辰野勇の「モンベル7つの決断」

28歳、資金ゼロからの起業を決断

高校卒業後スポーツ用品店に住み込みで働き始めますが、店主からロッククライミングは危険だからやめるように言われ、父親が亡くなったことを理由にして会社を辞めます。その後、山好きの恩師の紹介で登山用品専門店の白馬堂に就職します。営業成績も良く本店の店長を任せられたそうです。仕事の傍クライミングを続け、4ヶ月の休暇をもらって21歳にしてアイガー北壁の第2登を果たします。白馬堂主催での登山学校を開設し、日本で初めてのロッククライミングスクールを運営することになります。

23歳で結婚しますが、会社の先輩と喧嘩をして店を辞めることになります。その後、白馬堂の顧客で山岳部のOBでもあった方の紹介で総合商社に就職し繊維部門の仕事に就くことになります。商社で仕事をしていく中で、自分でものづくりをしたいという気持ちが強くなり28歳で退社、起業を決断します。母親から200万円を借りて会社を登記し、銀行から引き出して母親に返し実質資本金ゼロからのスタートを切ります。アウトドア関係の会社モンベルの設立です。その後山仲間二人が加わりますが、はじめはスーパーの買い物袋の企画製造納品という仕事だったようです。その後、デュポンの素材で寝袋の製作に仕事がシフトされていきます。

小さな世界戦略に打って出る決断

創業3年で海外市場へ飛び込みで打って出ます。「ランズエンド」や「シェラウエア」などとの契約を取るなど徐々に売り込みに成果が出てきます。寝袋を欧米会社の下請けで製作するものの別の工場へ仕事を持っていかれたり、「マウンテンハードウエア」には特許を侵害されたりといろいろな苦労もあったようです。そんなこともあって、独自ブランドでの製作の必要性を痛感します。

パタゴニアとの決別を決断

ブランドの販路を世界に求める中で、当時日本での販売契約が切れていた「パタゴニア」の創業者のイヴォン・シュイナードとパーティーで会い、意気投合してパタゴニア製品とモンベルの製品の相互販売契約を取ります。しかし、パタゴニア製品の販売割合が増えるにつれて独自ブランドの重要性を思い、パタゴニアとの販売契約を円満解消し、独自ブランドに傾注するようになります。当時珍しかったオリジナルカタログの製作、オリジナル素材の開発などにも力を入れることを決断します。

直営店の出店を決断

直営店の出店、同時に在庫の解消のためアウトレットショップの立ち上げることを決断します。

価格のリストラを決断

メーカーの小売希望価格(定価)の2、3割安く売っていた小売店の価格と定価で売る直営店との価格の差を解消するために卸値はそのままにして小売価格を2割から3割に全国一斉に値下げすることを決断します。

モンベルクラブ会員制度の発足を決断

通信販売と同時に有料会費によるモンベルクラブを立ち上げ、会報誌の作成配布、フレンドショップシステムの開設、各種イベントを主催したり、割引の代わりにポイント制度を取り入れることを決断します。

アウトドア義援隊の発足を決断

阪神淡路大震災や東日本大震災などを契機にアウトドア義援隊などのボランティアを組織して活動することを決断します。

山岳雑誌「岳人」の発刊を決断

山岳雑誌「岳人」の休刊という事態に際してモンベルが引き継ぐことを決断します。


ヤマケイ新書 辰野 勇著「モンベルの7つの決断」山と渓谷社 刊から要約して掲載しました。是非一度お読みください。

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