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田部井淳子 人生の生き方と終い方

先日、NHKで「田部井淳子 人生のしまいかた」というタイトルの被災した東北の高校生を富士山へ連れて行く「登ろう!日本一の富士山へ」という田部井さんが発起人のプロジェクトを中心に据えて田部井さんの最期5年間をまとめたドキュメンタリー番組が放送された。

ご存知のように田部井淳子さんは女性初のエベレスト登頂、女性初の七大陸最高峰登頂(セブンサミッター)の記録を残した登山家である。

「あー、おもしろかったと言って死にたい。」乳ガンを発症し、転移した腹膜ガンで余命3カ月と宣告されても、重い足を引きずりながらもこの思いを通し、77歳を生き切ったタフな彼女からはいろいろと学ぶことがある。

田部井さんはたくさんの本を出しているが、もう絶版になっているもののタイトルに惹かれて「人生は8合目からがおもしろい」(主婦と生活社 2011) を図書館で借りて読んだ。

「もう少し人生を楽しんでもいいんじゃない。」「きっと見方も変わるかも。」「ハードルを低くしてわがままに楽しむ」「人の誘いにはまず乗ってみる」 「新しい人との交わりを積極的にと」と田部井さんは誘う。

還暦を過ぎ、子育てが終わり、まるごと自分の時間の幸せと感じ、山登り、シャンソン、ピアノ、ギタレレ、エステ、ピアス、マッサージ、ブログ、競馬、iphone と、思いついたことにどんどん挑戦する姿勢に、女性はかくも逞しいのかと思う。どちらかというと男は体裁を考えたりやせ我慢したり、いろいろとややこしいところがあって立ち止まってしまいがちなものであるが。

人生の先が見えて来た時、田部井さんの人生の生き方と終い方は一つの指針かもしれない。

苦しかったこともたくさんあるだろう。しかし、それも含め「面白かったと言える人生」を歩みたいものである。「損しないで生き切る勧め」なんだろと思う。 S47年卒 手島


本HPに田部井さんの亡くなられた時の記事があります。下記から参照下さい。

田部井淳子さんのこと

ワンゲル顧問だった故高梨先生の山行手帳(ノート)

この度、長年ワンゲル顧問を務められていた故高梨先生の山行メモ(手帳)をご婦人からお借りすることができました。ご子息の哲さんにも尽力いただきました。

新婚当時からワンゲル部顧問を引き受け、「若者の命を預かる思い」が込められた、山行を詳細に記録した高梨先生の手帳が残されていました。これから整理して、順次HPに掲載して行く予定です。

なお、留守を預かる奥様が抱いていた思いや当時の背景などについては「30周年記念誌」に手記が掲載される予定ですので、ご期待ください。

お散歩

ハイキングに行くだけの時間がなかったので、先だって改装工事が終わったという東京駅丸の内広場を見に行ってみようと自宅からの半日散歩。

自宅から西日暮里駅までは15分。開成中学・高校を前に見ながら西日暮里駅を千駄木方向に歩いてすぐの坂を上り、諏訪台に。諏方神社、新築されたビルでもう富士山が見えなくなってしまった富士見坂を経由して谷中銀座(ゆうやけだんだん上)、経王寺、朝倉彫塑館を経て和風モダンな風情のある寺町を行きます。

池之端からは湯島天神、神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂(拝観時間は午後1時から)と神社や教会を拝観して東京駅丸の内広場に至ります。急ぎ足で回って歩いたら2時間から3時間いうところでしょうか。(寺町美術館は浮世絵が何十枚かという感じ。 朝倉彫塑館は和風モダンな建築と彫塑多数で見学には時間がかかります。建物だけでも見学価値は高いです。)

西日暮里駅頭
諏方神社
富士見坂

経王寺
ゆうやけ段々
朝倉彫塑館

不忍池 弁天堂

湯島神社 女坂

神田明神 裏参道
神田明神 神馬の「あかりちゃん」お散歩中

湯島聖堂

聖橋
ニコライ堂(東京復活大聖堂)

東京駅

47年卒 手島


西日暮里駅 諏方神社 富士見坂 シャレー・スイス・ミニ(caffe) 夕焼けだんだん入り口 経王寺 朝倉彫塑館 観音寺築地壁 長安寺 スベース小倉屋 寺町美術館 ギャラリー茶屋町三番地 森鴎外旧居跡 横山大観旧宅及び庭園 旧岩崎邸 池之端一丁目 天神下 湯島天神女坂 湯島天神 三組坂 立爪坂 神田明神 湯島聖堂 聖橋 ニコライ堂 淡路町 神田 鎌倉橋 大手町 東京駅

27年間連続登山に挑戦

東浦奈良男をご存知ですか。週末登山からはじめ、定年退職後は勤務先を山に変えて、近隣の低山や富士山を中心として雨の日も風の日も毎日1日も欠かさず27年間山を登り通した信念[*執念]の人です。

富士登山368回、連続登山1万日達成の目前の9.728日目で体調不全のため本人の意思に反して緊急搬送されて入院することになり、記録は途切れました。26年と248日、86歳でした。その後、再び山に登ることは叶わず亡くなられたました。

