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近況報告 2018年の忘年会

2018年12月14日(金)    西日暮里 八天将にて

S43年卒の冨樫克己、田中廣明、本多 純。S44年卒の木村泰樹、佐久間俊一。そしてS47年卒の手島達雄の6名で鍋を囲んで2018年の忘年会を行いました。車の話題や合宿での出来事などで話が盛り上がりました。佐久間さんとは今まで連絡がつかなかったのですが、今回連絡がついて参加の運びとなりました。(敬称略)

獨協通信91号「ワンダーフォーゲル部OB会」記事

12月15日発行の「獨協通信」の最新号にDWVのOB会の記事を掲載してもらっています。お手元に「獨協通信」が届いてない方もおられるかと思いますので、ご紹介します。


本学ワンダーフォーゲル部は、1955年に高校で組織創設され、今年で創立63年になります。夏の北アルプス縦走、東北の朝日連峰や飯豊連峰の縦走、八幡平や岩手山、厳冬期には高妻山や浅間山、八ヶ岳など季節を通していろいろな山に登ってきました。OB会は初夏の総会と秋の親睦会をはじめ有志による月例山行やスキーなどいろいろな活動に取り組み、今年32年目を迎えています。近年参加会員の高齢化が進み、先達の方々の記憶や記録が薄れゆく状況にあることから、今までの活動をまとめ残していくことが急務となっていました。すでにOB会のホームページでは部やOB会活動の記録を蓄積整理して会員に提供してきましたが、この度1年をかけて手元に残る形として「30周年記念誌」を作成し、会員に提供しています。問い合わせは下記アドレスまでお願いします。

「伝統的登山を広めたワンダーフォーゲル部」  城島紀夫著

「部誌」と「周年誌」にみる学生登山の歴史

1,学生登山の近代と現代

近代に生成発展した山岳部

近代の学生登山の歴史は、その始期を帝国大学運動会が発足して学校の遠足や修学旅行が広まる契機となった1886 (明治19)年と捉えると、太平洋戦争が終結した1945(昭和20)年までの約60年間の活動であった。

1919年に施行された大学令によって私立大学の設立がはじまり、次々と山岳部の設立する学校が増えて学生登山が普及した。

1921年頃までは学生登山は、日本人が日本の山を歩くという古くからの伝統的登山が続いていた。

やがて登山方法に、もう一つ流れが生まれた。それは西洋から移入された雪と氷に挑む冒険的登山の流行であった。西洋の用具と登山技術が紹介され、学生山岳部の大勢は登山方法を先鋭化させてアルピニズムの時代とも呼ばれ、初登頂、新ルートなどの新記録に挑む先鋭的な活動が盛んにもてはやされた。

冒険心、登山技術、体力などの差異から個人山行が主体となっていた。次いで海外高山の雪と岩に憧れる風潮が強まり、活動がさらに先鋭化した。

一方で、1930年頃からわが国の伝統的な登山を愛好する学生が次第に増加し始め、山岳部の衰退が始まった。伝統的な登山を愛好する学生たちが山岳部から遠ざかっていったのである。しかし分化して山岳部と並ぶ新種目を組織することは困難なことであった。課外活動において「部」を認可する基準に「一種目につき一部」とい言う原則があったためである。

1936年にわが国で初めて明治大学ワンダーフォーゲル部が学友会・運動部への加入を承認され、スポーツの新種目が誕生した。近代において既にワンダーフォーゲル部が萌芽していたのである。これに先立つ1935年に立教大学と慶應義塾にワンダーフォーゲル部が設立されていたが共にともに体育会への加入が成らずに文化会に所属していた。1938年に、3大学による全日本学生ワンダーフォーゲル連盟が結成され、ワンダーフォーゲル部の普及活動が始まっていた。

近代という時期は、西欧から多くのスポーツが学校に移入されて、学生たちがその先導役を務めた時代であった。

 

現代に生まれたワンダーフォーゲル部の設立の波

現代の学生登山は、太平洋戦争が終結した後の1946 (昭和21)年から現在までの約70年間の登山活動の歴史である。

現代は「山岳部に入らなくても登山が出来る時代がやってきた」といわれて、ワンダーフォーゲル部が興隆し学生登山の本流となった時代である。学生登山は戦後直ちに復活したが、冒険的志向の山岳部は衰退現象が続き、伝統的登山を志向するワンダーフォーゲル部は大量の部員を迎えて発展への道をたどった。

戦後(近代)にはわが国の教育制度が大幅に変更され、全ての都道府県に新制大学が設置されるなどの教育の大衆化が始まった。近代における旧制高等学校への進学率は同世代の男子のうち1%以下であり、登山を行うのは経済的に恵まれた少数の学生であったが、現在で高校生の大学への進学率は50%を超えており登山を行う学生は大幅に増加した。

戦後の最初に復活したもんだフォーゲル部は明治大学体育会ワンダーフォーゲルであり、後続して設立されたワンダーフォーゲル部は、体育会に所属することが通例となり山岳部と並んで登山系の種目として定着した。

新制大学において体育実技が必修科目とされたことに伴って、キャンプを行う登山が人気を呼びワンダーフォーゲル部は急速に部員が増加した。現代の初期にはサイクリングやキャンプなどの青少年育成運動が行われており、ワンダーフォーゲル部の普及はレクレーションの普及とほぼ同期したものであったと見ることができる。

ワンダーフォーゲル部は1950年から1960年代の間に全国の大学の約160校に普及した。この普及の波は、戦後に新制大学に起こった新しい学生登山の普及の大波であった(拙著「ワンダーフォーゲルのあゆみ」を参照)。

各大学のワンダーフォーゲル部は多数の部員を迎え、それぞれに集団活動のための組織化を図り、夏山全員合宿を中心とした年間計画と実習訓練計画を定例化し、部誌を定例発行するなどの活動スタイルを築き上げた。戦後の教育の大衆化と共に生成発展した新しい登山文化の生成発展であった。

 

伝統的登山を受け継いだワンダーフォーゲル部

戦後に学生ワンダーフォーゲル部がたどった道は、冒険的な山岳のスタイルではない伝統的な登山を静かに普及させるあゆみであった。山岳部は「より高く、より困難へ」というイズムを掲げていたが、ワンダーフォーゲル部にはイズムというものはなかった。ワンダーフォーゲル連盟を通じて登山を「逍遥の山旅」などとしてわが国の伝統的な登山を広めていた。

ワンダーフォーゲル部の各部の活動内容はさまざまであったが、全員が参加して行う夏山合宿が例外なく行われ、年間活動の主行事として今日まで継承されて、ワンダーフォーゲル部の伝統となっている。

山旅は日本の文化であると広く言われている。登山の態度について記されたものを次に紹介したい。

田辺重治は述べている。「山旅という言葉は、日本の登山を表すのに好適な表現だと、私は前から信じている。ヒマラヤやアルプスの登山を山旅と称することは、決して適切な表現とは思われない。しかし日本に於いては、登山の旅は、単に山頂だけでなく、峠、高原、山湖、渓谷、森林、時には山村などをも対象とする、山岳地方の旅を含み、且つこれ等のものは、山頂に劣らず、それぞれ独立の価値をもって、登山者を誘引する魅力を持っているので、山頂およびこれ等一切のものを含む登山の旅を、山旅という言葉をもって表現することは極めて適切であると思う」(「わが山旅五十年」より)。

