ワンゲル部と私  菅野則一

今から56年前、獨協中学2年生の夏休み、知り合いの大学生に連れられて北アルプスの銀座通りを歩き大自然の雄大さに感動しました。翌年の夏には八ヶ岳を登り少年なりに山の魅力を知りました。

獨協高校に進みワンダーフォーゲル部に入部、当時は同期が10名ほどいて先輩も多く今思うとワンゲル部の最盛期だったのでしょう。その頃日本の登山人口は500万人と聞いた覚えがあります。

その夏初めての合宿は私にとって大変過酷なものでした。ひ弱でガリガリの少年は50㌔近いキスリングを背負い上野駅のホームに辿りつくまでに、へばってしまいました(学校から上野駅までキスリングは山田先輩がトラックで運んでくれたのですが)。自分の体重と同じキスリングは1度降ろしたら最後、自力では2度と立ち上がれませんでした。こんなことで朝日連峰の縦走なんて・・・不安で夜行列車では殆ど眠れませんでした。

翌朝歩き始めると不安は現実となりました。特に登りはヘロヘロで高梨先生、飯島先生、藤田リーダー等の叱咤激励の声も虚ろに聞こえ、意識は朦朧としてきます・・・もう二度と山なんかに来るものか!合宿が終わったら直ぐに退部しよう!と思いながらひたすら耐えました。

ところがそれほど疲労困憊しても、雄大な東北の山懐に抱かれているとなんとも不思議な感覚を覚えたのです。この感覚はその後も山に入る度に感じました。山を降りて数日もすると苦しさを忘れ再び何処かの山へ行きたくなる、こうした繰り返しでした。

飯島先生や常盤先輩などと行った春の金峰山・瑞牆山。八ヶ岳は好天に恵まれすばらしい雪山を楽しむことが出来て益々山にのめり込みました。

 

獨協大学に入り高校の先輩達が創部した山岳部に入部し、新人歓迎山行には参加したものの根性無しの私には続きませんでした。甘い気持ちでワンゲル部に移り2年ほど在籍しました。ところがワンゲル部では物足りなく山岳部ではハード過ぎる、この中間位がいいな・・・なんと我が儘な!

高校ワンゲル部のOBとして現役に随行して山へ行くこともよくありました。その頃の獨大ワンゲル部は冬山は禁止でした。これも歯がゆく結局はそのワンゲル部も退部してしまい、社会人となるまでの間、自由で気ままな山歩きをしていました。

たった10年のこんな登山歴でしたが、ワンゲル部のおかげでひ弱だった少年は健康になり(今もガリガリですが)、登山の楽しさ、自然の魅力友達の有難さなどを知り、私の人間形成に大いにプラスとなりました。

お世話になった故・高梨先生、飯島先生その他先輩、同輩後輩にはとても感謝しております。

残念なことは同期だった坂井格君、大成哲君、山中和雄君が60半ばで他界してしまったことです。            平成29年1月

 昭和41年卒      菅野則一


1963(昭和39)年の朝日連峰の夏合宿は7月26日から8月1日に行われました。山行写真はこちらからご覧いただけます。

「ワンゲル部と私  菅野則一」への7件のフィードバック

  1. 🔷菅野則一先輩
    玉稿は拝読いたしました。
    わたしは大学進学後,
    山岳部やワンゲル部の強引な勧誘(?)から,
    ❝隠れ逃げ歩く❞日々でしたよ・・・(笑い)。
    またお会いしましょう。
    長瀬(昭和43年卒)

  2. 長瀬君
    コメントを有り難う。当時皆さんのことを弟のように思っていました。
    名簿を見ると、彦坂君、志村君、中村君が故人となられたのですね、三人とも私はよーく覚えています。合唱
    また会いましょう。

  3. スマホを見ていて菅野則一さんの投稿を偶然見ました、時代からして私の知っている方かも知れないと思いとても懐かしくなりました。私も大学のワンゲルに入り山に行くのがとてもたのしかったのを思い出しました。

  4. 川島 万里子さん
    何年ぶりでしょうか。懐かしいですね、今のĪT時代では決して偶然ではないのかもしれませんね?
    投稿をありがとう!
    可愛いお孫さんに囲まれて忙しくしていますか?
    norichan231uetake@icloud.com
    菅野則一

    1. 忙しいのは孫ではなくジム通ひです。今日も朝からスポーツジムに行って来ました。そのおかげで健康に過ごせているのかな?

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