山と渓谷社発行 吉田智彦著 信念 東浦奈良男 “一万日連続登山への挑戦”から抜粋しましたので、ご覧いただければと思います。


「袖をまくった灰色の大きな上着を羽織り、それよりも少し色の薄い作業ズボンに長靴を履いている。右手には傷だらけの隙をストック左手には使い古された黄緑色の傘を持ち金属製のフレームに農協の薄い布袋ぶら下げた手製のザックを背負っている。布袋の下にはもう一つの蒼い袋が吊るされているが、いったいどうやって留められているの分からない。身に付けた装備のほとんどが長年日にさらされたために色あせ薄い汚れていた。正直に言って服装だけ見ればホームレスと言われても名付けてしまう。しかしよく見ると決して下見ではなく洗濯もきちんとされていることがわかる。汗を脱ぐために首にかけた青いチェックの入った間新しいタオルだけが白く際立って見えた。2006年10月4日。それが、8,014日間1日も欠かすことなく山に登り続けてきた81歳の東浦奈良男さんと初めて会った時の印象だ。」

「日数ではなかなかピンとこないが年数で記せばその長さが実感できるだろう。およそ22年間。それは僕の人生の半分を超えていた。そんなエネルギーがその小さな体のどこから生まれてくるのか想像もつかなかった。」

「150回への一歩の日。いよいよ時間の束縛から完全に解放された完全な自由の第一日目である。あー毎日山行できるのだ。待ちに待った日、さぁあの山この山駆け回ろう。血わき肉おどる足うなる。ゆくぞおかげで45年間働かせて頂いた。その結果である。ありがたし。ありがたし。墓参りしてからアサマ山へ。以後の出勤先は山となる。」

「山登りに精進するその報いは体ひとつで充分と言い切れる奈良男さんは、親類の冠婚葬祭があっても山を休みはしない。愛知県に住む素光さん[*娘さん]が結婚した日も朝6時に朝熊山へ登り、待ち構えている車に乗って約150キロ離れた式場に向かい、11時からの式に出席している。また結納の時は早朝に家を出て墓参りを済ませてから素光さんが運転する自動車で名古屋へ出発。午前中に結納が終わると会食には出席せず、とんぼ返りして直接朝熊山の登山へ行き、午後2時半から登っている。結婚式や結納は1日だが葬儀の時は通夜があるので二日間必要になる。あるときは出発前に地元の山に登り移動して通夜に出席。翌朝、葬式が始まる前に現地にある山に登ってからタクシーで会場へ駆けつけたりしている。連続登山4,800日目、奈良男さんは親類の通夜に出て素光さんに「5000日日でやめとけ」と言われるが「1万日や。男として目標立てる」と答え「男として」と言う言葉を初めて使ったが、これも連続14年目の自信かもしれないと書いている。」


因みに奈良男さんは低山や富士山ばかりではなく初期の頃は前・奥・西穂高、槍ヶ岳、燕岳、餓鬼岳、常念岳、立山、劔岳、八ヶ岳、御岳山、木曽駒ヶ岳、北岳、仙丈ヶ岳、石鎚山、大山、大峰山、八経ヶ岳、伊吹山なども登っています。

*編集者注釈

遭難救助ヘリ有料化第1号(埼玉県)

先のトピックス(3月28日)でもお伝えした通り、今年3月埼玉県の防災ヘリコプターによる山岳遭難救助有料化する条例の改正案が成立したが同県は10月24日対象となるエリアと救助手数料徴収から減免除外される対象を告示した。

対象となる山岳エリアは小鹿野二子山、両神山、甲武信ヶ岳、日和田山、笠取山、雲取山になった。料金は5分ごとに5,000円で、救助に要する平均時間の1時間程度で計算するとと60,000円となる。なお有害鳥獣捕獲者、建設業者山小屋運営者、学校行事参加者等からは徴収せず、地震などの災害が原因の遭難者や生活保護受給者等は減免される。条例は18年1月1日から適用されることになる。


3月の記事はこちらからご覧いただけます。

メールマガジン2月号

 

茅ヶ岳(1,704m) ・ 奥秩父山地

2017年11月19日(日)

中央線韮崎駅の市街地の先にある独立峰で、「日本百名山」の著者の深田久彌の終焉の地としても有名な茅ヶ岳に行ってきました。南アルプスも八ヶ岳も何日か前にまた雪が降ったらしく、雪をかぶっていました。

茅ヶ岳は抜けるような青空に白い雲をかぶってその端正の取れた山容をくっきりと写していました。

駅を降りてバス停に行くと、既にたくさんの人がバスを待っていました。バス停2番乗り場には瑞牆山荘行きのバスと深田記念公園行きに分かれて列が出来て来ていました。茅ヶ岳登山口になる深田記念公園行きの列にはたくさんの人が並んでいました。やってきたバスは「えっ、これか。」という感じの小さなバスでした。座れないどころじゃなく、ラッシュ時の電車のごとく押し合いの状態で20分間手すりにつかまって駐車場に到着しました。

深田記念公園駐車場にはたくさんの乗用車が駐車していました。20台以上でしようか。駐車場にはトイレもあり、入り口近くに登山口がありました。

広い坂道を上って真っ直ぐ行くと深田記念公園の入り口になりますが、登山道は右に曲がって行きます。落ち葉が敷き詰められたなだらかな広い山道をしばらく行くと、林道が現れます。林道を渡ったすぐのところが女岩経由の登山口になる分岐になります。この林道の先の右手には千本桜分岐経由の登山口があり、帰りにはこちらの登山口に下りて来ることになります。

