アイガー北壁の登攀史

先日、アイガー北壁の悲劇を主題とした2008年製作のドイツ映画「アイガー北壁」をTVで観ました。そこで、アイガー北壁の登攀史をちょっとまとめてみましたので、ご紹介です。

監督 : フィリップ・シュテルツェル 出演 : ベンノ・フュルマン, ヨハンナ・ヴォカレク, フロリアン・ルーカス, ウルリッヒ・トゥクール

アイガー北壁初登攀の競争は1934年のドイツ隊が2,900m付近から滑落死亡する事故から始まります。翌年の1935年にはやはりドイツ人2名が3,300m付近で膝まで雪に埋もれ、立ったまま凍死するという事故が起こっています。この場所は後に”死のバーク”と呼ばれるようになります。

ベルリンオリンピック前年の1936年、ナチスドイツはアイガー北壁を完登した者にオリンピックメダルを授与するというプロパガンダを打ち立てて挑戦を煽ります。

その年、映画になった悲劇はドイツ隊2名とオーストリア隊2名が同時に挑み、途中から合同パーティーとなって登頂を目指して起こります。先発していたドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツは”振り子トラバース”というルートを開拓し、前年死亡事故があった”死のビバーク”地点を越えた所まで登っていましたが、オーストリア隊の一人が負傷したため、置き去りにする事も出来ないと一緒に下山することになります。3人は動けなくなった1名を搬送しながら懸垂下降して下山していましたが、天候が悪化して雪崩により1名が即死、2人が滑落して宙吊り状態になってしまいます。そしてビレイしている者を助けるために意識のある1名は自らロープを切って2人は滑落してしまいます。生き残った1名は北壁に開けられた鉄道の坑道入口の”アイガーバンド”まで数メートルの所まで下降しますが、ロープが足りずに結んだロープの結び目がカラビナを通すことが出来ず力尽きてしまい、4人全員が死亡してしまうことになります。

その後も宙吊り事故で2年間遺体が放置されるという事故も発生していますが、アイガー北壁の完登は、1938年ドイツ隊とオーストリア隊の合同登攀で達成されることになります。

この時、完登を果たしたオーストリア隊のハインリッヒ・ハーラーはこの時の様子を「白い蜘蛛」に著しています。その後、ハーラーはヒマヤラ登山を目指すことになります。しかし、インドでイギリス軍の捕虜になり収容所に収容されてしまいます。しかし、収容所を脱走して苦難の果てにチベットに入ることになり、幼少のダライラマ14世との交流が始まります。この間の出来事が自伝「チベットの7年」として出版され、「セブンイヤーズインチベット」というブラッドピッド主演の映画になっています。

日本でのアイガー北壁登攀は1964年に芳野満彦と渡部恒明が挑戦しますが、失敗に終わり、翌年目標をマッターホルン北壁に変えて完登を果たします。これは新田次郎著の「栄光の岸壁」にも描かれています。

日本人で初めてノーマルルートを完登したのは1965年の高田光政になります。この時のザイルパートナーの渡部恒明は頂上まであと300mの所で怪我をして動けなくなってしまいます。高田は渡部を助けるためには渡部を残して頂上を目指し、一般ルートから下山して救助隊に助けを求めることだと判断し完登を果たします。しかし、救助隊が助けに向かったものの、ガスが晴れた時には滑落した渡部の遺体が壁の取り付きで発見されることになります。(このことは新田次郎著の「アイガー北壁」に実名で描かれています)

1969年には現モンベル会長の辰野勇が当時の最年少記録で二登を果たし、同年に加藤滝男、今井道子、加藤保男、根岸知、天野博文、久保進の6名が直登ルートでの完登を果たします。

木曽駒ヶ岳(2,956m) 中央アルプス

2020年10月2日(金)〜3日(土) テント泊


新宿駅7:00発のあずさ1号で岡谷駅下車、岡谷駅から駒ヶ根駅へ。

駒ヶ根駅バス停

飯田線駒ヶ根駅から駒ヶ岳ロープウェイ線でしらび平駅まで。

しらび平ロープウェイ駅

千畳敷ロープウェイは冬季でも営業していますが、昨年点検で支柱の変形が確認されてしばらく運休していましたが、6月6日に営業を再開しています。(編集者注)

千畳敷ロープウェイ駅

宝剣山荘
木曽駒ヶ岳頂上山荘
木曽駒ヶ岳頂上

木曽駒ヶ岳頂上山荘

テン場の夜

霜柱
高山病の人を救助するヘリコプター

千畳敷駅に無事下山。

しらび平駅、駒ヶ根駅、下諏訪駅、そして特急「あずさ」で新宿へ。               S44年卒 田中廣明


コースDATA

新宿駅 中央線下諏訪駅 飯田線駒ヶ根駅 (バス) 中央アルプス駒ヶ岳ロープウェイ線しらび平駅(1,662m) 千畳敷駅(2,612m) 八丁坂分岐 乗越浄土 宝剣山荘 宝剣岳 宝剣山荘 中岳 木曽駒ヶ岳頂上山荘 (テント場) 木曽駒ヶ岳  浄土乗越 八丁坂分岐 千畳敷駅 しらび平駅  駒ヶ根駅 下諏訪駅 新宿駅

