千野一郎さんを偲んで 長瀬 治

“飄々ひょうひょうとしたムードメーカー   ”千野一郎さん

千野一郎さん(1958年卒)との初の出会いは2002年6月第17回総会(銀座「獨協倶楽部」)である。“二次会”となったビアホールでは千野さんと席が隣り合わせになり、「会社を整理し,時間ができたのでこれからは機会をみて参加するからよろしくネ」とのことだった。

10年年長で初対面でもあった千野さんにいささか緊張しつつも酒を交わしながら、佐藤八郎さん(1960年卒)主催の月例山行やスキー行のことなどを歓談し、「スキーはちょくちょく滑っているよ」と千野さんは話した。

OB会有志によるスキー行は新潟県湯沢が初回(1998年2月)だが、この二次会に同席していた富樫克己現OB会長が翌年2003年1月の湯沢スキー行に千野さんの参加を取りつけた。これをきっかけとして先輩後輩という垣根を越えた(と私は勝手に思っている)千野さんとの楽しいお付き合いが始まった。

月例山行はひとまずおいて、千野さんのスキーはうまかった。無理無駄がなくポイントを押さえた安定感のある滑り……と言え、スキーはちょくちょくやっている感はたしかにあった(スキー雑誌の編集アルバイトをしたことがある私の経験から見ての感想だが)。

それにくらべ,私はといえば、「力(りき)み過ぎているよ。迷いがあるよね。もっと肩の力を抜いてリラックスしたほうがいいと思うよ」と私の滑りを見た千野さんから、ワンポイントアドバイスを受けた。

滑りやスタイルには、その人の生き方やありようのみならず性格すらも反映するものと思っているので、往時の私の置かれた状況を千野さんにひと目でずばり見抜かれたおもいがしたことは、いまでも忘れられない。

湯沢以外では千野さんの軽井沢にある山荘(ログハウス)が,近隣スキー場へのベースとして提供され、佐藤さんや常盤雪夫さん(1960年卒)らとともにたびたびお世話になり、夜の酒宴でも笑い声が絶えなかった。

山をおりたあるときには、「ナガセちゃん、ライブハウスに行かないかい?」と弾んだ声でいきなり電話があり、千野さんお気に入りのバンドが演奏するからと原宿のライブハウスへお伴したこともあったり……。

十数年間のお付き合いだったが、月例山行やスキー行を問わず、いつも笑顔で飄々として場を盛り上げるムードメーカーだった。

*2015年10月9日秋晴れ。数年前から人工透析の身だった千野さんは「突然,大動脈解離に見舞われ、本人も何が起こっているのかわからないうちに意識がなくなり……、最後までおしゃれでスマートで、ちょっとおとぼけな人でした……」(42年間連れ添った千野光子さん談)。75歳だった。

アルプスを臨む韮崎の墓碑には『慈鳳院銀嶺友楽居士』(じほういんぎんれいゆうらくこじ:大きな鳥になって、はるか彼方から雪山を臨み、多くの友人と音楽を楽しみながら、ゆったりと遊んでいる仏さま)とある。

昭和43年卒 長瀬 治

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