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雲竜渓谷 回廊氷瀑

2018年2月4日(日)

49年卒の柳澤から「雲竜渓谷に行きませんか。」とメールが入った。「いいねえ。」と二つ返事で山行が決まった。47年卒の手島は雲竜渓谷には高校生の頃、46年卒の碓井さん等と登りに行った記憶がある。今年は寒いので、いろいろな滝や湖などが凍っていることがTVでも話題にされていて、先日はNHKで人口氷壁でのアイスクライミングも紹介していた。

東武日光線の特急専用ホームは下り普通電車ホームの端に特別改札がある

北千住で待ち合わせて、東武日光線の6時42分発特急リバティーけごん1号に乗り込む。日光駅には8時22分に到着。

駅では雲竜渓谷ツアーとか○○様とか書かれたカードを持って客を待っている人たちも多く見られ、列車到着後の待合はたくさんの人で溢れていた。

天気は快晴 雪をかぶった女峰山や赤薙山が美しい

ツアーやグループはそれぞれマイクロバスや迎車のタクシーに分乗して行ってしまったが、タクシー乗り場に並んだもののタクシーはいつまでたっても来ない。あとで聞いたところによると、タクシーの配車は土日の朝は殆ど予約客で手一杯の状態だという。今や雲竜渓谷は氷瀑見学の人気ハイキングコースになっているようだ。前に並んでいた若い女の子二人連れは関西からやって来たというし、中国語も多く聞こえて来たので今やその人気は全国規模か。

「滝尾神社まで行くなら、ご一緒にどうですか」とその二人に声をかけられたので、しばらくしてきたタクシーに4人で乗り込んだ。林道は狭く、すれ違いも難しい雪道の上に登山者の乗用車の路駐も多い。タクシーの運転手さんは「こっちにはあまり来たくないんだけど、滝尾神社までですが。」ということで、それ以上先には行ってくれなかった。

滝尾神社にはたくさんの人が登る準備をしていた

滝尾神社に到着。料金は1,360円。身支度を整えて出発。ゲーター、ヘルメットにダブルストックかピッケル、チェーンスパイクかアイゼンというスタイルが多い。でも、みんな氷瀑登りというわけではなさそうだ。

天気は、風もなく穏やかでほぼ青空。手島は2,000円台で新しく買ったチェーンスパイクを装着。小気味好く少し凍りついている雪道に食い込んでいく。チェーンスパイクを持たない柳澤はアイゼンはまだ使うほどでもないと踵から足を置きながらも神経を使いながらの歩行となる。

先ほど乗って来たタクシーは滝尾神社までしか行ってくれなかったが、乗用車や他のタクシーはどんどん先まで追い抜いて行く。結局、50分かけてゲートまで歩いたが、多くのタクシーはこのゲートまでお客を運んでいたので無駄足を踏んだ感じである。

駐車スペースを無理やり見つけて両側に路駐
ゲートでは何回も切り返しをしてUターンする車も多い

中国から来たのだろうか国内の方なのか20〜30人の中国人のグループがゲートに集まっていた。こちらが先に歩き出したが、元気よく大声でおしゃべりをしながら後ろから来てそのまま追い抜いて行ってしまった。

ゲーを越えて九十九折を経由して、なおも林道を進んで行く。

このコースのほぼ7割くらいが林道歩きでしょうか

展望台に到着。展望台は先ほど追い抜いて行った中国人のグループにほぼ占領されていた。

稲荷川にかかった大堰堤のプールは一面氷が張っていた

洞門岩に到着。たくさんの人がアイゼンを装着したり、身支度を整えていた。人の多さにビックリである。

ここから稲荷川の渓谷に降りて行く。こちらもヘルメットとアイゼンを着け、用意を整える。

進んで行くと、何箇所が渡渉があるので、所々で渋滞が発生してきて、だんだんと人の列がつながっていく。

川は右に流れて行くが、左の高巻きにたくさんの列ができていた。川に沿ってのトレースもあったが、先が見通せないこともあって時間がかかりそうではあるが高巻きに向かう。この高巻きが急でこおった土岩が露出しているため、足元がおぼつかない人が多いことと、ちょうど登る人と下りてくる人とが交差する時間帯だったためか渋滞が発生してしまっていた。

高巻きを終え、再度林道に上がったところでトラブルが発生。

柳澤はアイゼンが緩んでしまって効かないと何度か調整していたが、ここで原因が判明。踵の靴底がパクッとはがれてしまっていたのだ。20数年前に同期の中野君と一緒に買い揃えた冬用の靴で、丁寧にメンテナンスはしていたそうだが、経年経過には耐えきれなかったようだ。アイゼンのビンディングで締め付けたことも起因したのか、両足の靴とも剥がれてしまっていた。テープでの補修も考えたが、ここで柳澤は氷瀑までの登山を断念する。

柳澤は洞門岩の所まで下りて待っているということになり、氷瀑を見て帰ってくることにした手島だけで先を行くことになった。

林道から手すりのついた階段を再度渓流に降りて行く。

何度か渡渉を繰り返しながら、渓流は徐々に狭いゴルジュになっていく。

氷瀑の入り口に到着。たくさんの人が一斉に写真撮影を始めていた。

雲竜瀑はこの先だが、ここから先は更に人が多くなり時間もかかりそうなのでここで引き返すことに。

ちなみにこれが当日同じくらいの時間に撮られた雲竜瀑の様子。無断で画像お借りしました。(BLUE3japanさんの画像)

洞門岩で柳澤と合流。柳澤はすでに食事を済ませていたので、手島も軽く食事をとった。チェーンスパイクならゴムで踵を固定できるのでいいかもしれないと試してもらったら、これが見事にはまって踵を浮き上がらせる事なく歩けるようになったので、下山を開始。チェーンスパイクは積雪のある低山ハイクにはとても有効のようだ。