ロープウェイ料金 大人往復2540円 バス料金 大人2100mm円

 

この時期スズメバチに注意

この時期、熊と同じように山で遭遇したくないのがスズメバチです。8月下旬には高尾山の6号路や4号路でもスズメバチの巣が出来て、撤去済みではあるものの通行注意情報が出ています。

スズメバチは秋に巣が最大になり、活動も活発になります。春に越冬から覚めた女王蜂は巣を作り始め、働き蜂を産み続けて巣を大きくしていきます。働き蜂は全て雌で、毒針を持っています。女王蜂候補として選ばれた雌にはロイヤルゼリーが与えられます。秋になると毒針を持たない雄が現れ、女王蜂候補と結婚飛行に出て後尾します。その後、女王蜂、雄蜂、働き蜂は寿命を終えます。唯一生き残るのは女王蜂候補だけで、巣から離れて暖かい朽ちた倒木の中などで越冬します。(ミツバチは働きバチも越冬します。)

さて、スズメバチの毒は強力で、アレルギー反応で死に至ることもあるので気をつけなくてはなりません。「蜂の一刺し」と言われますが、スズメバチの針は抜けない構造で、何度でも刺すことが出来き、また空中に噴射することも出来ます。散布された毒液は警戒ホルモンの働きがあり、他の蜂を興奮させ、呼び集めさせます。1匹で飛んでいる時は攻撃性はそれほど強くありませんが、巣を守ろうとする時には攻撃性が強く、巣に近づくことはとても危険です。10m以内に近づくと警戒行動をとり、接近者の周囲を飛び回りはじめます。また、刺されたり、毒液が発射されると仲間を集めてより興奮して攻撃してきます。スズメバチの巣は土中や木洞などに作ることが大半なので気づかないことも多いので、蜂の出入りなどに気を配ることが必要になります。

蜂の接近に驚いて声高に騒いだり、はたき落そうとしたりすると、却って蜂が興奮して危険度が増します。スズメバチは巣に近づいたり、睨み合ったりなどすると左右の大顎を噛み合わせて打ち鳴らし、「カチカチ」という警戒音を出し威嚇してくることもあります。これは最後の警告の段階であり、それでもその場から立ち去らないと、仲間の蜂を呼び寄せて集団で攻撃してくるのです。

香水には警報フェロモンと同じ物質が含まれているので、仲間を集めてしまうようです。また、黒い服は、幼虫やさなぎの捕食者として攻撃の標的と見間違いたり、ヒトを含む大型哺乳類の弱点となる黒色部分(眼や耳孔など)を狙って攻撃を仕掛けてくると考えられ、避けるべきと言われています。

スズメバチが1匹で飛び回っている場合は急に動いたり、むやみに手で振り払ったりしないようにして屈むようにしていれば飛んで行ってしまうことが多いですが、巣を見つけた場合は静かに体を低くして後ずさりして巣から離れる事が肝心なようです。

高山は「初雪」「初氷」

9月21日、富士吉田市の富士山課は富士山の山頂付近がうっすらと雪が積もっているのを確認し、「初雪化粧」宣言を出しました。去年の富士山の「初雪化粧」は10月23日で、今年は1カ月以上早い宣言となりました。この「初雪化粧」宣言は富士吉田市が独自に出しているもので、気象庁の甲府地方気象台が出している「初冠雪」の発表には至りませんでした。

22日には北アルプス乗鞍岳の畳平にある鶴ケ池周辺で初氷が観測されています。これは昨年より5日早く、過去10年間の平均観測日より7日早かったそうです。

富士山ではその後、27日夜に山頂付近の気温が零下まで下がり、雪が降ったとみられることから甲府地方気象台は28日に「初冠雪」を発表観測しました。平年より2日、昨年よりは24日早いということです。

紅葉は遅れ気味のようなので、山では秋と冬が一緒にやって来ているようです。

日本史上最大被害の熊事件

前号のメールマガジンで熊の目撃情報や人身事故が増えていることを取り上げましたが、1970年に起こった福岡大のワンダーフォーゲル部員を執拗に襲ったのも日本では北海道だけに生息する大型のヒグマでした。日本で過去最大の熊被害を出したのも三毛別に現れたヒグマ(羆)であり、「三毛別羆事件」と呼ばれています。

この事件を文春文庫から出版されている木村盛武著の「慟哭の谷」を元にまとめてみました。

事件は1915(大正4)年、北海道苦前郡苦前村三毛別の六線沢で起こりました。当時の北海道では開拓事業が進み、かなり奥地まで開拓者が入っていました。三毛別での開拓はまだ開墾初期の段階であり、暮らしは貧しいものでした。沢に沿った森に切り出した木を草や板で囲い、樹皮で屋根を葺き、入口はムシロを垂らしただけの掘建て小屋での生活でした。

