メールマガジン9月号 / 2020

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会メールマガジン 2020/9/25

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DWVのOBを山の話題で結ぶメールマガジン9月号の配信です。

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【1】 シルバーウイークに人出が集中

【2】アイガー北壁の登攀史

【3】日本史上最大被害の熊事件

【4】この時期、スズメバチに注意

【5】ライチョウ移設プロジェクトのその後

【6】富士山は「初雪化粧」

【7】行ってきました Now

【8】編集後記

【9】記事の募集とマガジンについて

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【1】シルバーウイークに人出が集中

紅葉にはまだ早いものの、涸沢や雷鳥沢(立山)のキャンプ場にはシルバーウイーク中、たくさんの人であふれていました。コロナ禍の影響で現在、山小屋は完全予約制になっていて収容人数も制限されているために、予約の必要ないテント泊が多くなっているようです。キャンプ人気も影響しているのかも知れません。

涸沢では連休中の土曜日は400張、日曜日は850張、月曜日は600張のテントが張られるほどの人出だったたそうです。朝のトイレや奥穂の登り、そして帰りのバスのロータリーは大渋滞になっていたということです。(涸沢ヒュッテの収容人数は130人で、10月11日まではは満室だそうです。)

また、立山では雷鳥沢のテント場には1000張近くのテントが隙間もないほど建てられ、朝のトイレは1時間待ちだったそうです。コロナ禍の影響でソロテントが多くなっていることもテントの数や場所を圧迫しているようです。

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【2】アイガー北壁の登攀史

先日、アイガー北壁の悲劇を主題とした2008年製作のドイツ映画「アイガー北壁」をTVで観ました。そこで、アイガー北壁の登攀史をちょっとまとめてみましたので、ご紹介です。

アイガー北壁初登攀の競争は1934年のドイツ隊が2900m付近から滑落死亡する事故から始まります。翌年の1935年にはやはりドイツ人2名が3300m付近で膝まで雪に埋もれ、立ったまま凍死するという事故が起こっています。この場所は後に”死のバーク”と呼ばれるようになります。

ベルリンオリンピック前年の1936年、ナチスドイツはアイガー北壁を完登した者にオリンピックメダルを授与するというプロパガンダを打ち立てて挑戦を煽ります。

その年、映画になった悲劇はドイツ隊2名とオーストリア隊2名が同時に挑み、途中から合同パーティーとなって登頂を目指して起こります。先発していたドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツは”振り子トラバース”というルートを開拓し、前年死亡事故があった”死のビバーク”地点を越えた所まで登っていましたが、オーストリア隊の一人が負傷したため、置き去りにする事も出来ないと一緒に下山することになります。3人は動けなくなった1名を搬送しながら懸垂下降して下山していましたが、天候が悪化して雪崩により1名が即死、2人が滑落して宙吊り状態になってしまいます。そしてビレイしている者を助けるために意識のある1名は自らロープを切って2人は滑落してしまいます。生き残った1名は北壁に開けられた鉄道の坑道入口の”アイガーバンド”まで数メートルの所まで下降しますが、ロープが足りずに結んだロープの結び目がカラビナを通すことが出来ず力尽きてしまい、4人全員が死亡してしまうことになります。

その後も宙吊り事故で2年間遺体が放置されるという事故も発生していますが、アイガー北壁の完登は、1938年ドイツ隊とオーストリア隊の合同登攀で達成されることになります。

この時、完登を果たしたオーストリア隊のハインリッヒ・ハーラーはこの時の様子を「白い蜘蛛」に著しています。その後、ハーラーはヒマヤラ登山を目指すことになります。しかし、インドでイギリス軍の捕虜になり収容所に収容されてしまいます。しかし、収容所を脱走して苦難の果てにチベットに入ることになり、幼少のダライラマ14世との交流が始まります。この間の出来事が自伝「チベットの7年」として出版され、「セブンイヤーズインチベット」というブラッドピッド主演の映画になっています。