こんなに長かったかと思いながらもようやくゲートに到着。ゲート周辺には数台のタクシーが客を待っていた。到着前に連絡してあったのかタクシーが数台予約の客待ちをしていたが、こちらはこれから連絡だ。15分くらいだろうか意外と早くタクシーが来てくれた。やはり「回転する十分なスペースもないのでゲートまで来るのは嫌なんだけど」とぼやいていたが、ここまで来てくれたので助かった。

東武日光駅に着いたが、次の特急はすでに満席になっていた。臨時特急がそのあと15分後くらいにあったので、それに乗ることができた。

北千住駅で降りて、二人でビールと紹興酒でかるく一杯。次回を期待して解散する。

49年卒 柳澤孝嘉 47年卒 手島達雄(文責)


コースDATA

北千住6:42 東武日光駅8:22 タクシー乗車8:55 滝尾神社9:10 ゲート10:00 展望台11:00    洞門岩11:25 リタイヤ地点12:10    渓流入り口12:22 友知らずの回廊12:28 引き返し点12:40    洞門岩13:04 ゲート14:10 タクシー乗車14:30 東武日光駅14:55 15:32    北千住17:22

駅前タクシー 三英交通 0288-54-1130    大和交通 0288-54-1515    中央交通 0288-54-2138    日光交通 0288-54-1188

高鈴山(623.3m) 多賀山地  

2018128(

阿武隈高地に位置し、623mと標高は低いものの多賀山地南部の最高峰の山である。田中澄江はこの低山をセンブリなどを代表として花の百名山に選んでいる。

この時期花を眺めるのは無理だが、美しい馬酔木(アセビ)の林と常陸の海を見晴らせるということで出かけてみた。

上野から常磐線で日立まで行くことになるが、常磐線特急の指定席は全て満席で未指定の特急券を買うも、自由席がない特急だということを駅員から知らされる。したがって立ち席での乗車となった。すでに始発駅の東京から立ち席の人も多く見られた。座席の上には青、黄色、赤のLEDのサインが出ており、青は乗車済みのサイン、黄色は次の駅で乗車予定、赤は空いている席というサインになっていた。いろいろなシステムがあるものだ。乗客の6割方は水戸で降車したので、その後は空いている席に座ることができた。

日立駅に着きホームから駅舎に上がると、右側には常陸の穏やかな海が広がっていた。日立駅はガラスが多用されたモダンな駅だった。

高鈴山の登山口になる「きららの里前」へ向かうバスは内陸側の出口の1番バス停から出る。東河内行きのバスであるが、乗客は一人もいなかった。

「きららの里前」バス停を降りるとそこは雪の中。「きららの里」には日本一長い滑り台があるという。登山口へは道路を数百メートル戻ることになる。

トンネル手前の右側に登山口への標識がある。しばらく行くと車止めのゲートがあり、なお進んでいくと旧道のトンネル(埋め閉じられているようだった)にぶつかり、道は右手に折れ、ここが登山口になっている。

結構積雪はあるがアイゼンをはくほど凍ってはいなかった。

御岩山は御岩神社の御神体であるも岩場があり、ロッククライミングの練習に使われるなど場が荒らされ遭難者も出していることから岩場への立ち入りは現在禁止されている。麓にある御岩神社は近頃パワースポットとして人気が集まっているそうだ。

御岩山頂上

頂上からは那須連峰や日光連山などを見渡すことができる。

高鈴山の頂上下の株立ちのアセビのトンネルが美しい。

登山道は林道とぶつかり、コンクリート製の気象観測タワーが立ち、展望台のある山頂に到着である。

那須連峰、久慈男体山(大子男体山)、いわき方面の海が見渡すことができる。月に何度も登って来ているという地元の方と話をするが東京から来たと言ったら、遠いところから来たことにびっくりされていた。高鈴山はイワウチワが綺麗なこと、大子男体山やアカヤシオツツジの頃のいわきの二ツ箭(ふたつや)山が面白いから行ってみるといいと教えていただいた。新しいトレースもあったし、あとから5〜6人ほどの登山者が登って来たので、そこそこ登山者もある山のようだ。

しばらく休憩し、日立駅までの帰路につく。まずは穏やかな下りの林道を下りていくが、雪の下が凍っていて滑りやすいので侮れない。林道をクロスして再度山道になる。

途中、「金山百体観音」という石像が並んでいる箇所がある。

山道を下りていくと道は林道になり、開けた公園に行き当たる。ここは大火によって焼けてしまった後を公園として整備した所だそうだ。

林道の右手に小山があり、常陸多賀の町や海がよく見える。続く小山は助川山で頂上には四阿があり、こちらからは日立方面までよく見渡すことが出来た。

公園からは電線工場方面に下山していく。

ここで登山は終了。広い電線工場脇を通って駅までは近い。

駅前に続く平和通りの桜並木。人通りはあまりない。

手島達雄(昭和47年卒)


コースDATA

上野駅 7:00  常磐線  ひたち1号 日立駅 8:34    8:40  きららの里 9:10

きららの里 9:15    高鈴山登山口(旧道トンネル口) 御岩山(賀毘禮の峯)   10:00   高鈴山頂上 10:35 百体観音 11:45 助川山 12:30 電線工場 13:15 日立駅 13:35

常磐線日立駅内陸側駅前1番バス停 東河内(ひがしごうど)行きバス ¥520

 

メールマガジン1月号/ 2018

獨協中学・高等学校ワ ンダー フォーゲル部OB会 オンラインマガジン 2018 / 1 / 31


△▲△    も くじ △▲△

【1】「八甲田山 消された真実」

【2】故高梨富士三郎先生のDWVの山行手帳記とエッセイ「らくがき中間報告」

【3】行ってきました 山行Now

【4】編集後記

【5】記事の募集とメールマガジンについて

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遅ればせながら、明けましておめでとうございます。皆さにとって良い年にになるようお祈り申し上げます。

さて、先日東京でも10センチを超える雪が降って、零下の寒さが続いているので未だ溶けずに残っています。これまで近郊の山にはあまり雪が積もっていませんでしたが、ここに来て結構積雪があるようです。

