1905年に離日します。

それから6年後の1911年には三度目であり、最後になる来日滞在を果たします。その年、二人は妙義山に登っています。

1912年には夫人を伴って有明山、燕岳を登り、槍ヶ岳の東稜、奥穂高岳は奥さんは伴わず登っています。1913年には夫人を伴って焼岳、槍ヶ岳、霞沢岳、奥穂高岳を登っていますが、この時も18年ぶりに再開し既に60代半ばになっていた上條嘉門次が案内しています。一緒に登った妻のエミリー・ウェストンは槍ヶ岳や奥穂高の女性初登頂者となっています。また、夫人とともに白馬岳も登っています。

1914年には単独で立山から剱岳を登り、ザラ峠と針ノ木峠を経由して下山しています。

しかし、第一次世界大戦の勃発で帰国を決意した二人は最後の山行を中房温泉から大天井岳を登り上高地に下りるコースを選びます。上高地では嘉門次とも別れの挨拶を交わし、1915年に離日して日本滞在は終わりを告げます。

英国に帰ってからは執筆活動や日本アルプスや日本文化についての講演などを行ないながら日本への思いを温めていたようですが、1940年(78歳)に脳出血で急逝してしまいます。

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」は日本アルプスについての紹介だけでなく、日本文化に対しての深い洞察と知識、リスペクトと深い愛情が感じられる紀行本です。今では失われてしまった当時の人々の意識や暮らしぶりについても知ることができます。岡村精一の翻訳もとても読みやすいものでした。嘉門次小屋四代目の上條輝夫の妻である上條久枝著の「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」と合わせて読んでみ流ことをお勧めします。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

参照文献 (ウェストン夫妻の登山履歴は資料により違いがあるので正確でないかも知れません。)

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」–『日本アルプス 登山と探検』 (岡村精一訳、平凡社ライブラリー)

「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」 上條久枝 著 求龍堂

「知られざるW・ウェストン」 田畑真一 著 信濃毎日新聞社

————————————————————————————————————————————

【2】小島鳥水(こじまうすい)と日本山岳会の設立

ヨーロッパでは古くはルネッサンスあたりから趣味やスポーツとして登山を楽しんでいたようですが、18世紀後半のスイスアルプスのヴェッターホルンやモンブラン登頂がヨーロッパでの近代登山の幕開になったようです。特に英国人はヨーロッパでは一番早く山岳会を作り、先進的に登山を楽しんでいたようです。先述のウォルター・ウェスンともそんな流れの中でスイスアルプスに登っていました。

日本での登山はまだ霊山を登る宗教登山や狩猟を目的としたものだけでした。

そんな中、何人かの外国人は案内人を伴ってまだ地図もろくになかった日本各地の山を登っていたようです。

初代英国駐日公使のラザフォード・オールコックは幕末の1860年に富士山に登頂していますが、霊山を汚すものだとして大問題になり、外国人居留地を襲撃するという動きに繋がっています。

後に英国駐日公使になるアーネスト・サトウは1862年に来日してから 25年間滞在し、富士山をはじめ、御嶽山、赤岳、浅間山、赤城山、庚申山、そして南アルプスの山々に登っています。

1867年には2代目の英国公使ハリー・スミス・パークスの夫人であるファニーさんは外国女性で初めて富士山の登頂を果たしたとされています。

また、1872年に硬貨鋳造の技師として来日したウイリアム・ゴーランドは古墳研究の先駆者としても日本アルプスの命名者としても知られていますが、いろいろな山に登っており、1878年外国人として初めて槍ヶ岳に登頂、1880年には上條嘉門次のガイドで明神岳の登頂を果たしています。

特に本格的に各地の山を登り、紀行文「Mountaineering and exploration in the Japanese Alps」を出版し、海外に日本の山岳や文化を紹介したたのがウォルター・ウェストンでした。このウェストンの本を偶然目にした小島鳥水は(小島鳥水と岡野金次郎は1902年に二人で槍ヶ岳に登っています)、自分たちよりも10年以上も前に槍ヶ岳に登っている西洋人の存在を知ることになります。その後ウェストンが横浜に滞在中であることを知って訪ね、ウェストンから世界の登山状況や山岳会の状況を教えてもらい、日本での山岳会設立を勧められます。