事件が起こったのは牡丹雪から粉雪に変わり、そして積雪期に変わってゆく11月初旬であり、通常羆(ヒグマ)は冬眠に入っている時期でした。マタギの間では冬眠出来ないでいる熊や冬眠を妨げられてしまった熊は凶暴になると言われていたようです。

事件は深夜、軒先に吊るしたトウモロコシを狙って羆が唸り声を立てながら小屋の周りをうろついていたことから始まりました。その夜はそれだけで済みましたが、30センチくらいもある足跡が残されていたそうです。

11月20日に再び羆が現れたので、鉄砲を持つ2人のマタギを呼んで泊まり込みで待ち構えていた所、30日夜半に三度羆は現れます。鉄砲は当たりはしたものの仕留めるまでには至らず、足跡を追うも吹雪のために断念することになります。その日以降暫く羆は出なくなります。

12月9日、六線沢上流にある小屋で主人の留守を守っていた妻と預かり子が羆に襲われることになります。寄宿人が帰って来た時、座り込んで顔の下から吹き出した血が固まって死んでいる預かり子を発見します。壁は破壊され、窓枠に髪の毛がこびりついていたといいます。居るはずの当主の妻の姿は見当たりませんでした。30人におよぶ捜索隊が結成され、拐われたと思われる当主の妻と羆の捜索が開始されました。途中、馬の背丈よりも遥かに大きい羆と遭遇するものの、取り逃してしまいます。

懸命な捜索により森のトド松の根元から女の衣服の一部と脚と頭骨の一部とが見つかりました。女はほぼ羆に食われ、残りを貯蔵するために雪の中に埋めておいたのだろうということでした。捜索隊は遺体の一部を持ち帰ることになります。

12月10日、2人の通夜が営まれている席に例の羆が遺体(獲物)を取り戻すべく壁を崩して乱入して来ます。男たちは慌てて外に飛び出したり、便所や屋根裏に身を潜み難を避けられたのでした。しかし、羆はそれから20分も経たないうちに下流にある家を襲うことになります。

この家には前日の事件を受けて避難して来た臨月の妊婦を含む女子供合わせて10人(男は一人だけ)がいました。羆は突然小屋の壁を壊して侵入し、妊婦を含む4人が殺され、3人が重傷を負います。叫び声を聞きつけて駆けつけた村人は静まり返った家の中からは骨を噛み砕く音だけがしていたといます。臨月だった妊婦は上半身を食われ、腹は破られていましたが胎児は無傷のままで暫く動いてたものの死んでしまいます。

この2日間で妊婦や子供を含め6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3名が重症を負うことになったのです。

12月11日、270人もの大規模な討伐隊が組織され、軍隊を含め12日からの3日間で延600人、アイヌ犬10頭が投入されることになります。

捜索の中、検死のために来ていた医者は山中で発見された羆の糞の中から人骨、髪の毛、未消化の人肉が確認されていますが、羆を発見するこ出来ませんでした。犠牲者の遺体を餌におびき寄せる作戦も実行しましたが、羆は近くまでは来たものの気配を察知したのか逃げてしまいます。捜索が続けられる中も羆は村人不在な人家を荒らし回っていました。

12月13日夜になって、警備していた者が対岸の切り株の数が多い事に気づき、黒い塊になっていた羆を発見して軍隊の打ち手が発砲するものの、また仕留め損なってしまいます。

12月14日、単独で山に入っていた山本兵吉という熊打ち(生涯で300頭の熊を仕留めたという伝説のマタギ)により、やっと頂上付近で発見され心臓と頭に玉が命中し、仕留められたのです。

この羆は体重340kg、身の丈2.7m、年齢は推定7、8歳だったということです。

討ち取られた羆は橇で搬送されますが、今まで晴天が続いていたのに天候が悪化して猛吹雪になったということです。熊を殺すと天気が急変すると言われ、村人は「熊風」と呼んでいるようです。

討伐後、羆は解体解剖されましたが、腹からは六線沢で初めに襲われて食われてしまった女の葡萄色の脚絆の他、雨竜で食われた女の赤い肌着、旭川で食われた女の肉色の脚絆、天塩の飯場の女の物と思われる物も発見されたということです。

この事件は木村盛武によって再調査され、事件の50年後にあたる1964(昭和39)年に「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」として発表され、2015年にノンフィクション「慟哭の谷」として文春文庫から出版されています。戸川幸雄は「羆風」を書き下ろし、吉村昭は小説「羆嵐」を著しています。

シルバーウイークに人出が集中

2020年9月

紅葉にはまだ早いものの、涸沢や雷鳥沢(立山)のキャンプ場にはシルバーウイーク中、たくさんの人であふれていました。コロナ禍の影響で現在、山小屋は完全予約制になっていて収容人数も制限されているために、予約の必要ないテント泊が多くなっているようです。キャンプ人気も影響しているのかも知れません。

涸沢では連休中の土曜日は400張、日曜日は850張、月曜日は600張のテントが張られるほどの人出だったたそうです。朝のトイレや奥穂の登り、そして帰りのバスのロータリーは大渋滞になっていたということです。(涸沢ヒュッテの収容人数は130人で、10月11日まではは満室だそうです。)

