『御嶽山の御嶽教』

「御嶽教の神がかり」

秋の紅葉シーズンで賑わい、山での昼食を楽しんでいる最中に山頂付近で噴火大爆発を起こし、多くの犠牲者を出した御嶽山ですが、登ってみると分かるのですが他の山とはちょっと異質な感じを受けます。不気味な感じさえ抱く方もあると思われます。祠や道祖神、お地蔵さんなどは山でよく見かけますが、御嶽山では○○神霊と書かれたたくさんの石碑や行者の像が建てられているのを目にすることが出来ます。

「御嶽講」というものがあって昔から多くの信者が登っていた信仰の山だということは聞いていましたので、そんな信者が記念に寄進した物だろと思っていました。

この石碑に書かれた神霊とは一体何なのか、そしてこの石碑は何のために建てられたものなのか疑問に思いながらも・・・。

御嶽山ではこの神霊碑が集められている所を神霊場と言うそうですが、そこで御嶽教の行者が”いたこ”のように憑依して託宣する宗教儀礼を行なっているという記事を目にしました。

調べていくと御嶽山で感じた違和感は青森の「恐山」に抱いていたものと同じ違和感だったんだと思い至りました。御嶽山は”黄泉がえり”の山でもあったのです。

令和元年版の文化庁の宗教年鑑によりますと御嶽教の信者数は全国に47,990人ほどいて、他に御嶽教修正派,御嶽山曽間本教,御嶽山大教などの教派もあるようです。神道13派のうち圧倒的な数の違いはあるものの天理教(信者は4,572,417人)に次ぐ信者数を持つ教団だということです。祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱を「御嶽大神」とし、江戸時代に黒沢口登山道を開闢した「覚明」行者を開山神霊、王滝口登山道を開闢した「普寛」行者を開闢神霊として崇敬しています。そして1873年(明治6年)に下山応助が全国の御嶽大神を崇拝する信仰者を集団結合させ、1882(明治15)年に平山省斎が初代管長となり、教派神道の一派として公認されています。

御嶽教はおよそ1200 年余り前の 774 (宝亀 5 )年に国内で疫病が発生し、国司の信濃守石川望足が「国常立尊」と「大巳貴命」と「少彦名」を御嶽山に祀り、疫病の平癒と退散を祈願したことがその後の御嶽登拝につながるきっかけとなったということです。

古来、山岳宗教にはその根底に一種の「生まれ変わり」を意図する世界観があります。人間は聖なる山岳に存在する霊魂が御神縁によって女人の体内に宿り、神の分霊としてこの世に生まれ、神のお恵みを受けて育成生長し、死後は、またその根元である聖なる山へ帰るものと考えられています。山中に建てられた○○神霊と書かれた石碑は亡くなられた信者が山に帰った証として建てられ祀られている墓碑にも似たものであるようです。黒沢口には5,000体もの神霊碑が建っていて祀られているということです。

またこの御嶽教には「御座」(ござ又はおざ)という特徴的な宗教儀礼があります。「中座」と呼ばれる行者に霊神が神がかりし、子孫にお告げや言葉をかけるという信仰が今も受け継がれています。「御座立て」と称され、神仏や霊神が降臨し(神霊を憑依させ)託宣を行うシャーマニスティックな巫儀儀礼であり、”神がかり”によって病気治療や卜占を行う信仰です。

この御座には中座、前座先達・四天などの役割を持った行者が登場し、一連の 行事を司ります。前座は神がかりする中座を誘導・コントロールする役割を持っています。中座は神がかりをする巫(神霊が中座に憑依し託宣する)の役割になります。講中が経文を読むうちに中座に神が乗り移ります。四天は中座に悪魔が誤ってとり憑かないように中座を守護する役割を担います。神のお告げは前座の先達を通して信者に伝えられ、病気治療や行事などをト占います。医者に見放された瀕死の病人が生きかえった話とか、神のお告げ通り農作物が不作だった話、卜占によって株の売買を行い巨利を博したという株屋の話など、いわゆる奇蹟に類した話が数多く伝えられているといいます。

降臨する神霊の中で神仏は上位に置かれ、短時間だけ降臨し全体に対する簡単な挨拶や助言を行うと、たちまち昇天してしまうそうです。しかしその一方で、元々人間であった者が神格化した霊神は神仏より低位に置かれ、頻繁に降臨しては比較的長時間留まり、全体に対する挨拶のみならず個々の信者への相談に回答したり、信者の身体に御祓いや加持付けなどを行なったりするということです。霊神は信者にとって一番身近な崇敬対象であり、神仏と信者の間をつなぎ、御嶽信仰を下支えする重要な存在となっているようです。