日本でのアイガー北壁登攀は1964年に芳野満彦と渡部恒明が挑戦しますが、失敗に終わり、翌年目標をマッターホルン北壁に変えて完登を果たします。これは新田次郎著の「栄光の岸壁」にも描かれています。

日本人で初めてノーマルルートを完登したのは1965年の高田光政になります。この時のザイルパートナーの渡部恒明は頂上まであと300mの所で怪我をして動けなくなってしまいます。高田は渡部を助けるためには渡部を残して頂上を目指し、一般ルートから下山して救助隊に助けを求めることだと判断し完登を果たします。しかし、救助隊が助けに向かったものの、ガスが晴れた時には滑落した渡部の遺体が壁の取り付きで発見されることになります。(このことは新田次郎著の「アイガー北壁」に実名で描かれています)

1969年には現モンベル会長の辰野勇が当時の最年少記録で二登を果たし、同年に加藤滝男、今井道子、加藤保男、根岸知、天野博文、久保進の6名が直登ルートでの完登を果たします。

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【3】日本史上最大被害の熊事件

前号のメールマガジンで熊の目撃情報や人身事故が増えていることを取り上げましたが、1970年に起こった福岡大のワンダーフォーゲル部員を執拗に襲ったのも北海道だけに生息する大型のヒグマでした。日本で過去最大の熊被害を出したのも三毛別に現れたヒグマ(羆)であり、「三毛別羆事件」と呼ばれています。

事件は1915(大正4)年、北海道苦前郡苦前村三毛別の六線沢で起こりました。当時の北海道では開拓事業が進み、かなり奥地まで開拓者が入っていました。三毛別での開拓はまだ開墾初期の段階であり、暮らしは貧しいものでした。沢に沿った森に切り出した木を草や板で囲い、樹皮で屋根を葺き、入口はムシロを垂らしただけの掘建て小屋での生活でした。

事件が起こったのは牡丹雪から粉雪に変わり、そして積雪期に変わってゆく11月初旬であり、通常羆(ヒグマ)は冬眠に入っている時期でした。マタギの間では冬眠出来ないでいる熊や冬眠を妨げられてしまった熊は凶暴になると言われていたようです。

事件は深夜、軒先に吊るしたトウモロコシを狙って羆が唸り声を立てながら小屋の周りをうろついていたことから始まりました。その夜はそれだけで済みましたが、30センチくらいもある足跡が残されていたそうです。

11月20日に再び羆が現れたので、鉄砲を持つ2人のマタギを呼んで泊まり込みで待ち構えていた所、30日夜半に三度羆は現れます。鉄砲は当たりはしたものの仕留めるまでには至らず、足跡を追うも吹雪のために断念することになります。その日以降暫く羆は出なくなります。

12月9日、六線沢上流にある小屋で主人の留守を守っていた妻と預かり子が羆に襲われることになります。寄宿人が帰って来た時、座り込んで顔の下から吹き出した血が固まって死んでいる預かり子を発見します。壁は破壊され、窓枠に髪の毛がこびりついていたといいます。居るはずの当主の妻の姿は見当たりませんでした。30人におよぶ捜索隊が結成され、拐われたと思われる当主の妻と羆の捜索が開始されました。途中、馬の背丈よりも遥かに大きい羆と遭遇するものの、取り逃してしまいます。

懸命な捜索により森のトド松の根元から女の衣服の一部と脚と頭骨の一部とが見つかりました。女はほぼ羆に食われ、残りを貯蔵するために雪の中に埋めておいたのだろうということでした。捜索隊は遺体の一部を持ち帰ることになります。

12月10日、2人の通夜が営まれている席に例の羆が遺体(獲物)を取り戻すべく壁を崩して乱入して来ます。男たちは慌てて外に飛び出したり、便所や屋根裏に身を潜み難を避けられたのでした。しかし、羆はそれから20分も経たないうちに下流にある家を襲うことになります。