女岩は崩落の危険からか現在通行止になっており、高巻きルートが出来ていました。落ち葉の積もった谷筋の急登をどんどん登っていきます。

これが女岩?眼下に岩の壁を見ながら登っていきます。

急な斜面には落ち葉がいっぱい溜まっていて、風でザザーッと大量の落ち葉が流れたりしていました。

尾根に入ってしばらく行くと、花が手向けられた「深田久弥先生終焉の地」の石碑がひっそりと立っていました。深田久弥は1971年3月に仲間と登っていて、この地で脳貧血で倒れて亡くなったそうです。68歳ということでした。頂上まではあと15分くらいのところです。

茅ヶ岳頂上到着。頂上からは鳳凰三山から甲斐駒ケ岳の南アルプスの連なり、その先には八ヶ岳、手前には南峰と金ヶ岳。右には瑞牆山と金峰山。後ろには大きな富士山、という具合に四方に雪をかぶった清々しい名峰がぐるっと一回りしていました。特に甲斐駒ケ岳が立派で、鳳凰三山、地蔵岳のオペリスクも見て取れました。

いつの間にか山頂は人がいっぱいになってしまいました。さすが日曜日です。人気の山でもあるのでしょう。風がとても冷たく、昼食をとるには寒すぎるので、途中の暖かい陽だまりを探して昼食にしようと下山することにしました。

帰路は千本桜分岐経由の尾根道を下るコースで、行きのコースとは違って岩場もなく比較的のんびりとしたコースでした。

平らな陽だまりがあったので、カップラーメンとなめこの味噌汁で昼食。

分岐に到着。林道を少し下って、行きに通った山道に入ります。駐車場到着しました。

行きのバスについては調べておいたものの、帰りのバスは調べておらず、1時間に1本くらいはあるだろうとたかをくくっていました。調べてみると駅から8時51分発の1本と帰りの駅行きの16時20分発の1本しか出ていないということが判明しました。バス停の案内板に書いてあった「茅ヶ岳登山口」というバス停の時刻表はこの深田記念公園の登山口のことではなく、韮崎駅と瑞牆山荘間のルート上にあるバス停で、金ヶ岳から下りて来た先にあるバス停のようでした。

4時過ぎまで待っているわけにもいかず、しかたなくバス停の看板に記してあったタクシーを呼ぶことにしました。タクシーは20分くらいでやってきました。3,500円ほどの予定外の出費でした。                      (S47年卒 手島)


コースDATA

新宿駅7:00発(あずさ1号)    韮崎駅8:37  8:51    深田記念公園駐車場9:11  9:18    分岐(09:37)    女岩(10:10)    女岩のコル(10:48)    深田久弥終焉の地(10:55)    茅ヶ岳 (11:12-11:41)    千本桜分岐11:50     昼食(12:05-12:23)    分岐(12:57)    深田記念公園駐車場(13:10)

メールマガジン11月号 / 2017

獨協中学・高等学校ワ ンダー フォーゲル部OB会 オンラインマガジン 2017/ 11/ 15

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【1】スペイン巡礼の道ロングトレイル踏破

【2】トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか

【3】昨今のDWV山行をご紹介

【4】行ってきました 山行Now

【5】編集後記

【6】記事の募集とメールマガジンについて

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【1】スペイン巡礼の道ロングトレイル

S25年卒の打矢之威先輩が今年9月28日〜10月4日(8日間)、世界遺産であるサンチャゴ・デ・コンポステーラ寺院を目指す「スペインの巡礼の道」を踏破し、証明書のクレデンシャルを取得されました。

“2度のステント設置の手術を受け、リハビリに努めたのでソロソロ巡礼旅を実行しないとその前にあの世行きになると焦り、主治医に相談したら「あんたはダメと言っても聞かないだろう。せめて盛大に保険をかけて行きなさい。救援費用、遺体搬送費も含めておくように。」と冷たい返事であった。”

この巡礼の旅を手記にまとめられたので、HPに寄稿していただきました。記事の詳細はこちらからご覧下さい

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【2】トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか

2009年の夏、北海道大雪山系を縦走する人気の登山ツアーの参加者とガイドの計8名がトムラウシ山(2,141m)付近で低体温症により死亡した遭難事故があった。当時マスコミでも連日話題になっており、記憶に残っている遭難事故の一つであろうかと思います。

図書館で偶然この遭難事故について著された「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」-低体温症と事故の教訓-を手にしました。この書籍は事故の翌年2010年に羽根田治 、飯田 肇、金田正樹、山本正嘉の4人が違う角度からこの遭難を記録、分析して教訓としてまとめたものです。低体温症についてなどいろいろ参考になる部分もあるのでまとめてHPのトピックスとコラムに掲載しました。記事の詳細はこちらからご覧下さい

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【3】昨今のDWV山行をご紹介

昔のDWVの山行記録( 1964年7月)と新しいDWVの山行記録(2015年8月)という50年の隔たりある2つのDWV夏山の記録をご紹介しましす。

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飯豊連峰主脈縦走  1964年7月25日〜30日  岸 房孝(S41卒)  「夏山合宿の思い出」から