田口二郎は「アルピニズムの新しい波は、それ以前の伝統的登山を蹴散らしたのではなく、その堅牢な潮流の上に乗って進展した。日本の登山の流れを見ると、伝統的登山は登山の基層として存在し、アルピニズムはその上層として発展している」(「東西登山史考」より)としている。

これらの見解は、今日まで冒険的な登山に憧れる山岳部の出身者たちから無視されてきた。したがって、これまでに山岳部出身者などによって書かれた日本の登山史やそれに類する書物には大学ワンダーフォーゲル部の登山活動の歴史とその登山史的な価値は書かれて来かったのである。

2, 「部誌」と「周年誌」が語るワンダーフォーゲル部の歴史

1960あたりまでに創部した大部分の大学ワンダーフォーゲル部は、創部した直後から年刊の「部誌」を継続的に発行していた。このほかに発行されていたものは合宿報告書、部誌、周年記念誌、連盟の機関誌などである。これらの図書には、ワンダーフォーゲル部の活動の歴史を描き出す数多くの記録が残されており、これらは後世への文化遺産として貴重な資料であると思われる。

また各資料がそれぞれの時代の社会的な背景を映し出している点においても真に興味深いものがある。

本調査は筆者が数年間にわたって多くの大学ワンダーフォーゲル部のOB・OG諸氏の協力を得て入手もしくは借用したものをもとに行ったものである。この資料が日本山岳史を俯瞰する上で何等かの役割を果たすことができれば幸いである。

 

部 誌

ワンダーフォーゲル部では「部誌」と呼んで集団合宿などの集団活動の全記録を掲載しており、OB OGたちの若き日の活動記録を部員全員で執筆する伝統が継承されていた。OB会の絆の原点はここにあると思わせるものである。山岳部では「部報」と呼んでおり個人記録に重点が置かれていた。

部誌の主な内容は基本方針、年度活動方針、年間活動計画、役員・分担責任者、活動報告(全員合宿とフリー合宿)、随想、紀行、部規約、OB会員・部員住所録、部歌、地域研究などである。

大部分のワンダーフォーゲル部は1960年代の前半頃まで、年度ごとに「部誌」の発行を続けていた。発行が途絶えた時期には、学生の体育離れが始まり、同好会やサークルが多数発生し、これまでの集団的な活動が受け継がれなくなっていた。

その後に復刊して、現在も発行しているワンダーフォーゲル部には明治大学、早稲田大学などがある。以下に、ワンダーフォーゲル部が発行していた部誌名を紹介する(創部年順)。

なお山岳部が発行していた部報名については日本山岳文化文献分科会編「学校部会報」(2005年)に報告されている。

(部誌名一覧は省略)

 

周年記念誌

創部以来の歴史を集約してOB会が編集・発行した「周年記念誌」が2000年代を中心に多数発行された。部誌を基にして活動の歴史を巧みに要約した労作が多い。

創部以来の山行の全記録を一覧表としたものもがある。その代表的なものは、東京大学、明治大学、金沢大学、慶應義塾大学などのものであり、合宿回数、個人参考回数、日程、山域、コース、参加者名などの記録があって活動の時代的な推移も読み取ることができる。

また、部誌が休刊となって以降の登山記録を補って収録している点においても重要な価値がある。

ワンダーフォーゲル部と山岳部の周年記念誌の発行状況ならびに国立国会図書館と日本山岳会資料室に収蔵されている状況を【表・1】として報告する。

ワンダーフォーゲル部の「部誌」43編は、国立国会図書館収蔵が20編、日本山岳会資料室収蔵が5編となっている。山岳部の「部報」36編は、国立国会図書館収蔵が18編、日本山岳会資料室収蔵が24編である。

山岳部は、この他に海外遠征登山や山岳遭難を題材にした記念誌を別途に発行している。

(表・1は省略する)

 

連盟機関誌

全日本学生ワンダーフォーゲル連盟が機関誌(年刊)を1960年から1965年まで毎年発行した。

「ワンダーフォーゲル年鑑」と1964年から名称を変更した「ワンデルン」である。

各部の「内容一覧表」として、加盟している部の創立年月、部員数、部長・監督・主将名、加入局名(体育・文化)、部誌名、部室の有無、山小屋、部費、学校補助金、遭難対策金、合宿回数・日数、ワンダリング回数、個人山行の可否、などが記されており、大学のワンダーフォーゲル部が発展期から成熟期に向かっていた当時の模様が浮き彫りにされている。

この連盟は、大学ワンダーフォーゲル活動の情報交換の役割を終えて、1965年に解散した。

 

OB会が歴史資料を電子化

前記の「周年記念誌」などの歴史資料を収集して電子化(アーカイブなど)している東京大学ワンダーフォーゲル部OB会などの例が見られるようになった。

また横浜国立大学ワンダーフォーゲル部OB会は、ホームページに「歴史資料館」を開設して、公式ワンダリングの全記録、部誌の全集などを収録している。

右の様な電子媒体を利用した記録集はまだ少ないが、OB会が現役のホームページとリンクさせてホームページを開設する例は増加しており、現役とOBとの交流の機会が多くなりつつあるようだ。

「OB会報」を会員に印刷発送する方法から電子版で閲覧提供に切り替えるOB会が増加しているのも最近の状況である。

 

3, 両部の活動状況は

大学のワンダーフォーゲル部と山岳部の両部が活動している現況は【表・2】に示すとおりである。

調査対象とした大学は全国117校の総合大学であり、大学並びに各部の2016年度公式ウェブサイトを閲覧して行った。

戦前にはすべての大学に山岳部があったが、現在は様変わりとなり山岳部は大幅に減少している。

ワンダーフォーゲル部が活動している割合は国立大学の方が高く約90%である。公立・私立の方が約60%と低くなっているのは、レジャーブームといわれた1960年以降に新設された大学にはワンダーフォーゲル部が非常に少ないことが原因である。サークルや同好会などの多発による現象だと思われる。

部の公式ページに年間活動計画や活動内容の詳細を記載した部は半数以下であった。これらを見ると両部の活動内容が類似しており、この傾向は次第に進んでいるものと見られる。「山岳ワンダーフォーゲル部」が設立された大学も現れている。

調査対象とした大学名は拙著「課外活動に見る学生登山の現状と課題」日本山岳文化学会編集論第14号を参照されたい。

【表・2】は省略

活動が多様化

部誌の発行が途絶えた頃から、団体や組織を忌避する自己中心的な行動が広まり、個人主義が強まった。1960年代後半から部活動よりも自由な行動ができる同好会やサークルが多数発生し始めた。夏合宿の全員参加の伝統が崩れ始めたのもこの頃である。