この家には前日の事件を受けて避難して来た臨月の妊婦を含む女子供合わせて10人(男は一人だけ)がいました。羆は突然小屋の壁を壊して侵入し、妊婦を含む4人が殺され、3人が重傷を負います。叫び声を聞きつけて駆けつけた村人は静まり返った家の中からは骨を噛み砕く音だけがしていたといます。臨月だった妊婦は上半身を食われ、腹は破られていましたが胎児は無傷のままで暫く動いてたものの死んでしまいます。

この2日間で妊婦や子供を含め6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3名が重症を負うことになったのです。

12月11日、270人もの大規模な討伐隊が組織され、軍隊を含め12日からの3日間で延600人、アイヌ犬10頭が投入されることになります。

捜索の中、検死のために来ていた医者は山中で発見された羆の糞の中から人骨、髪の毛、未消化の人肉が確認されていますが、羆を発見するこ出来ませんでした。犠牲者の遺体を餌におびき寄せる作戦も実行しましたが、羆は近くまでは来たものの気配を察知したのか逃げてしまいます。捜索が続けられる中も羆は村人不在な人家を荒らし回っていました。

12月13日夜になって、警備していた者が対岸の切り株の数が多い事に気づき、黒い塊になっていた羆を発見して軍隊の打ち手が発砲するものの、また仕留め損なってしまいます。

12月14日、単独で山に入っていた山本兵吉という熊打ち(生涯で300頭の熊を仕留めたという伝説のマタギ)により、やっと頂上付近で発見され心臓と頭に玉が命中し、仕留められたのです。

この羆は体重340kg、身の丈2.7m、年齢は推定7、8歳だったということです。

討ち取られた羆は橇で搬送されますが、今まで晴天が続いていたのに天候が悪化して猛吹雪になったということです。熊を殺すと天気が急変すると言われ、村人は「熊風」と呼んでいるようです。

討伐後、羆は解体解剖されましたが、腹からは六線沢で初めに襲われて食われてしまった女の葡萄色の脚絆の他、雨竜で食われた女の赤い肌着、旭川で食われた女の肉色の脚絆、天塩の飯場の女の物と思われる物も発見されたということです。

この事件は木村盛武によって再調査され、事件の50年後にあたる1964(昭和39)年に「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」として発表され、2015年にノンフィクション「慟哭の谷」として文春文庫から出版されています。戸川幸雄は「羆風」を書き下ろし、吉村昭は小説「羆嵐」を著しています。

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【4】この時期、スズメバチに注意

この時期、熊と同じように山で遭遇したくないのがスズメバチです。8月下旬には高尾山の6号路や4号路でもスズメバチの巣が出来て、撤去済みではあるものの通行注意情報が出ています。

スズメバチは秋に巣が最大になり、活動も活発になります。春に越冬から覚めた女王蜂は巣を作り始め、働き蜂を産み続けて巣を大きくしていきます。働き蜂は全て雌で、毒針を持っています。女王蜂候補として選ばれた雌にはロイヤルゼリーが与えられます。秋になると毒針を持たない雄が現れ、女王蜂候補と結婚飛行に出て後尾します。その後、女王蜂、雄蜂、働き蜂は寿命を終えます。唯一生き残るのは女王蜂候補だけで、巣から離れて暖かい朽ちた倒木などで越冬します。(ミツバチは働き蜂も越冬します。)

さて、スズメバチの毒は強力で、アレルギー反応で死に至ることもあるので気をつけなくてはなりません。「蜂の一刺し」と言われますが、スズメバチの針は抜けない構造で、何度でも刺すことが出来き、また空中に噴射することも出来ます。散布された毒液は警戒ホルモンの働きがあり、他の蜂を興奮させ、呼び集めさせます。1匹で飛んでいる時は攻撃性はそれほど強くありませんが、巣を守ろうとする時には攻撃性が強く、巣に近づくことはとても危険です。10m以内に近づくと警戒行動をとり、接近者の周囲を飛び回りはじめます。また、刺されたり、毒液が発射されると仲間を集めてより興奮して攻撃してきます。スズメバチの巣は土中や木洞などに作ることが大半なので気づかないことも多いので、蜂の出入りなどに気を配ることが必要になります。