高校2年の夏山合宿。総勢14、1 5人だったか、行き先は飯豊です。上野駅から上越線の新津で磐越西線に乗り換えました。その頃の電車はまだSLで、煙を吐いて走っていました。上野駅で磐越西線の徳沢駅と言って切符を買った時、切符に徳沢駅と印刷されていなくて手書きでくれました。それだけ行く人が少ない駅なんだとびっくりしました。

徳沢駅に着くと当然バスなどありません。先生が前もって、トラックをチャーターしてあって、それにザックと荷物と我々を乗せて飯豊の登り口まで運んでくれました。それから飯豊山荘めがけて登り出したのですが、夜行電車で来たせいか、ヨレヨレになって歩き山小屋に着いた思い出があります。

次の日から山の稜線に出ました。天気も良く、すばらしい景色でした。山の上では水はありません。でも雪渓が所々にあったので、水にはあまり苦労しませんでした。そこにテントを張り、快適でした。それから何日か山行を続けて、下山してきて駅で合宿を解散しました。確か越後下関駅だったと思います。そこでどういう訳か夏休みだし家に帰っても仕様がないと言って、我々同期5人で日本海が近いので海に行くことにしました。海に近い駅で降り海岸の砂浜にテントを張り満喫しました。我々だけしかいなくて貸切状態でした。パンツ一丁で海に入り、ウニなど取って食べました。他に食糧がないので、近くのお店のおばちゃんに食べ物をもらったりして、みんなで食べました。海に5人でいた事は夏山合宿と違って開放感があり、とても楽しいひと時でした。

今でも思い出します。でも5人の内3人は今はいません。若き日の遠い良き思い出です。

*この記事は30周年記念誌への寄稿原稿をもとにホームページの”コラム”に掲載させていただきました。

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南アルプス  北岳・農鳥岳縦走  2015年8月4日〜7日

1日目

早朝新宿駅集合。3年の黒川、細田先輩の見送りを受け、特急かいじで甲府の先の竜王で下車。天気は快晴。ジャンボタクシーに乗り、広河原に11時に着く。吊り橋を渡った先の広河原山荘前で準備運動して、大樺沿いの登山道を登り始める。コース上に雪渓はなかった。大樺沢上部に雪渓が残り、吹き降ろす風が冷たくて気持ち良い。

途中昼休み中を挟み、二股につく。バイオトイレが設置してあった。今日中に肩の小屋まで到達できれば翌日以降の行程が楽になる。二股から直登コースに取りつくが、嫌な感じの雲が出てきて30分ほど登ったところで雷が鳴りだす。

肩の小屋までの稜線で雷にあったらに逃げ場がない。仕方なく二股まで引き返し、等高線沿いに御池小屋まで歩いてここでテント泊とする。池のほとりのテントサイトは混んでいたが快適だった。

広河原から700メートルのアップだったがバテる部員も出ず、初日は順調である。夕食はリフィルのカップヌードル。

2日目  御池小屋  北岳  間ノ岳  農鳥小屋

3日目  農鳥小屋  農鳥岳  奈良田温泉(ロッジ泊)

4日目  奈良田温泉  飯富  新宿  学校

部活動記録集「わたりどり」から抜粋させていただきました。   記事の詳細はホームページに掲載済みですので、こちらからご覧下さい

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【4】行ってきました 山行Now

蓼科山 2017年10月26日

イメージとすると気楽なハイキングという感じでしたが、登って見ると意外としっかりした山で面白かったです。秋日和ののどかな感じを想定していましたが、行って見ると林道からすでに雪が積もっていて、車はスリップ気味で緊張しつつ登山口まで行きました。天気はよく、頂上では北横岳をはじめ南八ヶ岳など360度の展望を楽しめました。今年は冬が早そうです。

飯盛山 2017年11月9日

小海線や国道141号線を跨いで八ヶ岳の反対側に位置し、茶碗のご飯を盛ったような山容の飯盛山(めしもりやま)1,643mです。佐久平駅から小淵沢駅まで車窓からのんびりとした秋景色を眺めながらの小海線と南八ヶ岳の展望を楽しみながらの山旅です。

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【5】編集後記

飯島先生が持っていた”登山計画のしおり”はすでにHPに掲載済みですが、この度30周年記念誌編集委員会で若井氏、佐藤氏からOB会の活動記録の検証のためにDWV山行や OB会の写真や記録をお借りしました。折角の機会なのでデジタル化してホームページにも保管していく作業を進めています。OB会の活動記録やDWV山行記録に新しい写真を順次掲載更新しています。懐かしい写真もあるかと思いますので、ご覧ください。

OB会のホームページのはじめのページ「HOME」の一番下にある”ブログをメールで購読”の部分にメールアドレス入力し購読を押すと新しく更新された記事がメールで届くようになりますのでご利用ください。

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【6】記事の募集とメールマガジンについて

このメールマガジ ンは毎月1回(発行日は不定)、OB会会員にお送りしているものです。次号以降配信が必要ない方は、メールでその旨お知らせください。また、記事はホームページにリンクしていますので、今後別のアドレスへの配信を希望される方はその旨連絡下さい。

