それは宝もの         手島達雄

2年前、0B会の有志で忘年会をやった折に勢いで決まった金時山の山行がきっかけで、40年以上遠ざかっていた「再びの山行き」が始まった。母を見取り自分の自由な時間が持てるようになって、今までの自分とこれからの自分について考えるようになった。限られた時間の中にある人生、何でもやらなければ損だ。思い立ったら、やり残さず先ずはやってみようと。そして、高校の頃はやり切れていなかったという思いもあって健康増進も兼ねてまた山に行こうと思った。

必要な装備を整え、日帰りハイキングから計画を立てて出かけるようになった。大学に入ってしばらくは山にも行っていたが、興味は別の所に移っていた。大学を出て小学校教員の仕事に就いてからは遠足で児童を引率して天覧山や伊豆ヶ岳などに連れて行くくらいのものだった。異動で2泊3日の尾瀬縦断の林間学校をやっていた学校に赴任した折には、個人的に保護者や職員を誘って燧ケ岳に登ったりしたこともあった。その後、実母の介護の関係もあって教員の職を辞して東京の実家にUターンした。1年間スクールに通った後、庭づくりから、樹木のメンテナンス、花壇の植え付けや寄せ植え講習会などもやる小さなガーデニングショップを開業した。

すでにもう山に行く事もなくなっていたし、OB会からの連絡はいただいていたものの、特に親しくしている先輩後輩が参加している訳でもなく、秋の親睦会で小諸まで行くのも面倒でもあった。休みが取れるようになった事もあり、総会や親睦会に参加していた同期の二村君から誘われてOB会にも顔を出すようになった。

DWVでの経験は高校生のたかだか2年間程度のことだったのにも関わらず、還暦を過ぎてなお、かつてやっていた山の経験が呼び覚まされ引きつけられたのは何でだろうと思う。高校のワンゲルは体育会系の大学の山岳部と違い、まだまだ幼いもので規模も違ってはいたが、高校生なりのプライドもあった。しかし、当時それほど山をがむしゃらにやっていたわけでもなく、むしろ先輩や同期にくっついて行っていた。その2年間はノスタルジックに美化されただけのものではなく、貴重な何かがあったように思う。景色が印象に残っている訳ではない。達成感はあったものの、それが全てではない。苦しくても一歩一歩前に進んで行く事、体力や勇気が試される事もあった。楽しかったというよりは辛かった事の方が多かったとも思う。重い荷物を背負ってひたすら歩くことは苦しかったし、またバテるのではないかという恐れもあった。テントの中で寝付かれないでウトウトしながら朝を迎えたこともあった。景色もろくに見ないで苦しい思いをしながらひたすら重い荷物を担いで登ったり、より高みを目指して仲間とともに挑戦したりと集団の中で互いに磨き合った大事な時期だったのではなかったかと思う。

蜘蛛の足や軍手が入ったこともあった山での食事。冷たくなって足の感覚もなく歩いた冬の合宿。食当で朝早くテントから起き出ての食事準備。雨で濡れて重たくなったテントの重さやラジウスの匂い。石油臭くなって潰れたカレンズ(関口台パン屋のぶどうパン)。つぶれたアルマイトのメンツでブドー酒を飲みながら山の歌を歌った最終日の打ち上げコンパ。新宿駅や上野駅の通路やホームでさかい屋の72㎝キスリングを並べての場所取り。グランド脇の坂道でダッシュを何本もやって吐きそうになったこと。練習後、江戸川公園でタバコを吸っていてお巡りさんに捕まったことなどいろいろな事が思い返される。これらの一つひとつが積み重なって、人生の中でとても貴重でそして輝いているものではないかと思う。貴重で美しく輝けるもの、つまりそれがすなわち人生の ” 宝もの ” なんだと思う。

                                                                昭和47年卒 手島達雄

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