巷ではインフルエンザが猛威を振るっているようですが、かく申す私も鼻水や頭痛、くしゃみが続いてなかなか風邪が治らないと思っていたら花粉症だようです。この寒さの中でもスギ花粉がすでに飛んでいるのですね。明日はもう2月。立春もそこまで来ています。

【1】「八甲田山 消された真実」 伊藤 薫著 2018年 山と渓谷社刊

東京でも13センチの積雪を記録しましたが、八甲田山の麓にある酸ヶ湯では積雪が3mに達したことがTVニュースで報じられていました。八甲田山と云えば今から100年以上も前になりますが、対ロシア戦線を想定しての研究・訓練として企画されたものの死者119人を出した陸軍の「八甲田山の雪中行軍」が想起されます。山岳小説で有名な新田次郎の小説「八甲田山の彷徨」や高倉健主演の映画「八甲田山」でも話題になり「天は我を見放した。」というセリフが記憶している方も多いのではないでしょうか。このこの度、「八甲田山消された真実」(山と渓谷社刊 1,700円)という元自衛隊員だった伊藤 薫氏が著した本が出版されました。新聞広告で目に止まり、アマゾンで検索したらベストセラーになっていました。さっそく注文して読んでみたのでご紹介したいと思います。

映画のイメージの北小路欣也が演じた199名の隊員を死なせた第5連隊の神成大尉と1名の死者も出さずに雪中行軍を踏破した高倉健の演じた31連隊の福島大尉ですが、実際の両者の対応や両隊の雪中行軍に対する在りようは大分違っていたと指摘しています。199名の下士官と兵卒を死なせた責任者たる神成大尉は上官である帯同した山口少佐の指示に従うだけの存在であり「天は我を見放した」的なことを言い放ったことで士気が低下して急激に死者を増大させたこと、第31連隊の福島大尉は功名心の強い冷淡な指導者だったことを指摘しています。また、事故の原因は同じ青森にあり、ライバル関係にあった第5連隊と第31連隊の関係性の中にあって、福島大尉の第31連隊に先にを越されることを避けるため泥縄的に雪中行軍を企画させたと思われる第5連隊の津川連隊長の隊と個人のメンツによって引き起こされたとしています。詳しいことは後日ホームページに記事としてアップしたいと思っていますので、ご覧いただければと思います。

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【2】故高梨富士三郎先生のDWVの山行手帳記とエッセイ「らくがき中間報告」

獨協中・高校の図書館にDWVの資料を調べに行ったところ、高梨先生や飯島先生のエッセイや創作を獨協学園の文芸誌の中に見つけました。生徒の「らくがき」を教員としての目でみた面白いエッセイなのでホームページに掲載しました。

「生徒は教室と生活し机と一緒にいる。机の上で苦しみ、なげき、怒り、わらい等々を通じ社会へ出ていく。その一端が楽書になってあらわれる。あとからあとから楽書がつみ重ねられ、けずられ、かかれることによってあやまちを意識し、反省し社会へ出て行く。彼等の残して行った小さな歴史が、きっと社会に出て大きな歴史の上に楽書でない跡を残すだろうことを私は希望している。」獨協学園文芸誌「吠える」の “ 続らくがき中間報告 “ から抜粋しました。本編はこちらからどうぞ。「落書中間報告」 「続らくがき中間報告」

故高梨先生がDWVの山行時に携帯し記録しておられた山行手帳が残されていました。ご婦人からお借りしてホームページに記録として残すべく記事として起こしています。この度、ホームページの「埋蔵品」のコーナーに「高梨ノート」として一部を掲載しましたので、ご覧ください。「1966年 夏合宿 飯豊」1966年 冬合宿 八ヶ岳(硫黄岳)」「1967年 夏合宿 飯豊連峰縦走」「1967年 冬合宿 八ヶ岳

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【3】行ってきました 山行Now

S49年卒の柳澤孝嘉氏の12月から続く「御坂山塊(御坂山地)踏破」の続編で氏の2018年登り初めの山旅になります。節刀ヶ岳は富士五湖の北側に連なる御坂山塊(山地)の中心部に位置する山で、三つ峠山は御坂山塊の東端に位置する山です。ともに富士山の眺めが印象的な山です。

節刀ヶ岳(1,785m) 2018/1/11

三つ峠山(1,736m) 20018/1/7

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【4】編集後記

30周年記念誌の編集作業が進んで来ています。1月中を目途として依頼したり寄稿いただいた原稿が集まって来ています。OB会設立から30年余、DWV創立からは60年余経つ今、当時の記憶や記録はどんどん薄れてていく中にあって当時の記憶を思い返して原稿を作っていくことも大変な作業だったと思われます。しかし、また今でなければ出来ない作業であると思っています。これからのDWVに繋げていく作業であることを期待して原稿もいただき、編集もしているところであります。

今月のメールマガジンはなんかとか月末に間に合わせてのメールマガジンになってしまったことをお詫び申し上げます。昨年9月以降、毎月のホームページ閲覧者数は延べ100回以上を記録しており、150回超えるまでになってきました。これからも獨協学園ワンゲル部OB会各位を繋ぐことを目指して紙面を作っていきたいと思っていますので、ご支援のほどよろしくお願いします。

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【5】記事の募集とマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB 会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせメールは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。

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獨協中・高等学校ワンダーフォーゲル部OB会 オンラインマガジン

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本社ヶ丸山(1,630m) 御坂山塊 

2018年1月21日(日)