本ホームページでは記事を募集しています。投稿・寄稿をどうぞお寄せ下さい。山行記録は当時のものでも個人の新しい記録でも結構です。当時の写真だけでも記録として蓄積したいと思っていますので、宜しくお願いします。山行記録のほかに、紀行文、コラム、近況報告などの直接投稿やメールでの寄稿もよろしくお願いします。

※投稿やお問い合わせは dokkyo.wvob@gmail.com 担当手島までお願いし ます。 手書きやプリント写真などを郵送の場合は 116-0012  荒川区東尾久2-12-9 手島 までお願いします。

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夏山合宿の思い出 岸 房孝

50年以上前、高校2年の夏山合宿のことです。総勢14、1 5人だったか、行き先は飯豊です。上野駅から上越線の新津で磐越西線に乗り換えました。その頃の電車はまだSLで、煙を吐いて走っていました。上野駅で磐越西線の徳沢駅と言って切符を買った時、切符に徳沢駅と印刷されていなくて手書きでくれました。それだけ行く人が少ない駅なんだとびっくりしました。

徳沢駅に着くと当然バスなどありません。先生が前もって、トラックをチャーターしてあって、それにザックと荷物と我々を乗せて飯豊の登り口まで運んでくれました。それから飯豊山荘めがけて登り出したのですが、夜行電車で来たせいか、ヨレヨレになって歩き、山小屋に着いた思い出があります。次の日から山の稜線に出ました。天気も良く、すばらしい景色でした。山の上では水はありません。でも雪渓が所々にあったので、水にはあまり苦労しませんでした。そこにテントを張り、快適でした。

それから何日か山行を続けて、下山してきて駅で合宿を解散しました。確か越後下関駅だったと思います。そこでどういう訳か夏休みだし家に帰っても仕様がないと言って、我々同期5人で日本海が近いので海に行くことにしました。

海に近い駅で降り海岸の砂浜にテントを張り満喫しました。我々だけしかいなくて貸切状態でした。パンツ一丁で海に入り、ウニなど取って食べました。他に食糧がないので、近くのお店のおばちゃんに食べ物をもらったりして、みんなで食べました。海に5人でいた事は夏山合宿と違って開放感があり、とても楽しいひと時でした。

今でも思い出します。でも5人の内3人は今はいません。

若き日の遠い良き思い出です。

昭和41年卒 岸 房孝


阿部 武、大成 哲、岸 房孝、佐野俊一、坂井 格、菅野則一、丸山正次、山中和雄(敬称略)のS41年卒の同期の面々(大成さん、坂井さん、山中さんはお亡くなりになりました)
2011年9月

飯盛山1,643m(長野県)

2017年11月9日

列車よりも車の方が登山口まで時間がかからないが、ピストンだとつまらないので、小海線の車窓を楽しみながらのんびり行くことにした。中央線の小淵沢駅経由だと野辺山駅に着くのが10時半になってしまうので、北陸新幹線で佐久平駅まで行って小海線に乗り換えて行くことにした。

新幹線から見えた浅間山には雪がなく綿雲がかかっていた。
佐久平駅の新幹線駅からは通路の先に改札なしに待合室経由でホームへとつながっている。

小海線ははじめは車掌さんが乗っていたが、途中からワンマン列車になった。乗降客の多い駅では2車両の扉が全て開閉し切符は駅で処理すが、乗降客の少ない駅では1両目しかドアは開かず、切符は運転手に渡して降りるシステムになっているようだ。スイカは一部の駅間でしか使えない。

車窓からは刈り取った稲の藁ぼっちが綺麗に並んでいたり、のどかな秋の景色が広がっていた。けだし、野辺山駅まではけっこう長い。

千曲川沿いの山の中を列車は進んで行くが、明るい高原が広がってくると野辺山駅は近い。

平日なので乗降客はたった2名だけだった。

トイレを済まし、141号線を南下する。右手に南八ヶ岳連峰の主稜線がよく見える。はじめは赤岳には雲がかかっていたが、次第に取れてきて、権現岳、赤岳、横岳が青空に聳えて見えた。こちらからの赤岳は比較的大人しく見える。

スマホの「AR山ナビ」のスクリーンショット画面

小海線の踏切を渡って左に行くと、左手の林の奥に大きなパラボラアンテナが見えてくる。少し行くと観測所の入り口があり、時間もあり見学が出来そうなので寄ってみることにした。国立天文台野辺山宇宙電波観測所には大きなパラボラアンテナがいくつも設置されていて、それが台車に乗ってはりめぐられた線路の上を移動して位置を変えながら宇宙線を適宜観測するという壮大な施設である。(受付を済ませて携帯を機内モードにして見学開始)

見学を短く終えてベジタボールウィズという南牧村の複合公共施設を横目に見ながら真っ直ぐ道路を進んでいくと、つきあたり山道に入る。

ゲートが設置されていた

山道を少し行くと、左に道路が現れてすぐ脇を行くが、途中から道路とは別れる。しばらく行くと右手に平沢峠展望台駐車場が見えてくる。手前にゴツゴツした溶岩のちょっとした岩山である「しし岩」がある。八ヶ岳の眺めがとてもいい。

岩山から戻って駐車場を見渡すと10台程度の車が駐車していた。登山口は登ってきた道のすぐ脇に道標がある。下りてくる人、登っている人など20人ぐらいと出会っただろうか。

