植田先輩を偲んで 常盤雪夫

南アルプス 鋸岳ビバーク

手元に数枚のスナップ写真がある。その1枚には寒さからかズボンのポケットに手を入れ、寝ぼけ顔で焚き火跡を見ている私がいる。その後ろには大きな岩小屋があり、数多くの岳人が利用したであろうその天井は煤けて黒くなっている。

すっかり記憶が薄らいでしまった南アルプス鋸岳紀行はこのスナップ写真から始まる。メンバーは顧問の奥貫靖弘先生、3年の渡辺知也先輩、同じく3年の植田一朗先輩、そして2年の常盤の4人である。山行は昭和33年(1958年-)の5月連休の時のことである。

岩小屋を出発後、河原沿いの登山道はしばらくして鬱蒼たる樹林帯の中を進むようになる。やがて、1回目の渡渉地点に出る。先ず私が空身でザイルを着け対岸に渡る。その場で用心のため確保体制を執り、他の3人が1人ずつ次々と渡る。踝ぐらいの深さだがよろけると膝以上の深さまでつかってしまう。雪解け水は流れが速く清らかだが冷たい。最後に私が渉り直し渡渉を終える。渡る距離は10mほどだが結構時間を使った。このような渡渉を3回繰り返しやっと樹林帯を抜けた。

そこは稜線まで続くであろうと思われる長くて急峻なガレ場の下端である。明るい。

足元の岩は、鉄平石のように表面は平らだが、積み重なっているために不安定であり非常に歩きづらい。特に鋲靴の者にとっては滑ることも心配しなければならず気を使う。小休止の度に上を見上げれどガレ場は際限なく続き天空に突き抜けている。

急登と歩きにくさからこのガレ場を抜けるのには結構な時間を要した。

この紀行文を書くにあたり、あまりにも私の記憶が少ないのでインターネットで検索しコースや地名などの参考にすることとした。

検索によれば、我々のコースは、長野県・戸台口から戸台川沿いに遡行し、角兵衛沢から角兵沢衛沢の頭で稜線に達した後、第一高点(頂上)、第二高点を経て熊の穴沢を下山し戸台口に戻るというルートであったと思われる。

展望の利く稜線からは遠く北アルプス、中央アルプスの峰々、むろん北岳・千丈岳や前衛の山々が眺められた。すれ違うのにも苦労するほどの狭い尾根道、多少の岩登り技術を必要とする大小のピークを過ぎるころ、突然「ここでビバークする」の声。呆然とする。確かに時間は午後3時を過ぎているが、あるのは畳3枚ほどの岩だらけの狭い空間である。転落防止のためザイルで互いを結び合い食事の支度に取り掛かる。

ピークとピークが形作るV字型の間からは八ヶ岳の裾野がやや赤みがかって水平線ならぬ斜方線を描いている。一見地球が傾いているとも思える壮大な景色である。富士山の裾野も見事だが、視界一杯に広がる八ヶ岳のそれも負けてはいない。

軽い食事の後、寝袋に入り横になる。スペースの狭さとザイルで結びあっているため寝返りは出来ない。おまけにゴツゴツと背中が痛い。救いは顔の上に広がる満天の星空である。2000mを超える高地でのビバークであり、寒いが我慢出来なくはない。私は疲れもあって意外とよく眠れた。

ビバーク地点が第一高点に達する前の地点なのかそれとも後なのかは判然としない。その第一高点に関しては、後日叔父に会った際、第一高点にある石油缶が名詞箱代わりに使われていて叔父の名詞もある筈と聞いた。叔父が鋸岳に登頂したのは太平洋戦争末期のことである。

当時、私は植田先輩からパッカード(米国製乗用車)と呼ばれていた。馬力はあるが燃料を食う例えである。熊の沢を経て戸台口までの戸台川沿いの林道は途方もなく長く感じられ、4人はあまりしゃべらず無口でひたすら歩いていたが、突然、植田先輩から”シジミ蝶”についての話を持ちかけられたのは意外だった。その蝶の可愛さ、可憐さなどについて先輩は朴訥に話した。60年前のことである。

すでに鬼籍に入られた先輩は、そのとき私に何を伝えたかったのだろうか。

                                                      昭和35年卒     常盤雪夫

 

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