写真はシルバーウィーク中に涸沢をピストンしたS44年卒の田中廣明氏によるものです。

横尾のキャンプ場

涸沢

涸沢のキャンプサイト

上高地バスロータリー

また、立山では雷鳥沢のテント場には1000張近くのテントが隙間もないほど建てられ、朝のトイレは1時間待ちだったそうです。コロナ禍の影響でソロテントが多くなっていることもテントの数や場所を圧迫しているようです。

メールマガジン9月号 / 2020

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会メールマガジン 2020/9/25

———————————————————

DWVのOBを山の話題で結ぶメールマガジン9月号の配信です。

———————————————————

△▲△▲△        も くじ  △▲△▲△

【1】 シルバーウイークに人出が集中

【2】アイガー北壁の登攀史

【3】日本史上最大被害の熊事件

【4】この時期、スズメバチに注意

【5】ライチョウ移設プロジェクトのその後

【6】富士山は「初雪化粧」

【7】行ってきました Now

【8】編集後記

【9】記事の募集とマガジンについて

————————————————————————————–

【1】シルバーウイークに人出が集中

紅葉にはまだ早いものの、涸沢や雷鳥沢(立山)のキャンプ場にはシルバーウイーク中、たくさんの人であふれていました。コロナ禍の影響で現在、山小屋は完全予約制になっていて収容人数も制限されているために、予約の必要ないテント泊が多くなっているようです。キャンプ人気も影響しているのかも知れません。

涸沢では連休中の土曜日は400張、日曜日は850張、月曜日は600張のテントが張られるほどの人出だったたそうです。朝のトイレや奥穂の登り、そして帰りのバスのロータリーは大渋滞になっていたということです。(涸沢ヒュッテの収容人数は130人で、10月11日まではは満室だそうです。)

また、立山では雷鳥沢のテント場には1000張近くのテントが隙間もないほど建てられ、朝のトイレは1時間待ちだったそうです。コロナ禍の影響でソロテントが多くなっていることもテントの数や場所を圧迫しているようです。

——————————————————————————————————————

【2】アイガー北壁の登攀史

先日、アイガー北壁の悲劇を主題とした2008年製作のドイツ映画「アイガー北壁」をTVで観ました。そこで、アイガー北壁の登攀史をちょっとまとめてみましたので、ご紹介です。

アイガー北壁初登攀の競争は1934年のドイツ隊が2900m付近から滑落死亡する事故から始まります。翌年の1935年にはやはりドイツ人2名が3300m付近で膝まで雪に埋もれ、立ったまま凍死するという事故が起こっています。この場所は後に”死のバーク”と呼ばれるようになります。

ベルリンオリンピック前年の1936年、ナチスドイツはアイガー北壁を完登した者にオリンピックメダルを授与するというプロパガンダを打ち立てて挑戦を煽ります。

その年、映画になった悲劇はドイツ隊2名とオーストリア隊2名が同時に挑み、途中から合同パーティーとなって登頂を目指して起こります。先発していたドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツは”振り子トラバース”というルートを開拓し、前年死亡事故があった”死のビバーク”地点を越えた所まで登っていましたが、オーストリア隊の一人が負傷したため、置き去りにする事も出来ないと一緒に下山することになります。3人は動けなくなった1名を搬送しながら懸垂下降して下山していましたが、天候が悪化して雪崩により1名が即死、2人が滑落して宙吊り状態になってしまいます。そしてビレイしている者を助けるために意識のある1名は自らロープを切って2人は滑落してしまいます。生き残った1名は北壁に開けられた鉄道の坑道入口の”アイガーバンド”まで数メートルの所まで下降しますが、ロープが足りずに結んだロープの結び目がカラビナを通すことが出来ず力尽きてしまい、4人全員が死亡してしまうことになります。

その後も宙吊り事故で2年間遺体が放置されるという事故も発生していますが、アイガー北壁の完登は、1938年ドイツ隊とオーストリア隊の合同登攀で達成されることになります。

この時、完登を果たしたオーストリア隊のハインリッヒ・ハーラーはこの時の様子を「白い蜘蛛」に著しています。その後、ハーラーはヒマヤラ登山を目指すことになります。しかし、インドでイギリス軍の捕虜になり収容所に収容されてしまいます。しかし、収容所を脱走して苦難の果てにチベットに入ることになり、幼少のダライラマ14世との交流が始まります。この間の出来事が自伝「チベットの7年」として出版され、「セブンイヤーズインチベット」というブラッドピッド主演の映画になっています。

日本でのアイガー北壁登攀は1964年に芳野満彦と渡部恒明が挑戦しますが、失敗に終わり、翌年目標をマッターホルン北壁に変えて完登を果たします。これは新田次郎著の「栄光の岸壁」にも描かれています。

日本人で初めてノーマルルートを完登したのは1965年の高田光政になります。この時のザイルパートナーの渡部恒明は頂上まであと300mの所で怪我をして動けなくなってしまいます。高田は渡部を助けるためには渡部を残して頂上を目指し、一般ルートから下山して救助隊に助けを求めることだと判断し完登を果たします。しかし、救助隊が助けに向かったものの、ガスが晴れた時には滑落した渡部の遺体が壁の取り付きで発見されることになります。(このことは新田次郎著の「アイガー北壁」に実名で描かれています)