平沢山頂上
飯盛山の向こうに富士山が見えてきた
振り返った平沢山
八ヶ岳の上に雲はすっかりない

三沢分岐

風がどんどん強くなり、ジャケットを着込んで手袋を着ける。

天気も良く八ヶ岳をはじめ南アルプス、富士山など360度のパノラマが楽しめた。

頂上下でも風が強かったので、持参したカップラーメンはパスして、早く下山して清里駅で蕎麦でも食べて帰ることに決めた。

こちら側にあるゲート

道路に出たら右に回り込んで下って行く。

清里からの登山口

川に沿って道は左にカーブして川を渡り登り坂になる。左手に千ヶ滝へ向かうの道があるが、早く駅に向かいたいのでそのまま上がって行く。141号線を横断して清里駅方向に直進する。

国道を横断して清里駅方面に進む

清里駅に着いたものの、食べる所を探してうろうろするも平日のためか食べられる店が一軒も空いていない。しかたなく駅のベンチで持参したカップラーメンにポットのお湯を注いで食べることにした。山で食べるのと違って、極めて味気ない。

清里駅からは飯盛山の頭がチョットだげけ見える
清里駅から小淵沢駅まではスイカが使える

清里を後にして、再び小海線に乗り込む。小淵沢駅までは30分程度だ。

小淵沢駅では一度改札を出て、特急「あずさ20号」の切符を買って新宿へ。

佐久駅から小淵沢駅までの秋の小海線の8割を乗り通し、秋晴れの南八ヶ岳の展望を楽しみながらのハイキングは楽しいものだった。            S47年卒 手島


コースDATA

上野駅発6:58 佐久平駅8:31着    8:55発 野辺山駅9:55着

野辺山駅10:00発    国立天文台野辺山宇宙電波観測所着10:25(見学)10:35 飯盛山登山口10:45    しし岩(駐車場)11:05  しし岩登山口11:13     平沢山11:45    三沢分岐11:56    飯盛山頂上12:05   登山道終点12:45    国道横断13:10    清里駅13:15着

清里駅発13:55    小淵沢駅着14:20  14:36発 新宿駅16:34着

「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」を読んで

「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」   低体温症と事故の教訓

羽根田治   飯田 肇   金田正樹   山本正嘉 著


2009年の夏、北海道大雪山系を縦走する人気の登山ツアーの参加者とガイドの計8名がトムラウシ山(2,141m)付近で低体温症により死亡した遭難事故があった。当時マスコミでも連日話題になっており、記憶に残っている遭難事故の一つである。

図書館で偶然この遭難事故について著された「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」-低体温症と事故の教訓-を手にした。この書籍は事故の翌年2010年に羽根田治 、飯田 肇、金田正樹、山本正嘉の4人が違う角度からこの遭難を記録、分析して教訓としてまとめたものである。自分にとっても戒めになる部分が多かったので、この場で提供できたらと考えてまとめてみました。

事故の概要

登山やトレッキングを商品として提供しているアミューズトラベル(株)という会社が「魅力の大縦走 大雪山系縦断の満喫コース」と銘打って旭岳からトムラウシ山へ縦走する2009年7月13日から17日の4泊5日の山旅である。アミューズ社のツアーはリピーターも多く、登山・トレッキングのツアーの中では比較的人気があったようだ。しかし、それも今まで大きな事故がなかったから済んでいたものの、この事故によってリスク管理などその実態が明らかになった。

ツアーは15名の参加者と3名のスタッフで構成されていた。スタッフはガイド資格を持つ添乗員がリーダー(61歳)を兼任し、メインガイド(32歳)とサブガイド(36歳)の3名。参加者は男5名、女10名でそのほとんどが60歳を超えており、50歳台は2名のみで55歳から69歳までの平均年齢63.8歳であった。

ツアーは13日午後に新千歳空港に集合し、同日5時に旭岳温泉白樺荘着。翌14日、5時50分にロープウェイ駅に向かい、旭岳には9時に到着する。旭岳を経由して北海岳、白雲岳を登り、白雲岳避難小屋に宿泊する。3日目の15日、この地方の天気概況では16日にかけて低気圧が通過するという予報が出ていた。朝、予報通り小雨が降っており、全員雨具を着用して5時に避難小屋を出発。平ガ岳あたりから風雨が強まり、忠別岳ではかなりの強風になっていた。(9時の風速は12m、気温16℃ )雨は強くなったり小雨になったりを断続に繰り返し、水はけの悪い登山道は池のようにもなっていたようだ。一行は終日雨の中、9時間から10時間かかって午後3時には3日目の宿泊地であるヒサゴ沼避難小屋に到着している。そして、翌16日はツアーの最終日。トムラウシ山を経由してトムラウシ温泉へ下山する予定であった。事故はこの日に起こった。

この日の朝、この地方の天気概況では雨は朝までとなっていた。朝方から強風が断続的に繰り返していた。解析によれば出発当時5時半頃の風速は19mで、風雨のピークだったようだ。降雨は土砂降りではなく、細かい雨または霧のようなものであり、12時頃には風雨は収まってきていたということである。だが、朝の気温は8.5℃であったものの、その後気温は下がり続け、最低温度は17時半に3.8℃を記録している。

