ヨーロッパでは古くはルネッサンスあたりから趣味やスポーツとして登山を楽しんでいたようですが、18世紀後半のスイスアルプスのヴェッターホルンやモンブラン登頂がヨーロッパでの近代登山の幕開になったようです。特に英国人はヨーロッパでは一番早く山岳会を作り、先進的に登山を楽しんでいたようです。先述のウォルター・ウェスンともそんな流れの中でスイスアルプスに登っていました。
日本での登山はまだ霊山を登る宗教登山や狩猟を目的としたものだけでした。
そんな中、何人かの外国人は案内人を伴ってまだ地図もろくになかった日本各地の山を登っていたようです。
初代英国駐日公使のラザフォード・オールコックは幕末の1860年に富士山に登頂していますが、霊山を汚すものだとして大問題になり、外国人居留地を襲撃するという動きに繋がっています。
後に英国駐日公使になるアーネスト・サトウは1862年に来日してから 25年間滞在し、富士山をはじめ、御嶽山、赤岳、浅間山、赤城山、庚申山、そして南アルプスの山々に登っています。
1867年には2代目の英国公使ハリー・スミス・パークスの夫人であるファニーさんは外国女性で初めて富士山の登頂を果たしたとされています。
また、1872年に硬貨鋳造の技師として来日したウイリアム・ゴーランドは古墳研究の先駆者としても日本アルプスの命名者としても知られていますが、いろいろな山に登っており、1878年外国人として初めて槍ヶ岳に登頂、1880年には上條嘉門次のガイドで明神岳の登頂を果たしています。
特に本格的に各地の山を登り、紀行文「Mountaineering and exploration in the Japanese Alps」を出版し、海外に日本の山岳や文化を紹介したたのがウォルター・ウェストンでした。このウェストンの本を偶然目にした小島鳥水は(小島鳥水と岡野金次郎は1902年に二人で槍ヶ岳に登っています)、自分たちよりも10年以上も前に槍ヶ岳に登っている西洋人の存在を知ることになります。その後ウェストンが横浜に滞在中であることを知って訪ね、ウェストンから世界の登山状況や山岳会の状況を教えてもらい、日本での山岳会設立を勧められます。
ちなみに英国山岳会は1857年、オーストリア山岳会は1862年、スイス山岳会は1863年、ドイツ山岳会は1869年、フランス山岳会は1878年にそれぞれ結成されています。
そして、いよいよ1905年、小島鳥水を初代会長として日本でも「山岳会」(後の日本山岳会)が設立されることになるのです。
1910年、ウォルター・ウェストンは日本山岳会設立の立役者として貢献したことで名誉会員となっています。