蜂の接近に驚いて声高に騒いだり、はたき落そうとしたりすると、却って蜂が興奮して危険度が増します。スズメバチは巣に近づいたり、睨み合ったりなどすると左右の大顎を噛み合わせて打ち鳴らし、「カチカチ」という警戒音を出し威嚇してくることもあります。これは最後の警告の段階であり、それでもその場から立ち去らないと、仲間の蜂を呼び寄せて集団で攻撃してくるのです。

香水には警報フェロモンと同じ物質が含まれているので、仲間を集めてしまうようです。また、黒い服は、幼虫やさなぎの捕食者として攻撃の標的と見間違いたり、ヒトを含む大型哺乳類の弱点となる黒色部分(眼や耳孔など)を狙って攻撃を仕掛けてくると考えられ、避けるべきと言われています。

スズメバチが1匹で飛び回っている場合は急に動いたり、むやみに手で振り払ったりしないようにして屈むようにしていれば飛んで行ってしまうことが多いですが、巣を見つけた場合は静かに体を低くして後ずさりして巣から離れる事が肝心なようです。

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【5】ライチョウ移設プロジェクトのその後

木曽駒ヶ岳に2年前に飛来してきた雌のライチョウと8月に乗鞍岳で捕獲され木曽駒ヶ岳に移された3家族の全てのライチョウの生存が確認できたということです。

飛来した雌のライチョウは成鳥1羽とヒナ6羽のグループと一緒に活動しており、成鳥1羽とヒナ4羽のグループは木曽駒ヶ岳に留まり、伊那前岳周辺では残りの1家族7羽が生息していることが確認されています。10月にはヒナは親離れするので、それまで観察は続けられるということです。このまま、定着してくれるといいですね。

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【6】富士山は「初雪化粧」

9月21日、富士吉田市の富士山課は富士山の山頂付近がうっすらと雪が積もっているのを確認し、「初雪化粧」宣言を出しました。去年の富士山の「初雪化粧」は10月23日で、今年は1カ月以上早い宣言となりました。

なお、「初雪化粧」宣言は富士吉田市が独自に出しているもので、気象庁が出している「初冠雪」とは異なるものです。甲府地方気象台による「初冠雪」の発表には至りませんでした。

22日には北アルプス乗鞍岳の畳平にある鶴ケ池周辺で初氷が観測されています。これは昨年より5日早く、過去10年間の平均観測日より7日早かったそうです。

高山ではすでに季節は秋に変わって来ているようです。

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【7】行ってきました Now

10月の過去ログから

景信山(2016年)   苗場山(2016年)   安達太良山(2016年)   三本槍岳(2017年)   本仁田山(2017年)   蓼科山( 2017年)   西吾妻山(2018年)   女峰山(2019年)   茶臼岳(2019年)

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【8】編集後記

シルバーウィークでは各地で沢山の人出かあったようですが、秋の観光シーズンを控えて10月1日からは東京都も「GO TO TRAVEL」が適用されるようになります。ワイドショーでは「旅行費用が半額になる」とか「タダになる所もある」とか盛んに煽っています。これから東京発着の観光も一気に増えるでしょう。

「GO TO EAT」も始まると外食などにも人が押し寄せるようになりそうです。コロナのせいで落ち込んでいた気分や経済が一気に動いて来ているようですが、コロナ予防に対して油断なく意識をしていくことが必要でしょう。新型コロナの感染症は症状が出ないことも多いようなので、感染を拡大させないように各自予防に心がけながら、楽しみを広げられたらいいと思います。

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【9】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

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