1969年には現モンベル会長の辰野勇が当時の最年少記録で二登を果たし、同年に加藤滝男、今井道子、加藤保男、根岸知、天野博文、久保進の6名が直登ルートでの完登を果たします。

——————————————————————————————————————

【3】日本史上最大被害の熊事件

前号のメールマガジンで熊の目撃情報や人身事故が増えていることを取り上げましたが、1970年に起こった福岡大のワンダーフォーゲル部員を執拗に襲ったのも北海道だけに生息する大型のヒグマでした。日本で過去最大の熊被害を出したのも三毛別に現れたヒグマ(羆)であり、「三毛別羆事件」と呼ばれています。

事件は1915(大正4)年、北海道苦前郡苦前村三毛別の六線沢で起こりました。当時の北海道では開拓事業が進み、かなり奥地まで開拓者が入っていました。三毛別での開拓はまだ開墾初期の段階であり、暮らしは貧しいものでした。沢に沿った森に切り出した木を草や板で囲い、樹皮で屋根を葺き、入口はムシロを垂らしただけの掘建て小屋での生活でした。

事件が起こったのは牡丹雪から粉雪に変わり、そして積雪期に変わってゆく11月初旬であり、通常羆(ヒグマ)は冬眠に入っている時期でした。マタギの間では冬眠出来ないでいる熊や冬眠を妨げられてしまった熊は凶暴になると言われていたようです。

事件は深夜、軒先に吊るしたトウモロコシを狙って羆が唸り声を立てながら小屋の周りをうろついていたことから始まりました。その夜はそれだけで済みましたが、30センチくらいもある足跡が残されていたそうです。

11月20日に再び羆が現れたので、鉄砲を持つ2人のマタギを呼んで泊まり込みで待ち構えていた所、30日夜半に三度羆は現れます。鉄砲は当たりはしたものの仕留めるまでには至らず、足跡を追うも吹雪のために断念することになります。その日以降暫く羆は出なくなります。

12月9日、六線沢上流にある小屋で主人の留守を守っていた妻と預かり子が羆に襲われることになります。寄宿人が帰って来た時、座り込んで顔の下から吹き出した血が固まって死んでいる預かり子を発見します。壁は破壊され、窓枠に髪の毛がこびりついていたといいます。居るはずの当主の妻の姿は見当たりませんでした。30人におよぶ捜索隊が結成され、拐われたと思われる当主の妻と羆の捜索が開始されました。途中、馬の背丈よりも遥かに大きい羆と遭遇するものの、取り逃してしまいます。

懸命な捜索により森のトド松の根元から女の衣服の一部と脚と頭骨の一部とが見つかりました。女はほぼ羆に食われ、残りを貯蔵するために雪の中に埋めておいたのだろうということでした。捜索隊は遺体の一部を持ち帰ることになります。

12月10日、2人の通夜が営まれている席に例の羆が遺体(獲物)を取り戻すべく壁を崩して乱入して来ます。男たちは慌てて外に飛び出したり、便所や屋根裏に身を潜み難を避けられたのでした。しかし、羆はそれから20分も経たないうちに下流にある家を襲うことになります。

この家には前日の事件を受けて避難して来た臨月の妊婦を含む女子供合わせて10人(男は一人だけ)がいました。羆は突然小屋の壁を壊して侵入し、妊婦を含む4人が殺され、3人が重傷を負います。叫び声を聞きつけて駆けつけた村人は静まり返った家の中からは骨を噛み砕く音だけがしていたといます。臨月だった妊婦は上半身を食われ、腹は破られていましたが胎児は無傷のままで暫く動いてたものの死んでしまいます。

この2日間で妊婦や子供を含め6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3名が重症を負うことになったのです。

12月11日、270人もの大規模な討伐隊が組織され、軍隊を含め12日からの3日間で延600人、アイヌ犬10頭が投入されることになります。

捜索の中、検死のために来ていた医者は山中で発見された羆の糞の中から人骨、髪の毛、未消化の人肉が確認されていますが、羆を発見するこ出来ませんでした。犠牲者の遺体を餌におびき寄せる作戦も実行しましたが、羆は近くまでは来たものの気配を察知したのか逃げてしまいます。捜索が続けられる中も羆は村人不在な人家を荒らし回っていました。

12月13日夜になって、警備していた者が対岸の切り株の数が多い事に気づき、黒い塊になっていた羆を発見して軍隊の打ち手が発砲するものの、また仕留め損なってしまいます。

12月14日、単独で山に入っていた山本兵吉という熊打ち(生涯で300頭の熊を仕留めたという伝説のマタギ)により、やっと頂上付近で発見され心臓と頭に玉が命中し、仕留められたのです。

この羆は体重340kg、身の丈2.7m、年齢は推定7、8歳だったということです。

討ち取られた羆は橇で搬送されますが、今まで晴天が続いていたのに天候が悪化して猛吹雪になったということです。熊を殺すと天気が急変すると言われ、村人は「熊風」と呼んでいるようです。