前回登れなかった本社ヶ丸山に行ってきました。

2:30に自宅を出発。談合坂で休憩後、河口湖大橋を渡り、御坂トンネルの方向へ。前回の失敗を生かして御坂トンネルへ一直線に行き旧御坂トンネルへの道に入る。三つ峠登山口駐車場にまだ暗い、5:30に到着。さすがに冬とはいえ、日曜日なのでほぼ一杯に駐車している。上の駐車場のトイレ脇にも何台か駐車しているためその脇の少し、盛り上がった部に駐車しようとしたところ溝に右後輪が落ちてしまう。暗い中、横着して駐車場所の確認を怠った失敗である。何度か元に戻ろうちするが前輪まで落ちてしまう。溝の土は凍結しており、さらにその上に落ち葉が乗っているため虚しく後輪が空転している。誰かに押して頂ければ脱出出来そうだが、駐車中の車の中に懐電の明かりが見えるが出てくる気配はない。凍り付いた地面にある動かせる石を前後輪に噛ませ、右の前後輪は脱出するが今度は左の前輪が溝に入り空転、きな臭い匂いが漂う。そこも何とか石を噛ませ、強引に脱出。トイレのすぐ脇の駐車スペースに入れる。最初からここに入れれば良かった。約30分の苦闘であった。車の下を擦って脱出したため、懐電で下を覗くがオイル等の漏れた様子がないため安心する。懐電を着け、忘れ物を確認し、6:15に出発。

5分も歩くとこれより危険、通行止めの看板と規制線(テープ)も貼られている。手前に新しい林道が下方に向かい作られていたため迂回路があるのかと下るが迂回路らしきものがない。地図を見直すとやはり林道はそこを通るしかなさそうである。元の林道に戻り、規制線を越えて林道を進む。直ぐに左側に大きく崩れた箇所に出会う。右側の山側はまだ、何とか通過でき、踏み跡がある。

林道崩壊箇所

その先も中央が大きく崩れた林道が続いていたが、林道が左側に展開する辺りから林道の崩れも少なくなった。林道は一直線に大幡八丁峠下まで伸びており、所々、崩れた箇所があるものの、約1時間の歩行で日がまだ、上がったばかりの大幡八丁峠に着いた。先週は三つ峠山経由でここまで約4時間かかったことと比較するとビックリである。

日が上がったばかりの大幡八丁峠

本日は御坂に登りに来た中で一番、暖かい朝であった(三つ峠登山口駐車場は出発時-2℃でしたが)。清八山に向かい、一登りし7時半前に清八山山頂に着いた。今回は富士をはじめ、南アルプスの山々、八ヶ岳、奥秩父が見渡せた。目の前にある本社ヶ丸山に向かい、写真撮影後に出発。

清八山山頂から南アルプスの山々
清八山山頂から富士
清八山山頂から本社ヶ丸山方面(見える山本社ヶ丸山ではない)

雪の残りか土の凍結によるものか登山道に氷片が散らばっており滑りやすい。下って直ぐに清八峠でた。笹子からかなりしっかり踏まれた道が上がっているが、高畑方面は危険、通行止めの看板があり、かなり道が荒れているようだ。

清八峠より本社ヶ丸山方面
清八峠

そこから清八山山頂から眼前に見える山を登るが本社ヶ丸山ではなかった。本社ヶ丸山は細長い頂稜を形成しており岩場を持つ幾つかの峯を越え、頂稜の一番、奥にある本社ヶ丸山の頂上に達した。たっぷり50分近くかかる。周囲の展望は清八山より優れ、南アルプスの山々、八ヶ岳、奥秩父に加え大菩薩と近隣の全ての山々が見渡せ、滝子山も見ることができた。

本社ヶ丸山山頂より富士と三つ峠山
本社ヶ丸山山頂より南アルプスと八ヶ岳
本社ヶ丸山山頂より大菩薩、滝子山

紅茶を飲み早々に出発。慎重に岩場を越え、清八山頂を休まず通過。本日は温かいため登山道の霜柱が解ける前に林道に到着するよう急いだ。

林道から三つ峠山

林道に着いた後はぶらぶらと温かい日差しの中を下り、これから三つ峠山に登る登山者で賑わう三つ峠登山口駐車場に10時前に到着した。           柳澤孝嘉(S49卒)


コースDATA

三つ峠登山口 6:15—清八山7:20 7:25-本社ヶ丸山 8:10 8:20—清八山8:55—–三つ峠登山口 9:55

「続らくがき中間報告」 高梨三郎

学園の毎日は、希望と失望・苦悩と偕楽・憎しみと愛情・喧噪と静寂等々が、ごちゃごちゃになって未来へ向かう。

そこには感情のもつれもあれば、なぐさめもある。

卒業生を送り、新入生を迎え、教師と生徒の歯車は廻転する。こうした生活のなかで、忘れられたように教室の壁・机・あるいは扉に刻みこまれた小さな歴史は、すましこんでなにかを物語る。

私は「吠える」の1954年5号に”落書中間報告”なる一文を発表した。

これはその続編である。

・・・・・小さな歴史に・・・・・

点・線・丸・三角・四角などの楽書は、どこの学校の教室にもあるもので2年前の作品(?)と変わりはない。一般的なものに、バカ野郎から忠君愛国。ピカソ調から映画女優の名まで刻み込まれたりかかれたりしてあった。

以下一年前の高校生教室の楽書作品から紹介してみよう。

一番多いのは、やはり○○の馬鹿とかバカ野郎である。決して○○の利巧とはかいていない(小学生などの作品には○○のおりこうといったものがあった)。また季節によって楽書の場所も、楽書に使用される道具も変化する。冬ならば日当たりのよい窓ぎわとか窓に、ストーブの煙突(室内の部分)に、白墨・鉛筆・焼火箸様のものをつかった跡がみうけられた。例えば、ストーブの煙突に玉川勝太郎(浪曲家)の名が大書してあったり、Wの字が乳房を表現していたりしていた。前者の楽書についてはその教室の某が大の浪曲ファンであることをきき、楽書の主を推定することができた。

個人に対しての楽書は割合に多かった。○○はクサイ。○○はスケベ。あるいは性交=性病とかいた予防医学的楽書や清舎=陰舎とかいてあったり、当番割当表の下に悪口を記入したもの。古風なものに相合傘になかのよい友だち二人の名がかかれていたり、地理的なもので神奈川県とか北海道とかいたものや絵画的なものに裸婦。原始的なものに性器。時代的楽書ではスローガン・ストライキ・八頭身とか鉛筆あるいは万年筆でかかれていた。