ちなみに英国山岳会は1857年、オーストリア山岳会は1862年、スイス山岳会は1863年、ドイツ山岳会は1869年、フランス山岳会は1878年にそれぞれ結成されています。

そして、いよいよ1905年、小島鳥水を初代会長として日本でも「山岳会」(後の日本山岳会)が設立されることになるのです。

1910年、ウォルター・ウェストンは日本山岳会設立の立役者として貢献したことで名誉会員となっています。

————————————————————————————————————————————

【3】槇 有恒(まき ゆうこう)のこと

ヨーロッパアルプスを日本に紹介し、後に日本山岳会の会長にもなる槙 有恒は新潟県の氏族の家柄で東京都文京区で生まれたようです。

宮城県師範学校付属小学校、仙台第二中学校を経て、1911年(明治44年)、慶應義塾大学予科に入学します。1914年に前穂高岳と焼岳を登り、その時に偶然にも日本山岳会会長の小島鳥水と会っています。

ヨーロッパ帰りの慶應義塾大学教授の鹿子木員信とともに日本山岳会に入会し、翌1915年には鹿子木員信教授の勧めでクラスメイトとともに日本で初めて大学山岳会を結成することになります。

1916年には上條嘉門次の案内で槍ヶ岳、穂高岳、薬師岳を登っています。

1917年に慶應義塾大学法学部を卒業し、1918年(大正7年)、アメリカ・コロンビア大学に留学するものの大戦の影響で勉学もままならず、1919年にイギリスに渡りますが、ウェストンを訪ねてアドバイスを受けて、スイスに渡ることになります。

1920年にスイスのグリンデルヴァルトを拠点としてガイドにトレーニングを受けて本格的にスイスアルプスを登り出します。当時アイガーはイギリスのC.バリントンが南西面と西稜から初登頂に成功しており、その後南西稜、南尾根が踏破され、東山稜だけが未踏破となっていました。

そこで槇は東山稜に挑戦することを決め、1921年、熟練のフュレル(案内人)3人と困難と言われていたアイガーの東山稜(ミッテルレギ稜)の初登攀を成功させます。

ミッテルレギからのルートは途中1泊を要することからガイド教会は小屋を設置することになりますが、槙は登攀成功の記念にとして1万3千フランかかる所、1万フランを寄付します。現在このミッテルレギ小屋は新しい小屋に建て替えられていますが、槇が寄付した旧ミッテルレギ小屋は山麓に移設されており、現在も健在のようです。また。グリンデルヴァルトのモンベル支店には旧ミッテルレギ小屋の扉を展示しているそうです。

槙はスキーについても、早いうちから2本ストックによる滑走技術を習得しており、1923年に冬季の立山登山を目指しますが、パートナーの板倉勝宣が遭難死してしまう事故を起こしています。

海外登山では1925年カナダのアルバータ山の世界初登頂を果たしており、1926年(大正15年)には秩父宮雍仁親王の供奉で冬季スキーや、夏季マッターホルン、アルプスなどを登っています。

1944年(昭和19年)に日本山岳会会長に就任しますが、国策会社の南洋拓殖株式会社の拓殖事業に携わり、侵略に関与したとして戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から公職追放指定を受けています。

1956年(昭和31年)にはヒマラヤ山脈の未踏峰の一つであったマナスル遠征隊の隊長となり、同年5月9日、11日に登頂に成功しています。

仙台市名誉市民に推戴され、文化功労者、勲三等旭日中綬章を受章しています。

その後も立山観光顧問や英国山岳会(アルパインクラブ)、アメリカ山岳会、アパラチア山岳会、スイス山岳会の各名誉会員を務め、1989年(平成元年)5月2日に逝去しています。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

参考文献

「山行」槇 有恒  旺文社文庫

————————————————————————————————————————————

【4】国体やインターハイの登山部門

国民体育大会(国体)にも高校総体(インターハイ)にも登山部門があるのをご存知でしょうか。

先述の槇 有恒も第4回、第6回〜第9回まで国体の登山部門会長となっています。

現在の国体ではフリークライミングのリードとボルダリングの2競技が実施されていますが、かつては縦走・踏査・登攀の3種目を実施しており、縦走とクライミング(リード競技)が実施されていたこともあったようです。