70年代には大学進学率が25%を超えて、私立大学が増設され、続く80年代には大学のレジャーランド化が話題となりワンダーフォーゲル部の部員数も減少した。

1990年代から再び部員が増加し始めた。新入部員を獲得するために、登山以外の各種の野外活動を採用することが流行して、活動内容がますます多様化した。

近年では大学がキャリア教育の一環として、任意団体のサークルの結成を奨励し、届け出があれば大学が認可することが通常化している。学生にコミュニケーション能力を習得させることなどが目的とされている。

このような状況の中で、活動の目的が不明確化するワンダーフォーゲル部が増加しているのもものと見られる。

近年では、部活動の目的を「登山です」と明示するワンダーフォーゲル部が国立大学を中心にして次第に増加していることに注目したい。

 

おわりに

共同体意識にもとづく伝統的な記録文化としてのワンダーフォーゲル部の「部誌」の発行が、広く復活することを切に望みたい。


城島紀夫氏は1935年佐賀県生まれ。日本山岳会会員。日本山岳文化学会会員。

この稿は城島紀夫氏の承認のもとに日本山岳文化学会機関紙「山岳文化」第18号に掲載された表題を全文掲載させていただきました。

「大学ワンダーフォーゲル部の発足」 城島紀夫著

〜学生登山の戦後史と現況〜

日本山岳会「山岳」第百十二年 2017年8月 掲載資料


今から80年前の1936年(昭和11年)にわが国で初めて大学生のワンダーフォーゲル部が、課外活動において体育系の1種目として公認された。

ここに誕生したワンダーフォーゲル部(以下、WV部)は太平洋戦争終結後の1946(昭和21)年から新制大学において設立が全国に拡がり、大きく発展した。

 

I 学生登山の流れ

旅行部から山岳部へ

学生登山は、1910年代(大正時代初期)に旧制高校を中心に一高旅行部や三高旅行部などが設立されて、山旅が広まった。この年代に学校(中・高・大学)に設立された山岳系の部は、21校のうち10校が旅行部や遠足部やスキー部と名乗り、11校が山岳会や山岳部や登嶽部と名乗っていた。

この当時の我が日本人の伝統的な登山は、夏山を中心とした山旅であった。いくつもの社会人山岳会も、同様に夏山登山の活動を行っていた。

1919 (大正8)年に大学令が公布されて、私立大学の設置が認可されるようになり、続く約6年の間に旧制大学や旧制高校に次々と山岳部が設立された。1920年代には、部の名称も山岳部が多くなった。

1921 (大正10)年に槇有恒がアイガー東山稜の初登攀に成功した頃から、わが国に西洋流の登山思潮(アルピニズム)が移入され、当時の西洋憧憬の気風も手伝って、雪と氷の冒険的な登山が学生登山のなかでハイライトを浴びるようになった。

学生山岳部の活動は、数年のうちに雪と氷に加えて岩壁にも挑むようになり、冒険の度合を強めて先鋭化した。

学生登山が分岐した

次第に伝統的登山の愛好者たちの入部が少なくなり、山岳部の部員が減少していった。課外活動における学生登山の分岐の始まりであった。伝統的登山を愛好する学生たちにとっては山岳部から分化した新しい登山系の部が発生することが望まれていたのだが、大学の課外活動においては、新たに部を認可する基準の中に(一種目、一部)という原則があったために、新しい登山系の部を創設することは困難であった。

このような背景から、多くの山岳部においてアルピニズムを愛好する部員たちが大半を占める結果となっていた。

また当時の課外活動においては、部以外の任意の同好会やサークルに対する援助が一切認められていなかったのである。一方で社会人の山岳会においては登山思潮や登山スタイルに応じて分化が進み、新しい集団が生まれていった。

このような流れを、田口二郎は次のように述べている。「大正後期にアルピニズムが渡来した時、学生登山は従来のスタイルのものと新しいものとに分岐した。新思潮のアルピニズムを奉じて新生した山岳部があり、また古くからある山岳部で新旧の二つの内容を持って発展したものなど、さまざまであった」と。(「東西登山史考」)

スポーツの新種目とっなたWV部

1936 (昭和11)年2月に、わが国で初めて明治大学WV部分が体育系の登山種目として認可され、学友会運動部会への加入を果たした。

この年に設立して活動を開始していた立教大学と慶應義塾大学のWV部は、両部とも体育会への加入を認可されていなかった。

このあと間もなく太平洋戦争が始まり、大学における全ての課外活動は休止の状態に追い込まれた。WV部の活動も、後続の設立を見ないうちに中断された。

II  WV部が本流となった現代

山岳部との違い

WV部と山岳部との相違について、従来から対比的に言われてきた数々の説明を要約して紹介しよう。

山岳部・・氷・雪・岩に挑む、海外遠征、自然と対決する、冒険主義、アルピニズム、ヒロイズム、登頂や登攀が第一(記録主義)、より高く・より困難を目指す、少数、個人、などである。

WV部・・夏山合宿、部員全員合宿、縦走登山、自然に親しむ、安全に、尾根や渓谷や深林や里山等を辿り景観を得る、厳冬期の登山は行わない、多数、共同行動、などである。

ただし山岳部の活動が前期のように先鋭的になったのは、西洋式の氷や雪に挑む登山方式がわが国に移入されて以降のことである。それ以前の山岳部は、夏山と山旅を中心としており、今日のWV部と似通った活動を行っていた。

深田久弥も「昔の山岳部は、多分にワンゲル的であった」と述べている。(「瀟洒なる自然」)

戦後に発足・発展したWV部

わか国において大学WV部が発足した状況は【表・1】として表し示す一覧表のとおりである。これらの事実は、これまでに書かれた登山史にはほとんど記されていなかったものである。この表は、戦後の学生登山の歴史のうちWV部にかかる資料として、多くの部誌や周年記念誌などを基に筆者が作成したものである。

WV部設立の大きな波は、関東から関西へと及んだ。関東地区では私立大学が先行し、その他の地区では国立大学が先導役割を果たした。

太平洋戦争が終結した翌年1946(昭和21)年に、明治大学WV部(体育連合会加入)、と慶応技術大学WV部(文化団体連盟加入)が活動を開始した。両校ともに戦時中に休止していた部活動の再建、復活であった。

続いて1948 (昭和23)年に中央大学において戦後初めてWV部が創設され学友会体育連盟に加入した。

後続してして設立したWV部は、体育会で加入することが通例となった。

同年に、前期の大学WV部が全日本学生ワンダーフォーゲル連盟を結成して、関東地区の大学に向けてWV部の設立奨励運動を開始した。併せて大学関係者に、山岳部との相違点を周知させることも同連盟の使命であった。

その後1949年に早稲田大学WV部創設(体育会加入)、1950年法政大学WV部創設(体育会加入)と続き、1951 (昭和26)年に東京大学において国立大学で初めてWV部が発足した。東京大学WV部は1955 (昭和30)年に全日本学生WV部連盟に加入し、1960(昭和35年)年にはOB会を結成、1961 (昭和36年に運動会(体育会)への加入を認可された。

