打矢 之威のヒマラヤトレッキング Vol.2

タムジュンへの途上

エベレスト街道トレッキングとネパール大地震見聞記

昨年4月上旬アンナプルナ方面でトレッキングを楽しんだ直後ネパール東部は大地震に見舞われ、我々老トレカーは悪運強くも直前に帰国帰国しており、幸運を天に感謝した次第です。

しかし一緒に旅した現地のボッカ達は大なり小なり被害を受け、何らかの支援を期待したようです。そこで参加者に募り多少の現金を送金しましたが、やはり自分の目で直接現地の実情を確かめたいとの衝動に駆られていました。

9月アラスカマッキンレー地域のトレックに行ったときの無理が原因か、10月上旬から全身に発疹が出て、近所の皮膚科の医者から”帯状疱疹”と診断されました。11月のネパール行きは無理だと忠告されましたが、生まれつき能天気な私はネパール行きの衝動を抑えきれず、11月5日羽田発の深夜便に乗る大学時代のOB OG仲間に合流しました。

私はトーメン時代、中東駐在員としてベイルートに4年間勤務しましたが、所轄地域の一つであるシリアにはよく出張、人の好いアラブ人やアルメニア人たちと交流していましたので、シリアは心の故郷の一つでした。しかし、昨今のアラブ社会世界の混乱ぶりには心を痛めており、特にシリアの内戦で避難民になっている都市住民や部落民はいかに過ごしているだろうか、当時の代理店のハキム一家は無事だろうかと心配していました。いずれ機会を見て、ベイルートやダマスカスの難民部落に何か持っていこうと息子や家内や姉嫁たちの古着、日常雑貨品などトランク二つに詰めて、いつでも出発できる状態にしていたのです。しかしISなどが跋扈している状態では今行くのは無謀だろうと中止することにしました。それで、これらの救援物資はネパールの難民に渡せば良いと考えた次第です。

昔、レバノンとシリアはフランスの統治下であり、レバントと言われ、ベイルートやダマスカスはヨーロッパ的雰囲気で、上流階級の美男美女は流暢なフランス語を話し、快適な気候と美味しい料理が堪能できる華やかな国際社会の一面がありました。それがイスラム原理主義への回帰傾向が強まり、中世的戒律社会に戻ったようになってしまいました。そして宗教的内紛(スンニとシーア)やアメリカ、ロシアに代表される大国の思惑に翻弄される泥沼内戦に発展し、一般国民の生活はめっちゃになっています。しかし混乱が少しでも収まれば機会を見て中近東には行こうと思っています。

さて、今回のネパール行きは11月5日から18日までの2週間、そのうちエベレスト街道トレックは10日間、後はカトマンズの被災地視察やネパール人の友人宅訪問等で過ごしました。持参したトランク2個と登山道具の入ったキスリングは同行の後輩女性に分散して預け、無事チェックイン。航空貨物もエクストラ料金がかからず、後はカトマンズ空港で受け取るだけとすんなりとネパールに持ち込めました。

救援物資は出迎えのシェルパのパダム親分と旅行社を経営しているラジブ社長に早速手渡し、彼らから山岳部の被災地に直接手渡すよう繰り返し依頼しました。

ネパールは山岳部の道路などインフラが整っておらず、また人道も崩れたり橋が落ちたりと、スムーズな物流も期待できません。それに横領、横流しなども頻発しているので、直接渡すのが最も目的に理にかなっています。幸いポッカ達はは60Kgから70Kgの荷物は平気で稼ぎますので、私のトランクなど軽いものです。

タメル地区のホテルに投宿後、ラジブ氏の案内で中心部にあるダルパール広場の世界遺産建築物(寺院、旧王宮、図書館など)を見に行きましたが、至るところ瓦礫の山で、傾いた寺院は木材でつっかい棒で応急処置を施しているなど生々しい状況でした。貧しい国なので元々復旧予算も潤沢になく、国際的支援金もとりあえず被災民の日用物資調達に使われ、復旧どころではないのが実情のようです。さらに王政転覆からの後遺障害で、政府の体制も整っておらず政治行政が試行錯誤。そこにネパール共産党毛沢東派が台頭し、まさに混迷度が増している様子です。

私の短い滞在中にもタクシーのストライキ、ガソリン、燃料の不足など、至る所でバイクや車が動けなくなっており、それにインドからのガソリン供給がストップして民間の航空機燃料まで調達できず、ルクラに飛ぶコミューターも間引き飛行になる始末でした。