かつて実施されていた踏査種目では10kgに調整したザックを背負い、地形図上に複数あるポイント(標識)を探し、規定時間内にゴールするというチーム制オリエンテーリングでした。縦走競技は同じように10kgに調整されたザックを背負い、規定時間内に指定されたコースの登山を完了するもので、天気図作製、計画書、記録書提出なども評価されるもので、踏査競技と縦走競技、登攀競技をそれぞれ100点ずつの総合点で競ったものでした。

インターハイの登山部門は4人でパーティを組んで3泊4日の登山の行程を通して、安全に登山出来るために必要な技術や体力を定着させることを目的として競うものです。

体力(バテていないか)、歩行技術(バランスが良いか)、装備(パッキングはいいか、必要なものをすべて持っているか、防水などの工夫がしてあるか)、設営・撤収(テント設営、撤収の作業要領はよいか)、炊事(献立の内容、コンロの取り扱い)、登山計画や記録、天気図(ラジオの気象通報による天気図作製)、その他必要な知識(その山の概要、自然、気象知識、読図知識、食料知識、救急知識、登山用語、登山技術や装備の知識などについてのペーパーテスト)、マナーの各項目についてを点数下して評価して審査が行われています。

残念ながらコロナのために今年の鹿児島国体は開催時未定の延期、インターハイは中止となっています。

————————————————————————————————————————————

【5】山は秋と冬を行ったり来たり

10月17日には富士山をはじめ穂高連峰などの北アルプスや八ヶ岳、白山、男体山、燧ヶ岳、鳥海山、立山、妙高連峰、浅間山、武尊山、甲斐駒ヶ岳など各地の高山では降雪があり、初冠雪も記録されています。

まだ、根雪になるわけではないでしょうが、これからは秋と冬が行ったり来たりしながら季節が進んでいくのでしょう。

————————————————————————————————————————————

【6】国立公園内の山小屋への補助を拡充

環境省は来年度から、国立公園内にある山小屋の新型コロナ感染拡大防止にともなう施設の改修費用に対して補助する方針を決めたということです。今年度は1年間休業している山小屋も多くあり、また営業していても収容人数を半数に抑えて収入が減ったり、改修費用など経費が嵩んだりしていることから、山小屋のトイレ整備を対象とした現行の補助制度にコロナ感染拡大防止のための施設改修を加え4倍程度の予算を計上する方針だということです。

コロナ禍によって予約しなければならなかったり、収容人数も少なくなってしまったりと不都合はありますが、期せずして宿泊のクオリティーは向上してきているので、その点ではいい傾向にあるのではないでしょうか。

————————————————————————————–

【7】行ってきました Now

10月

茶臼岳(2019年10月24日)  蓼科山 (2017年10月26日)

11月

御正体山(2017年11月2日)  平標山(2016年11月3日) 三頭山(2018年11月3日) 磐梯山(2019年11月3日)   日向山(2016年11月4日)    飯盛山(2017年11月9日) 十二ヶ岳(2017年11月9日) 明神ヶ岳(11月10日)   岩櫃山(2018年11月15日)     大菩薩嶺(2019年11月17日)  荒船山(2019年11月17日) 茅ヶ岳(2017年11月19日) 武甲山(2019年11月21日) 

————————————————————————————————————————————

【8】編集後記

“ 日本近代登山の父 “とも言われているウォルター・ウェストンですが、私はこれまであまり気に留めることがありませんでした。今回調べてみて今更ながら彼が “ 日本の山への憧れ ” と ” 探査の熱意 ” を持って山に登り、上條嘉門次、小島鳥水、槇 有恒などを結びつけ、日本の近代登山黎明期を作ったパイオニアだったということを実感しました。地図も、十分な情報なく、道も整備されてない未知なる登山は、彼の著作のタイトルにあるように正に” Exploration “「探査」だったのだろうと思われます。彼の切り開いた道は太く確かなものになったようです。

上高地のウェストンのレリーフですが、旗色の悪くなった戦時中に人知れず外され消えてしまっていたという事実があるようです。敵国人を顕彰するレリーフであり、金属製品の供出も行われていたことから、難を逃れるために槇 有恒と山岳画家の茨木猪之史が仕組んで秘密裏に実行したものだったということです。

————————————————————————————————————————————

【9】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

PAGE TOP