この日の決行は添乗員兼リーダーの判断であったようで、他のガイドや参加者もそれに従った。ガイドのうちメインガイドはこのコースを5回登っていたが、サブリーダーは未経験、リーダーの経験は判然としていない。リーダーはガイドでもあると同時に添乗員でもあったので、天候が回復するだろうという天気概況による見通し、停滞することによる交通機関や宿泊場所などの再予約、費用の加算を含めていろいろな参加者への対応が必要になること、ヒサゴ沼避難小屋にはこの日の午後にはアミューズ社の別パーティーが宿泊することになっていたことなど、いろいろ考えての判断があったのだろうと思われる。決定の権限がメインガイドにあればまた違った決断があったのかもしれない。


補足  当日同じ行程を行く別パーティーがあったが、そのパーティーも決行を決めていた。ただし、パーティーが小規模であったこと周到な準備の元の山行だったことで1名の低体温症を出したものの無事下山している。また、同日同じ場所で単独行の1名が遭難した模様で、翌日遺体で発見されているが詳細は分かっていない。


ツアーは予定より30分遅れの5時半にヒサゴ沼避難小屋を出発した。出発後1時間もたたないうちに66歳男1名が何度も倒れ出した。風が強くなり、歩くのも困難な状態となっており、最大瞬間風速は30~40mになっていたと推定されている。パーティーは次第にバラけ、標準タイムでは避難小屋から2時間半の北沼に2倍の時間かかって10時に到着している。北沼は増水のために渡渉が必要になっており、全員が渡り終えるまで相当の時間がかかり、参加者の多くが座り込んだまま待たされることになる。その段階で多くのものが震え、眠気、無関心などの状況を示しており、すでに全員低体温症を発症していたようだ。さらに、1名が行動不能になってしまう。ガイド3名はその対応に追われ、他の参加者は吹きっさらしの場所で待機を余儀なくされる。嘔吐するもの、奇声を発する者も現れていた。解析によると北沼分岐の10時の気温は4℃位に下がっていた模様で、座り込んで冷やされた血液が出発して歩き始めたことによって全身に回って状態を悪化させたと考えられている。

行動不能になった者にガイド2名が付き添い(その後ガイド1名はその場を離れて本体に合流する)、もう1人のガイドが残りのメンバーを率いて移動を開始した。しかし、さらに女3名が本体から離れて動けなくなってしまい、1名のガイドと余力のあった69歳男とが動けなくなった女3名に付き添ってその場でビバークすることになる。残り1名のガイドが10名の参加者を引率して下山を開始する。しかしこの先の登山道上でバラけながらも進んで行ったが、ガイドはハイマツ帯の中で低体温症が進み仮死状態になり、参加者4名が死亡してしまうのである。

はじめに座りこむなどの行動不能の者が出たのが、出発してから4時間程度、5時間後には2人目が歩行困難になり、その1時間後には心肺停止に陥ってしまったと考えられる。1名のガイドと6名の参加者は低体温症と疲労困憊で朦朧とした意識の中、自分が生きてたどり着くことしか考えられないような極限の中で下山を継続させていた。(ガイドは渡渉時にずぶ濡れになっていてすでに状態が悪化して助言引率できる状態ではなかった)

7名のうち5人は歩き通して自動車やヘリでピックアップされ、1名は下山途中にビバークして翌日待ちヘリでピックアップされ、翌日ハイマツの中で仮死状態になっていたガイド1名が発見され救出されて一命をとりとめている。また、稜線でビバークした者のうちガイドを含む3名も翌日無事救出された。この遭難事故はガイド1名と7名の参加者(男1名、女6名)が亡くなり、ガイド2名と8名の参加者(男4女4)が生還することができたのである。

本事故からの教訓

・ツアー会社及びガイドは参加者のグレードや経験値等調査しておらず、参加規定なども出来ていなかった。

・アイゼンのつけ方も分からない参加がいたり、手数がかかる参加者が出ると途端に対応に手間取り、全体に影響が出てしまう脆弱なマネージメント体制であった。

・登山ツアーの参加者は登山経験や体力などバラバラで、よく知らないもの同じ隊列を組んで登ることの問題点

・ツアー会社及び参加者のリスクマネージメントの必要性

・ツアー会社、ガイド及び参加者ともに低体温に対しての認識が不足していた。

・高齢者は体力不足を補うために装備品を軽くしようするあまり食料などは軽いインスタント食品が中心となり、行動食を含めてカロリーの摂取量が少なかったことが低体温症の発症を早め、悪化させた。

・風雨に息があり、弱まる時もあったのでずるずると引き返す判断が出来ず遭難を招いた原因のひとつになった。

・気象条件がそれほど悪くなく体力も余裕があれば歩き続けることもよかっただろうが、低温、強風、濡れといった悪条件下の場合は低体温症を起こす可能性が高ので、体力に余裕がある場合は避難小屋に引き返し、余裕がない場合は衣服を着込んで早めにビバークすべきだったと筆者は提言している。

・この日同じ行程で無事下山できたパーティーはトムラウシ登山を想定し、15キロのザックを背負っての日帰り登山3回のノルマを課し、雨の日の登山も積極的に行い、熊よけスプレーの使用実験なども経験させるなど目的の山に対しての周到な準備をしていた。高齢者の場合は体力や対応能力が劣ってきている分、特に山を甘く見ることなく、訓練を含めて準備をおろそかにしてはいけない。

