〜学生登山の戦後史と現況〜
日本山岳会「山岳」第百十二年 2017年8月 掲載資料
今から80年前の1936年(昭和11年)にわが国で初めて大学生のワンダーフォーゲル部が、課外活動において体育系の1種目として公認された。
ここに誕生したワンダーフォーゲル部(以下、WV部)は太平洋戦争終結後の1946(昭和21)年から新制大学において設立が全国に拡がり、大きく発展した。
I 学生登山の流れ
旅行部から山岳部へ
学生登山は、1910年代(大正時代初期)に旧制高校を中心に一高旅行部や三高旅行部などが設立されて、山旅が広まった。この年代に学校(中・高・大学)に設立された山岳系の部は、21校のうち10校が旅行部や遠足部やスキー部と名乗り、11校が山岳会や山岳部や登嶽部と名乗っていた。
この当時の我が日本人の伝統的な登山は、夏山を中心とした山旅であった。いくつもの社会人山岳会も、同様に夏山登山の活動を行っていた。
1919 (大正8)年に大学令が公布されて、私立大学の設置が認可されるようになり、続く約6年の間に旧制大学や旧制高校に次々と山岳部が設立された。1920年代には、部の名称も山岳部が多くなった。
1921 (大正10)年に槇有恒がアイガー東山稜の初登攀に成功した頃から、わが国に西洋流の登山思潮(アルピニズム)が移入され、当時の西洋憧憬の気風も手伝って、雪と氷の冒険的な登山が学生登山のなかでハイライトを浴びるようになった。
学生山岳部の活動は、数年のうちに雪と氷に加えて岩壁にも挑むようになり、冒険の度合を強めて先鋭化した。
学生登山が分岐した
次第に伝統的登山の愛好者たちの入部が少なくなり、山岳部の部員が減少していった。課外活動における学生登山の分岐の始まりであった。伝統的登山を愛好する学生たちにとっては山岳部から分化した新しい登山系の部が発生することが望まれていたのだが、大学の課外活動においては、新たに部を認可する基準の中に(一種目、一部)という原則があったために、新しい登山系の部を創設することは困難であった。
このような背景から、多くの山岳部においてアルピニズムを愛好する部員たちが大半を占める結果となっていた。
また当時の課外活動においては、部以外の任意の同好会やサークルに対する援助が一切認められていなかったのである。一方で社会人の山岳会においては登山思潮や登山スタイルに応じて分化が進み、新しい集団が生まれていった。
このような流れを、田口二郎は次のように述べている。「大正後期にアルピニズムが渡来した時、学生登山は従来のスタイルのものと新しいものとに分岐した。新思潮のアルピニズムを奉じて新生した山岳部があり、また古くからある山岳部で新旧の二つの内容を持って発展したものなど、さまざまであった」と。(「東西登山史考」)
スポーツの新種目とっなたWV部
1936 (昭和11)年2月に、わが国で初めて明治大学WV部分が体育系の登山種目として認可され、学友会運動部会への加入を果たした。
この年に設立して活動を開始していた立教大学と慶應義塾大学のWV部は、両部とも体育会への加入を認可されていなかった。
このあと間もなく太平洋戦争が始まり、大学における全ての課外活動は休止の状態に追い込まれた。WV部の活動も、後続の設立を見ないうちに中断された。
II WV部が本流となった現代
山岳部との違い
WV部と山岳部との相違について、従来から対比的に言われてきた数々の説明を要約して紹介しよう。
山岳部・・氷・雪・岩に挑む、海外遠征、自然と対決する、冒険主義、アルピニズム、ヒロイズム、登頂や登攀が第一(記録主義)、より高く・より困難を目指す、少数、個人、などである。
WV部・・夏山合宿、部員全員合宿、縦走登山、自然に親しむ、安全に、尾根や渓谷や深林や里山等を辿り景観を得る、厳冬期の登山は行わない、多数、共同行動、などである。
ただし山岳部の活動が前期のように先鋭的になったのは、西洋式の氷や雪に挑む登山方式がわが国に移入されて以降のことである。それ以前の山岳部は、夏山と山旅を中心としており、今日のWV部と似通った活動を行っていた。
深田久弥も「昔の山岳部は、多分にワンゲル的であった」と述べている。(「瀟洒なる自然」)
戦後に発足・発展したWV部