討伐後、羆は解体解剖されましたが、腹からは六線沢で初めに襲われて食われてしまった女の葡萄色の脚絆の他、雨竜で食われた女の赤い肌着、旭川で食われた女の肉色の脚絆、天塩の飯場の女の物と思われる物も発見されたということです。

この事件は木村盛武によって再調査され、事件の50年後にあたる1964(昭和39)年に「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」として発表され、2015年にノンフィクション「慟哭の谷」として文春文庫から出版されています。戸川幸雄は「羆風」を書き下ろし、吉村昭は小説「羆嵐」を著しています。

——————————————————————————————————————

【4】この時期、スズメバチに注意

この時期、熊と同じように山で遭遇したくないのがスズメバチです。8月下旬には高尾山の6号路や4号路でもスズメバチの巣が出来て、撤去済みではあるものの通行注意情報が出ています。

スズメバチは秋に巣が最大になり、活動も活発になります。春に越冬から覚めた女王蜂は巣を作り始め、働き蜂を産み続けて巣を大きくしていきます。働き蜂は全て雌で、毒針を持っています。女王蜂候補として選ばれた雌にはロイヤルゼリーが与えられます。秋になると毒針を持たない雄が現れ、女王蜂候補と結婚飛行に出て後尾します。その後、女王蜂、雄蜂、働き蜂は寿命を終えます。唯一生き残るのは女王蜂候補だけで、巣から離れて暖かい朽ちた倒木などで越冬します。(ミツバチは働き蜂も越冬します。)

さて、スズメバチの毒は強力で、アレルギー反応で死に至ることもあるので気をつけなくてはなりません。「蜂の一刺し」と言われますが、スズメバチの針は抜けない構造で、何度でも刺すことが出来き、また空中に噴射することも出来ます。散布された毒液は警戒ホルモンの働きがあり、他の蜂を興奮させ、呼び集めさせます。1匹で飛んでいる時は攻撃性はそれほど強くありませんが、巣を守ろうとする時には攻撃性が強く、巣に近づくことはとても危険です。10m以内に近づくと警戒行動をとり、接近者の周囲を飛び回りはじめます。また、刺されたり、毒液が発射されると仲間を集めてより興奮して攻撃してきます。スズメバチの巣は土中や木洞などに作ることが大半なので気づかないことも多いので、蜂の出入りなどに気を配ることが必要になります。

蜂の接近に驚いて声高に騒いだり、はたき落そうとしたりすると、却って蜂が興奮して危険度が増します。スズメバチは巣に近づいたり、睨み合ったりなどすると左右の大顎を噛み合わせて打ち鳴らし、「カチカチ」という警戒音を出し威嚇してくることもあります。これは最後の警告の段階であり、それでもその場から立ち去らないと、仲間の蜂を呼び寄せて集団で攻撃してくるのです。

香水には警報フェロモンと同じ物質が含まれているので、仲間を集めてしまうようです。また、黒い服は、幼虫やさなぎの捕食者として攻撃の標的と見間違いたり、ヒトを含む大型哺乳類の弱点となる黒色部分(眼や耳孔など)を狙って攻撃を仕掛けてくると考えられ、避けるべきと言われています。

スズメバチが1匹で飛び回っている場合は急に動いたり、むやみに手で振り払ったりしないようにして屈むようにしていれば飛んで行ってしまうことが多いですが、巣を見つけた場合は静かに体を低くして後ずさりして巣から離れる事が肝心なようです。

——————————————————————————————————————

【5】ライチョウ移設プロジェクトのその後

木曽駒ヶ岳に2年前に飛来してきた雌のライチョウと8月に乗鞍岳で捕獲され木曽駒ヶ岳に移された3家族の全てのライチョウの生存が確認できたということです。

飛来した雌のライチョウは成鳥1羽とヒナ6羽のグループと一緒に活動しており、成鳥1羽とヒナ4羽のグループは木曽駒ヶ岳に留まり、伊那前岳周辺では残りの1家族7羽が生息していることが確認されています。10月にはヒナは親離れするので、それまで観察は続けられるということです。このまま、定着してくれるといいですね。

——————————————————————————————————————

【6】富士山は「初雪化粧」

9月21日、富士吉田市の富士山課は富士山の山頂付近がうっすらと雪が積もっているのを確認し、「初雪化粧」宣言を出しました。去年の富士山の「初雪化粧」は10月23日で、今年は1カ月以上早い宣言となりました。

なお、「初雪化粧」宣言は富士吉田市が独自に出しているもので、気象庁が出している「初冠雪」とは異なるものです。甲府地方気象台による「初冠雪」の発表には至りませんでした。

22日には北アルプス乗鞍岳の畳平にある鶴ケ池周辺で初氷が観測されています。これは昨年より5日早く、過去10年間の平均観測日より7日早かったそうです。

高山ではすでに季節は秋に変わって来ているようです。

————————————————————————————–

【7】行ってきました Now

10月の過去ログから

景信山(2016年)   苗場山(2016年)   安達太良山(2016年)   三本槍岳(2017年)   本仁田山(2017年)   蓼科山( 2017年)   西吾妻山(2018年)   女峰山(2019年)   茶臼岳(2019年)