国立大学におけるWV部の設立は、東京大学WV部が先例となってお茶の水大学、北海道大学と続き、全国に普及した。

女子大学における最初のWV部は、1954 (昭和29)年にお茶の水大学で誕生した。次いで東京女子大学、津田塾大学、女子美術大学、奈良女子大学にWV部が誕生し、女子大学においても登山系の部活動が盛んになった。

女子大学の山岳部は、この前年1953(昭和28年)年に東京女子大学において誕生していた。【表・1】に見られるように、大学WV部の普及は、終戦直後の1946(昭和21)年から1955 (昭和30)年までの10年間に関東を中心とする20の大学に拡大して、新しい登山文化が構築されていった。

続いて1965(昭和40)年までの10年間の間にはさらに数137の大学でWV部が設立された。この結果1965(昭和40)年当時には、わが国の国立大学73校のうちで56校においてWV部が活躍するという盛況となった。

戦後の教育制度の変革によって、教育の大衆化が進み大学への進学率が上昇するとともに大学が増設された。これに連れて1960年代にはWV部の活動が全国的な人気を呼び、各大学WV部において山岳部を超える多数の入部者を迎えた。1960年代後半から1970年代前半が、WV部の大量部員時代とも呼ばれた時期である。

1965(昭和40)年当時の部員数は大阪大学・316名、関西学院大学・84名、神戸大学・112名、中央大学・142名、東京大学・107名、明治大学・97名、横浜市立大学・44名となっていた。

また部員数の推移について東京大学WV部に例をとって見ると、1970年に70名、1980年に66名、1990年に46名、2000年には27名と推移しており1965年頃が最多であった。他の大学WV部においても、ほぼ同じ傾向で推移した。

1960年代の後半あたりから、体育系の各部の部員数が減少し始めた。大学生たちの課外活動における体育離れと呼ばれた現象が始まった。規律を求められる部活動よりも任意性の高い同好会やサークルの方に人気が集まるようになった。多くのWV部において、夏合宿を部員全員参加制から任意参加制に変更するようになった。

以上に述べたように戦後に大発展した大学WV部の活動は、戦前に山岳部から分岐した伝統的登山の愛好者たちの大きな流れが、アルピニズム移入以前のわが国旧来の伝統的登山を、課外活動の中に回帰させた現象であったと捉えることができる。

田口二郎も「大正後期に登山界がアルピニズムを主流とするようになってからも、日本の登山の牢固とした底流として生き続け、日本の土壌に育まれたそれ(伝統的な登山・筆者注)は、戦後にはアルピニズムと並ぶ登山の二本の本流の分一つとしての地位を築いて来たのである」と指摘している。(「東西登山史考」)

急速に発展した背景は

1949 (昭和20)年の新制大学の発足と同時に、教育課程において大学生の体育実技が初めて必修となったため、WV部、山岳部、野球部等が行う実習行事が単位認定のための正式課目として取り扱われた。大都市にある学生数が多い大学は体育施設や指導者が不足しており、体育実技の単位を与えるための臨時の処置を必要としていた。

正式課目として認定されたWV部、山岳部、野球部等の部員には、部長や監督の証明によって体育実技の単位が授与された。またこれらの部が主催する実習に一定時間以上の参加をした学生には、実習の責任者の証明によって単位が授与をされた。この実習において、ワンダーフォーゲル部が主催したキャンプと登山が人気を集め、WV部の入部者が増大し始めたのであった。

このような状況に加えて、大学数と学生数の増加が続いたことや、経済成長による娯楽の普及などを背景として大学のWV部は大きく発展した。

高等教育を受ける学生の登山は、戦前は少数の富裕階層の若者に限られていたが、戦後は教育の大衆化によって多数の学生に登山活動が行き渡ったのである。

合宿先と参加者数

大学WV部が発足した初期の夏季合宿は部員が全員で参加することが原則とされており、その行き先と参加者数は次のようなものであった。

東京大学においては、1953年・南アルプス(26名)、54年・奥秩父(20名)、55年・志賀高原(50名)などと記録されている。明治大学の場合は、1953年・戸隠山(7日間、118名)、54年・奥日光(8日間)、55年・笹ヶ峰(8日間、117名)などと実施された。夏季合宿以外の山行もテント合宿を原則として、縦走登山を中心に活動していた。

山小屋の設立とOB会の結成

戦前には、大学が管理する山小屋は、山岳部の活動施設として大学が建設していた。

わが国で最初のWV部専用の山小屋が、1954 (昭和29)年に明治大学WV部のOB会によって建設された。これが前例となって、大学のWV部は山岳部とは個別の山小屋を建設することが通例となり、山岳部と並んで登山活動を行うWV部の伝統として定着した。

山小屋の建設は、明治大学に続いて1956年に中央大学、1958年に慶應義塾大学、1959年に工業学院大学と続き、一橋大学、京都大学、九州大学、東京大学、金沢大学、などの国立大学を含めて全国にWV部に及んだ。

多くの大学WV部のOBたちが、山小屋の建設事業を契機としてOB会を結成し小屋の建設資金の拠出や設備の寄付や現役部員の活動費を補助する事業が始まった。新しくWV部を創設して活動する現役役員にとってOB会からの補助金は、テントなどの装備調達費用や年間活動費の一助となる欠かせない資源であった。

WV部は部員数が多いため卒業年次ごとの同期会がそれぞれに会の名称を掲げて集う例が多く、この同期会が伝統的に継続されているWV部は全体のOB会も盛況となっているようだ。これらのWV部OB会は、OB会報を発行している例が多い。最近では、会員への郵送に代えて電子化して配信する例が東北大学などに見られる。現役部員とOB会が創部以来の「部誌」を会員から収集し電子化して、会のウェブサイトで公開する事業が始まっている。横浜国立大学、東京大学などである。

部誌と周年記念誌

発行されていた部誌の名称、ならびに近年に発行された周年記念誌は、【表・1】に示すとおりである。

1946 (昭和21)年に慶応義塾大学と明治大学のWV部が年刊の「部誌」の発行を再開した。続いて創部したWV部は、ほぼ例外なく設立直後から部誌を毎年発行していた。

当初には多くのWV部が、部誌によって各種の情報交換を行い、また地域ごとの連盟の結成や合同山行(合同ワンダリング)などを始める契機となっていた。

部誌には年間の活動記録が参加者氏名とともに詳細に記録され、合わせて部員が全員で紀行や随筆などを執筆していた。巻末には部員名簿(卒業年次、氏名、住所など)が必ず搭載されており、OB会の活動資料として活用されていた。

部誌は1960年代の後半あたりから、部員数の減少によって発行が途絶える状態となった。現在も年度ごとに部誌の発行を続けているWV部は、慶應義塾大学、明治大学など少数だと見られる。

