ウォルター・ウェストン

まだ宗教登山や狩猟のための登山しかなかった日本で富士山をはじめ槍ヶ岳や御嶽山、木曽駒ヶ岳をはじめとして多くの山岳を登り、広く海外に日本アルプスや文化を紹介するとともに、日本の従来の登山の概念を革新する近代登山の先駆けとなったのが英国人ウォルター・ウエストンでした。彼を記念して関係した各地ではレリーフが作られ、今だに上高地をはじめとしていろいろな所で毎年ウエストン祭が行われています。

彼は1888(明治22)年から1915(大正4)年の27年間(滞在年数は通算20年間近く)に英国国教会の宣教師として三度に渡って来日し、その間に日本アルプスを中心にいろいろな山岳を踏破し、日本のアルプスや文化をまとめた「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」(日本アルプスの登山と探検)他を英国で出版し、広く海外に日本を紹介しました。

彼は1861年、イギリスのダービー市で生まれ、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで学び、1886年に司祭となり、1888年にリドレー・ホール神学校で英国国教会の聖職について学んだのちに日本に宣教師として来日します。

英国をはじめヨーロッパ各国では既に山岳会が作られ、名だたるスイスアルプスはすでに登り尽くされ、アルプス黄金時代から難関ルートへの開拓時代に入っていました。そんな時代にあって、彼もマッターホルンやヴッターホルンなどいろいろなスイスアルプスを登るなどしていた登山愛好家でした。

1888年に宣教師として赴任したものの眼病治療のためと称して?一旦宣教師職を辞して登山にのめり込んでいきます。1890年には富士山を皮切りに日光・白根山や男体山、過去赴任していた九州の祖母山、阿蘇山や霧島山、韓国岳、桜島などの山々や、飛騨山脈や赤石山脈などの山々を登っているようです。

1891年から本格的に登山を開始し、浅間山、槍ヶ岳(悪天候などのため鞍部まで)、御嶽山、木曽駒ヶ岳を登っています。1892年には5月の富士山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳に、1993年には恵那山、富士山、大町から針ノ木峠・ザラ峠を経て立山、前穂高岳に登っています。

前穂高岳や前年の槍ヶ岳などの登山の折には、明神池の辺に小屋を持つ猟師の上條嘉門次を案内人に登頂しています。

上條嘉門次は生涯でクマ80頭、カモシカ500頭を仕止めたとされ、ウエストンの著書の中で、抜群の案内人として紹介されたために国内外の登山者に案内人として指名されるなど人気を博します。ウェストンと20年間以上に渡る交流から嘉門次はウエストンからピッケルを贈られ、現在でもそのピッケルは嘉門次小屋に掲げられているということです。

1894年には白馬岳、笠ヶ岳(実際は抜戸岳とみられる)、常念岳、御嶽山、身延山を登り、1895年まで滞在し、離日します。

英国に帰国した翌年の1896年には先述した「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」を出版することになります。この本の記述からは神学者のそれではなく、ユーモアを交えたエピソードをはさみながら、民俗学的、文化人類学的、地質学的な観点に基づいて日本アルプスを紹介しており、日本の諺にも日本文化にも精通していることが伺えますが、日本語は拙かったということです。

赴任地での宣教師としての評判はあまり良いとは言えなかったようですが、再度日本への赴任が決まります。1902年、登山愛好家のエミリー・フランシスと結婚し、新婚旅行でカナディアンロッキーに登った足で奥さんと共に再来日します。

その年には広河原から北岳を登り、1903年に甲斐駒ヶ岳、浅間山、1904年に金峰山、鳳凰三山、北岳、間ノ岳、仙丈岳、高妻山、妙高山、八ヶ岳に登ります。地蔵岳では弘法大師も誰も成し遂げられなかった尖峰初登坂し他ことで地元の漁師などから神社建立して神主になってくれと地元の人から言われたエピソードもあったようです。

妻のエミリーさんは1903年に富士山、1904年には再度富士山に登り、火口底まで下りて石を持ち帰っています。また、浅間山や八ヶ岳、妙高山、戸隠山と高妻山にも登っており、戸隠・高妻山では初めて登った外国人女性ということでレリーフが設置され、毎年「ミセス・ウェストン祭」が行われているそうです。

そして、二人は1905年に離日します。

それから6年後の1911年には三度目であり、最後になる来日滞在を果たします。その年、二人は妙義山に登っています。

1912年には夫人を伴って有明山、燕岳を登り、槍ヶ岳の東稜、奥穂高岳は奥さんは伴わず登っています。1913年には夫人を伴って焼岳、槍ヶ岳、霞沢岳、奥穂高岳を登っていますが、この時も18年ぶりに再開し既に60代半ばになっていた上條嘉門次が案内しています。一緒に登った妻のエミリー・ウェストンは槍ヶ岳や奥穂高の女性初登頂者となっています。また、夫人とともに白馬岳も登っています。

1914年には単独で立山から剱岳を登り、ザラ峠と針ノ木峠を経由して下山しています。

しかし、第一次世界大戦の勃発で帰国を決意した二人は最後の山行を中房温泉から大天井岳を登り上高地に下りるコースを選びます。上高地では嘉門次とも別れの挨拶を交わし、1915年に離日して日本滞在は終わりを告げます。

英国に帰ってからは執筆活動や日本アルプスや日本文化についての講演などを行ないながら日本への思いを温めていたようですが、1940年(78歳)に脳出血で急逝してしまいます。

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」は日本アルプスについての紹介だけでなく、日本文化に対しての深い洞察と知識、リスペクトと深い愛情が感じられる紀行本です。今では失われてしまった当時の人々の意識や暮らしぶりについても知ることができます。岡村精一の翻訳もとても読みやすいものでした。嘉門次小屋四代目の上條輝夫の妻である上條久枝著の「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」と合わせて読んでみ流ことをお勧めします。

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参照文献 (ウェストン夫妻の登山履歴は資料により違いがあるので正確でないかも知れません。)

「Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps」–『日本アルプス 登山と探検』 (岡村精一訳、平凡社ライブラリー)

「フォルター・ウェストンと上條嘉門次」 上條久枝 著 求龍堂

「知られざるW・ウェストン」 田畑真一 著 信濃毎日新聞社

「ウォルター・ウェストン」への1件のフィードバック

  1. 針ノ木(松川)や立山の刊は読んだ。(飛騨)蒲田で笠ヶ岳ガイド探すのに苦労してた。ヨーロッパモダンと日本アニミズムの狭間を反映(ヒマラヤなんかもそう)。何でイギリス人って冒険?が好きなんだ?ゲルマン/ケルトの血が?..という事は結構、デモーニッシュな力が熱い..んじゃないか?

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