この神がかりの宗教儀礼は江戸時代に秩父の大滝村出身で王滝口登山道を開闢した「普寛」という開闢神霊となっている行者が編み出したと言われています。

古来、宗教と占いは切っても切れない関係にあり、卑弥呼を初めとしてまつりごとは占星術師やいろいろな占いによって決められており、おみくじやお祓いなども本来シャーマニスティクな宗教儀礼を基にしているものだと思われます。「沖縄ユタや神人」、「恐山のいたこ」などの口寄せをはじめとして現在もなお精神的な深部にあるスピリチュアルな部分は

御嶽教にはこの神がかりという根源的な  宗教儀礼として位置づられて今に残っているのでしょう。


『御嶽教の開山二霊神』

御嶽教に教祖はなく、山岳宗教から派生した神道であり黒沢口登山道を開闢した「覚明」行者と王滝口登山道を開闢した「普寛」行者の二人の行者を開山霊神として崇拝しています。

御嶽山の集団登山は富士山など多くの山岳と同じように道者たちにより室町時代から始まっていたようです。各地で高山の霊気に触れ、地上では経験できない宗教体験をしようとする人々により「登山講社」が結成されるようになり、次第に一般にも広まっていきました。しかし、御嶽山の登拝を司る御嶽神社神宮は数ヶ月にわたり身を清めるためのいろいろな決まり事が課せられていて一般の人々に登拝は認められていませんでした。

そんな中、一般信者の登拝を許可してもらえるよう嘆願したのが尾張出身の「覚明」行者でした。しかし、数百年続けられてきた慣習を破ることになる許可はなかなか得ることができませんでした。痺れを切らした覚明は1785(天明5)年の夏に無許可のまま多くの信徒を引き連れて頂上登拝を強行します。その後も覚明は勝手に登拝を続けるとともに登山道の改修にも勤め、一般信者が登拝しやすいよう整備にも精進していました。しかし、翌年の1786(天明6)年の夏に御嶽山の二の池あたりで病み、事業半ばでその生涯を閉じてしまいます。

その後、信徒たちは覚明行者の遺志を受け継ぎ、登山道の改修にも尽力しながら一般庶民の御嶽信仰を急速に普及させていきました。御嶽登拝を希望するものも年々増えていく中で御嶽神社神宮も覚明の志を認めるようになり、1792(寛政 4 )年の正月に軽精進による登拝を認めてもらうための申請を黒沢村の役人の承認状を添えて代官所へ提出し、裁可を得ることが出来きました。これにより一般信者の登拝が可能になりました。とは言うものの、まだ登山の期間 は毎年 6 月14日から18日までの5 日間と限定されたものでした。しかし、このことにより御嶽登山者は年々増加し、全国的な信仰へと拡大していったのです。

さて、もう一人の開山行者となる「普寛」行者はというと、黒沢口からの軽精進が正式に許可された年に御嶽登山新ルート開拓の念願をも って武州秩父から来村してきました。当時すでに王滝口登山道は開かれてはいましたが、直接頂上へは繫がってはいませんでした。普寛行者は元々、武州御嶽(奥多摩の御嶽山)で火難・病難除けを祈願して講社を結んで登拝を行なっていました。しかし、武州御嶽より遥かに高い木曽御嶽の方が一層のご利益があるとして自ら木曽御嶽の登拝を行いながら王滝口からの直接登拝を探るとともに木曽御嶽信仰を江戸の人々に広めていました。

はじめは黒沢村や福島代官所への遠慮から非協力的であった王滝村民も次第に王滝口開山へ積極的に協力するようになり、多くの信者も獲得していったのです。 今まで御嶽登山口を独占してきた黒沢村との間に紛争も生ずるようになりましたが、福島宿繁栄のためと福島役人の仲裁により王滝口登山道が公認されたのです。かくして黒沢口と王滝口からの御嶽山登拝が可能となったのです。


この記事は菅原壽清著『木曽御嶽信仰-宗教人類学的研究-』及び「宗教研究」に掲載されている牧野眞一氏の記事などを参考(一部引用)にして会員用の記事にさせていただきました。不正確な部分がああればご容赦ください。

「『御嶽山の御嶽教』」への1件のフィードバック

  1. 御岳レポート勉強になりました。御岳は孤然としており遠くからもスケール大きく信仰の対象になり易い。仏教はインド古来の座禅を元にしており中国を通して仙人伝説から山に隠り桃源郷(涅槃?)を実現する形で日本に入ったと思われます。ヨーロッパ発近代登山以前の日本古来の山岳信仰が残っている..国中を歩いて愛国心を喚起したワンダーフォーゲルを最近、山岳部とは異なる思想として思う昨今です。

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