部の創設以来50周年を迎えて「周年記念誌」を発行するWV部が2000年代に増加した。OB会が発行したこれらの周年記念誌は、過去に発行した年刊の部誌をベースとして創部以来の歴史が編纂されているため、部の伝統や年次ごとの特徴的な活動が伝えられており、時代背景を映し出しているものが多い。年度ごとの部誌の発行が途絶えると、将来には密度の濃い記録としての周年記念誌の発行が困難になるのではないだろうか。

Ⅲ学生登山の現況

WV部と山岳部の活動状況

現在の大学のWV部と山岳部の活動状況は【表・2】に示すとおりである。

全国の総合大学117校を調査対象として、各大学並びに両部の2016年度公式ウェブサイトを閲覧して調査を行った。

山岳部は近代(戦前)まではほぼ全ての大学で活動していたが、戦後には休部や廃部が続いたために部数は年々と減少しており、今日ではWV部の方が多くなっている。

活動している両部の部数を国立大学について見ると、51校のうちでWV部が45校(約90%)で活動しており、山岳部が29校(約57%)で活動している。

国立と公・私立の合計で見ると、WV部が84校(組織率・約72%)であり、山岳部が55校(組織率約・47%)となっている。

最近のWV部の部員数(2016年度)を見ると、大阪大学・31名、金沢大学・53名、関西学院大学・37名、九州大学・69名、京都大学・35名、慶應義塾大学・42名、中央大学・43名、東京大学・27名、北海道大学・22名、明治大学・49名、早稲田大学・18名等となっており、全国的に幾分増加の傾向にあるものと見られる。

活動多様化の模様

昨今の年間活動内容は各部によってまちまちであるが、大きく次の三つに区分することができる。①登山を中心とするもの、②登山のほかにアウトドア種目を取り入れて、年度ごとに部員の意向に応じて企画するもの、③登山活動は行わず、他のアウトドア種目の中からその都度企画するもの、である。このうち②と③は年間計画が不明確であり、年度初めに年間計画を定めない分も多く見られる。

①の例として明治大学ワンダーフォーゲル部の年間(計画(2016年度)を見よう。次の三種類の活動が企画されている。

(1)全員参加生の公式合宿(7回)、(2)自由参加制の公式合宿(6回)、(3)部員同士で行うフリープランが月一回程度、である。

(1)の全員参加合宿の内容は、新人歓迎ハイク、新人養成・2泊、初夏・2泊、夏期・7〜10泊、小屋整備・2泊、秋期・2泊、春期・2〜4泊として構成され、(2)の自由参加の公式合宿は、OB会と共同の小屋合宿、リーダー養成、正部員養成、秋期、山小屋整備、ゲレンデスキー、春期の各合宿とされている。厳冬期登山は禁止している。

多くの大学において、近年ではWV部と山岳部がほぼ同様の活動を行っている例が増加しており、この傾向は年とともに進んでいるものと見られる。私立大学において登山を行わない前記③の区分に属するWV部の中には活動内容を「アウトドア全般」とするものもある。

また、山岳部の中には登山に代えてフリークライミングを中心に活動する部も出現している。

大学WV部が登山の他に採用している種目は、サイクリング、フリークライミング、ボルダリング、カヌー、無人島合宿など種々雑多となっている。

教育の一環として行われている課外活動としては、各部ごとに一定の目標を定めることが必要だと思われる。

最近では、活動内容を「登山ですと」と明示する例が国立大学において増加している。WV部と言う名称は活動の内容を表していない。活動種目を特定して、活動種目名を部の名称にすることもWV部の今後の課題だと思われる。

参考資料

各大学のワンダーフォーゲル部ならびに山岳部の「周年記念誌」

城島紀夫「ワンダーフォーゲル活動のあゆみ」(古今書院)


この研究論文は「ワンダーフォーゲル部のあゆみ」の著者である城島紀夫氏が日本山岳会の機関紙「山岳」に掲載したものです。本人の了承を得て本ホームページに掲載させていただきました。

城島紀夫氏からお手紙をいただきました

本ホームページでは日本でワンダーフォーゲル部がどのようにして出来たのかを解説した城島紀夫氏の著作の「ワンダーフォーゲル部のあゆみ」を紹介したところ、先日、城島氏本人からDWVの成立についての問い合わせをいただきました。

DWV創立時に打矢、森本両先輩によって認められた「ワンダーフォーゲル」という資料を紹介したところ、参考にということで日本山岳会の機関紙に掲載した「大学ワンダーフォーゲル部の発足」と日本山岳文化学会の機関紙に掲載した「伝統的登山を広めたワンダーフォーゲル部」という2つの資料をご提示いただきました。日本でWV部がどのようにして出来たか、そしてその変遷と現況について知る貴重な資料ですので、城島氏から了承を得たのでホームページに掲載することとしました。なお、城島氏にはDWV.OB会の30周年記念誌を謹呈させていただきました。

こちらからご覧いただけます

メールマガジン11月号/2018

獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会 オンラインマガジン 2018 / 11/30
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【1】葱っ平」(ねぶかっぴら)はどうして平らじゃないの
【2】あなたは登山道何級?
【3】中高年登山の疲れない体づくり
【4】白神岳避難小屋改修工事
【5】丹沢山地の生い立ち
【6】行ってきました 山行Now
【7】編集後記
【8】記事の募集とメールマガジンについて
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【1】葱っ平」(ねぶかっぴら)はどうして平らじゃないの
 
白馬大雪渓を登りきり、右側の尾根の急な斜面の取り付きから小雪渓辺りを「葱っ平」(ねぶかっぴら)と言います。白馬岳の固有種であるネギボウズの形をした薄紫色の花をつけるネギ科のシロウマアサツキ(白馬浅葱)が自生していたことから葱平という地名になったということです。
しかし、”平”という名が付くのに、平らどころかかなり急なのはどうしてでしょうか。
実は”ひら”は日本語の古語では急斜面の地形のことを言うそうで、アイヌ語でも”びら”と言うそうです。今の使い方とは反対の意味があったようです。東北地方の北部の山中では、今でもその古語が残っていて、山の急斜面を「ひら」といい、それをフィラと発音しているそうです。
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【2】あなたは登山道何級?
江戸時代の武芸や武術は近代、山岡鉄舟(剣術)や嘉納治五郎(柔術)に代表されるように技術本位のあり方から修行を通して人間形成を目指す生き方としての”武道”として発展していました。茶道、書道、華道や香道も同様でしょうか。
同時に西欧からはリェクリェーションとしていろいろな近代スポーツが導入されました。また、その中で両者は際立って行った経緯があったようです。
”残心”や”礼儀”が象徴するように精神を磨くことを目的とした「道」と遊びを楽しむスポーツと、それを発展していつた競技などは同じようなスポーツでも若干?あるいは本質的に?方向性が違っているようです。
登山やワンダーフォーゲルはどうなのでしょうか。
山は「神の居る場」としての考えのもとに、その懐を修行の場としてとらえた山岳信仰と西欧から導入されたスポーツとしての近代登山と分けて考えることができます。
近代登山の導入によって登山はスポーツとして広く一般に受け入れられて発展していきました。
その中で、登山も「道」へと位置付けて階級を設けるような運動があったようです。
 