・15日、16日の雨の中の登山決行の判断と歩行不可になった人が出てきた段階で引き返さなかった判断はどうだったのか。引き返すことになると雪渓を下ることになり、そのリスクへの考慮もあったのかも知れない。

・予備日が設定できないというツアーの問題点もあろう。

・夏の北海道での気象状況は本州の3,000m級の山でも同じ状況になり得ることを心すべきである。

・対処出来る装備(テント、トランシーバー、携帯電話)や防寒衣服もあったものの、低体温症のために思考判断能力がすでに低下して使えないまま事態の悪化を招いた。

・風の中無防備で長く腰を下ろしていて、立ち上がった時に冷たい血液が一気に全身に回ったために低温障害を急激に悪化させた。再出発した人たちのうち6名がわずか数キロの間で亡くなった事は強風雨下で無防備でとどまっていたことがいかに急速に事態を悪化させたかを物語っている。

低体温症 体温と症状の段階

36度  寒い 寒気がする
35度 手先の動きが悪くなる 皮膚感覚が麻痺 震えがはじまる 歩行が遅れがちになる
35度から34度 よろめくようになる     筋力の低下を感じる 震えが激しくなる 口ごもるようになる     意味不明の言葉を発する 無関心な表情をする 眠そうにする     軽度の錯乱状態になることがある     判断力ご鈍る
この状態までに対処しないと死に至る
34度から32度 手が使えない     転倒する 真っ直ぐに歩けない     感情がなくなる しどろもどろな会話     意識が薄れる 歩けない 心房細動を起こす
32度から30度 起立不能 思考ができない     錯乱状態になる 震えが止まる 筋肉が硬直する     不整脈が現れる     意識を失う
30度から28度 半昏睡状態 瞳孔が大きくなる     脈が弱い     呼吸が半減     筋肉の硬直が著しくなる
28度から26度  昏睡状態     心臓が停止することが多い

低体温症についての補足

・低体温症でも脳障害が先に来て、震えが伴わないこともある。また、震えを起こすエネルギーさえないということもあるので注意が必要。

・当日はあまり雨が降っていなくても前日の雨で衣服が濡れていたこと、手足が濡れていたことも体温の喪失を助長させた。濡れているものでも重ね着することが大切だとされる。スボンを履かないで直接雨具のスボンを履くと熱が奪われやすい。雨や汗などで濡れた下着などは着乾かすのではなく必ず取り替えることが必要。

・風速20mだと1.5倍から2倍のスピードで歩いたのと同等の疲労になり、風自体が熱を奪い体力を消耗させるということをということをしっかり認識しておくことが必要。

・詳細な食料計画、防寒対策、訓練登山の実施など用意周到な計画の元に同じ時に同じ場所を登山していた65歳平均6名の別パーティーがあったが、1名の低体温症を出したものの仲間の介助もあり回復し、無事下山している。お湯を飲んだ事、行動食を食べた事、ダウンジャケットを重ね着した事が回復させた要因と考えられた。濡れている衣服であっても重ね着することは保温効果をもたらす。

・脳の機能障害は震えによって筋肉に沢山の血液を送る必要があり、脳細胞に血液が回わらなくなることによって引き起こされる。これは満腹時には消化のために大量の血液が使われるために脳に血液が回らなくなるために眠たくなるのと同様の原因である。転倒、無関心、眠気、朦朧、錯乱、奇声を発する、感覚の喪失などの症状が現れる。おかしいなと思った時にはすでに思考・判断力が落ちていて適切な対処ができない事態に陥ってしまっている可能性があり、早めに判断対処しなければならないということを心すべきである 。これは熱中症についても同じことが言えるのだろう。(乾きを感じてからでは遅かったりする場合もある。)ちなみに、この遭難事故では奇声をあげた人全員が死亡している。

亡くなられた参加者での女性の割合が多かったが、小柄な女性の場合は体の熱発生の表面積が小さいことから低体温症の影響が大きかったかも知れないとの分析がある。基礎体力の差もあったのかも知れない。

ツアー会社の体制

アミューズ社のガイドはメインガイド、サブガイド、ポーターに職種が分けられていた。ガイドは社員ではなく専属というの縛りはあるものの1ツアーごとの契約で、支払いも1回ごとで日当は1,1500円程度であったようだ。ガイドの規定も研修などもなく、雇用保険もないというものでガイドにとってはガイドとしての権限も権利も十分なものではなく、仕事をもらうためには運営上のことで強いことを言える立場にはなかったようだ。今回のツアーではガイド協会の資格を持っているものが添乗員も兼ねていたのでツアー全体を取り仕切っていたようだ。3人のガイドはともに面識がなく、当日初めて顔を合わせており、打ち合わせなどもできていなかったようだ。

アミューズ社はトムラウシ遭難事故を起こしたことにより51日間の営業停止処分を受けた。さらに、営業停止処分中に新規顧客をツアーに参加させたとして厳重注意を受けている。その後、売り上げが減少していたが、2012年11月に中国の万里の長城付近の山を巡るツアーで安全対策が何も取られていないまま3名が低体温症で死亡する遭難事故を再度起こし旅行業登録を取り消しの処分を受けている。

   昭和47年卒     手島達雄