日本史上最大被害の熊事件

前号のメールマガジンで熊の目撃情報や人身事故が増えていることを取り上げましたが、1970年に起こった福岡大のワンダーフォーゲル部員を執拗に襲ったのも日本では北海道だけに生息する大型のヒグマでした。日本で過去最大の熊被害を出したのも三毛別に現れたヒグマ(羆)であり、「三毛別羆事件」と呼ばれています。

この事件を文春文庫から出版されている木村盛武著の「慟哭の谷」を元にまとめてみました。

事件は1915(大正4)年、北海道苦前郡苦前村三毛別の六線沢で起こりました。当時の北海道では開拓事業が進み、かなり奥地まで開拓者が入っていました。三毛別での開拓はまだ開墾初期の段階であり、暮らしは貧しいものでした。沢に沿った森に切り出した木を草や板で囲い、樹皮で屋根を葺き、入口はムシロを垂らしただけの掘建て小屋での生活でした。

事件が起こったのは牡丹雪から粉雪に変わり、そして積雪期に変わってゆく11月初旬であり、通常羆(ヒグマ)は冬眠に入っている時期でした。マタギの間では冬眠出来ないでいる熊や冬眠を妨げられてしまった熊は凶暴になると言われていたようです。

事件は深夜、軒先に吊るしたトウモロコシを狙って羆が唸り声を立てながら小屋の周りをうろついていたことから始まりました。その夜はそれだけで済みましたが、30センチくらいもある足跡が残されていたそうです。

11月20日に再び羆が現れたので、鉄砲を持つ2人のマタギを呼んで泊まり込みで待ち構えていた所、30日夜半に三度羆は現れます。鉄砲は当たりはしたものの仕留めるまでには至らず、足跡を追うも吹雪のために断念することになります。その日以降暫く羆は出なくなります。

12月9日、六線沢上流にある小屋で主人の留守を守っていた妻と預かり子が羆に襲われることになります。寄宿人が帰って来た時、座り込んで顔の下から吹き出した血が固まって死んでいる預かり子を発見します。壁は破壊され、窓枠に髪の毛がこびりついていたといいます。居るはずの当主の妻の姿は見当たりませんでした。30人におよぶ捜索隊が結成され、拐われたと思われる当主の妻と羆の捜索が開始されました。途中、馬の背丈よりも遥かに大きい羆と遭遇するものの、取り逃してしまいます。

懸命な捜索により森のトド松の根元から女の衣服の一部と脚と頭骨の一部とが見つかりました。女はほぼ羆に食われ、残りを貯蔵するために雪の中に埋めておいたのだろうということでした。捜索隊は遺体の一部を持ち帰ることになります。

12月10日、2人の通夜が営まれている席に例の羆が遺体(獲物)を取り戻すべく壁を崩して乱入して来ます。男たちは慌てて外に飛び出したり、便所や屋根裏に身を潜み難を避けられたのでした。しかし、羆はそれから20分も経たないうちに下流にある家を襲うことになります。

この家には前日の事件を受けて避難して来た臨月の妊婦を含む女子供合わせて10人(男は一人だけ)がいました。羆は突然小屋の壁を壊して侵入し、妊婦を含む4人が殺され、3人が重傷を負います。叫び声を聞きつけて駆けつけた村人は静まり返った家の中からは骨を噛み砕く音だけがしていたといます。臨月だった妊婦は上半身を食われ、腹は破られていましたが胎児は無傷のままで暫く動いてたものの死んでしまいます。

この2日間で妊婦や子供を含め6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3名が重症を負うことになったのです。

12月11日、270人もの大規模な討伐隊が組織され、軍隊を含め12日からの3日間で延600人、アイヌ犬10頭が投入されることになります。

捜索の中、検死のために来ていた医者は山中で発見された羆の糞の中から人骨、髪の毛、未消化の人肉が確認されていますが、羆を発見するこ出来ませんでした。犠牲者の遺体を餌におびき寄せる作戦も実行しましたが、羆は近くまでは来たものの気配を察知したのか逃げてしまいます。捜索が続けられる中も羆は村人不在な人家を荒らし回っていました。

12月13日夜になって、警備していた者が対岸の切り株の数が多い事に気づき、黒い塊になっていた羆を発見して軍隊の打ち手が発砲するものの、また仕留め損なってしまいます。

12月14日、単独で山に入っていた山本兵吉という熊打ち(生涯で300頭の熊を仕留めたという伝説のマタギ)により、やっと頂上付近で発見され心臓と頭に玉が命中し、仕留められたのです。

この羆は体重340kg、身の丈2.7m、年齢は推定7、8歳だったということです。

討ち取られた羆は橇で搬送されますが、今まで晴天が続いていたのに天候が悪化して猛吹雪になったということです。熊を殺すと天気が急変すると言われ、村人は「熊風」と呼んでいるようです。

討伐後、羆は解体解剖されましたが、腹からは六線沢で初めに襲われて食われてしまった女の葡萄色の脚絆の他、雨竜で食われた女の赤い肌着、旭川で食われた女の肉色の脚絆、天塩の飯場の女の物と思われる物も発見されたということです。

この事件は木村盛武によって再調査され、事件の50年後にあたる1964(昭和39)年に「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」として発表され、2015年にノンフィクション「慟哭の谷」として文春文庫から出版されています。戸川幸雄は「羆風」を書き下ろし、吉村昭は小説「羆嵐」を著しています。

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