1940(昭和15)年に日本山岳会関西支部では登山に段級制度を導入していた時期があり、幹部は登山道二段など、一級から三級、初級、二段、三段など段級に制度化していたそうです。
しかし、長続きすることなく立ち消えになったようです。登山界も戦時色が強くなり、軍事教練や行軍登山的な登山が推奨されていたことも影響があつたのではないかと言われています。
今は、人ではなく登山ルートごとに入門者、初級者、中級者、上級者という大枠が設けられており、県別にはそれぞれの山やルートのレーティングが細かく示されています。
 
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【3】中高年登山のバテない体づくり
登山やトレッキングはゆっくり歩いている分には乳酸がたまることなく歩き続けることができるので、中高年のスポーツとしてはとても向いているそうです。
中高年登山の基本はスロースピード。1.5倍くらいの時間設定のもとに計画を立てることが必要なようです。
ただ、中高年でもトレーニング次第で1拍動で送ることのできる血量を増やしたり、心拍数を少なく調整出来ることによって疲れにくい体を作ることができるそうです。また、栄養の摂取や休憩の仕方などもバテない山行をする上で大事なポイントになるということです。
①筋トレによる最大酸素摂取量の向上とストレッチ
踏み台昇降や速歩を週3回程度、1日30分〜40分程度のオーバーロード(過負担)のトレーニングにより向上させることが出来るようです。また、山行の前と後にはストレッチに努めることが効果的なようです。
②効果的な栄養の摂取と休憩
日頃からタンパク質やビタミンなどをバランスよく摂取し、山行前には糖質を十分摂取して蓄積しておくとがバテないからだを作っていくことになるそうです。
また、登山中は糖質やナッツ類(マグネシウム)をこまめに摂取することがいいそうです。昼食としてまとまった食事は摂らず、行動食だけで済ませることも考慮できるということです。
小休止は立ったままで心拍数が平常値になるまで屈伸などをするなどしながら休むのがいいそうです。また、大休止は足を心臓より高くして座って休むようにし、疲れた場合は横になって休むと回復が早いそうです。昼寝も効果的なようです。
==出典は山歩きのサイエンス(中高年の健康と医学Q&A) 宮下充正著から==
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【4】白神岳避難小屋の改修工事
青森県深浦町では町所有になっている白神岳避難小屋が老朽化し、修復の必要ができたので修復費1,000万円のうち500万円を「ふるさと納税制度」を活用したいと呼びかけたところ、1ヶ月余りで目標額に達したということです。
引き続き寄付は募っているということですが、こういうのが「ふるさと納税制度」の本来の姿なのかもしれません。
牛肉目当ての寄付や「ふるさと納税制度」に頼らなくてはならない地方行政の収入源格差など「ふるさと納税制度」の問題はいろいろありますが、今後クラウドファンディングや「ふるさと納税制度」を利用した山の整備が進んで行くのかも知れません。
【5】丹沢山地の生い立ち
伊豆半島はかつて太平洋に浮かぶ火山島群で、プレートの移動とともに本州に衝突したということはよく知られています。
DWVでもボッカ訓練でよく登っていた丹沢山地も同じように太平洋上にあった海底火山の噴出物の隙間にマグマが上がってきて固まったものが火山島になり、ブレートに乗って本州に衝突、遅れて伊豆半島を形成する岩体に押し出されて隆起して山地となったということです。
マグマが深い所で冷えた深成岩の石英閃緑岩(トーナル岩)を基盤として、熱変性によってできた変成岩とによって形成されているようです。
NHKの「チコちゃんに叱られる」ではないですが「ボーっと、山登ってんじゃねいよ!」じゃなく地形や樹木・草花を意識しながら登ってみるのも面白いと思います。
ちなみにマグマが冷えて固まった火成岩は「新幹線は刈り上げ」で覚えられます。
「し:深成岩、か:花崗岩、せ:閃緑岩、は:はんれい岩、か:火山岩、り:流紋岩、あ:安山岩、げ:玄武岩」です。
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【6】行ってきました 山行Now
三頭山(地質と植生) 2018年11月3日
「山の自然学講座」という”山の自然学クラブ”が主催している山の地質と植生など中心に学ぶ講座に参加しました。
座学と年3回の現地講習がありましたが、今回は最終回で三頭山の地質と植生について増澤直先生からいろいろと教えていただきました。こんな風に自然をディープに楽しみながら登ってみるのも面白いものです。
岩櫃山(802.6m)群馬県 2018年11月15日
NHKの大河ドラマ「真田丸」のタイトルバックにも登場している群馬県の「岩櫃山」に登ってきました。OB会の月例山行でも度々登っていて記録も見ていただけるといいと思います。
壁の裏から登るので険しいというほどでもありませんが、「天狗のかけ橋」という両端が切れ落ちいてる岩のブリッジを通過しなくてはなりません。ひよって、迂回路に回ってしまいました。
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【7】編集後記 
先日、主管だった上林先生をお招きしての獨協中学校の同窓会に出席しました。いろいろ昔話で盛り上がりましたが、その席で当事校長だった天野貞祐先生の話がでました。
講話朝会でカントがどうだとか、目標を遠きにおいて・・とか話されていたことを覚えていますが、天野先生は獨協学園の徒競走が嫌いだったそうです。
それで、獨協の運動会では校長の話を早々に切り上げて、学校を抜け出して理事長をしていた「自由学園」の体操会?のマスゲームを見に行っていたそうです。
道徳的な天野校長と「自由学園」とはイメージが結びつきませんでしたが、そんなこともあったんだと思いました。
仕事が立て込んでいてこのメールマガジンも月末に送ることになってしまいましたが、なかなか山にも行く機会が持てません。運動もせず体は太る一方です。正月を前にシェイプアップのためにもどこか登ってきたいと思っています。
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【8】記事の募集とマガジンについて
 
このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

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獨協中学・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会 オンラインマガジン 

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岩櫃山(802.6m) 群馬県

2018年11月15日 岩櫃山

岩櫃山はNHKの大河ドラマの「真田丸」のオープニングのタイトルバックの映像にも登場した群馬県東東町にある岩峰が印象的な山である。真田氏ゆかりの岩櫃城跡や潜龍院跡(古谷御殿跡)などの史跡も残る。


駐車場は東側の古谷登山口と西側の平沢登山口にある。今回は古谷集会所にある登山者用駐車場に車を駐めて、蜜岩通りから岩櫃山に登り、岩櫃城本丸跡まで行き登り返して赤岩通りを経由して潜龍院跡、赤岩登山口に下山して古谷駐車場に戻る計画だ。

集会所のトイレは外部に独立していて自由に使うことができる。この駐車場は岩櫃山の2合目にあたるということのようだ。コースは短いものの山中での表示は丁寧すぎるほど設置されていた。

