槇 有恒(まき ゆうこう)のこと

ヨーロッパアルプスを日本に紹介し、後に日本山岳会の会長にもなる槙 有恒は新潟県の氏族の家柄で東京都文京区で生まれたようです。

宮城県師範学校付属小学校、仙台第二中学校を経て、1911年(明治44年)、慶應義塾大学予科に入学します。1914年に前穂高岳と焼岳を登り、その時に偶然にも日本山岳会会長の小島鳥水と会っています。

ヨーロッパ帰りの慶應義塾大学教授の鹿子木員信とともに日本山岳会に入会し、翌1915年には鹿子木員信教授の勧めでクラスメイトとともに日本で初めて大学山岳会を結成することになります。

1916年には上條嘉門次の案内で槍ヶ岳、穂高岳、薬師岳を登っています。

1917年に慶應義塾大学法学部を卒業し、1918年(大正7年)、アメリカ・コロンビア大学に留学するものの大戦の影響で勉学もままならず、1919年にイギリスに渡りますが、ウェストンを訪ねてアドバイスを受けて、スイスに渡ることになります。

1920年にスイスのグリンデルヴァルトを拠点としてガイドにトレーニングを受けて本格的にスイスアルプスを登り出します。当時アイガーはイギリスのC.バリントンが南西面と西稜から初登頂に成功しており、その後南西稜、南尾根が踏破され、東山稜だけが未踏破となっていました。

そこで槇は東山稜に挑戦することを決め、1921年、熟練のフュレル(案内人)3人と困難と言われていたアイガーの東山稜(ミッテルレギ稜)の初登攀を成功させます。

ミッテルレギからのルートは途中1泊を要することからガイド教会は小屋を設置することになりますが、槙は登攀成功の記念にとして1万3千フランかかる所、1万フランを寄付します。現在このミッテルレギ小屋は新しい小屋に建て替えられていますが、槇が寄付した旧ミッテルレギ小屋は山麓に移設されており、現在も健在のようです。また。グリンデルヴァルトのモンベル支店には旧ミッテルレギ小屋の扉を展示しているそうです。

槙はスキーについても、早いうちから2本ストックによる滑走技術を習得しており、1923年に冬季の立山登山を目指しますが、パートナーの板倉勝宣が遭難死してしまう事故を起こしています。

海外登山では1925年カナダのアルバータ山の世界初登頂を果たしており、1926年(大正15年)には秩父宮雍仁親王の供奉で冬季スキーや、夏季マッターホルン、アルプスなどを登っています。

1944年(昭和19年)に日本山岳会会長に就任しますが、国策会社の南洋拓殖株式会社の拓殖事業に携わり、侵略に関与したとして戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から公職追放指定を受けています。

1956年(昭和31年)にはヒマラヤ山脈の未踏峰の一つであったマナスル遠征隊の隊長となり、同年5月9日、11日に登頂に成功しています。

仙台市名誉市民に推戴され、文化功労者、勲三等旭日中綬章を受章しています。

その後も立山観光顧問や英国山岳会(アルパインクラブ)、アメリカ山岳会、アパラチア山岳会、スイス山岳会の各名誉会員を務め、1989年(平成元年)5月2日に逝去しています。(敬称略)

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参考文献

「山行」槇 有恒  旺文社文庫

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