変わったのは教室の柱に身長を計る目盛りが刻まれ、その各目盛りには5尺5寸・5尺3寸・5尺の三段階に区分され、5尺の目盛りには栄養不良、5尺3寸には平均身長(これが彼等の標準身長か?)、5尺5寸には健康児の身長とかいてあった。さらに5尺5寸から上に矢印がしてあって ”延びすぎ ”とかゝれていた。この楽書はチビがノッポに対するレジスタンスなのだろうか?彼等の頭にも八頭身にあこがれる流行がはいりこんでいるのだろうか?もっとも伊藤絹子嬢の名を口にする生徒もいるのだから当然かも知れない。

黒板楽書には教師生徒のアダナを白墨で大書してあったり、1時間前に教師のかいた文を改悪したりするのが多い。例えば関東地方を関西地方に、三角州を六角州、濃尾平野を濃頭平野にかきかえたイタズラがあつた。このうちきわだつたのに、2外テスト範囲の課=助動詞の変化と白墨でかいてあるその下にその例として I  love  youとあったのにはびっくりした。

2年前の楽書には「あゝわれすゝまん」とか「勤勉」とかの楽書があったが近頃のものにはあまりなかつたようだ。

一般的で複雑でこまかい楽書は、講堂の机にみられた。何年か前のカンニングのコン跡やら教師や友人の悪口、線、丸、四角などさまざまである。

・・・・・楽書のもつ意味・・・・・

らくがき(楽書、落書)は生活の余りであるともいわれるし、また飢えにあらわれるともいわれる。いずれも否定できない。どのらくがきも、はじめに在るらくがきにならって生まれているらしい。

反射的・並列的・近接的に存在する。

フランスのカタコンボの地下納骨所の岩壁両側に—

「死はいずこにありや 然り死は永遠にあり 急然として訪れ来たる されど跡方なし」

といつた深刻型のらくがきやそのほか沢山のらくがきがある。そのなかに日本人の ” 某中佐一行観之何年何月 ” と署名したのんびり型のらくがきがあったそうだ。日本人の性格の一端を物語っているといえよう。併しフランスのらくがきは岡本太郎氏にいわせると、政治デモの文句が多く例えば ”亡国○○党を倒せ ”  “ ○○党万才 ” “ ○○を絞首台にあげろ ” といった調子だそうである。

ここでらくがきについて考えてみよう。私は前の文(5号)でらくがきのことを落書とかいた。これはらくしょとよむが、らくがき(楽書)とらくしょとは異った性格のものと思っている。落書などは嘲弄とか諷刺の意味をもつもので衆人の目に触れやすい所に、あるいは権力者とか権勢家の門などに貼りつけたりする一種の反抗、諷刺とから起ったものである。日本では鎌倉、室町時代にもさらには江戸時代に入って隆盛をきわめた。この面からもその時代の政治とか民衆の生活の一端を知ることができるわけである。

楽書となると諷刺とか批判とかの意味よりも一種の遊戯であって、今日学校内部で多くみられるものは落書のごとき内容はとぼしいと思われる。勿論楽書が全く社会性をもたぬというのではない。もしそうならばそれは誤りである。学校という集団の場が個人の生活や社会環境の影響をもって種々の色づけられるのは当然であり、各人の潜在的意識の反映がみられ、楽書となつてあらわれるのである。

人間は行動する。ある目的をもって行動する。行動することによって反省したり、されたりする。そこに向上が発展が生まれる。従って楽書が単なる遊戯的でないような内容をもった場合つまり批判したり、諷刺したり、反抗したりするような内容をもつものであるならば、その環境は決して正常な状態にあるとはいえないだろう。

もう一歩進めて考えてみよう。

落書とか落首とかいうものは、それ自体発生して来た状態を考えあわせるならば、そこに抑圧された社会があったり、言論の弾圧や、圧迫された民衆を発見することができよう。幸福な正常な健康な社会であるならば批判的、反抗的、諷刺的らくがき(落書)はでてこないだろう。らくがき、落書が政治に対する批判と言論弾圧に対する反抗的なものであるとしても、そういった社会をらくがき(落書)という手段でよくすることは不可能であって、問題解決にはならない。それは民衆のセツナ的興奮による独善的自己満足に終ってしまう心ない政治家、指導者にとっては、このような形で民衆がウップンをはらし、正統な要求を忘れてくれた方が都合がよいのではあるまいか。

・・・・・学園と楽書について・・・・・

学園の楽書が決して健康的なものであるというようなオベンチャラ的言を私はかかない。また独協で生徒が反抗したり批判したりする程の問題はないと思われる。もしあるならば楽書という前時代的行動は ” おやめなさい ”。それより堂々と生徒会なり教師なりに提言すべきだと思う。勇気というのはそういうときにつかうのだ。

×    ×     ×    ×

社会が健康であれば、らくがきにもその反映があるだろう。

生徒は教室と生活し机と一緒にいる。机の上で苦しみ、なげき、怒り、わらい等々を通じ社会へでていく。その一端が楽書になってあらわれる。あとからあとから楽書がつみ重ねられ、けづられ、かかれることによつてあやまちを意識し、反省し社会へでていく。彼等の残していった小さな歴史が、きっと社会にでて大きな歴史の上に楽書でない跡をのこすだろうことを私は希望している。

附記

私がらくがきを落書とかいたのも意識して書いたのである。諸君のうちで、この点についてなんらかの反応があるのではないかと期待していたのだが・・・。

尚、フランスの楽書についたては李家正文さんの著書を参考にした。この文は楽書奨励のためにかかれたのではないことを明確にしたい。諸君等は紳士であるから私は信用している。

DWV顧問 高梨富士三郎


獨協学園 文藝誌「吠える」1956年7号より転記しました。

 