左手に蜜岩神社の表示があるが登山道は岩櫃山の表示通りに道を進んで行く。

ポイントごとに真田氏の六文銭ののぼりが立っていた。

古谷T字路

左手は蜜岩登山口方面、右手は赤岩登山口方面になる。今日は蜜岩登山口から登り、時計回りぐるっと回って赤岩登山口に下りてくる予定である。

町指定の大隅桜

鞍部まで登って岩壁の裏に回って頂上を目指すことになる。

蜜岩登山口からのルートは「天狗のかけ橋」をはじめ鎖場や梯子がある比較的険しいルートなので登山口にはレーティングの表示や危険な場所がある旨の注意書きの札がたくさん立てられていた。

鎖場は使わなくても済む程度から始まる。新しく設置された鎖は頑丈で、よく整備されていた。

岩櫃山は中世期の火山活動によって形成された山で、上部は安山岩質凝灰角礫岩と安山岩溶岩などの肌理細かいベースにゴツゴツした石が混ざって飛び出している火成岩のようです。

いくつか鎖場や梯子を越えて行くと、いよいよ「天狗のかけ橋」の表示が出てきました。大岩を回り込んで行くと石のブリッジの「天狗のかけ橋」が現れました。

両端が切れ込んでいてゴツゴツした岩が盛り上がっており、部分的にはまさに石のブリッジになっていました。この1m弱が怖くて立ちつくしてしまいました。壁ならば多少高度感があっても登り下りできますが、こういうのが極めて苦手としているので、足がすくんで進めません。引き返して迂回路に逃げてしまいました。

上から見た「天狗のかけ橋」です。

鷹ノ巣遺跡はよく分からず通り過ぎてしまいました。

真下に集落が見える壁をトラバースして行きます。

写真を写すの忘れてしまいましたが、頂上直下には丸く膨らんだような大岩があり、それを越えて行きます。鎖が2本かけられていて結構高度感があります。鎖で囲まれた岩櫃山、頂上到着です。

先には尖塔のようなビークが聳えていて、その頂上には何人かの人が座り込んでおしゃべりをしているのが見えました。

ビークを越えるとあとは険しいところはありません。沢通り、尾根通りを通って本丸跡に向かいました。

まっすぐな大木がどかっと橋のように倒れていました。

一本槍
天狗の蹴り上げ石

天狗岩

岩櫃城本丸址に到着です。

赤岩十二様通りを下りて行きます。

途中、シチューとカップヌードルで昼食をとりました。

 

途中に郷原城址を通ります。

平らな広場に出ました。ここが真田昌幸が武田勝頼を迎えるために3日間で建てたといわれる古谷御殿跡になります。後に潜龍院というお寺があったことから、潜龍院跡と呼ばれています。

十二通り登山口

赤岩登山口

起点となる古谷T字路まで戻ってきました。

駐車場到着です。雲ひとつない青空に紅葉と岩山が綺麗でした。

S47年卒 手島


コースDATA

古谷登山者用駐車場9:55 (密岩通り)    古谷T字路10:05 密岩通り登山口11:15 尾根鞍部10:40 天狗の架け橋10:45 鷹ノ巣遺跡分岐10:55    御厩11:00 岩櫃山頂上11:05 (沢通り)    天狗の蹴り上げ岩11:30     沢通り6合目 櫃ノ口11:35 天狗岩11:47    尾根通り5合目 赤岩通り分岐 岩櫃城本丸分岐   岩櫃城本丸跡11:55      (尾根通り) 赤岩通り分岐12:35      旧道分岐12:38 (十二様通り) 郷原城跡13:10 潜龍院跡13:15      赤岩登山口13:17      古谷T字路13:23      古谷登山者用駐車場13:25

「三頭山の地質と植生」

「山の自然学講座」現地研修会に参加して

2018年11月3日(文化の日)

山の自然学クラブが主催する山の自然学講座2108の「三頭山の地形と植生の観察/ブナ林の現状」をテーマとした現地研修会に参加してきました。講師は学芸大で小泉武栄先生に指導を受けた増澤直さんによるものです。増澤先生はブナを始め三頭山の地質と植生について1980年代から研究されている方です。

秋の連休ということで武蔵五日市の駅はたくさんのハイカーやサイクリストで溢れかえっていました。数馬行きのバス停には既に長い行列が出来ていました。定期便のほかに3台臨時バスを出すということでした。先に並んでいる人から順に4台に分乗して座らせ、残りの人は好きなバスに立ち席で乗り込みました。

運よく途中で降りた人がいたので途中から座わることができました。通常ならバスは数馬で乗り換えのはずですが、「都民の森」まで直通で行けました。

都民の森の駐車場で受付を済ませたところ本日の研修会の参加者は18名ということでした。

森林館へ向かう道は途中で二手に分かれます。左は階段の急登、右はスロープを上がってからトンネルをくぐります。

森林館で講師の増澤先生が待ってぃて、オリエンテーションがありました。先生は病み上がりということでまだ体が本調子ではないとのことでしたが、長靴ばきで他を圧倒するスピードで登り下っていました。

三頭山をはじめ奥多摩の山は急斜面が多いのが特徴だということでした。駐車場から続く左の山側の斜面は大石がゴロゴロとした急斜面は重力により上部から崩れてきた土砂が堆積した構造で、35度程度の安定した斜面で崖錐(がいすい)という地形ということでした。崖錐は下部ほど大きな岩が堆積するようになるということでした。通気性があり適当に保水性もあるのでトチノキ、カツラなどが好む地形だそうです。

森林館から三頭大滝に向かってチップが敷かれた道(大滝の路)を進んでいきました。

はじめに現れた露頭の岩石は中生代に形成された「砂岩」でとても硬い石だそうです。硬砂岩地域は全般的に急傾斜で、痩せた尾根と深い谷がくり返し、岩がちの険しい地形を作っているということでした。尾根筋ではイヌブナやミズナラ、モミやツガなどが自生し、谷筋ではカエデなどの樹木によって構成されているということです。

次に現れた露頭はちょっと砂岩とは様子が違っていました。目は細かいですが、表面に細かい摂理があり触るとボロボロと崩れる泥岩ということでした。三頭山の下部は砂岩や泥岩が互層ををなしているということでした。

杉などの常緑針葉樹が植林された林の中をしばらく進んで行きます。

山側がコンクリートブロックで保護された擁壁が現れます。そこは元々は谷で何らかの理由で土砂等によって埋まってしまった「埋積谷」という地形とのことでした。昔の人はそれが分かっていて、埋積谷の部分にはスギを植林し、他の部分はヒノキを植林したということです。スギは水気が多く、直根性で土質が深い所に育つ樹種で、ヒノキは土質が浅く、広がる根を持っているということから地形に基づいて樹種を選んで植栽したことが伺われるということでした。

先を行くと、落葉樹が現れ始めます。

植林エリアから自然林のエリアに入ってきました。落葉樹が綺麗に紅葉していました。三頭山のエリアは秩父多摩甲斐国立公園の中にあって特に自然が多く残されたエリアだそうです。東京都の水源涵養林ということですが、古くは江戸幕府の御林(留山)であり、その後も宮内省御料林として管理保護されてきたので、植林も進んで入るものの、自然がよく残っているということでした。また、太平洋岸では数少ないブナ林が自生している地でもあり、国立公園の中でも特別保護地域に指定されています。

