ヒマラヤトレッキングとネパール大地震
私は平成27年3月24日から3週間ほどブータンとネパールの山岳トレッキングを楽しみました。トーメン時代の大先輩の成田さん、同僚の藤原さん、朽津さんなどの経験談に触発され、77歳となったのを機会に72歳と73歳の後期高齢者予備軍だがタフな後輩2人とのチンタラ道中でした。後半VOG(ベリーオールドガールズ)が加わり、稲山会( 早稲田大学山の会)OBヒマラヤ山行になった次第です。
前半は国民総幸福の国ブータンにカトマンズから往復しましたが、ブータン紀行記は次の機会に譲るとして、今回大地震(2015年4月25日)が発生したネパールの地震前後の状態を思いつくままに書きます。
2週間ほど前にあの地震が発生していたら我々はヒマラヤ山中で雪崩、土砂崩れや岩石の落下、あるいは宿泊地での家屋の崩壊に巻き込まれていたかと、悪運強いVOB(ベリーオールドボーイズ)は信仰心の希薄な私も含めて神様、仏様サンキューと胸を胸をなで下ろしています。
とにかく世界遺産寺院が町中に点在し、古い町並みのカトマンズ、観光地のボカラのホテル、ヒマラヤ山岳博物館などなじみの建物、ダンプス、タダバニ、コレバニなど山岳地帯の民宿、サランコットの古いホテルなど如何なる被害を受けたのだろうか。それにも増して、友人のラジブ一家や今回案内してくれたボッカのパダム親分やポーターたちは無事かと心配で何日もメールを送った次第です。数日後、短い返事があり、全員無事。しかし、家屋は傾き、余震が頻発。怖くて外で野営しているとのことでした。水、食料、医薬品などが払拭。何とかしてくれとの逼迫した様子でした。若者たちは続々故郷に向けてカトマンズを脱出。交通手段がないので、歩いているとのことでした。田舎には少なくとも食物あり、屋根の下で寝られるだろうとの願望で行くのだということでした。
今回のトレックは中部ネパールのダウラギリガーキ地域の8000メートル級ダウラギリ、アンナプルナ諸峰、マチャプチュレ等を左右に見ながら、高度1500mから3100mの縦走と深い渓谷を遡行したり、満開の真紅やピンクのシャクナゲが群生する森林地帯の横断、雨あり、風雪あり、雹あり、晴天ありと変化に富んだ10日間でした。
山間部の村落は斜面にへばり付き、わずかな畑と家畜が散見され、貧しい生活が想像されました。子供たちは着たきり雀の極貧状態。あどけない顔を向け、汚い手を差し出し、何かをねだる。ついついポケットの飴玉や非常食の板チョコなど手渡しますと、”ナマステ”とつぶやきながら、うれしそうに下を向く仕草についほろりとしてしまいます。
家屋は素焼きレンガを積み、屋根はトタンを石で抑えたり、瓦代わりの板石を乗せただけ。これでは地震に対する耐震性は低いと思いました。屋内を垣間見ると、粗末な食器や寝具のみ。調度品に類する家財道具は見られず、50年前の日本の寒村状態と同じだと思いました。比較的大都市のカトマンズでも日中頻繁に停電、水も出なくなります。まして山間部の孤立した村落では電気、水道、車道などの基本的インフラが整備されておらず、薪、ランプ、徒歩とロバによる物流など、生活基盤がまだまだ未完成だと思いました。
中でも困惑したのはトレック途上、10日間は汗だらけの体は濡らしたタオルで拭くだけ。泊まった民宿は基本的に粗末なベッドが置かれているだけでした。持参したシュラフに潜り、枕がわりにサブザックを使い、暖房もなくひたすら体を動かして暖を取る原始生活。「学生時代の合宿だね」と笑った次第です。最年長者の私には個室が使えると嬉しい話、ところが2畳位の小窓のついた監獄部屋。ベニヤで仕切った隣の大部屋からは大いびきの合唱。眠れずに懐中電灯片手に外に出ると、目の前に白雪に覆われた神の山マチャプチュレが眼前と聳えていました。7000メートル級の鋭峰で、圧倒的存在感がある山です。その形から愛称FISHTAILと呼ばれ、聖山として一般の登山は禁止とのことでした。
宿泊は慣れてくると何も感じませんでしたが、往生したのはしゃがむ方式の便所です。ウォシュレット付洋式便所に慣れた身には、しゃがむ用足しは苦痛そのもの。ひっくり返ってしまうので、便所の壁にしゃがみ付く難行苦行。落とし紙はなく、バケツに貯めた水をヒシャクで流すだけ。こんな状態では女性の方が適応性があるのではないかと感心する始末。