三つ峠山(1,785.2m)~旧御坂峠 御坂山塊 

2018年1月11日(木)

御坂山地は三つ峠山から本社ヶ丸山を含め三方分山までを指すことを手島先輩に指摘され今回、三つ峠山から旧御坂峠まで歩いてきました。日本海側が記録的な大雪の日で非常に寒い一日でした。

1/11  3:30に自宅を出発。談合坂で休憩後、河口湖大橋を渡り、御坂トンネルの方向へ。ナビを三つ峠登山口にマークしたところ白滝林道の方向に誘導される。しかし、白滝林道は入り口にて冬季通行止めとなっており、再度、三つ峠登山口バス停と思われる地点にマークをするが通行止め区間で誘導できないとの返事。

記憶をたどり、元の道へ戻り御坂トンネル前より旧御坂トンネルへの道に入る。現在、天下茶屋まで通行可能との看板を見る。三つ峠登山口バス停から林道に入ると程なく、三つ峠登山口駐車場に着いた。上下、二か所にわたり駐車場があり、上の駐車場にはモダンな便所があり水洗トイレで便器の前には電動ヒーターまである。駐車場には上の山荘への荷揚げのためかジープや搬送車両が駐車している。

自衛隊の払い下げ車両のようで車高が高く、車両部分の背丈が低い。

三つ峠登山口の駐車場とトイレ

登山口まで手間取ったため7:10に出発。前回のような暗い中での出発ではないので忘れ物を確認して出発。登山道はジープが上がれるような林道で所々、氷結している。また、左手にみえる沢の堰堤、沢床も氷結が見られ、一部、氷瀑が見られた。約1時間半程で四季楽園と三つ峠山荘の分岐に到着。三つ峠山荘への登山道に入るが凍結しており、氷のないところを選び登る。直ぐに展望地に着いた。富士山が朝日に照らされ眩しい。

展望地より富士山

三つ峠山は木無山、開運山、御巣鷹山の三山からなっており、右側の道に入り木無山へ向かう。木無山は山というよりは木のない平坦地で落胆する。

木無山頂上

元の分岐に戻り、NHKの電波塔の立つ開運山を目指す。三つ峠山荘の脇を通るが、飼い犬に吠えられるが人気がない。ひと登りすると甲府の町が見え、南アルプスの山々は雪雲の中にあり、今回は見えなかった。

甲府市と御坂の山々

下って四季楽園の前を通り、開運山の登りに入る。雨で抉られ、荒廃した登山道を10分程登るとNHKの電波塔の裏にある頂上に着いた。富士や御坂の山々、河口湖、甲府市が見渡せる。

開運山頂上より富士山
開運山頂上より甲府市方面、南アルプスの山々は雪雲の中

頂上の裏の樹林帯に登山道があるが、標識がないため元の道に戻り山腹を巻く道を辿り御巣鷹山を目指した。途中、山頂より下ってくる道と合流し遠回りしたことに気づく。左側に進入禁止のテープのある北口登山道入り口をみてひと登りすると、頂上一杯に電波塔の建つ御巣鷹山に着いた。はっきりとした頂上の看板はなく。登山道と書かれた樹林帯の道を下る。樹林帯の道は日が届かず、風が吹き抜け非常に寒い。また、道が荒れてており泥が凍結して、堅い地面の上に石車のように散らばって滑りやすく、下降に難渋した。

縦走の目印となる露岩があるところに到着。露岩の先に目印があり、露岩沿ってそこに達し小さな尾根を左側に氷結した沢を見ながら下ったが、トレイルはあるものの踏跡は薄く戻り返す。目印の見えるところまで登り返し周囲を見渡すが目印がなく、折れたストックも落ちているため再度下降する。しかし、踏跡が薄く右側が主稜線の様に見え、露岩下の目印のところまで再度、登り返すと上部の目印の先より主稜線への道が始まっていた。

御坂の道は道標、目印が丹沢や奥多摩に比較して全般的に少ないが、不必要な目印は避けてほしいものである。その目印につられて降りた私を含めた下りた人達により惑わすトレイルが形成されたものと考えられる。約20分強のタイムロスとなる。主稜線をアップアンドダウン繰り返すとすると大幡山頂上に到着。そこより下降し立派な送電線鉄塔の下を通り、緩くなった稜線を登ると左側の林道から道が合流したところが大幡八丁峠であった。高畑への道を分けていた。

木に覆われた大幡山山頂
大幡八丁峠

明るい葉の落ちた広葉樹の林を登っていると本日、初めての登山者の2人組とすれ違う。そこより10分程で清八山頂上に到着。頂上の松と富士の配置が絶妙である。また、本社ヶ丸が頂上より指呼の位置にはある。しかし、往復には1時間はかかりそうなので今回の登頂をあきらめる。頂上から旧御坂峠は見る事できず、幾重もの山々が稜線に重なっている。

清八山山頂より富士山
清八山山頂と本社ヶ丸山
清八山山頂から甲府市と雪雲に覆われた南アルプス

頂上でサンドイッチと紅茶の昼食後、旧御坂峠への縦走に入る。幾つものピークをアップアンドダウン繰り返すとすると突然、小さな鞍部に天下茶屋への道標に出会う。急な山腹を巻くように付けられた道を行くと九十九折の急坂となり天下茶屋へ向かい下りて行く。途中、道の下が大きく抉られた箇所があり、近い将来、登山道の変更が強いられそうだ。天下茶屋の屋根が見えて、直ぐに舗装道に飛び出した。天下茶屋は営業しているらしく5台程、車が駐車している。旧御坂トンネルの入り口には通行止めのバリケードが置かれていた。

天下茶屋と旧御坂トンネル

暖かい日差しの中、富士と河口湖を見ながら舗装道路を三つ峠登山口バス停まで早足で下り、そこからストックを使い喘ぎなら三つ峠登山口駐車場まで登った。6時間を超える行程は今の体にはこたえる山行であった。      昭和49年卒 柳澤孝嘉