ケヤキの大木です。ふだん街路樹で見られる箒を立てたような樹形とは異なるダイナミックで力強い樹形です。

ケヤキの種子はエリアによって数年ごとに異なって実るそうでする。先端の数枚の普通の葉より小さい葉にはタネが形成され、他の葉より先に枯れて落葉するのだということでした。この辺りのケヤキは今年が成り年のようだということでした。

モミやツガの大木も尾根筋に見られました。

このカエデ(イロハモミジ)は植栽されたものですが、全山紅葉が綺麗でした。

しかし、「都民の森」エリアは自然林が多く残るエリアなの、残念ながら都市公園のように整備されたために本来の自然な植栽にはなっていないようです。

三頭大滝に到着です。三頭大滝には滝を見るためだけの行き止まりの吊り橋が設置されています。

この辺りに転がっている岩石は角が多少丸まっている岩石で、水の流れの中で削られたのでなく岩石の性質上角や表面が風化しやすい火成岩の閃緑岩あるいは石英閃緑岩ということです。閃緑岩は三頭山の上部を形成している岩石のようです。しかし形成後、熱せられたマグマが下から上がってきた貫入によりためにホルンフェルスという硬い変成岩になったということでした。

ホルンフェルスの河床は硬く削られず、比較的脆い閃緑岩が削らることによって段差ができて滝が形成されたということでした。

三頭大滝から「石山の路」を少し上がった所から登山道を離れ沢沿いに上がっていきました。

上部を歩いてみると現在の穏やかな流れの脇にこんもりと高くなった所があます。これは1991年の台風によって上流から流されてきた土砂が堆積して出来たものだということでした。台風による降雨は1時間に150mmもあったということで、洪水により2mも水位が上がったということでした。

この谷川沿いにはシオジとサワグルミが自生しており、よく見るとサワグルミは沢に近い所に自生し、シオジはサワグルミより少し高い所に生えていました。シオジやサワグルミは他の樹種と違い生長が早いということですが、それは洪水などによって倒れてしまうリスクが高いためより早く成長して子孫を残そうとする生き残り作戦のためということでした。

今度は右の急な尾根を上がって行きました。はじめは足元がビチョビチョでしたが、ブスブス、そしてカサカサに変わって行きました。乾いた比較的緩やかな斜面になった所からブナの大木が所々に見られるようになるということでした。ただ、個体数はそれほど多くはありませんでした。ブナは幹肌が白っぽヌメッとした感じの樹木です。

多くのブナ林は林床に笹が茂っていることが多いそうですが、三頭山のブナ林はにはササはあまり見られません。ブナは日本海側の豪雪地帯に多く見られますが、太平洋側のブナは雪が少なく夏場乾燥しているので葉が小型化していて幹肌も寒冷地ほど白くないということでした。丹沢のブナの方が個体数は多いようです。

頂上にかけてブナの大木は見られるものの、後継となる幼木は見当たりませんでした。三頭山のブナは日本海側のブナに比べて成長が遅く樹齢250年くらいということでした。ブナの成木は尾根に集中し、幼木は谷筋に集まっているものの個体数は極めて少ないということでした。

講師の増澤先生が調べた結果では、残っている成木がそもそも少ないので基本的に実生の数は少なく加えて冬場ネズミが実生を食べてしまうことで残っていかないそうです。基本的に関東地方の気候はにブナは合わなくなっていて、いずれ消滅してしまうのではないかということでした。

急な斜面でずり落ちないようにして昼食をとりました。数年前の研修では携帯を落とした受講生があり、見つからずじまいだったそうです。

昼食後、斜面を下りて道を引き返しました。

講師の先生から見せたいものがあるからと、ムシカリ峠と見晴小屋コースの分岐を野鳥観察小屋方面に進んで行きました。観察小屋の下から左の谷を少し上がってくと苔むした大岩がゴロゴロ積み重なった場所に行き着きました。ここは氷河時代に出来た岩塊流という地形だということでした。これは氷河時代には三頭山もアルプスの山頂部ような森林限界を越えるような位置にあったという痕跡だそうです。

最後に休憩所で1991年の台風の時の写真を見せてもらいました。駐車場あたりにも洪水により大量の土砂が流されてきて1年間もの間補修が必要になったということでした。自然災害だったのか公園として不自然な開発したためなのかと当時再び問題になったとのことです。車椅子でも通れるよう、またトイレの設置にともない汚物の回収のため軽トラも通れるよう道の拡幅工事が必要ということで自然が削られ、土砂が谷に投げ捨てられたそうです。自然と親しむためにどこまで自然への負担が認められるのか考えさせられます。

あずまやから旧道を通って駐車場に戻りました。

駐車場にはバスを待つ人がたくさん並んでいました。

現地研修はこれで終了。解散の挨拶のあとバスの列に並びました。帰りのバスはなんとか座って五日市駅まで戻ることができました。(3月に登った三頭山の記録はこちらからご覧ください。)

S47年卒 手島


コースDATA

新宿 7:44発    ホリデーかきがわ号    武蔵五日市着 8:48 数馬行き 9:00    数馬 9:56    9:59    都民の森着  10:15

駐車場 森林館 大滝の路 あずまや 大滝休憩小屋 三頭大滝 石山の路 ブナ原生林 大滝休憩小屋 野鳥観察小屋 岩塊流ポイント 大滝休憩小屋 あずまや 奥多摩周遊道路 駐車場

武蔵五日市直通バス 15:30   武蔵五日市     ホリデーあきがわ号 17:21発 新宿着18:22

高梨ノート 1976年 丹沢 塔ノ岳

51619日、20日 丹沢 塔ノ岳

(ノートには記載はなかったが、登山計画によると参加者は引率は高梨、飯島、0Bとして中野、 現役は広田、佐藤、田尻、柴田、吉田とある。前日の19日は大倉に幕営)

堀山小屋 9:55 休 10:05 出 小葦平●●1,129m  10:35 昼食1回分 10:45 出 11:25 休 11:40 出 12:10 塔ノ岳(1491.2m)  12:30 出 堀山の家1:55 休 2:05出 12:57 休 1:20 出 2:20 駒止 2:30 休 2:35 出 3:23 バス停 バス代80円 渋沢 4:00 4:22 急行乗車

(小葦平は堀山の家)

DWV顧問 高梨富士三郎 記録

高梨ノート 1976 年 冬期訓練 棒ノ折山

5127()8() 冬期訓練 棒ノ折山

コース 川井キャンプ場 →大丹波 →百軒茶屋 →奥茶屋 →コン●沢上部 →棒ノ折山 名栗鉱泉 →飯能

参加者 広田 佐藤潤平 柴田 中村隆之 安井 中山 高梨 飯島

2月7日(土)

15:55 川井駅 テント場16:05 テント設営 17:40 夕食 カレーライス 17:52 気温 4℃18:15  2℃

DWV顧問 高梨富士三郎 記録