——————————————————————————————————————

【8】編集後記

シルバーウィークでは各地で沢山の人出かあったようですが、秋の観光シーズンを控えて10月1日からは東京都も「GO TO TRAVEL」が適用されるようになります。ワイドショーでは「旅行費用が半額になる」とか「タダになる所もある」とか盛んに煽っています。これから東京発着の観光も一気に増えるでしょう。

「GO TO EAT」も始まると外食などにも人が押し寄せるようになりそうです。コロナのせいで落ち込んでいた気分や経済が一気に動いて来ているようですが、コロナ予防に対して油断なく意識をしていくことが必要でしょう。新型コロナの感染症は症状が出ないことも多いようなので、感染を拡大させないように各自予防に心がけながら、楽しみを広げられたらいいと思います。

——————————————————————————————————————

【9】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

ライチョウ移設プロジェクトのその後

木曽駒ヶ岳に2年前に飛来してきた雌のライチョウと8月に乗鞍岳で捕獲され木曽駒ヶ岳に移された3家族の全てのライチョウの生存が確認できたということです。

飛来した雌のライチョウは成鳥1羽とヒナ6羽のグループと一緒に活動しており、成鳥1羽とヒナ4羽のグループは木曽駒ヶ岳に留まり、伊那前岳周辺では残りの1家族7羽が生息していることが確認されています。10月にはヒナは親離れするので、それまで観察は続けられるということです。このまま、定着してくれるといいですね。

メールマガジン8月号 / 2020

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会メールマガジン 2020/8/29

———————————————————

DWVのOBを山の話題で結ぶメールマガジン8月号の配信です。

———————————————————

△▲△▲△        も くじ  △▲△▲△

【1】 熊との遭遇が増えています

【2】山小屋エイド基金

【3】米カリフォルニア州の山火事

【4】下山中の遭難事故が多発

【5】「石丸謙二郎の山カフェ」

【6】剱岳チンネの白骨死体

【7】行ってきました Now

【8】編集後記

【9】記事の募集とマガジンについて

————————————————————————————–

【1】熊との遭遇が増えています

この夏、温暖化や長雨で熊の食料となる動植物が少なかったことに加えて、コロナ禍により野良や里山と奥山の境界が判然としなくなっことも合間ってか、今まで来なかったところまで熊が下りて来ているようで、各地で目撃情報や遭遇により怪我を負うような事故が多くなっています。今年は日高山系で起きた福岡大学ワンダーフォーゲル同好会のヒグマによる執拗な襲撃により3人が殺された衝撃的な事件から50年になるそうです。(事件の様子はこちらか)

8月9日午前0時ごろ、上高地の小梨平キャンプ場では、テント泊をしていた50代女性が、食料をあさりに来たとみられるツキノワグマ1頭に襲われ、右脚を10針ほど縫う怪我を負いました。

周辺では7月下旬から熊が目撃されており、環境省中部山岳国立公園管理事務所がわなを設置し、8月4日に1頭が捕獲され、奥山放獣するなどして警戒を強めていたところだったそうです。前日にも複数のテントが荒らされていたということです。

熊は体重80キロ程度の雄の成獣とみられ、1人用テントを20メートルも引きずり、内にいた女性は外から貫いた熊の爪で脚に怪我を負い、トイレに逃げ込んだということです。テントの中にあったレトルトカレーは完食されていたとのことです。襲った熊は13日に捕獲されましたが、キャンプ場は引き続き閉鎖されているようです。

熊はこれから冬眠に備えて食料確保のために活動が活発になることから、人間と遭遇する機会も増えてくることが予想されます。テント泊や行動中の熊除けに気をつけなくてはならないようです。

—————————————————————————————————————

【2】山小屋エイド基金

山小屋エイド基金は登山の自粛が続く中、宿泊場所、登山道の保守、避難場所としてお世話になっている山小屋を応援するため「山と溪谷社」が立ち上げた募金のプロジェクトです。

募金は8月13日に締め切られましたが、活動には9,442人が応募し、96,871,982円の支援金が集まったということです。寄せられた支援金は、リターン制作費、手数料など(約10%)を差し引いた金額を分配先となっている山小屋に均等に分配するということで、参加登録されている100軒の山小屋に約80万円ほどが分配されるということです。

——————————————————————————————————————

【3】米カリフォルニア州の山火事

アメリカやオーストラリアなどの乾燥地帯では毎年のように大規模な山火事が発生していますが、現在アメリカ西部カリフォルニア州で起きている山火事は、焼失面積が記録的な規模に拡大し、死者も7人に上っているようです。(現況は少し違っているかも知れません。)

落雷が原因と見られますが、現在も600を超える山火事が発生していて、これまでに東京都の2.5倍にあたる5,600平方キロメートルが燃えたということで、州全域に非常事態が宣言され対応にあたっているということです。