さて懸案の救援物資問題が片付き、地震の被害も見たので肩の荷を下ろした心境になり、後はエベレストを見るだけと勇躍カトマンズ空港からルクラ(エベレスト街道の出発地)まで小型機で飛びました。

ルクラは山岳部の谷間の上部に無理して作った極小空港で、岸壁に向かって上向きに傾斜した滑走路があり、駐機場は4機で満杯。着陸すると待ち構えた乗客10数名を大急ぎで載せ、トンボ返りで飛び立ちます。まるで航空母艦を離発着する戦闘機の様相です。スリル満点で、気流が悪いとひやひやします。

初日はルクラからバクデンまでの行程2840mの高度から緩やかに谷沿いにバクデン(2610m)まで上がったり下がったりの歩きなので高度順応には都合が良いのですが、私の様子オカシイ。腹に力が入らずフラフラする。先行組についていけず100m歩いてはヒィヒィ、ハーハーと休まざるを得ない。そのうち大キジの気配頻繁になり、岩陰、崖っぷちにしゃがみ込むことになって、まさに大下痢状態になってしまいました。パダム親分は心配して行ったり来たり。

原因はルクラでとった昼食だろうと推定しました。喉が乾いていたので、ナムチャの中に大量にヤクの乳を入れたのが悪かったと後悔しましたが、後の祭り。それからは瀕死の思いでバクデンに着来ましたが、寒い上に暖房のない部屋の木製ベッドに寝袋を広げるのが精一杯。倒れ込むように横になりました。

忠実な従者?

翌朝も動けませんでしたが、一行は予定通り出発しました。私も後を追いましたが、途中のモンジョ(2835メートル)でダウン。一人、見知らぬ民宿に転がり込みました。途上、崩壊した民家など散見しましたが、ゆっくり見る余裕もなく、この寒空にどこでいかに過ごしているのかとやたらと想像するのみで、最悪の山登りでした。夕食は無論とれず、水分をとれば即座に出てしまいます。明日のナムチェバザール(3440メートル)約800メートルの垂直上りを考えると唖然としました。

3日目、やっとの思いでナムチェ(2835m)に到着し、一行に追いつ来ました。高度順応のためナムチェで2泊して私を待っていてくれたとのことでしたが、何とも私の状態が悪いのを見て、リーダーの森さんがこれ以上無理だろうとのご託宣、最終目的地のコンデベースキャンプ(4910メートル)までは雪あり、氷結した長い斜面のトラバースありで、ザイルも握れずアイゼンも満足に着けられない身体状態では遭難もか考えられるし、他の参加者にも迷惑をかけるとコンコンと説得されました。私もこれ以上年寄りの我儘は老害そのものと納得し、別行動をとることにしました。

翌日一行が出発した後、ゆっくり休養し、徐々にお粥程度のものがとれるようになると不思議なもので体にも力が出てくるや、よし行くぞと気力もわいてきました。

右はアマダブラム、中はローチェ、左はエベレスト

そこで何としてもエベレストに少しでも近寄って写真を撮ろうと、エベレストビューホテル方面に向けて出発しました。3880mのクムジュンに向いました。途中、チョルクンの丘にあるネパールの英雄テンジン・ノルゲ(ヒラリーと共にエベレストを初登頂したシェルパ)の黄金のスタチューやシェルパ文化博物館を見学。シェルパ(シェル=東、パ =人) でネパールの「東方の人」すなわち日本で言う東北人を意味しています。シェルパは我慢強く黙ってよく働くそして誠実な性格、日本の東北人によく似ています。

ポッカの”シャパン”と荷物 真ん中の黒いザックは打矢の荷物

途中で見たエベレスト(8850m)は圧巻でした。右にローチェ(8510m)を控え、前方にアマダブラム(6856m)の名峰を侍らせ、堂々たる姿でした。山登りを一生の趣味としてきた私としては大満足、至福のひとときを過ごしました。

後は戻るのみ。3日後、無事コンデに登った本隊とバクテンで合流、好天に恵まれゆっくりルクラまで下山しました。しかしルクラでは飛行機が来ず、来ても爆音のみ。悪天候で上空を旋回しては着陸せず、カトマンズに引っ返してしまいました。

48時間宿屋と空港を行ったり来たり、久しぶりに焦ってもなるようになるやとの心境になりました。ベイルート時代スーダンの田舎空港で1週間いつ来るか分からないBOAC(当時の英国海外航空)のコメット機を待った経験を思い出しました。砂漠の遥か彼方に一点の機影がみるみる大きくなり、土煙を上げて着陸した時、文明から使者が来たあの時の気持ちでした。

その後、私は無事機中の人となりました。

2015年11月  打矢  之威(S31年卒)

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