わか国において大学WV部が発足した状況は【表・1】として表し示す一覧表のとおりである。これらの事実は、これまでに書かれた登山史にはほとんど記されていなかったものである。この表は、戦後の学生登山の歴史のうちWV部にかかる資料として、多くの部誌や周年記念誌などを基に筆者が作成したものである。
WV部設立の大きな波は、関東から関西へと及んだ。関東地区では私立大学が先行し、その他の地区では国立大学が先導役割を果たした。
太平洋戦争が終結した翌年1946(昭和21)年に、明治大学WV部(体育連合会加入)、と慶応技術大学WV部(文化団体連盟加入)が活動を開始した。両校ともに戦時中に休止していた部活動の再建、復活であった。
続いて1948 (昭和23)年に中央大学において戦後初めてWV部が創設され学友会体育連盟に加入した。
後続してして設立したWV部は、体育会で加入することが通例となった。
同年に、前期の大学WV部が全日本学生ワンダーフォーゲル連盟を結成して、関東地区の大学に向けてWV部の設立奨励運動を開始した。併せて大学関係者に、山岳部との相違点を周知させることも同連盟の使命であった。
その後1949年に早稲田大学WV部創設(体育会加入)、1950年法政大学WV部創設(体育会加入)と続き、1951 (昭和26)年に東京大学において国立大学で初めてWV部が発足した。東京大学WV部は1955 (昭和30)年に全日本学生WV部連盟に加入し、1960(昭和35年)年にはOB会を結成、1961 (昭和36年に運動会(体育会)への加入を認可された。
国立大学におけるWV部の設立は、東京大学WV部が先例となってお茶の水大学、北海道大学と続き、全国に普及した。
女子大学における最初のWV部は、1954 (昭和29)年にお茶の水大学で誕生した。次いで東京女子大学、津田塾大学、女子美術大学、奈良女子大学にWV部が誕生し、女子大学においても登山系の部活動が盛んになった。
女子大学の山岳部は、この前年1953(昭和28年)年に東京女子大学において誕生していた。【表・1】に見られるように、大学WV部の普及は、終戦直後の1946(昭和21)年から1955 (昭和30)年までの10年間に関東を中心とする20の大学に拡大して、新しい登山文化が構築されていった。
続いて1965(昭和40)年までの10年間の間にはさらに数137の大学でWV部が設立された。この結果1965(昭和40)年当時には、わが国の国立大学73校のうちで56校においてWV部が活躍するという盛況となった。
戦後の教育制度の変革によって、教育の大衆化が進み大学への進学率が上昇するとともに大学が増設された。これに連れて1960年代にはWV部の活動が全国的な人気を呼び、各大学WV部において山岳部を超える多数の入部者を迎えた。1960年代後半から1970年代前半が、WV部の大量部員時代とも呼ばれた時期である。
1965(昭和40)年当時の部員数は大阪大学・316名、関西学院大学・84名、神戸大学・112名、中央大学・142名、東京大学・107名、明治大学・97名、横浜市立大学・44名となっていた。
また部員数の推移について東京大学WV部に例をとって見ると、1970年に70名、1980年に66名、1990年に46名、2000年には27名と推移しており1965年頃が最多であった。他の大学WV部においても、ほぼ同じ傾向で推移した。
1960年代の後半あたりから、体育系の各部の部員数が減少し始めた。大学生たちの課外活動における体育離れと呼ばれた現象が始まった。規律を求められる部活動よりも任意性の高い同好会やサークルの方に人気が集まるようになった。多くのWV部において、夏合宿を部員全員参加制から任意参加制に変更するようになった。
以上に述べたように戦後に大発展した大学WV部の活動は、戦前に山岳部から分岐した伝統的登山の愛好者たちの大きな流れが、アルピニズム移入以前のわが国旧来の伝統的登山を、課外活動の中に回帰させた現象であったと捉えることができる。