S46年卒の笠原氏はカリフォルニア州のアーバイン(デズニーランドや大谷の所属するエンジェルスの本拠地のアナハイムの近く)に居住しているのでメールで聞いたところ、山火事の影響はないものの、コロナの影響が残っているとのことでした。

——————————————————————————————————————

【4】下山中の遭難事故が多発

長野県警ではこの夏の登山におては比較的危険性の少ない場所で起きた転倒・滑落事故が多いことを指摘し、集中力を高めて油断のない行動をするよう促しています。

事故の多くは、疲労がたまりやすい下山中に発生しており、転倒・滑落の多くが、ハシゴや鎖が設置されている「危険箇所」よりも、比較的危険性の少ない登山道上で発生しているとのことです。これは視覚的に危険性が明らかな場所では、自然と緊張感が増して、慎重な行動を心掛ける一方、一見すると危険性が見えない登山道では、つい油断をしてしまうことからのようです。また、この季節は厳しい暑さによる脱水や疲労により、注意力が散漫になってしまったりすることなども挙げています。

8月の第3週だけでも、槍ヶ岳の槍沢、蝶ヶ岳の槍見台、白馬岳の大雪渓、八ヶ岳の夏沢峠、奥穂高岳のザイテングラート、上田市太郎山の裏参道、雨飾山の笹平付近、中央アルプス将棊頭山の桂小場、甲斐駒ヶ岳から北沢峠への登山道、南アルプス鋸岳の山頂付近、後立山唐松岳の扇雪渓で、それぞれ下山中の転倒、滑落、疲労事故が発生しています。

疲れやちょっとした気の緩み、油断がレスキューを呼ぶ事故に直結するので気を引き締めて望まなければならないようです。

——————————————————————————————————————

【5】「石丸謙二郎の山カフェ」

NHKラジオ第1では毎週土曜日の8時05分から9時55分まで、山好きの石丸謙二郎さんと局アナの山本志保さんがMCを務めるの「石丸謙二郎山カフェ」という番組を放送しています。

“ 朝日に輝く山々を眺めながら、COFFEEを片手にほっとひと息…。すがすがしい空気とともに、山のトピックや山を愛する人たちとの語らいをお届けする「カフェ」” が番組のコンセプトになっています。

8月29日は「山の滝を探して」をテーマに放送されました。1週間は「聴き逃し」番組としてネットで聴くことができるので、一度聞いてみて下さい。

「山の滝を探して」前半

https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=4750_01_1523168

「山の滝を探して」後半

https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=4750_01_1523171

NHKラジオインターネットアプリ 「らじる⭐︎らじる」のダウンロードはこちらから

https://ja.popsilla.com/app/nhk-radio/download/?gclid=Cj0KCQjw1qL6BRCmARIsADV9JtaYNX7FQHu1lpap1CprMKaSeWOUgdRnA42S6qonUd79ToHbTYqgIQEaAnq1EALw_wcB

——————————————————————————————————————

【6】剱岳チンネの白骨死体

8月27日、剱岳を登山中に行方不明になっていた単独行の男性を捜索していましたが、チンネ付近で富山県消防防災ヘリが岩場で横になっている男性を発見し、収容されjましたが、残念ながら死亡が確認されました。外傷があ流ことから、滑落したものと判断されました。

また、この収容中、現場から50mほど下で、ほぼ全身分の白骨化した遺体が発見されました。警察が身元や死因など捜査しているということです。剱岳では2016年にも富山県警山岳救助隊が訓練中、偶然に一部白骨化した死体が発見され、1年前に行方不明になっていた人であることが確認されています。

————————————————————————————–

【7】行ってきました Now

高尾山  いろはの森(8月3日)

燕岳(8月6日〜7日)

8月の過去ログから

会津駒ケ岳   唐松岳   岩木山   八甲田山   白馬岳   立山

9月の過去ログから

雨飾山  御嶽山  雁ヶ腹摺山

——————————————————————————————————————

【8】編集後記

コロナ禍の中、皆さんお元気でお過ごしでしょうか。感染のピークは過ぎたということですが、タレントやアスリートなど広い範囲で感染が広がって来ているようで心配しています。

8月も終わりですが、まだまだ暑い日が続いており、熱中症にも気をつけなくてはなりません。

熱中症と新型コロナの症状とは共通するものが多いということです。全身倦怠感、頭痛、吐き気や食欲がないといった消化器症状、筋肉痛、関節痛、発熱などは新型コロナの中等症の症状でもあり、熱中症の症状でもあるということです。

新型コロナに特徴的だと話題の味覚異常も、熱中症でも起こるそうです。また、街中や登山中などで倒れるなどした人と遭遇した場合、一般の人でも熱中症なのか脳梗塞なのかを判断しなければならない状況に立たされることもあるかも知れません。2018年にHPに掲載した「熱中症と脳梗塞の見分け方と対処の仕方」の記事はこちらから。

皆さん、コロナが潜む日常に負けないでいきましょう。 打矢さんからの「残暑お見舞い」

——————————————————————————————————————

【9】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

PAGE TOP