アイガー北壁の登攀史

先日、アイガー北壁の悲劇を主題とした2008年製作のドイツ映画「アイガー北壁」をTVで観ました。そこで、アイガー北壁の登攀史をちょっとまとめてみましたので、ご紹介です。

監督 : フィリップ・シュテルツェル 出演 : ベンノ・フュルマン, ヨハンナ・ヴォカレク, フロリアン・ルーカス, ウルリッヒ・トゥクール

アイガー北壁初登攀の競争は1934年のドイツ隊が2,900m付近から滑落死亡する事故から始まります。翌年の1935年にはやはりドイツ人2名が3,300m付近で膝まで雪に埋もれ、立ったまま凍死するという事故が起こっています。この場所は後に”死のバーク”と呼ばれるようになります。

ベルリンオリンピック前年の1936年、ナチスドイツはアイガー北壁を完登した者にオリンピックメダルを授与するというプロパガンダを打ち立てて挑戦を煽ります。

その年、映画になった悲劇はドイツ隊2名とオーストリア隊2名が同時に挑み、途中から合同パーティーとなって登頂を目指して起こります。先発していたドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツは”振り子トラバース”というルートを開拓し、前年死亡事故があった”死のビバーク”地点を越えた所まで登っていましたが、オーストリア隊の一人が負傷したため、置き去りにする事も出来ないと一緒に下山することになります。3人は動けなくなった1名を搬送しながら懸垂下降して下山していましたが、天候が悪化して雪崩により1名が即死、2人が滑落して宙吊り状態になってしまいます。そしてビレイしている者を助けるために意識のある1名は自らロープを切って2人は滑落してしまいます。生き残った1名は北壁に開けられた鉄道の坑道入口の”アイガーバンド”まで数メートルの所まで下降しますが、ロープが足りずに結んだロープの結び目がカラビナを通すことが出来ず力尽きてしまい、4人全員が死亡してしまうことになります。

その後も宙吊り事故で2年間遺体が放置されるという事故も発生していますが、アイガー北壁の完登は、1938年ドイツ隊とオーストリア隊の合同登攀で達成されることになります。

この時、完登を果たしたオーストリア隊のハインリッヒ・ハーラーはこの時の様子を「白い蜘蛛」に著しています。その後、ハーラーはヒマヤラ登山を目指すことになります。しかし、インドでイギリス軍の捕虜になり収容所に収容されてしまいます。しかし、収容所を脱走して苦難の果てにチベットに入ることになり、幼少のダライラマ14世との交流が始まります。この間の出来事が自伝「チベットの7年」として出版され、「セブンイヤーズインチベット」というブラッドピッド主演の映画になっています。

日本でのアイガー北壁登攀は1964年に芳野満彦と渡部恒明が挑戦しますが、失敗に終わり、翌年目標をマッターホルン北壁に変えて完登を果たします。これは新田次郎著の「栄光の岸壁」にも描かれています。

日本人で初めてノーマルルートを完登したのは1965年の高田光政になります。この時のザイルパートナーの渡部恒明は頂上まであと300mの所で怪我をして動けなくなってしまいます。高田は渡部を助けるためには渡部を残して頂上を目指し、一般ルートから下山して救助隊に助けを求めることだと判断し完登を果たします。しかし、救助隊が助けに向かったものの、ガスが晴れた時には滑落した渡部の遺体が壁の取り付きで発見されることになります。(このことは新田次郎著の「アイガー北壁」に実名で描かれています)

1969年には現モンベル会長の辰野勇が当時の最年少記録で二登を果たし、同年に加藤滝男、今井道子、加藤保男、根岸知、天野博文、久保進の6名が直登ルートでの完登を果たします。

「アイガー北壁の登攀史」への1件のフィードバック

  1. 「セブンイャーズ..」は良かったが主人公はそんなキャリアだったけ?60年代登山はヨーロッパが人気だったが..スタローンの「アイガーサンクション」なんかもあった。アイガーノルドバンド(北壁)駅がこのバンドなんだろう。なんせ百年?位経ってる登山電車がサービス停車して窓(壁)から1000m?真下を見る事が出来る。ドイツ語で観たかった..

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