田口二郎も「大正後期に登山界がアルピニズムを主流とするようになってからも、日本の登山の牢固とした底流として生き続け、日本の土壌に育まれたそれ(伝統的な登山・筆者注)は、戦後にはアルピニズムと並ぶ登山の二本の本流の分一つとしての地位を築いて来たのである」と指摘している。(「東西登山史考」)
急速に発展した背景は
1949 (昭和20)年の新制大学の発足と同時に、教育課程において大学生の体育実技が初めて必修となったため、WV部、山岳部、野球部等が行う実習行事が単位認定のための正式課目として取り扱われた。大都市にある学生数が多い大学は体育施設や指導者が不足しており、体育実技の単位を与えるための臨時の処置を必要としていた。
正式課目として認定されたWV部、山岳部、野球部等の部員には、部長や監督の証明によって体育実技の単位が授与された。またこれらの部が主催する実習に一定時間以上の参加をした学生には、実習の責任者の証明によって単位が授与をされた。この実習において、ワンダーフォーゲル部が主催したキャンプと登山が人気を集め、WV部の入部者が増大し始めたのであった。
このような状況に加えて、大学数と学生数の増加が続いたことや、経済成長による娯楽の普及などを背景として大学のWV部は大きく発展した。
高等教育を受ける学生の登山は、戦前は少数の富裕階層の若者に限られていたが、戦後は教育の大衆化によって多数の学生に登山活動が行き渡ったのである。
合宿先と参加者数
大学WV部が発足した初期の夏季合宿は部員が全員で参加することが原則とされており、その行き先と参加者数は次のようなものであった。
東京大学においては、1953年・南アルプス(26名)、54年・奥秩父(20名)、55年・志賀高原(50名)などと記録されている。明治大学の場合は、1953年・戸隠山(7日間、118名)、54年・奥日光(8日間)、55年・笹ヶ峰(8日間、117名)などと実施された。夏季合宿以外の山行もテント合宿を原則として、縦走登山を中心に活動していた。
山小屋の設立とOB会の結成
戦前には、大学が管理する山小屋は、山岳部の活動施設として大学が建設していた。
わが国で最初のWV部専用の山小屋が、1954 (昭和29)年に明治大学WV部のOB会によって建設された。これが前例となって、大学のWV部は山岳部とは個別の山小屋を建設することが通例となり、山岳部と並んで登山活動を行うWV部の伝統として定着した。
山小屋の建設は、明治大学に続いて1956年に中央大学、1958年に慶應義塾大学、1959年に工業学院大学と続き、一橋大学、京都大学、九州大学、東京大学、金沢大学、などの国立大学を含めて全国にWV部に及んだ。
多くの大学WV部のOBたちが、山小屋の建設事業を契機としてOB会を結成し小屋の建設資金の拠出や設備の寄付や現役部員の活動費を補助する事業が始まった。新しくWV部を創設して活動する現役役員にとってOB会からの補助金は、テントなどの装備調達費用や年間活動費の一助となる欠かせない資源であった。
WV部は部員数が多いため卒業年次ごとの同期会がそれぞれに会の名称を掲げて集う例が多く、この同期会が伝統的に継続されているWV部は全体のOB会も盛況となっているようだ。これらのWV部OB会は、OB会報を発行している例が多い。最近では、会員への郵送に代えて電子化して配信する例が東北大学などに見られる。現役部員とOB会が創部以来の「部誌」を会員から収集し電子化して、会のウェブサイトで公開する事業が始まっている。横浜国立大学、東京大学などである。
部誌と周年記念誌
発行されていた部誌の名称、ならびに近年に発行された周年記念誌は、【表・1】に示すとおりである。
1946 (昭和21)年に慶応義塾大学と明治大学のWV部が年刊の「部誌」の発行を再開した。続いて創部したWV部は、ほぼ例外なく設立直後から部誌を毎年発行していた。
当初には多くのWV部が、部誌によって各種の情報交換を行い、また地域ごとの連盟の結成や合同山行(合同ワンダリング)などを始める契機となっていた。
部誌には年間の活動記録が参加者氏名とともに詳細に記録され、合わせて部員が全員で紀行や随筆などを執筆していた。巻末には部員名簿(卒業年次、氏名、住所など)が必ず搭載されており、OB会の活動資料として活用されていた。