コースDATA

三つ峠登山口 7:10—-木無山8:35 -開運山9:00–御巣鷹山 9:25–清八山11:35–御坂峠13:10—-天下茶屋13:25—-三つ峠登山口 14:10

節刀ヶ岳(1,736m) 御坂山塊 

2018年1月7日(土)

年明け一番に節刀ヶ岳へ行ってきました。今回は11月に十二ヶ岳から鬼ヶ岳へ縦走した際に十二ヶ岳と金山の間に大石プチペンション村より登ってくる登山道があり、それを使い節刀ヶ岳へ登り、大石峠に下る周遊するコースを取りました。

1/7  3:30に自宅を出発。談合坂で休憩後、西湖への道と同様に勝山を経由して河口湖から芦川村へ抜ける道に入りました。若彦トンネルの入り口に大石峠のバス停があるため、入り口より大石峠登山口への林道と繋がっていると考えていましたが、林道は道路より5m程下を通っており、接続する道が見当たらなかった。トンネルまでの登ってきた道を戻り、大石プチペンション村へ道を入ったところすぐに林道に合流した。

ほぼ車一台分の舗装された道を若彦トンネル下まで行くと舗装はないが広く整地された駐車場となっていた。その先からは林道は舗装されておらず歩くこととなる。冬型の気圧配置で冷たい西風の吹く夜明け前の中、身支度した。持ってきたはずの毛糸の帽子が見当たらず、髪の毛がpoorな頭部を露出し出発する。寒い!ただ、山々に雪がないのが救いである。林道を10分程登ると淵坂峠の分岐にでる。そちらの道の方が踏まれており行きかけたが、地図を見て戻り、林道を進むとそこが大石峠の登山道入り口であった。

大石村の持ち物と思われる山小屋が2棟、上の林の中に建っていた。林道をひたすら、正面に見える十二ヶ岳と金山の稜線と思われる山に向かい登って行く。寒さで砂防堰堤の水の氷結が見られる。約1時間半程登ると林道は左右に砂防堰堤が築かれた急な谷で終点となる。その間の急な尾根を登るが凍結しており慎重に登る。

登山道はトレイルがしっかりしており、目印のテープもガイドブックの記載どおりに随所に木々に巻かれていた。急な道のため所々、崩れた箇所はあるが短く、問題なく登行し十二ヶ岳と金山の稜線に9時に着いた。正面に鬼ヶ岳が、背面には黒岳が見え、金山側には白く雪の被った南アルプスが遠望できた。

十二ヶ岳と金山の稜線の分岐部
分岐部より鬼ヶ岳
分岐部より黒岳、三つ峠山 方面

10分程の登りで懐かしい金山の標識と再会した。

正面の富士を眺めた後、緩やかな林の中の稜線を節刀ヶ岳に向かい歩くが、冷たい西風と樹木が日の光を遮り非常に寒い。途中、雪を被った南アルプスが全山見えるため写真を撮ろうと苦心するが木々が邪魔でうまく撮影することが出来なかった。少しスマートになった稜線をひと登りすると節刀ヶ岳の分岐で、ひょこっと聳え立つ頂上に向かいひと登りする。

頂上は西側の一部が木に隠れ南アルプスの北岳の辺りは見えないが、他は南アルプスの山々、鬼ヶ岳、富士山、十二ヶ岳、黒岳、河口湖と周囲の山々、湖のほとんどが見渡せる。

稜線上より南アルプスの山々
節刀ヶ岳頂上より富士山
節刀ヶ岳頂上より十二ヶ岳と富士山
節刀ヶ岳頂上より河口湖と御坂の山々

頂上の展望を楽しみ、軽食とテルモスの紅茶を飲んだ後、下山にかかる。大石峠への道は樹林の中のアップダウンのある道で相変わらず西風が冷たい。コースタイムどおりきっちり1時間かかり大石峠に到着。下から上がってきた3人の登山者に本日、初めて会う。大石峠は開けた笹原で日差しが眩しく、富士の堂々とした姿が綺麗である。以前、高校時代に柳原君と一緒に撮った大石峠の写真では大石峠はもっと開けた草原のように写っていたので、約45年の年月で木々が成長し笹原が縮小したようだ。

大石峠より富士山

大石峠の下りは傾斜も程よく気持ちの良い下りでどんどん下るがここもきっちり1時間かかり、膝は笑い出す寸前に大石峠登山口に着いた。後はぶらぶらと林道を下り駐車場へ着いた。靴を履き替えていると靴の下から今朝、探していた毛糸の帽子が出てきた。暗い中の出発は忘れ物が多い。   昭和49年卒 柳澤孝嘉


コースDATA

若彦トンネル下6:50 —-金山9:10 —節刀ヶ岳9:50  10:00—大石峠11:10—–若彦トンネル下12:10

「落書中間報告」 高梨三郎

「立てばコンニャクすわれば豆腐、あるく姿はフラダンス」=
これは某先生を形容して、よめる中学生のつくった歌で、あの先生ですよといえば、なるほどと思うくらい立派な?できばえである。

このように時間中教室で内職している生徒は1クラスに3、4人はいるものだ。

これらの芸術家?は先生の眼をたくみにのがれ、美術作品を作製し、もっばらクラスの文書活動を担当しているものである。

以下2、3紹介してみよう。先生の似顔をかく、先生のアダナを手紙で発表連絡するなどは序の口、常習者になると筆談している者、他の科目の宿題を一生けんめいやっている者、喫茶店なみに世間話をしている者等々数限りない。

さて落書についてであるが種類も多くその区分にまよう。

○落書きされてある場所と種類=机の上、横、椅子の脚、教室の壁、柱、黒板、廊下、便所、教科書、ノート、鉛筆入れ。

○落書に使われた道具=ナイフ、安全剃刀、万年筆(釘、三角定規カド、コンパスのさき等)このうち一番多いのが万年筆と鉛筆で、机の上、横がある。

中学2年某クラスを調べた結果は、机の上と横で=線36、丸24、三角13、四角7の落書があった。一般的に内容も高校生の場合=女優の名と生徒の名、ハートに矢印、丸、線、三角、四角。変形として、のぞきアナ(机の上から机の中がみえる)。迷路型=のぞきアナと線が結びついてビー玉パチンコ玉をころがし玉あそびのできるように溝がほってあるもの。