そこで外で用足しと、夜中部屋を出てマチュピチュへの鋭峰を目前に、悠々と小雉打ちの風流な気持ちになりました。まるで北ア槍ヶ岳を夜中に遠望しながらの光景を思い出しました。
トレック中の我々は老人扱いで、サブザックには個人装備と非常食のみ。先行するボッカは35Kgから40kgの大荷物を前頭部に引っ掛けた細身の帯を使い、器用に担いでスタスタ登って行きます。学生時代、南アの強化合宿で10日分ぐらいの団体装備と個人装備や食料を持たされ、先輩にしごかれヒーヒー泣いたキスリングの重さを思い出し、彼等山岳民族の強靭さは驚くばかりです。
今回の地震ではインフラの未整備な山岳部の集落の被害状況が気になるところですが、何しろヘリでないと近寄れない場所も多く、何が損壊し、何人死んだり行方不明になったのか、怪我人の状態は、と不明なことだらけ。日が経つにつれ事情が判明し、愕然となるのではないでしょうか。現在8000人近い犠牲者が確認されていますが、これは都市部の数字で、これから僻地の実態がわかると思います。素焼きレンガのもろい家屋、登山道であり生活道路でもある狭い山道は人間とロバがかろうじて通行できるだけで、ひとたび崩れたらこれからも通行不可になります。孤立した山村部を考えると、どうか生きていてくれると祈るばかりです。
偶然とは言え、ボッカ達の粗末な服装や靴などを見て、ボカラで別れる時、日本より持参したゴアテックスの防寒具、トレッキングシューズ、ユニクロのシャツ、靴下、非常食、懐中電灯、サブザックなど彼らに進呈しました。地震の被害に少しでも役立つかなと、せめてもの慰めになっています。
現地にすぐにでも戻りたい心境ですが、飛行場、ホテル、道路、電気、水などのインフラの被害などわからないままに闇雲に押し掛けて救援の気持ちを示してもかえって迷惑かもしれず、焦るばかり。東日本大震災に指摘する大震災ですが、国情は最悪で、日本のように素早く救援、復興に取り掛かれる国とは大違い、すべてが遅々として進まないと思います。その間にも満足に手当てされない怪我人の死亡も多くなるのでしょう。非衛生の環境の下での伝染病の蔓延、食糧不足による餓死、テントよこせ、医療器具や薬剤不足への不満など不安要素が山積している状態でしょう。
略奪、暴動、人身売買も横行するかもしれません。数年前ネパール毛沢東派の台頭で王政が崩壊、現在新憲法も制定されず国上が不安定です。ネパールを挟んでインドとの国境の綱引き、チベット(ダライラマの追放)など中国の覇権主義が影を落としています。この混乱に乗じて甘言を持って接近するのは中国共産党の常套手段。日本としては迅速に人道支援、インフラ整備に協力することが期待されています。もともと敬虔な仏教徒、ヒンズー教徒、ラマ教とが共存している温厚な民族で、日本に好感を持っているネパール人を救援して東日本大震災で国際的に日本を支えた友好国に恩返しなければバチが当たります。
私の提案は日本政府の迅速な救援の救助の実行と相俟って民間でもできる事はする。例えば生死の地獄絵を見たネパール人を日本にできるだけ多く受け入れる。特に我々満ち足りた物質生活をしているが精神的には孤独な老人たちはネパールの震災孤児を養子にする。そのため日本政府は国籍取得の条件を緩和する。少子高齢化した日本を元気にするには純血主義はダメです。究極には絶滅民族になります。アメリカは毎年50,000人の移民を全世界から受け入れているので元気で、世代継承もスムーズです。資産の有効利用にもなります。社会を活性化するには多血主義が有効です。ヒマラヤの山中でブータンと並んでネパールも友好国なる絶好のチャンスです。
ネパールの友人達と交信して特に感じたことを書きました。
2015年4月 打矢 之威(S31年卒)
注)ネパール大地震は現地時間2015年4月25日の午前11時56分、カトマンズの北西77kmで深さ15Kmを震源として発生しました。マグニチュード7.8という極めて大きな地震で、建物の倒壊、雪崩、土砂災害などにより甚大な被害が発生しました。ネパールでは8460人を超える死者を出し、ネパールの人口の約30%にあたる約800万人が被災したとされています。エベレストのベースキャンプでも雪崩が発生し、登山客18人の死者を出すなどしています。