部誌は1960年代の後半あたりから、部員数の減少によって発行が途絶える状態となった。現在も年度ごとに部誌の発行を続けているWV部は、慶應義塾大学、明治大学など少数だと見られる。
部の創設以来50周年を迎えて「周年記念誌」を発行するWV部が2000年代に増加した。OB会が発行したこれらの周年記念誌は、過去に発行した年刊の部誌をベースとして創部以来の歴史が編纂されているため、部の伝統や年次ごとの特徴的な活動が伝えられており、時代背景を映し出しているものが多い。年度ごとの部誌の発行が途絶えると、将来には密度の濃い記録としての周年記念誌の発行が困難になるのではないだろうか。
Ⅲ学生登山の現況
WV部と山岳部の活動状況
現在の大学のWV部と山岳部の活動状況は【表・2】に示すとおりである。
全国の総合大学117校を調査対象として、各大学並びに両部の2016年度公式ウェブサイトを閲覧して調査を行った。
山岳部は近代(戦前)まではほぼ全ての大学で活動していたが、戦後には休部や廃部が続いたために部数は年々と減少しており、今日ではWV部の方が多くなっている。
活動している両部の部数を国立大学について見ると、51校のうちでWV部が45校(約90%)で活動しており、山岳部が29校(約57%)で活動している。
国立と公・私立の合計で見ると、WV部が84校(組織率・約72%)であり、山岳部が55校(組織率約・47%)となっている。
最近のWV部の部員数(2016年度)を見ると、大阪大学・31名、金沢大学・53名、関西学院大学・37名、九州大学・69名、京都大学・35名、慶應義塾大学・42名、中央大学・43名、東京大学・27名、北海道大学・22名、明治大学・49名、早稲田大学・18名等となっており、全国的に幾分増加の傾向にあるものと見られる。
活動多様化の模様
昨今の年間活動内容は各部によってまちまちであるが、大きく次の三つに区分することができる。①登山を中心とするもの、②登山のほかにアウトドア種目を取り入れて、年度ごとに部員の意向に応じて企画するもの、③登山活動は行わず、他のアウトドア種目の中からその都度企画するもの、である。このうち②と③は年間計画が不明確であり、年度初めに年間計画を定めない分も多く見られる。
①の例として明治大学ワンダーフォーゲル部の年間(計画(2016年度)を見よう。次の三種類の活動が企画されている。
(1)全員参加生の公式合宿(7回)、(2)自由参加制の公式合宿(6回)、(3)部員同士で行うフリープランが月一回程度、である。
(1)の全員参加合宿の内容は、新人歓迎ハイク、新人養成・2泊、初夏・2泊、夏期・7〜10泊、小屋整備・2泊、秋期・2泊、春期・2〜4泊として構成され、(2)の自由参加の公式合宿は、OB会と共同の小屋合宿、リーダー養成、正部員養成、秋期、山小屋整備、ゲレンデスキー、春期の各合宿とされている。厳冬期登山は禁止している。
多くの大学において、近年ではWV部と山岳部がほぼ同様の活動を行っている例が増加しており、この傾向は年とともに進んでいるものと見られる。私立大学において登山を行わない前記③の区分に属するWV部の中には活動内容を「アウトドア全般」とするものもある。
また、山岳部の中には登山に代えてフリークライミングを中心に活動する部も出現している。
大学WV部が登山の他に採用している種目は、サイクリング、フリークライミング、ボルダリング、カヌー、無人島合宿など種々雑多となっている。
教育の一環として行われている課外活動としては、各部ごとに一定の目標を定めることが必要だと思われる。
最近では、活動内容を「登山ですと」と明示する例が国立大学において増加している。WV部と言う名称は活動の内容を表していない。活動種目を特定して、活動種目名を部の名称にすることもWV部の今後の課題だと思われる。
参考資料
各大学のワンダーフォーゲル部ならびに山岳部の「周年記念誌」
城島紀夫「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」(古今書院)
この研究論文は「ワンダーフォーゲル部のあゆみ」の著者である城島紀夫氏が日本山岳会の機関紙「山岳」に掲載したものです。本人の了承を得て本ホームページに掲載させていただきました。