壁になると落書きも社会性をおびて内容も、反抗、嘲笑、揶揄的になる。たとえば○○は赤だ、○○はスケベ。ワイフ百人あり、歩兵軍曹○○は戦死せり。禁男の家。禁女の家。○○は文学者カストリ天才博士。エロ文学者。○○は六人の女をリーベそれとか、青山京子(女優)と○○の名前が相合傘でかいてあるものもみられた。以上は大体かつての高一の教室であったこところからあった作品である。これが中学生になると独協のマーク。ABC。丸、三角、四角、線などがもつとも多く、なかには飛行機、ブタ、ガイコツ、サツマイモ等の戯画がみられた。最近ではレスリングばやりのせいか「力道山」とかいたものを23発見した。流行歌の影響と思われるものに(2年生の机)「バイヤコンデオスマイダアリン」(原文のまま)があった。それでは卒業生の作品を紹介する。「あゝ我すすまん」「われときてあそべや彼氏のない彼女」” Good boy ”。こまった作品に、” I +you=kiss “とか、黒板へクラス委員のかいた「不正行為を禁ず」の注意事項わきに「性行為も禁ず」とあったのにおどろいた。これには勿論注意しイタズラがすぎることをたしなめたことを記憶しているー。

昨年スターリンが死んだ翌日だったか壁にスターリンの名がかいてあったのには考えさせられた。・・・・・もしこれらの落書きがそのかかれた ” とき ”    ” 社会関係 ”    ” 青少年心理”との関係から分析したら、もつと彼等の考えていることがうかがえるかも知れない・・・。

最後に残ったのが便所の落書であるが—彼等生徒は紳士であることを私は知っている—ので教員便所のチイサナ落書きを附記しておこう。旧教員便所の一番奥に何か計算したらしい落書がある。給料残額の計算か借金の計算か、かいた者も教員、事務の人、部外者か判然としない、けれどサラリーマン階級の作品であることだけは確かであり、またその数字もそれを物語っていると思う。

生徒達は教室と生活し机と一緒にいる。机の上で苦しみ、なき、おこり、わらい、そして社会へでていく。落書そのものの行為は確かに悪い。けれど落書は一方で幾つかの歴史のあとをのこしていった。そしてあとからあとから落書がつみ重ねられ、けづられ、かかれることによつて生徒達はあやまちを意識し、社会的に成長していった。いきつつある。生徒が去った教室で、じっと机をみていると一人々々の生徒の顔が姿が浮かんでくる。

最近旧校舎から新校舎にうつったが落書をさがしてもみえない。校舎の新しさと対照的な古い机、その古い机の上に落書はいきている。一年前に誰がつかったとも知れない机の上に線が、丸が、人の名が無数にかかれ、ほられてある。そして誰もが将来に希望をもって鉛筆を万年筆をにぎった机、そこには新校舎にない歴史がある。小さな彼等の歴史がやがて大きな歴史の上に大きな跡をのこすことを私達は知っている。この文は落書を奨励するためにかいたのではない。落書をいくつか並べてみてみせつけることによって、彼等は何と思うのだろうか。私は落書を過渡期の現象と考えると共に、亦特別なことを考えている。


故高梨富士三郎先生の獨協学園文藝誌「吠える」1954年5号の中のエッセイになります。この「落書中間報告」には続編があります。後日転載の予定です。

 

登山計画書は獨協中学・高校図書館に収納

飯島先生に託されたDWVの登山計画書は全てデジタル化し、すでにHPに収納し年次山行記録から閲覧できるようにしました。しかし、デジタル化したものよりアナログの方が長期保存となると確かなところもあるので、原版をこの度獨協中学・高校図書館で管理してもらえるよう依頼し、受け入れてもらいました。

原版を閲覧したい方は図書館に連絡いただければ訪問時には該当の記録を揃えてもらえます。連絡先は獨協中学・高等学校(03-3943-3651)から図書館につないでもらい司書の方にその旨お伝えいただければ用意してもらえると思います。

なお、DWVや顧問の先生方関係の資料は獨協新聞や文藝誌「吠える」や「めじろ」、同窓会誌にいろいろ掲載されていますのでリクエストされるといいと思います。

栃木県教委による「学校安全登山のための取組」

栃木県教育委員会は20018年1月9日に先の春山安全登山講習会での雪崩事故を教訓として以下のような学校安全のための取り組みを発表した。

  • 登山計画作成のためのガイドラインを策定する。
  • 登山計画審査会に外部審査員を加えて審査内容の充実を図る。
  • 公益社団法人日本山岳ガイド協会が運営する登山届受理システム「コンパス」による登山届けの提出と共有化を図る。
  • 高校生の登山の実施状況等の確認と情報共有のため連絡協議会を設置する。
  • 経験のない、あるいは経験の少ない山岳部顧問対象の新任顧問研修会と一般登山部顧問に対しての研修会を実施する。
  • 国立登山研修所主催による安全登山普及指導者中央研修会、新設された高等学校等職員研修コースと高等学校等安全登山指導者研修会、全国山岳遭難対策協議会にも顧問を派遣するなど指導者の資質の向上を図る。
  • 経験の浅い登山部顧問が引率する場合で登山計画審査会においてガイド等の同行が望ましいと意見が付された場合は現地山岳ガイド等の専門家を派遣する。
  • 安全な登山に資するため指導者・生徒のためのハンドブックを作成する。
  • 安全登山のためビーコン、プローブ、シャベル、衛星携帯電話などの装備を貸し出す。
  • 春山安全講習会に参加した高校にスーパーバイザーを派遣し、太田原高校にはスクールカウンセラーを配置する。